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1巻
1-3
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「あ……あぁ……! ゆる、して……ゆるしてください、殿下……!」
震えながら涙を零す私を見て、ジュリアンは至極満足そうに笑った。
「貴様は私のものだろ?」
私は木偶のようにこくこくと頷く。
「貴様など私にはどうにでもできる。決して逆らうな」
「は、い……」
涙ながらに私は思った。こんなところで人生を終えてなるものか。私が従順になることでジュリアンが満足するのなら、お望み通りのものになってやろうと。
その日を境に、私はジュリアンの従順な人形になった。
何をされても感情など出さない、私はただの人形――そう自分に言い聞かせて。
ジュリアン付きになったらしい眼鏡の侍従とは初回以後もよく顔を合わせた。彼はその度悲痛な眼差しでこちらを見ていたけれど、彼を巻き込みたくない私は何も言わせないよう無言で介入を拒み続けた。
そうして私はたった一人、苦痛や屈辱に耐え続けていた。
彼の人生に干渉するようなことは絶対にしたくなかったし、関わることで私の将来が脅かされることを最も恐れたからだ。
――でも、そんな私の忍耐も二年で限界を迎えた。
ある会合の日、私を心配してくれたのか、いつになく強引に会合場所へ入ってこようとした侍従が激高したジュリアンに殴り飛ばされた。急いで侍従に駆け寄ると、彼に意識はなく、近くにいた衛兵達が手慣れた様子で何処かへ運び去っていった。おそらく救護室だろう。
私のために人が傷ついてしまった――到底許し難い現実を目の当たりにし、私はついに本気でブチ切れてしまったのだ。膨大に蓄積した怒りを前に、これまで耐え続けていた動機など綺麗サッパリ霧散した。
「――私、地位に胡座をかいて弱きを挫くような人間は大っっっ嫌いです」
できる限り淡々と無表情で告げると、ジュリアンはこちらを振り返りキッと私を睨めつけた。
「貴様何を無礼な! 私は断じてそのような人間ではない!」
「無知は罪なり、知は空虚なり……ですね」
「な、なんだそれは! 貴様何を言っている⁉」
この世界にはなかった格言かもしれない。でもいい、こうなったら言いたいことを全部ぶちまけてやる――!
「知らないことは罪ですけど、知っているだけではなんの意味もない。学んで身につけて役に立てることが大事ってことです。そもそもジュリアン様は無知から始まっているかもしれませんが」
「お、お前! 私を愚弄するのかっ!」
目を三角に吊り上げるジュリアンに、私は心から哀れみを込めて微笑んだ。
「面と向かって苦言を呈す人が一人もいないなんて、可哀想な方。あなたはある意味絶対的権力の犠牲者なのかもしれませんね」
周囲に甘やかされ、冷徹な国王陛下には自ら気付けとばかりに突き放されて……。そんな現状を鑑みれば、ジュリアンも被害者なのかもしれない。なにせ彼には今まで是非善悪の分別すら教えてくれる人がいなかったのだから。
ふうっと深く溜息をつけば、ジュリアンはさらに怒り心頭の様子で、顔がタコのように真っ赤になっていた。握り締めた拳がブルブルと震えている。
また手を上げるつもりだろうか――構わない、私を殴りたいなら好きなだけ殴ればいい。
そもそもジュリアンは、指先一つで私などどうにでもできる権力を持っている。現にその使い方をよく分かっている彼は、片鱗を見せつけ逆らうなと脅してきたではないか。
だからこんな風に真っ向から諫められることなんて、これまでただの一度もなかったのだろう。そのことに、なんだか今は怒りよりも哀れみが湧く。
彼はいずれ国を率いる立場にある。なんの挫折も知らず、無知と傲慢に溺れるような人間のままでは彼のためにも、国のためにもならない。
ふと、何を偉そうに、私がどれ程の人間だと自嘲の念が湧く。国を率いる重責など、私のような凡人には推し量る術もないというのに。
でも私にはゲーム知識という最強の切り札がある。それを利用すればジュリアンを良い方向へ導く手助けができるのではないだろうか。
そうだ、もしジュリアンが真人間になってくれたなら……私の未来が脅かされる可能性は限りなく低くなるはずだ。
賭けてみる価値はある。これはゲーム知識を持つ今の私にしかできない役割だ。元より『ルイーズ・エティエンヌ』はジュリアンに疎まれる悪役なのだし、今こそその役に徹する時なのでは?
