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夜更けのトライフルケーキ
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「ひまり。夜おそぉに何してんねん」
深夜0時の台所。誰も来るはずがないと思って黙々と作業に勤しんでいた私の背中に、今一番会いたくない人物の声が飛んできた。
「な、夏樹君! これは、えっと、そのぅ……」
「和彦さんに怒られんで? もうすぐ受験やん」
高校受験を控えた私、ぐうの音も出ない。
夏樹君が「和彦さん」と呼ぶのは、私の父親のこと。
私の父は家の空き部屋を学生に格安で貸出し、食事も提供するという、いわゆる下宿屋さんをしている。
夏樹君は十五歳の時から今日までおよそ五年間下宿している学生さんだ。
様々な下宿生さんたちが入れ替わる我が家だが、夏樹君は特に長く下宿してくれている。時間がある時は私の勉強を見てくれたり、逆上がりや二重跳びの練習を見てくれたりと、私たちはもはや兄妹のような関係で――。
ぎゅん。
胸の奥が少し痛くなる。
夏樹君から向けられる「やれやれ」という眼差しは、兄が困った妹を見つめるそれと同じ。
彼が私の手元にあるへしゃげたスポンジケーキを見つけた時も、そうだった。
「夜中にケーキ作り? スポンジ、えらいしぼんでんなぁ」
「これは、あの……」
「はは~ん。和彦さんへのサプライズプレゼントやな? ひまり、抜け駆けする気やったやろ」
夏樹君は、貴様の心中見破ったりと言わんばかりのドヤ顔を浮かべる。
私は曖昧な笑みで誤魔化すと、「失敗しちゃったんだ」と平ペったくしょぼくれているスポンジケーキを指でつつく。
せっかくデコレーションケーキをホールで作ろうと、張り切ってホイップクリームと苺を用意していたというのに、肝心のスポンジケーキがこの有り様ではどうしようもない。大失敗だ。
夏樹君に失敗したスポンジケーキを見られるのが恥ずかしくて、私は早く台所を片付けたくてたまらなくなってしまう。
なぜなら、夏樹君は製菓の専門学校に通っている学生さん。言わずもがな。お菓子作りが大得意だからだ。
「夏樹君、これは見なかったことにして。私の朝ごはんにでもするよ。クリームを塗ったら、きっとそれなりに食べれるから」
「ひまり一人の朝メシには重すぎやわ。デブまっしぐらやぞ、中学生」
夏樹君はそう笑い飛ばすと、ぺしゃんこのスポンジケーキをしげしげと眺め――。
「トライフルにしよか」
と、ウキウキとはしゃいだ様子で言った。
私はすぐに分かってしまう。夏樹君のテンションが跳ね上がる時は、お菓子の話をしている時だ。ということは、トライフルとはお菓子の名前らしい。
「どんなお菓子なの?」
私がきょとんとした顔で尋ねると、
「器にスポンジとかクリームとか、あとは果物とかを層にして重ねて入れるケーキや」
と、夏樹君はうにょうにょとしたジェスチャーをしてみせたが、正直よく分からない。おそらく、私は不可解そうな表情をしていたのだろう。私の顔を見た夏樹君は、「ま、作ってみたら分かるて」と、説明を諦めてエアトライフルを払い除けた。
まぁ、いいか。何ができるかお楽しみというのもワクワクするし、と私も笑顔で頷く。
そして夏樹君は手早く自分のエプロンを身に付け、手を洗うと、とても自然に私の隣で作業を始めた。
私は隣に夏樹君がいることが嬉しくて、ついつい頬が緩んでしまう。
「俺、クリームとスポンジがよぉ馴染むように、リキュールシロップ作るわ。このままやとぼっそぼそやし。ひまりは、スポンジちぎっといて。……って、おい。何をニヤついてんねや」
夏樹君に脇をつつかれ、私は「わっ、ごめん」と慌てて手を動かす。
毎年こんな感じだった。
