皇后陛下の御心のままに

アマイ

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「エレイン、そなたに命じる。どんな手を使っても構わないから、あの忌々しいアルセン・アンドレ公爵を籠絡なさい」

 皇后陛下のこのお言葉が、全てのはじまりだった。
 その時はあまりのショックでなんとお答えしたかも定かでないけれど、気づけば薄暗い自室に呆然と佇んでいた。

 私はエレイン・オブリー。
 名ばかり名門の借金まみれなオブリー公爵家の長女だ。
 借金返済のため十六で皇后陛下の侍女となり、今年で二年になる。
 少しでも皇后陛下に気に入られ、最上の婚姻相手を世話してもらえと両親からは日々矢のような催促が届くが、正直男性に苦手意識のある私はその気になれずうんざりしている。

 私はこの侍女という仕事が案外向いているらしい。
 女性として最高の教養を身に付けられる上、幸いにも皇后陛下には可愛がっていただけている。
 このまま結婚などせず生涯を皇后陛下に捧げるのも悪くないのでは……と思っているなど口が裂けても言えないけれど。

「結婚、か……」

 浴槽に身を沈め、先ほど受けた皇后陛下からの命を頭の中で反芻する。
 アルセン・アンドレ――家格は同格ながら、落ちぶれた我が家門とは異なり、絶大な権力を有する筆頭公爵家の当主だ。
 エキゾチックな黒髪に青い瞳の大層な美男で、令嬢達との浮き名は数えきれないほど。
 良い男に目のない皇后陛下がそんな彼を見過ごされるはずもなく、あの手この手で誘いをかけておられたが、不遜なアルセンは軽くいなして袖にしていた。
 しかもさらに皇后陛下を苛立たせていたのは、アルセンが貴族派の令嬢とも親密だという噂だった。
 貴族派とは皇族と対立する派閥だ。
 アンドレ公爵家は長い間中立を保ってきたのだが、昨年アルセンに代替わりして以降きな臭くなってきたというわけだ。
 だから、それを阻止しつつ振られた腹いせをしたいのが皇后陛下の狙い(おそらく本命は後者)なのだろう。
 そして私に白羽の矢を立てられたのは、忠臣と認めてくださった証。
 でも――

「……私なんかに、本当にできるの?」

 複雑な感情が胸の中でグルグルと渦巻く。
 皇后陛下から強い信頼を得られる絶好のチャンスとはいえ、本音を隠しきれる自信がない。
 だって、私はアルセン・アンドレが大の苦手なのだから――

 アルセンと初めて顔を顔を合わせたのは私が八歳の時のこと。
 アンドレ公爵家で行われたガーデンパーティーに、私は祖母と共に参加していた。
 そこで出会った同年代の令嬢達とおしゃべりを楽しんでいたところ、数名の取り巻きを連れたアルセンがやってきた。
 そしてふと足を止め、私を見て薄っすら笑ったのだ。
 なんだか感じの悪い男だと眉を顰めていると、アルセンはボソリと呟いた。

「冬の羊のようだな」

 その瞬間ゴンと鈍器で頭をカチ割られたようなショックに見舞われた。
 冬の羊とは毛量も増し、一年で最もふくふくとしている時期だ。
 つまり――太って醜い、私にはそう言われたように聞こえた。
 あまりの衝撃に、私は気を失ってしまったらしい。その後の記憶はごっそり削げ落ちている。
 ただアルセンの言葉だけがグルグルと頭を駆け巡り、しばらくは茫然自失な日々を過ごしていたように思う。
 でも、あの頃の私は彼にそう言われても仕方がなかったのだ。
 生まれた時から体の弱かった私は、療養のため祖母と共に田舎で過ごすことが多かった。
 そしてそんな私を心配した祖母は『体に良いもの』をせっせと与え続けた。
 祖母の心を無碍にできなかった私は、ひたすら与えられるものを無理にでも食べ続けた。
 その結果、この体はぷくぷくと白豚のように育っていった。
 その頃の両親は事業が乗り始めて忙しく、ほとんど顔を合わせることもなかったし、祖母はよく食べてくれて嬉しいと喜ぶばかりで、面と向かって外見の醜さを指摘するものなどいなかった。
 だからこそ余計に、あの日のアルセンの言葉と馬鹿にしたような薄笑いは、ザックリと私の心を引き裂いた。
 私は、醜い。
 誰も口にしないだけで本当は哀れみ、蔑んでいたのかもしれない。
 その事実を受け入れられて以降ようやく気持ちが上向き、闘志が湧いてきた。

 まずは痩せよう。そしていつか絶対に世間を見返すのよ――!

 なんとかショックから立ち直った私は、医師の指導のもと体を動かし節制に努め、数年かけて健康な体と人並みな体型を得ることに成功した。
 その点はアルセンのあの心無い言葉に心底感謝している。
 自分を客観視することができなければ、きっと私は祖母の真綿のような愛情に浸りきり、碌でもない人間に育っていたはずだから。
 そうして年頃になった私は社交辞令でも美しいと褒められることも増え、大分自信を取り戻すこともできた。
 それでも、アルセンを前にするとどうしてもあの日の感情が蘇って足が竦んでしまう。
 見た目がどれだけ変わろうと、彼は心の中で私を嘲笑っているのかもしれない。
 今でも彼の目には食べ頃の家畜くらいにしか見えてないに違いない――
 そんなアルセンの目に映りたくなくて、私は徹底的に彼を避けた。
 時折物言いたげな視線を感じたりもしたけれど、全て気のせいと無視し続けた。
 そんな関係を十年も続けてきたのに、今更彼に歩み寄ることなんてできるのだろうか。
 本音はこんなにも嫌なのに……

「はぁ……」

 盛大なため息と共に湯から上がり、髪をタオルで拭いながらふと足を止める。
 私はいつか彼を見返したいと思っていた。
 もしも奇跡的にアルセンを篭絡することができ、その後手酷く振ったなら……少しは私の溜飲も下がるのだろうか。
 あの忌々しい薄笑いを苦しみに歪めることができたなら――
 そう考えを変えたら、なんだか少しだけ出来そうな気がしてきた。
 成功の暁には皇后陛下の更なる信頼を勝ち得ることもできるし、きっと我が家門も将来は安泰。
 私にとっては一石二鳥どころではない。
 メラっと心に闘志がみなぎる。
 よし、やろう。
 やってみせましょう、皇后陛下の御心のままに――!
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