従順な人形など今日限りで辞めてしまおう。
そう心を決めると胸がすっと軽くなった。
さて、これからこの傲慢王子をどう料理してくれよう……なんて考えながら改めてジュリアンを眺める。
するとジュリアンは悔しげに唇を噛み締めて、ボロリと涙を零した。
これには流石の私も出鼻を挫かれ唖然となる。
「え、殿下?」
「……ばっか、やろうっ……!」
馬鹿はあなたのほうですとの本音は飲み込んで、悪態をつきながら激しく泣きじゃくる十二歳児を、私はいささかの罪悪感と共に抱きしめた。
小さな暴君となったのは彼だけの責任ではない。増長させた周囲も……私だってその一人だ。
自分可愛さに今をやり過ごして、ジュリアンと深く関わることさえしなければ未来は拓けると、これまでただ他人事のように傍観していた。
許せないこと、腹の立つ仕打ちをたくさん受けてきたのに、今まで彼を止めなかったことを申し訳ないと感じる自分を苦々しく思う。それでもジュリアンの涙には何故か心が痛んだ。
「悔しいですか? 無知のままなら、あなたはこれから先もっと悔しい思いをしますよ」
私に抱きしめられて暴れるかと思ったジュリアンは、意外にもその場を動かなかった。
ただ憤りか悔しさのためか、小刻みに体が震えている。
なんだか痛ましい気持ちになってポンポンと背中を撫でると、気に障ったのかジュリアンは拳を握り精一杯の悪態をついた。
「……るさい! バカ!」
「語彙力が足りないから、言いたいことの半分も伝えられないでしょう? たくさんの叡智とその使い方を正しく知れば、あなたは最高の君主になれます。誰にバカにされることもなくなります……よ?」
あれ、気のせいだろうか。
泣きじゃくるジュリアンの全身から薄赤いオーラのようなものがゆらゆらと立ち上っている。
私は魔法をよく知らないけれど、この赤いオーラには本能的な恐怖を感じた。
まさか……これこそ皆が恐れるジュリアンの魔力なのだろうか。
でも何も起こらないのはきっとジュリアンに私を害する意図がないからだ。
今は行き場のない憤りが抑えきれず、ただ彼の持つ魔力の片鱗を表出させているだけ――そんな気がする。
もしかしたらジュリアンは自分が馬鹿王子と蔑まれていることに気付いているのだろうか。
その鬱憤や苛立ちがこんなふうに彼を暴力へと駆り立てているのだとしたら……本当は、彼は暗愚ではないのかもしれない。正しく表現する術を得れば、あるいは――
「心から望みさえすれば、殿下の世界は必ず変わります」
ひっくひっくと嗚咽するジュリアンの背を、赤いオーラごと宥めるように抱きしめた。
王族であるジュリアンの両肩にのしかかる責任はあまりに大きい。
でも彼にはその自覚がないから、きっと王太子教育の全てを無理やり押し付けられている感覚でいる。
だから平気で逃げ出して、甘いほうに流れて狭い世界の暴君のまま何も知ろうとはしない。
彼にはまず、自分の背負うものの大きさを自覚してもらうことが先決だろう。
この会合がいつまで続けられるのかは分からないけれど、ジュリアンのために出来る限りのことはしてみよう。こうして私の言葉を泣くほど悔しいと感じるなら、きっと見込みはあるはずだ。
私は決して彼の婚約者にはならないし、原作のように心を預けるつもりもない。
ただ、国王陛下との約束である『友人』として彼の側にいよう。
小さな体を震わせて慟哭するジュリアンを抱きしめながら、この時私はそう心に決めた。
第二章 王子と私の奇妙な関係
私が二年分の怒りを爆発させ、ジュリアンを大泣きさせたあの日を境に、彼は徐々に変わっていった。
まず、ジュリアンが私や周囲に無体を働くことがなくなった。暴言悪態はまだ多々あれど、元が酷すぎた分、大きな進歩に思えた。
そうして少しずつ会話のようなものができるようになり、私が本好きだと知ると、ジュリアンは本を読み聞かせろと強請るようになった。
まずは簡単な童話から始めてみると、最初つまらなそうにしていたジュリアンは、徐々に物語の世界に引き込まれて瞳を輝かせた。それからすっかり本に興味を持ったジュリアンは、自ら読書に没頭するようになった。
ジャンルも冒険活劇的なものから、果ては政治、経済、哲学にまで発展して、それをとんでもない速さで吸収していった。
さらにジュリアンは、一流の講師を招くよう陛下に頼み込み、自ら教えを乞うまでに至った。日々熱心に座学に励んでいると眼鏡の侍従――オウリから聞いた時は流石に耳を疑ったものだ。
今までは何だったのかと思えるほど、ジュリアンの知的探究心は留まるところを知らなかった。
切れ者である陛下の血を引くだけのことはあって、地頭も相当優秀だったらしい。私などあっという間に置いていかれそうな勢いで、ジュリアンはぐんぐんと成長していったのだった。
§
「明日は城下で祝勝祭があるらしいな」
二年後のある日、チェスの対局で連敗に次ぐ連敗を喫して凹んでいた私に、ジュリアンが何気なく言った。
十四歳になった私達は「友人」手前くらいの関係にはなっていた……と思う。
週に一度の会合もすっかり習慣化していたのだから慣れとは恐ろしい。ジュリアンはもっと増やしたいと言うけれど、今の彼は勉学や公務に忙しい身の上だ。週に一度が限界のようだ。
改めて目の前のジュリアンを見つめる。