夏樹君に教えてもらいながら、お父さんの誕生日ケーキを作ることが恒例行事。
といっても、ほとんど夏樹君メインで作っていたからケーキはいつもハイクオリティだった。
初めて一緒に作った苺のクリームケーキは、デコレーションがプロみたいで。
次の年に作ったフォンダンショコラは、なかのチョコレートが絶妙にとろっとしていて。
翌年の紅茶のシフォンケーキは、いくらでも食べることができてしまうふわふわな雲みたいで。
去年のフルーツタルトは、果物が宝石みたいにまぶしく輝いていて――。
ケーキは年々レベルアップ。お父さんはもちろん、私も大喜びの美味しさだった。
そして、お店と遜色ない品を作り上げる夏樹君の隣で、私は果物を切ったり洗い物をしたりと、直接的なケーキ作りには関わっていなかった。けれど、それでもとても楽しかった。
「やっぱ、ケーキ作りは楽しいなぁ!」と、小さな子どものようにキラキラと目を輝かせる夏樹君。
私も「楽しいね」と頷くけれど、それは半分嘘だった。
(ケーキ作りは、夏樹君と一緒じゃないと楽しくないよ)
寂しさが胸を衝く。
夏樹君は来月専門学校を卒業したら、この下宿を出て行ってしまうのだ。
彼は京都にある実家のケーキ屋さんを継ぐことが決まっていて、春からは晴れてパティシエとなる。
(京都……、遠いな……。)
中学生の私には、京都は遠い。もう、二度と会えないような気がするくらいに。
きゅっと唇を噛みしめながら、夏樹君に言われた通りにガラスの器にスポンジケーキ、シロップ、クリーム、苺を順番に重ねて入れていく私。
それだけの作業でも、ガラスから見えるケーキの断面はとても綺麗で美味しそうで、寂しい私の乙女心をくすぐってくる。
「これが、トライフル?」
「そや。イギリスのお菓子やねんけど、簡単な癖にめっちゃ映えるし美味そうやろ」
「うん! すっごく綺麗で美味しそう!」
「カスタードクリームとか、マスカルポーネチーズとか、クッキーとか、他にもいろんな果物入れてもええねん。何でもあり。ま、組み合わせにはセンスがいるんやけどな!」
ドヤ顔の夏樹君のえくぼが可愛い。私は、この顔が大好きだ。
そして私は彼のえくぼを突っつきたい衝動を抑えながら、「ありがとう」とお礼を口にした。
「和彦さんのケーキ作りは毎年やっとるやん。今更改まって言わんでええて」
私がケーキのリメイクのお礼を言ったと思い込んでいる夏樹君。
本当は違ったのだけれど、それでいいか……と、私は喉まで出かかった言葉をぐっと呑み込む。
だってその言葉を口にしたら、夏樹君を困らせてしまうだろうから。
私が彼に言いたかった「ありがとう」は――。
(夏樹君。この下宿で過ごしてくれて、ありがとう。私と仲良くしてくれてありがとう)
「帰らないで」なんてワガママは言えない。
だって、私は夏樹君のことが大好きだから。
大好きな夏樹君の夢が叶うことが嬉しいんだから。
夏樹君がパティシエになる日を私もずっと楽しみにしてきたんだから。
「ひまりがケーキ作りで困ったら、すぐ助けに来たるしな」
ニカッと気持ちのいい笑顔を向けてくれる夏樹君を見て、私はケーキ作りは下手なままでいようかな……などと思ってしまう。
(片想いがいっぱい重なったら、両想いになればいいのに)
私は試食用に作ったトライフルのケーキの層をスプーンですくい上げ、ぱくりと口に入れた。
滑らかなクリームと赤色の美しい苺、そしてリキュールシロップのおかげでボソボソ感を感じなくなったスポンジケーキが口内でとろけ合い――、苺の甘酸っぱさが後を引く。美味しいけれど、少し切なくなる。そんな味が口の中だけでなく、胸の奥に溶けていく。
本当は夏樹君に告白するつもりで作り始めたデコレーションケーキだったけれど、結局本当の気持ちを告げることができないまま――。
