上 下
5 / 111
第1章

しおりを挟む

あれから、なんだかんだ言っても熊は、水やりを手伝ってくれた。意外に面倒見が良いようだ。そうせざる終えないようなことばかりしている少女は、他人事のようにこんなことを思っていた。

熊のことではない。自分の手を見つめていた。


(血豆なんて、初めてできた。……ん? 初めてよね??)


少女は血豆のできた手は痛かったが、それよりも熊の方を見た。痛いなんて顔をしないように気をつけてもいた。やるといい出したのは、誰でもない彼女だ。やはり、やるんじゃなかったなんて思われたくないし、思いたくもない。

だから、なおさら何でもない平気な顔を少女はした。そこは、意地だ。いや、自棄だったかも知れない。

その日、目覚めた時には思っていなかった少女の1日が終わろうとしていた。頼まれたわけでもないないのに少女は、ひたすら水やりをしていた。

水をもらう木は喜んでいた。そうでない木は辛辣だったが、少女はなぜか木の暴言は聞こえていなかった。

熊には聞こえていた。少女にも聞こえていると思っていたが、そうではなかった。だから、平然としていたが、熊は10歳ほどの少女に大人げないことをしていると思っていた。


「今日は、ありがとう。えっと、熊さん」
「……クリティアスだ」


呼び方に困って少女は、思わずそう呼んだせいか。物凄く嫌そうな顔で名前を教えてくれた。

名乗られたら、名乗らないわけにはいかないのだが少女は困って、血豆ができた痛みで何でもない顔をしていたが、名乗る名前がないことに泣きそうな顔をした。


「クリティアスさん。えっと、私は、誰なのかわからなくて。名乗れなくて……」


(こういう時に不便ね)


名前がわからないことを少女は、その程度のように思っていたが、その表情は迷子になった子供のようでもあって、大事なものを失くして途方に暮れているようにも見えた。

他の何を失くしても、それが一番何にも代え難いものだったのにそれすら、本人は覚えていないようにクリティアスには見えた。

それも、ほんの少しの間のことで彼女は気づかないまま、その表情は消えた。

クリティアスと名乗った熊は、首元に白い線が月のようなものがあって、白い部分がある以外の毛皮が黒いツキノワグマで、毛艶がいいとはお世辞にも言えなかった。

それだけ苦労しているのが、ありありとわかるような感じが出ているが、少女がふと思ったツキノワグマと何かが違って見えた。

覚えてはいないはずなのに目の前の彼が、熊ではなくて人間のように見えてならなかった。


(あれだけ、チャックの有無を見たのにまだ中が人間だと思ってる私も中々よね)


そんな思考に行き着くことに少女は、重要なのはそこではないと思考を巡らせた。

熊の種類は、他にヒグマくらいしか思い出せないが、模様からツキノワグマだと思ったところに舞い戻った。


(ここでは、そう呼ぶか。わからないけど。ん? ここではってなんだろ??)


名前は思い出せないままだが、知識が飛び出して来るせいで、おかしな気分になっていた。いや、元から思考の傾向が一般的ではないようだが、なぜなのかが本人にはさっぱりだった。

少女が、ちょっと混乱している状態となっているとクリティアスが、こう聞いてきた。


「本当に記憶がないのか?」
「うん。名前に関しては全く。あなたに会うちょっと前に目が覚めて。その前まで、どこで何していたか、さっぱり。あんなところで、寝てるって変よね……?」
「……」


(ん? 寝てた、のよね、)


ケロッと全くないなんて言いつつ、他人事のようにしていたが、記憶が曖昧なところがあって首を傾げている少女にクリティアスは呆れた顔ではなく、複雑な顔をした。

それこそ、血豆ができた手が痛々しいが、少女はにこにことしたままだった。つい先程まで、名乗る名前がわからない時に見せた自分が、どんな顔をしていたかに全く気づいていないようで、彼の方が深刻そうにしていた。

そんな血豆だらけの手をして、平気なふりをし続けられるこの年代の少女は、早々いないだろう。


“その子、突然、現れたのよ”
「え?」
“そうよ。突然だったわ”


木たちの声に目をパチクリさせてしまった。バッチリ見られていたようだ。

怪我した若い木だけでなくて、水やりを他の木々にも丁寧にしていた。優しく話しかけてくれる少女に好印象と好感を持ったようだ。でも、水をもらった木々だけだ。

そもそも、そんな風に話しかけてくれる人間など、この森の中に久々に現れた。木々にとっての久々は、人間なんかの久々とは全然桁が違っていたが、少女は雨が恋しくてたまらなくなっている木々の気持ちがわかって水やりをしたのだ。