本当に彼は目覚ましい変化を遂げていた。
あんなにバカにされていた彼が、チェスの駒を自在に操っている現状は感慨深いものがある。実はもう私ごときではまったく歯が立たないのだけれど、悔しいというより彼の成長を喜ぶ気持ちのほうが遥かに強い。
「祝勝祭……」
この時、そのワードが妙に頭に引っ掛かった。何故だろう。
祝勝祭は、数ヶ月前に起きた国境での紛争終息を祝う祭りで、そこでは確か――
久しぶりに蘇る記憶にハッとする。私はその催しに必ず行かなければならない。
ぱっと勢いよく顔を上げて、ジュリアンにぺこりと頭を下げた。
「殿下、教えてくださりありがとうございます!」
「そなた、祝勝祭に行くのか?」
「ええ、もちろん」
「だ、誰と行くんだ?」
今までチェスの盤面を真剣に眺めていたジュリアンが、突如そわそわと落ち着かなくなった。
その不審な様子を怪訝に思いながら、誰を連れて行こうかと頭を巡らせる。
これから私がしようとすることを考えると、父は絶対に連れていけないし、お姫様気質な母などもってのほかだ。となると……
「そうですね、弟を誘ってみようかなと」
「はあ? なんで弟なんかと行くんだ」
「最愛の人だからですよ」
「なっ……!」
満面の笑みで答えると、ジュリアンは唇をワナワナと震わせながら絶句した。
当然のことを言っただけだ、何をそんなに驚いているのだろう。
この時様子のおかしいジュリアンに気付いてはいたけれど、明日のことで頭がいっぱいな私はもはや彼に構う余裕などない。
気もそぞろなまま会合を切り上げて、私は家路を急いだ。
「見てセルジオ、すごい人出ね! 出店もいっぱいよ!」
「姉さん、ちょっと落ち着いて」
祝勝祭当日、私は朝から張り切ってセルジオと城下町へやってきた。本音はセルジオと二人きりで楽しみたかったけれど、父からの命で屈強な護衛騎士を二人つけられてしまっている。まあ万が一のことがあったら私だけではセルジオを守りきれない。ここはありがたくお世話になることにしよう。
それにしても、前世も含めてこれほど大きな祭りを目にするのは初めてだ。街全体の沸き立つような熱気に引きずられ、私のテンションは上がりっぱなしだった。
祭りとはこんなに楽しいものだったのか。教えてくれたジュリアンには感謝しなければ――
歩いているだけでたくさんの出店や大道芸に目移りしてしまうけれど、今日の目的はこれではない。
私がしようとしていることはゲーム内では描かれていないことで確証などない。だから今日ここへきたのは一か八かの賭けだった。
これがヒロインだったら有能な精霊が懇切丁寧にナビゲートしてくれるのにな……なんて物思いに浸りつつ曲がり角に差し掛かると、ガタンッと大きな物音が耳を打った。
咄嗟に音のした路地へ向かう。するとガラの悪そうな男が三人、一人の男を取り囲んでいた。
私は頭を押さえつけられ、地べたに引き倒されている男に目を凝らす。
年の頃は二十歳前くらいだろうか。褐色の肌にボサボサの銀髪、血のように真っ赤な瞳が印象的だ。身につけているシャツはところどころ破れうっすら汚れている。
私の視線に気付いたのか、彼はおもむろに顔を上げると、鋭い眼光をこちらに向けた。
ああ間違いない、あなたこそが――
「ちょっと、何してるんですか!」
「わー姉さん勘弁してよ……!」
裾を引っ張るセルジオを無視して私が声を張り上げると、男たちが一斉にこちらに目を向ける。すかさず護衛が割って入ろうとするのを制して、私は彼らの視線を正面から受け止めた。
「ん? お嬢ちゃん、俺達に何か用かぁ?」
男達のあまりに昏く荒んだ眼差しに怯みそうになるけれど、目を逸らしたら負けだと心を奮い立たせる。
私は出来る限り事務的な口調で彼らに問いかけた。
「そちらの男性は奴隷ですか?」
「ああ、敗戦国から流れ込んできた中の一人だ。これから売りに出すところなんだが反抗的でちっとも言うことを聞かなくてなぁ。まあ売主の義務としてたっぷり灸を据えてたところだ」
「……おいくらでしょうか」
「ああん?」
「私が彼を買います」
そう言い放った瞬間、脇に立つセルジオがひゅっと息を呑む音と背後の護衛達の困惑が伝わってきた。
そんな緊迫した空気の中、男達は顔を一斉に見合わせ、ガハハと笑い出した。
「お嬢ちゃん、どこの金持ちか知らないけどな、こいつは――」
言い終わるのを待たずして、私はリーダー格らしい男の前に金貨袋を差し出した。中が見えるよう丁寧に革紐も解いて。
「これでは足りませんか?」
リーダーはゴクリと喉を鳴らしながら金貨袋を受け取ると、三人仲良く中を覗き込み、おおっと歓声を上げた。そしてにんまりと頬を緩めながら、男達は再度こちらに向き直る。
「十分だ。だがご覧の通りこいつはまだ矯正途中でな、それでもいいのか? あとでやめた、いらねえって言っても、金は返さねえぞ」
「ええ、もちろんです。念書でも作成しましょうか?」
「そうだな、書類上の手続きがあるから一度ウチの事務所に来てくれ」
「分かりました。あ、念のために護衛は連れていきますけど、ご理解くださいますよね?」
これを断られたら流石に怖いな……と思っていたのだけれど、リーダーはこちらの護衛をちらりと見るなり、思いの外快く頷いた。
「構わねえよ、俺らはこう見えても正規の商人だからな。さあこっちだ」