甘酸っぱいトライフルを二人で作って味見をしているという、とある夜更けの話だった。
深夜0時の台所。誰も来るはずがないと思って黙々と作業に勤しんでいた私の背中に、今一番会いたくない人物の声が飛んできた。
「な、夏樹君! これは、えっと、そのぅ……」
「和彦さんに怒られんで? もうすぐ受験やん」
高校受験を控えた私、ぐうの音も出ない。
夏樹君が「和彦さん」と呼ぶのは、私の父親のこと。
私の父は家の空き部屋を学生に格安で貸出し、食事も提供するという、いわゆる下宿屋さんをしている。
夏樹君は十五歳の時から今日までおよそ五年間下宿している学生さんだ。
様々な下宿生さんたちが入れ替わる我が家だが、夏樹君は特に長く下宿してくれている。時間がある時は私の勉強を見てくれたり、逆上がりや二重跳びの練習を見てくれたりと、私たちはもはや兄妹のような関係で――。
ぎゅん。
胸の奥が少し痛くなる。
夏樹君から向けられる「やれやれ」という眼差しは、兄が困った妹を見つめるそれと同じ。
彼が私の手元にあるへしゃげたスポンジケーキを見つけた時も、そうだった。
「夜中にケーキ作り? スポンジ、えらいしぼんでんなぁ」
「これは、あの……」
「はは~ん。和彦さんへのサプライズプレゼントやな? ひまり、抜け駆けする気やったやろ」
夏樹君は、貴様の心中見破ったりと言わんばかりのドヤ顔を浮かべる。
私は曖昧な笑みで誤魔化すと、「失敗しちゃったんだ」と平ペったくしょぼくれているスポンジケーキを指でつつく。
せっかくデコレーションケーキをホールで作ろうと、張り切ってホイップクリームと苺を用意していたというのに、肝心のスポンジケーキがこの有り様ではどうしようもない。大失敗だ。
夏樹君に失敗したスポンジケーキを見られるのが恥ずかしくて、私は早く台所を片付けたくてたまらなくなってしまう。
なぜなら、夏樹君は製菓の専門学校に通っている学生さん。言わずもがな。お菓子作りが大得意だからだ。
「夏樹君、これは見なかったことにして。私の朝ごはんにでもするよ。クリームを塗ったら、きっとそれなりに食べれるから」
「ひまり一人の朝メシには重すぎやわ。デブまっしぐらやぞ、中学生」
夏樹君はそう笑い飛ばすと、ぺしゃんこのスポンジケーキをしげしげと眺め――。
「トライフルにしよか」
と、ウキウキとはしゃいだ様子で言った。
私はすぐに分かってしまう。夏樹君のテンションが跳ね上がる時は、お菓子の話をしている時だ。ということは、トライフルとはお菓子の名前らしい。
「どんなお菓子なの?」
私がきょとんとした顔で尋ねると、
「器にスポンジとかクリームとか、あとは果物とかを層にして重ねて入れるケーキや」
と、夏樹君はうにょうにょとしたジェスチャーをしてみせたが、正直よく分からない。おそらく、私は不可解そうな表情をしていたのだろう。私の顔を見た夏樹君は、「ま、作ってみたら分かるて」と、説明を諦めてエアトライフルを払い除けた。
まぁ、いいか。何ができるかお楽しみというのもワクワクするし、と私も笑顔で頷く。
そして夏樹君は手早く自分のエプロンを身に付け、手を洗うと、とても自然に私の隣で作業を始めた。
私は隣に夏樹君がいることが嬉しくて、ついつい頬が緩んでしまう。
「俺、クリームとスポンジがよぉ馴染むように、リキュールシロップ作るわ。このままやとぼっそぼそやし。ひまりは、スポンジちぎっといて。……って、おい。何をニヤついてんねや」
夏樹君に脇をつつかれ、私は「わっ、ごめん」と慌てて手を動かす。
毎年こんな感じだった。
夏樹君に教えてもらいながら、お父さんの誕生日ケーキを作ることが恒例行事。
といっても、ほとんど夏樹君メインで作っていたからケーキはいつもハイクオリティだった。