それをやるのをクリティアスは、黙って見ていた。話すこともできない木々も中にはいたが、別け隔てなく接していた。その手に血豆ができようともお構いなしに黙々と水やりをやるクリティアスより、効率がかなり悪いが、木々が喜んでいたのは、彼女のやり方の方だったのは確かだ。

そして、古株の木は、そんな少女に悪態をついていた。それは、とても見苦しいものだったが、それが聞こえていたのは、クリティアスと他の木々たちだけだった。

そんな古株の木たちは、その後、自分たちが何をしていたかを知ることになる。この森の若い木たちを必死に助けようとしている少女に酷いことをしていたことに心を痛めることになるのだが、それが聞こえていなかったことを誰も知らないままになるとは思もしなかった。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!

gacchi
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ? 王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。 国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから! 12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

旦那様は大変忙しいお方なのです

あねもね
恋愛
レオナルド・サルヴェール侯爵と政略結婚することになった私、リゼット・クレージュ。 しかし、その当人が結婚式に現れません。 侍従長が言うことには「旦那様は大変忙しいお方なのです」 呆気にとられたものの、こらえつつ、いざ侯爵家で生活することになっても、お目にかかれない。 相変わらず侍従長のお言葉は「旦那様は大変忙しいお方なのです」のみ。 我慢の限界が――来ました。 そちらがその気ならこちらにも考えがあります。 さあ。腕が鳴りますよ! ※視点がころころ変わります。 ※※2021年10月1日、HOTランキング1位となりました。お読みいただいている皆様方、誠にありがとうございます。

余命六年の幼妻の願い~旦那様は私に興味が無い様なので自由気ままに過ごさせて頂きます。~

流雲青人
恋愛
商人と商品。そんな関係の伯爵家に生まれたアンジェは、十二歳の誕生日を迎えた日に医師から余命六年を言い渡された。 しかし、既に公爵家へと嫁ぐことが決まっていたアンジェは、公爵へは病気の存在を明かさずに嫁ぐ事を余儀なくされる。 けれど、幼いアンジェに公爵が興味を抱く訳もなく…余命だけが過ぎる毎日を過ごしていく。

お飾りの側妃ですね?わかりました。どうぞ私のことは放っといてください!

水川サキ
恋愛
クオーツ伯爵家の長女アクアは17歳のとき、王宮に側妃として迎えられる。 シルバークリス王国の新しい王シエルは戦闘能力がずば抜けており、戦の神(野蛮な王)と呼ばれている男。 緊張しながら迎えた謁見の日。 シエルから言われた。 「俺がお前を愛することはない」 ああ、そうですか。 結構です。 白い結婚大歓迎! 私もあなたを愛するつもりなど毛頭ありません。 私はただ王宮でひっそり楽しく過ごしたいだけなのです。

探さないでください。旦那様は私がお嫌いでしょう?

雪塚 ゆず
恋愛
結婚してから早一年。 最強の魔術師と呼ばれる旦那様と結婚しましたが、まったく私を愛してくれません。 ある日、女性とのやりとりであろう手紙まで見つけてしまいました。 もう限界です。 探さないでください、と書いて、私は家を飛び出しました。

【12/29にて公開終了】愛するつもりなぞないんでしょうから

真朱
恋愛
この国の姫は公爵令息と婚約していたが、隣国との和睦のため、一転して隣国の王子の許へ嫁ぐことになった。余計ないざこざを防ぐべく、姫の元婚約者の公爵令息は王命でさくっと婚姻させられることになり、その相手として白羽の矢が立ったのは辺境伯家の二女・ディアナだった。「可憐な姫の後が、脳筋な辺境伯んとこの娘って、公爵令息かわいそうに…。これはあれでしょ?『お前を愛するつもりはない!』ってやつでしょ?」  期待も遠慮も捨ててる新妻ディアナと、好青年の仮面をひっ剥がされていく旦那様ラキルスの、『明日はどっちだ』な夫婦のお話。    ※なんちゃって異世界です。なんでもあり、ご都合主義をご容赦ください。  ※新婚夫婦のお話ですが色っぽさゼロです。Rは物騒な方です。  ※ざまあのお話ではありません。軽い読み物とご理解いただけると幸いです。 ※コミカライズにより12/29にて公開を終了させていただきます。

初耳なのですが…、本当ですか?

あおくん
恋愛
侯爵令嬢の次女として、父親の仕事を手伝ったり、邸の管理をしたりと忙しくしているアニーに公爵家から婚約の申し込みが来た! でも実際に公爵家に訪れると、異世界から来たという少女が婚約者の隣に立っていて…。

処理中です...