見た目はまるでごろつきだけれど、意外にも商売に対する真摯さを感じて少しホッとした。
これなら護衛は一人で十分だろう。
私は護衛の一人に目配せをして、セルジオを連れて帰るよう促した。けれどセルジオが頑としてそれを拒んだので、仕方なく四人で男達の事務所へ向かうことになった。
小一時間程で契約手続きも済み、満面の笑みの男達に見送られて私達は事務所を後にした。
けれどセルジオの顔色は冴えない。
「姉さん、まさか奴隷を買うなんて……」
「ごめんねセルジオ、どうしても放っておけなくて」
咎めるようなセルジオの眼差しを苦笑しながら受け止める。
本当のところ、前世の記憶のせいか『奴隷』という制度にも人を買うという行為にも抵抗がある。でも『彼』は私に必要な人なのだ、この際なりふり構ってなどいられない。
私は改めて『彼』に向き直った。既に事務所で彼を拘束していた鎖は外してもらっていた。あんなにひどく痛めつけられていたのだから、立ち上がれないのではないかと案じていたけれど、『彼』は何事もなかったかのように平然としていた。
私は背の高い男を見上げてにこりと微笑む。
「あなたには今日から私に仕えていただきます。名前はなんと呼べばいいでしょう?」
男は暫し無言のまま私を凝視すると、やがて胸に手を当て騎士のように折り目正しく礼をした。
「ジンとお呼びください、お嬢様」
「分かったわ、ジン。私はルイーズ、こちらは弟のセルジオよ。細かい話は屋敷に戻ってからにしましょう、よろしくね、ジン」
ジンは「はい」と素直に頷いた。
奴隷商達は反抗的で言うことを聞かないなんて言っていたけれど、こんなにも従順ではないか。内心ホッと胸を撫で下ろす。
この奴隷男性はジン・テセオロ――ゲームでは処刑を免れる代わりに奴隷に落とされた武官の子息で、ルイーズの専属騎士兼、情夫でもあった。
私は原作のように彼を情夫にするつもりはない。そんな関係になどならなくても、義理堅い彼はきっと私の味方になってくれるはずだ。たぶんきっと恐らくは……
何はともあれすんなり出会うことが出来て本当によかった。あまりに出来過ぎていて原作の強制力も疑わずにはいられなかったけれど、目標がひとつ達成できそうなことを今は素直に喜ぶことにしよう。
そう思いながら帰宅するべく、皆で馬車へ戻ることにした。
ちらりと背後を見遣ると、護衛二人に挟まれたジンは素直に私の後に付き従う。頭一つ抜けて背が高いジンは、逆光も相まってまるで大きな影法師のようだ。
無事に会えて本当によかった……改めて喜びを噛み締めていると、セルジオが私の手を握り、不服そうに唇を尖らせた。
「まったく姉さんは無鉄砲なんだから……一歩間違えれば大変なことになってたんだよ」
「ごめんごめん」
セルジオの小言を聞きながら馬車に辿り着くと、まるでこちらを待ち構えるように乗車口の横に人が佇んでいた。
「え……」
眩いばかりの金髪が目に入った瞬間ピタッと足が止まる。お忍びのためか、いつもより簡素な服を着ているけれど、この圧倒的なオーラを見間違えるはずがない。
「ジ、ジュリアン殿下⁉ どうしてここに?」
ブスっとした不機嫌顔のジュリアンが、腕組みしつつこちらを睨むように見ていた。約束したわけでもないのにどうしてこんなところにいるのだろう。
まさかずっと待っていたわけ……ないよね?
「たまたま馬車を見かけたから来てみただけだ」
「ああ、そうでしたか。これから祭りを回るんですか?」
「姉さん」
クイクイッとセルジオに袖を引かれてハッと気付く。そうだ私としたことがうっかり、紹介が先だった。
「殿下、弟のセルジオです。セルジオ、こちらがジュリアン殿下よ。ご挨拶して」
「セルジオ・エティエンヌと申します。お目通り叶いまして恐悦至極に存じます、殿下」
「ああ、そなたが噂の弟か。楽にせよ」
余所行きモードのジュリアンが鷹揚に頷く。
私と二人きりだったら思い切り不満をぶつけられていたところだろう。この場にセルジオがいてくれて本当によかった……
私が秘かに胸を撫で下ろしている間に、ジュリアンとセルジオはいい雰囲気で談笑を始めていた。
傾聴力を身につけたジュリアンの社交性は、花丸をあげたいくらいに素晴らしい。昔のままの性格だったらこうはいかなかったな、とまたひとつ彼の成長を感じて感慨に耽る。
「ん?」
すると、不意にジュリアンが私の後ろに佇むジンに目を留め、わずかに眉を顰めた。
ああ、そうか。今のジンは血に汚れ服はボロボロと、ひとめで奴隷とわかる出で立ちだ。元が高貴な生まれと言っても、こんな姿では誰も信じないだろう。
私は慌ててジュリアンの視線を遮るように、ジンを手で指した。
「こちらはジンと申しまして、私の専属騎士にと考えています」
「は!?」
「なんだと!?」
セルジオとジュリアンの声が綺麗に重なる。今日会ったばかりだというのに随分と息がピッタリだ。
背後から視線を感じて振り返ると、当のジンも当惑したように私を見ていた。
実力も定かでない奴隷を公爵家の専属騎士にと言うのだから、皆の反応は至極当然のことだ。
私はこの妙な空気を変えるべく、コホンとひとつ咳払いをした。