初めて一緒に作った苺のクリームケーキは、デコレーションがプロみたいで。
次の年に作ったフォンダンショコラは、なかのチョコレートが絶妙にとろっとしていて。
翌年の紅茶のシフォンケーキは、いくらでも食べることができてしまうふわふわな雲みたいで。
去年のフルーツタルトは、果物が宝石みたいにまぶしく輝いていて――。
ケーキは年々レベルアップ。お父さんはもちろん、私も大喜びの美味しさだった。
そして、お店と遜色ない品を作り上げる夏樹君の隣で、私は果物を切ったり洗い物をしたりと、直接的なケーキ作りには関わっていなかった。けれど、それでもとても楽しかった。
「やっぱ、ケーキ作りは楽しいなぁ!」と、小さな子どものようにキラキラと目を輝かせる夏樹君。
私も「楽しいね」と頷くけれど、それは半分嘘だった。
(ケーキ作りは、夏樹君と一緒じゃないと楽しくないよ)
寂しさが胸を衝く。
夏樹君は来月専門学校を卒業したら、この下宿を出て行ってしまうのだ。
彼は京都にある実家のケーキ屋さんを継ぐことが決まっていて、春からは晴れてパティシエとなる。
(京都……、遠いな……。)
中学生の私には、京都は遠い。もう、二度と会えないような気がするくらいに。
きゅっと唇を噛みしめながら、夏樹君に言われた通りにガラスの器にスポンジケーキ、シロップ、クリーム、苺を順番に重ねて入れていく私。
それだけの作業でも、ガラスから見えるケーキの断面はとても綺麗で美味しそうで、寂しい私の乙女心をくすぐってくる。
「これが、トライフル?」
「そや。イギリスのお菓子やねんけど、簡単な癖にめっちゃ映えるし美味そうやろ」
「うん! すっごく綺麗で美味しそう!」
「カスタードクリームとか、マスカルポーネチーズとか、クッキーとか、他にもいろんな果物入れてもええねん。何でもあり。ま、組み合わせにはセンスがいるんやけどな!」
ドヤ顔の夏樹君のえくぼが可愛い。私は、この顔が大好きだ。
そして私は彼のえくぼを突っつきたい衝動を抑えながら、「ありがとう」とお礼を口にした。
「和彦さんのケーキ作りは毎年やっとるやん。今更改まって言わんでええて」
私がケーキのリメイクのお礼を言ったと思い込んでいる夏樹君。
本当は違ったのだけれど、それでいいか……と、私は喉まで出かかった言葉をぐっと呑み込む。
だってその言葉を口にしたら、夏樹君を困らせてしまうだろうから。
私が彼に言いたかった「ありがとう」は――。
(夏樹君。この下宿で過ごしてくれて、ありがとう。私と仲良くしてくれてありがとう)
「帰らないで」なんてワガママは言えない。
だって、私は夏樹君のことが大好きだから。
大好きな夏樹君の夢が叶うことが嬉しいんだから。
夏樹君がパティシエになる日を私もずっと楽しみにしてきたんだから。
「ひまりがケーキ作りで困ったら、すぐ助けに来たるしな」
ニカッと気持ちのいい笑顔を向けてくれる夏樹君を見て、私はケーキ作りは下手なままでいようかな……などと思ってしまう。
(片想いがいっぱい重なったら、両想いになればいいのに)
私は試食用に作ったトライフルのケーキの層をスプーンですくい上げ、ぱくりと口に入れた。
滑らかなクリームと赤色の美しい苺、そしてリキュールシロップのおかげでボソボソ感を感じなくなったスポンジケーキが口内でとろけ合い――、苺の甘酸っぱさが後を引く。美味しいけれど、少し切なくなる。そんな味が口の中だけでなく、胸の奥に溶けていく。
本当は夏樹君に告白するつもりで作り始めたデコレーションケーキだったけれど、結局本当の気持ちを告げることができないまま――。
甘酸っぱいトライフルを二人で作って味見をしているという、とある夜更けの話だった。
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