「殿下、ジンは敗戦国の奴隷です。今日縁あって私が保護する形となりましたが、奴隷として扱うつもりは毛頭ありません。彼の国の王族や謀反を主導した高官達は、既に責任を問われ処刑されました。つまり今残されているのは上の命に従っただけの罪なき民。綺麗事に聞こえるかもしれませんが彼らも同じ人間なんです。奴隷なんて扱いは胸が痛みます。それゆえ……彼を私の専属騎士にと、思って……」
そこまで熱く言い切ってハッと我に返る。辺りの喧騒とは対照的にこの一帯だけがシンと静まり返っていた。
やってしまった……空気を変えるどころか余計に拗れさせてしまった。
私はこの世界で生まれ育ったけれど、どうしても前世の記憶や価値観が混ざり合ってこの世界の常識を『おかしい』と感じてしまうことがある。
奴隷に関してはその最たるものだ。貧富の差や社会的ヒエラルキーは前の世界にだって存在したけれど、奴隷として他者の尊厳を踏みにじり、それを許容する風潮にはどうしても強い違和感がある。
貴族という高みにいながらこんなことを思うこと自体烏滸がましいけれど、ここにいるからこそできることだってあるはずだ。今はまだなんの力もない子どもだけれど、いつかきっと。
震えながら涙を零す私を見て、ジュリアンは至極満足そうに笑った。
「貴様は私のものだろ?」
私は木偶のようにこくこくと頷く。
「貴様など私にはどうにでもできる。決して逆らうな」
「は、い……」
涙ながらに私は思った。こんなところで人生を終えてなるものか。私が従順になることでジュリアンが満足するのなら、お望み通りのものになってやろうと。
その日を境に、私はジュリアンの従順な人形になった。
何をされても感情など出さない、私はただの人形――そう自分に言い聞かせて。
ジュリアン付きになったらしい眼鏡の侍従とは初回以後もよく顔を合わせた。彼はその度悲痛な眼差しでこちらを見ていたけれど、彼を巻き込みたくない私は何も言わせないよう無言で介入を拒み続けた。
そうして私はたった一人、苦痛や屈辱に耐え続けていた。
彼の人生に干渉するようなことは絶対にしたくなかったし、関わることで私の将来が脅かされることを最も恐れたからだ。
――でも、そんな私の忍耐も二年で限界を迎えた。
ある会合の日、私を心配してくれたのか、いつになく強引に会合場所へ入ってこようとした侍従が激高したジュリアンに殴り飛ばされた。急いで侍従に駆け寄ると、彼に意識はなく、近くにいた衛兵達が手慣れた様子で何処かへ運び去っていった。おそらく救護室だろう。
私のために人が傷ついてしまった――到底許し難い現実を目の当たりにし、私はついに本気でブチ切れてしまったのだ。膨大に蓄積した怒りを前に、これまで耐え続けていた動機など綺麗サッパリ霧散した。
「――私、地位に胡座をかいて弱きを挫くような人間は大っっっ嫌いです」
できる限り淡々と無表情で告げると、ジュリアンはこちらを振り返りキッと私を睨めつけた。
「貴様何を無礼な! 私は断じてそのような人間ではない!」
「無知は罪なり、知は空虚なり……ですね」
「な、なんだそれは! 貴様何を言っている⁉」
この世界にはなかった格言かもしれない。でもいい、こうなったら言いたいことを全部ぶちまけてやる――!
「知らないことは罪ですけど、知っているだけではなんの意味もない。学んで身につけて役に立てることが大事ってことです。そもそもジュリアン様は無知から始まっているかもしれませんが」
「お、お前! 私を愚弄するのかっ!」
目を三角に吊り上げるジュリアンに、私は心から哀れみを込めて微笑んだ。
「面と向かって苦言を呈す人が一人もいないなんて、可哀想な方。あなたはある意味絶対的権力の犠牲者なのかもしれませんね」
周囲に甘やかされ、冷徹な国王陛下には自ら気付けとばかりに突き放されて……。そんな現状を鑑みれば、ジュリアンも被害者なのかもしれない。なにせ彼には今まで是非善悪の分別すら教えてくれる人がいなかったのだから。
ふうっと深く溜息をつけば、ジュリアンはさらに怒り心頭の様子で、顔がタコのように真っ赤になっていた。握り締めた拳がブルブルと震えている。
また手を上げるつもりだろうか――構わない、私を殴りたいなら好きなだけ殴ればいい。
そもそもジュリアンは、指先一つで私などどうにでもできる権力を持っている。現にその使い方をよく分かっている彼は、片鱗を見せつけ逆らうなと脅してきたではないか。
だからこんな風に真っ向から諫められることなんて、これまでただの一度もなかったのだろう。そのことに、なんだか今は怒りよりも哀れみが湧く。
彼はいずれ国を率いる立場にある。なんの挫折も知らず、無知と傲慢に溺れるような人間のままでは彼のためにも、国のためにもならない。
ふと、何を偉そうに、私がどれ程の人間だと自嘲の念が湧く。国を率いる重責など、私のような凡人には推し量る術もないというのに。
でも私にはゲーム知識という最強の切り札がある。それを利用すればジュリアンを良い方向へ導く手助けができるのではないだろうか。
そうだ、もしジュリアンが真人間になってくれたなら……私の未来が脅かされる可能性は限りなく低くなるはずだ。
賭けてみる価値はある。これはゲーム知識を持つ今の私にしかできない役割だ。元より『ルイーズ・エティエンヌ』はジュリアンに疎まれる悪役なのだし、今こそその役に徹する時なのでは?
従順な人形など今日限りで辞めてしまおう。
そう心を決めると胸がすっと軽くなった。
さて、これからこの傲慢王子をどう料理してくれよう……なんて考えながら改めてジュリアンを眺める。
するとジュリアンは悔しげに唇を噛み締めて、ボロリと涙を零した。
これには流石の私も出鼻を挫かれ唖然となる。
「え、殿下?」
「……ばっか、やろうっ……!」
馬鹿はあなたのほうですとの本音は飲み込んで、悪態をつきながら激しく泣きじゃくる十二歳児を、私はいささかの罪悪感と共に抱きしめた。
小さな暴君となったのは彼だけの責任ではない。増長させた周囲も……私だってその一人だ。
自分可愛さに今をやり過ごして、ジュリアンと深く関わることさえしなければ未来は拓けると、これまでただ他人事のように傍観していた。
許せないこと、腹の立つ仕打ちをたくさん受けてきたのに、今まで彼を止めなかったことを申し訳ないと感じる自分を苦々しく思う。それでもジュリアンの涙には何故か心が痛んだ。
「悔しいですか? 無知のままなら、あなたはこれから先もっと悔しい思いをしますよ」
私に抱きしめられて暴れるかと思ったジュリアンは、意外にもその場を動かなかった。
ただ憤りか悔しさのためか、小刻みに体が震えている。
なんだか痛ましい気持ちになってポンポンと背中を撫でると、気に障ったのかジュリアンは拳を握り精一杯の悪態をついた。
「……るさい! バカ!」
「語彙力が足りないから、言いたいことの半分も伝えられないでしょう? たくさんの叡智とその使い方を正しく知れば、あなたは最高の君主になれます。誰にバカにされることもなくなります……よ?」
あれ、気のせいだろうか。
泣きじゃくるジュリアンの全身から薄赤いオーラのようなものがゆらゆらと立ち上っている。
私は魔法をよく知らないけれど、この赤いオーラには本能的な恐怖を感じた。
まさか……これこそ皆が恐れるジュリアンの魔力なのだろうか。
でも何も起こらないのはきっとジュリアンに私を害する意図がないからだ。
今は行き場のない憤りが抑えきれず、ただ彼の持つ魔力の片鱗を表出させているだけ――そんな気がする。
もしかしたらジュリアンは自分が馬鹿王子と蔑まれていることに気付いているのだろうか。
その鬱憤や苛立ちがこんなふうに彼を暴力へと駆り立てているのだとしたら……本当は、彼は暗愚ではないのかもしれない。正しく表現する術を得れば、あるいは――
「心から望みさえすれば、殿下の世界は必ず変わります」
ひっくひっくと嗚咽するジュリアンの背を、赤いオーラごと宥めるように抱きしめた。
王族であるジュリアンの両肩にのしかかる責任はあまりに大きい。
でも彼にはその自覚がないから、きっと王太子教育の全てを無理やり押し付けられている感覚でいる。
だから平気で逃げ出して、甘いほうに流れて狭い世界の暴君のまま何も知ろうとはしない。
彼にはまず、自分の背負うものの大きさを自覚してもらうことが先決だろう。
この会合がいつまで続けられるのかは分からないけれど、ジュリアンのために出来る限りのことはしてみよう。こうして私の言葉を泣くほど悔しいと感じるなら、きっと見込みはあるはずだ。
私は決して彼の婚約者にはならないし、原作のように心を預けるつもりもない。
ただ、国王陛下との約束である『友人』として彼の側にいよう。
小さな体を震わせて慟哭するジュリアンを抱きしめながら、この時私はそう心に決めた。
第二章 王子と私の奇妙な関係
私が二年分の怒りを爆発させ、ジュリアンを大泣きさせたあの日を境に、彼は徐々に変わっていった。
まず、ジュリアンが私や周囲に無体を働くことがなくなった。暴言悪態はまだ多々あれど、元が酷すぎた分、大きな進歩に思えた。
そうして少しずつ会話のようなものができるようになり、私が本好きだと知ると、ジュリアンは本を読み聞かせろと強請るようになった。
まずは簡単な童話から始めてみると、最初つまらなそうにしていたジュリアンは、徐々に物語の世界に引き込まれて瞳を輝かせた。それからすっかり本に興味を持ったジュリアンは、自ら読書に没頭するようになった。
ジャンルも冒険活劇的なものから、果ては政治、経済、哲学にまで発展して、それをとんでもない速さで吸収していった。
さらにジュリアンは、一流の講師を招くよう陛下に頼み込み、自ら教えを乞うまでに至った。日々熱心に座学に励んでいると眼鏡の侍従――オウリから聞いた時は流石に耳を疑ったものだ。
今までは何だったのかと思えるほど、ジュリアンの知的探究心は留まるところを知らなかった。
切れ者である陛下の血を引くだけのことはあって、地頭も相当優秀だったらしい。私などあっという間に置いていかれそうな勢いで、ジュリアンはぐんぐんと成長していったのだった。
§
「明日は城下で祝勝祭があるらしいな」
二年後のある日、チェスの対局で連敗に次ぐ連敗を喫して凹んでいた私に、ジュリアンが何気なく言った。
十四歳になった私達は「友人」手前くらいの関係にはなっていた……と思う。
週に一度の会合もすっかり習慣化していたのだから慣れとは恐ろしい。ジュリアンはもっと増やしたいと言うけれど、今の彼は勉学や公務に忙しい身の上だ。週に一度が限界のようだ。
改めて目の前のジュリアンを見つめる。
本当に彼は目覚ましい変化を遂げていた。
あんなにバカにされていた彼が、チェスの駒を自在に操っている現状は感慨深いものがある。実はもう私ごときではまったく歯が立たないのだけれど、悔しいというより彼の成長を喜ぶ気持ちのほうが遥かに強い。
「祝勝祭……」
この時、そのワードが妙に頭に引っ掛かった。何故だろう。
祝勝祭は、数ヶ月前に起きた国境での紛争終息を祝う祭りで、そこでは確か――
久しぶりに蘇る記憶にハッとする。私はその催しに必ず行かなければならない。
ぱっと勢いよく顔を上げて、ジュリアンにぺこりと頭を下げた。
「殿下、教えてくださりありがとうございます!」
「そなた、祝勝祭に行くのか?」
「ええ、もちろん」
「だ、誰と行くんだ?」
今までチェスの盤面を真剣に眺めていたジュリアンが、突如そわそわと落ち着かなくなった。
その不審な様子を怪訝に思いながら、誰を連れて行こうかと頭を巡らせる。
これから私がしようとすることを考えると、父は絶対に連れていけないし、お姫様気質な母などもってのほかだ。となると……
「そうですね、弟を誘ってみようかなと」
「はあ? なんで弟なんかと行くんだ」
「最愛の人だからですよ」
「なっ……!」
満面の笑みで答えると、ジュリアンは唇をワナワナと震わせながら絶句した。
当然のことを言っただけだ、何をそんなに驚いているのだろう。
この時様子のおかしいジュリアンに気付いてはいたけれど、明日のことで頭がいっぱいな私はもはや彼に構う余裕などない。
気もそぞろなまま会合を切り上げて、私は家路を急いだ。
「見てセルジオ、すごい人出ね! 出店もいっぱいよ!」
「姉さん、ちょっと落ち着いて」
祝勝祭当日、私は朝から張り切ってセルジオと城下町へやってきた。本音はセルジオと二人きりで楽しみたかったけれど、父からの命で屈強な護衛騎士を二人つけられてしまっている。まあ万が一のことがあったら私だけではセルジオを守りきれない。ここはありがたくお世話になることにしよう。
それにしても、前世も含めてこれほど大きな祭りを目にするのは初めてだ。街全体の沸き立つような熱気に引きずられ、私のテンションは上がりっぱなしだった。
祭りとはこんなに楽しいものだったのか。教えてくれたジュリアンには感謝しなければ――
歩いているだけでたくさんの出店や大道芸に目移りしてしまうけれど、今日の目的はこれではない。
私がしようとしていることはゲーム内では描かれていないことで確証などない。だから今日ここへきたのは一か八かの賭けだった。
これがヒロインだったら有能な精霊が懇切丁寧にナビゲートしてくれるのにな……なんて物思いに浸りつつ曲がり角に差し掛かると、ガタンッと大きな物音が耳を打った。
咄嗟に音のした路地へ向かう。するとガラの悪そうな男が三人、一人の男を取り囲んでいた。
私は頭を押さえつけられ、地べたに引き倒されている男に目を凝らす。
年の頃は二十歳前くらいだろうか。褐色の肌にボサボサの銀髪、血のように真っ赤な瞳が印象的だ。身につけているシャツはところどころ破れうっすら汚れている。
私の視線に気付いたのか、彼はおもむろに顔を上げると、鋭い眼光をこちらに向けた。
ああ間違いない、あなたこそが――
「ちょっと、何してるんですか!」
「わー姉さん勘弁してよ……!」
裾を引っ張るセルジオを無視して私が声を張り上げると、男たちが一斉にこちらに目を向ける。すかさず護衛が割って入ろうとするのを制して、私は彼らの視線を正面から受け止めた。
「ん? お嬢ちゃん、俺達に何か用かぁ?」
男達のあまりに昏く荒んだ眼差しに怯みそうになるけれど、目を逸らしたら負けだと心を奮い立たせる。
私は出来る限り事務的な口調で彼らに問いかけた。
「そちらの男性は奴隷ですか?」
「ああ、敗戦国から流れ込んできた中の一人だ。これから売りに出すところなんだが反抗的でちっとも言うことを聞かなくてなぁ。まあ売主の義務としてたっぷり灸を据えてたところだ」
「……おいくらでしょうか」
「ああん?」
「私が彼を買います」
そう言い放った瞬間、脇に立つセルジオがひゅっと息を呑む音と背後の護衛達の困惑が伝わってきた。
そんな緊迫した空気の中、男達は顔を一斉に見合わせ、ガハハと笑い出した。
「お嬢ちゃん、どこの金持ちか知らないけどな、こいつは――」
言い終わるのを待たずして、私はリーダー格らしい男の前に金貨袋を差し出した。中が見えるよう丁寧に革紐も解いて。
「これでは足りませんか?」
リーダーはゴクリと喉を鳴らしながら金貨袋を受け取ると、三人仲良く中を覗き込み、おおっと歓声を上げた。そしてにんまりと頬を緩めながら、男達は再度こちらに向き直る。
「十分だ。だがご覧の通りこいつはまだ矯正途中でな、それでもいいのか? あとでやめた、いらねえって言っても、金は返さねえぞ」
「ええ、もちろんです。念書でも作成しましょうか?」
「そうだな、書類上の手続きがあるから一度ウチの事務所に来てくれ」
「分かりました。あ、念のために護衛は連れていきますけど、ご理解くださいますよね?」
これを断られたら流石に怖いな……と思っていたのだけれど、リーダーはこちらの護衛をちらりと見るなり、思いの外快く頷いた。
「構わねえよ、俺らはこう見えても正規の商人だからな。さあこっちだ」
見た目はまるでごろつきだけれど、意外にも商売に対する真摯さを感じて少しホッとした。
これなら護衛は一人で十分だろう。
私は護衛の一人に目配せをして、セルジオを連れて帰るよう促した。けれどセルジオが頑としてそれを拒んだので、仕方なく四人で男達の事務所へ向かうことになった。
小一時間程で契約手続きも済み、満面の笑みの男達に見送られて私達は事務所を後にした。
けれどセルジオの顔色は冴えない。
「姉さん、まさか奴隷を買うなんて……」
「ごめんねセルジオ、どうしても放っておけなくて」
咎めるようなセルジオの眼差しを苦笑しながら受け止める。
本当のところ、前世の記憶のせいか『奴隷』という制度にも人を買うという行為にも抵抗がある。でも『彼』は私に必要な人なのだ、この際なりふり構ってなどいられない。
私は改めて『彼』に向き直った。既に事務所で彼を拘束していた鎖は外してもらっていた。あんなにひどく痛めつけられていたのだから、立ち上がれないのではないかと案じていたけれど、『彼』は何事もなかったかのように平然としていた。
私は背の高い男を見上げてにこりと微笑む。
「あなたには今日から私に仕えていただきます。名前はなんと呼べばいいでしょう?」
男は暫し無言のまま私を凝視すると、やがて胸に手を当て騎士のように折り目正しく礼をした。
「ジンとお呼びください、お嬢様」
「分かったわ、ジン。私はルイーズ、こちらは弟のセルジオよ。細かい話は屋敷に戻ってからにしましょう、よろしくね、ジン」
ジンは「はい」と素直に頷いた。
奴隷商達は反抗的で言うことを聞かないなんて言っていたけれど、こんなにも従順ではないか。内心ホッと胸を撫で下ろす。
この奴隷男性はジン・テセオロ――ゲームでは処刑を免れる代わりに奴隷に落とされた武官の子息で、ルイーズの専属騎士兼、情夫でもあった。
私は原作のように彼を情夫にするつもりはない。そんな関係になどならなくても、義理堅い彼はきっと私の味方になってくれるはずだ。たぶんきっと恐らくは……
何はともあれすんなり出会うことが出来て本当によかった。あまりに出来過ぎていて原作の強制力も疑わずにはいられなかったけれど、目標がひとつ達成できそうなことを今は素直に喜ぶことにしよう。
そう思いながら帰宅するべく、皆で馬車へ戻ることにした。
ちらりと背後を見遣ると、護衛二人に挟まれたジンは素直に私の後に付き従う。頭一つ抜けて背が高いジンは、逆光も相まってまるで大きな影法師のようだ。
無事に会えて本当によかった……改めて喜びを噛み締めていると、セルジオが私の手を握り、不服そうに唇を尖らせた。
「まったく姉さんは無鉄砲なんだから……一歩間違えれば大変なことになってたんだよ」
「ごめんごめん」
セルジオの小言を聞きながら馬車に辿り着くと、まるでこちらを待ち構えるように乗車口の横に人が佇んでいた。
「え……」
眩いばかりの金髪が目に入った瞬間ピタッと足が止まる。お忍びのためか、いつもより簡素な服を着ているけれど、この圧倒的なオーラを見間違えるはずがない。
「ジ、ジュリアン殿下⁉ どうしてここに?」
ブスっとした不機嫌顔のジュリアンが、腕組みしつつこちらを睨むように見ていた。約束したわけでもないのにどうしてこんなところにいるのだろう。
まさかずっと待っていたわけ……ないよね?
「たまたま馬車を見かけたから来てみただけだ」
「ああ、そうでしたか。これから祭りを回るんですか?」
「姉さん」
クイクイッとセルジオに袖を引かれてハッと気付く。そうだ私としたことがうっかり、紹介が先だった。
「殿下、弟のセルジオです。セルジオ、こちらがジュリアン殿下よ。ご挨拶して」
「セルジオ・エティエンヌと申します。お目通り叶いまして恐悦至極に存じます、殿下」
「ああ、そなたが噂の弟か。楽にせよ」
余所行きモードのジュリアンが鷹揚に頷く。
私と二人きりだったら思い切り不満をぶつけられていたところだろう。この場にセルジオがいてくれて本当によかった……
私が秘かに胸を撫で下ろしている間に、ジュリアンとセルジオはいい雰囲気で談笑を始めていた。
傾聴力を身につけたジュリアンの社交性は、花丸をあげたいくらいに素晴らしい。昔のままの性格だったらこうはいかなかったな、とまたひとつ彼の成長を感じて感慨に耽る。
「ん?」
すると、不意にジュリアンが私の後ろに佇むジンに目を留め、わずかに眉を顰めた。
ああ、そうか。今のジンは血に汚れ服はボロボロと、ひとめで奴隷とわかる出で立ちだ。元が高貴な生まれと言っても、こんな姿では誰も信じないだろう。
私は慌ててジュリアンの視線を遮るように、ジンを手で指した。
「こちらはジンと申しまして、私の専属騎士にと考えています」
「は!?」
「なんだと!?」
セルジオとジュリアンの声が綺麗に重なる。今日会ったばかりだというのに随分と息がピッタリだ。
背後から視線を感じて振り返ると、当のジンも当惑したように私を見ていた。
実力も定かでない奴隷を公爵家の専属騎士にと言うのだから、皆の反応は至極当然のことだ。
私はこの妙な空気を変えるべく、コホンとひとつ咳払いをした。
「殿下、ジンは敗戦国の奴隷です。今日縁あって私が保護する形となりましたが、奴隷として扱うつもりは毛頭ありません。彼の国の王族や謀反を主導した高官達は、既に責任を問われ処刑されました。つまり今残されているのは上の命に従っただけの罪なき民。綺麗事に聞こえるかもしれませんが彼らも同じ人間なんです。奴隷なんて扱いは胸が痛みます。それゆえ……彼を私の専属騎士にと、思って……」
そこまで熱く言い切ってハッと我に返る。辺りの喧騒とは対照的にこの一帯だけがシンと静まり返っていた。
やってしまった……空気を変えるどころか余計に拗れさせてしまった。
私はこの世界で生まれ育ったけれど、どうしても前世の記憶や価値観が混ざり合ってこの世界の常識を『おかしい』と感じてしまうことがある。
奴隷に関してはその最たるものだ。貧富の差や社会的ヒエラルキーは前の世界にだって存在したけれど、奴隷として他者の尊厳を踏みにじり、それを許容する風潮にはどうしても強い違和感がある。
貴族という高みにいながらこんなことを思うこと自体烏滸がましいけれど、ここにいるからこそできることだってあるはずだ。今はまだなんの力もない子どもだけれど、いつかきっと。
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