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目覚めの刻~夕霧~
しおりを挟む俺の可愛い可愛いお姫様。
俺だけの可愛いお姫様。
世界で一番大切な俺の半身。
君が望むのなら世界中の綺麗な花を君におくるよ。
だからどうかそばにいて。
君が隣にいない世界では俺は生きてはいけないのだから。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
俺、夕霧と妹の夕顔は二卵性の双子の兄妹だ。
父親譲りの黒く艶のあるくせのない髪に母親似のくりくりとした大きな瞳。小さな頃から動くお人形さんのようだと思っていた。
「あれでしょう。あの着物を着た人形に似てると言いたいのでしょう。」
そう言って彼女は毎回少し嫌そうな顔をする。別にあの人形に似ているとは思わないが、何をそんなに嫌がるのだろうか。
「いや、あの人形が嫌いなわけではないのよ?でも、なんて言うか真夜中に見たくないナンバーワンの人形でしょう?だからなんだか複雑で・・・。」
たまに夕顔の思考センスは独特だと思う。だが、そんなところすら愛らしいのだけれど。
彼女は自分が周りからどのように見られているのかを全く正確に理解していない。見た目が可愛いだけではない。人見知りのくせに人当たりの良い性格は男子からの高感度も高い。夕顔を狙っている男が数多くいるのを俺は知っている。何度か同じクラスの男たちにも夕顔を紹介してほしいと頼まれたこともある。もちろん笑顔でお断りさせていただいたが。
「夕顔は俺のだからだめだよ」
そう、にっこりとほほ笑んで見せればクラスメイト達は冗談かと思ったようだが全く冗談なんかではないのだけれど。
俺と夕顔は物心がつく前から一緒にいた。俺は夕顔で夕顔は俺で。二人で一つなのだと思っていた。
夕顔が泣けば俺も悲しかったし、彼女が笑えば俺も嬉しかった。二人一緒にいることが当たり前で、寧ろ少しでも夕顔と離れれば身体の一部を失ったかのようにとてつもない不安に襲われる。それは夕顔も同じだったのだろう。俺たち二人は気付けばいつも手を繋いでいた。繋いだ掌からお互いの温かな体温と一緒に思考まで共有していたように思う。
大人になったら大好きな夕顔をお嫁さんにする。そうできると疑っていなかった無知でバカな幼いころの俺に、母は困ったように微笑みながら言ったのだ。あの頃の俺へ死刑宣告ともとれるあの言葉を。
「夕霧と夕顔は兄妹だから結婚はできないのよ。夕顔は誰か違う人のお嫁さんになるの。でも、あなたたちは家族だからずっと一緒にいられるわよ。」
あの時の母に悪気はなかったのだろう。兄妹だから。家族だから。だからあなたたちはこれからもずっと一緒にいられるのよと。母にしたらその程度のことだったのだろう。
だが、その言葉を聞いた後の俺はどんな顔をして何を言ったのかは覚えていない。それでも幼い頃の俺があの時理解したことは、俺と夕顔は兄妹だからこそずっと一緒にいられるのだと言うこと。でもその代り、何年後か何十年後かの先の未来の夕顔の隣に立つ男は俺ではないのだと言うこと。彼女は俺ではない他の男のものになるのだと言うことだった。
それからの俺はどうしたら夕顔が俺だけのものになるのかだけを考えていたように思う。考えても考えても答えが出ることはなく時間だけがいたずらに過ぎて行った、そんなある日。俺はクラスメイトである男の一人が話していた内容に興味をひかれた。それは当時の俺がまだ知らない第二の性についての話だった。
アルファやベータ、オメガという言葉を聞いたことがなかったわけではないが何のことを指しているのかは知らなかった。だが、話の中の「運命の番」という単語だけが騒がしいクラスの中でいやにはっきりと俺の耳に届いた。
アルファとオメガの中には「運命の番」とよばれる特別な絆をもった者同士が存在するのだと。出会える確率は低いが、だからこそ番同士を引き離すことは誰にも出来ないのだと。それがこの世界の決まりなのだと。
夕顔が俺の運命の番であったのなら夕顔を俺だけのものにできるのではないだろうか。たとえ相手が血を分けた兄妹だったとしても、だ。
俺はその日、本屋で一冊の本を手に入れていた。深い臙脂色した肌触りのよいその本の表紙には美しい金刺繍で「バースの世界」と書かれていた。
一枚、一枚とページをめくる。そこには俺の知らない世界が広がっていた。作中で「未来多い子供たちのために、その時が来るまでは第二の性、バースがあることを故意に知らせてはならない決まりがある」と記載されていたことから、俺が今まで知らなかった事にも自ずと理解できた。興奮気味に皆に話していたあのクラスメイトには確か年の離れた兄がいたはずだ。きっと彼はそこから知り得たのだろう。
本によれば、運命の番同士は会えばお互いにその相手が運命なのだと分かるのだとか。フェロモンの匂いで分かるのだと書いてあったが、当時、フェロモンと言うもの自体が俺には理解できていなかったが、とても良い匂いだと感じると言うことなのだと結論付けた。それならば昔から俺が夕顔から感じるあの心の底から安心するような良い匂いが運命の番の匂いなのではないかと。
だが、運命の番云々の前に俺も夕顔もまだお互いのバースを知れる時期ではない。全てはバースを知ってからなのだが、なぜだか俺には確信ともいえる自信があった。
俺はきっと「アルファ」で、夕顔は「オメガ」だろうと。俺が唯一守るべき存在は夕顔だと。
この時ほど早く大人になりたいと思ったことはなかった。
その日から俺は一日でも早く大人になりたかった。
彼女が俺よりも脆く華奢な身体を持っているのだと気付いたのは何時だっただろう。全て同じだと思っていた彼女が全く別のものであると気付いたのはいつのことだっただろう。
ある日を境に夕顔と別々になった部屋にお風呂。両親からそう告げられた時、俺はやっとその時がきたのだと思った。ここ何ヶ月か前から、両親が何かを準備している事には気付いていた。両親から告げられる俺と夕顔のもう一つのバース。確信はあったが両親から直接言葉にされると嬉しくて仕方がなかった。
苦々しい表情の父と目が合う。
ーーだから言っただろう?ーー
俺は無意識に自然と口角があがっていることに気付かない。
父はいつ頃からか気付いていた。俺が夕顔に執着していることに。そしてその執着の強さが兄妹のものだけではないのではないかと懸念さえしていた。時々問うような、疑うような目を向けられていたからだ。だから俺はあえて父にだけこっそり告げたのだ。「夕顔は俺のオメガだ」と。あの時の父の顔は今でも覚えている。呆けた顔。何をばかなことを言っているのだと言う苦笑に近い表情。そしてそれが瞬時に険しい顔に変わっていく一連の父の顔を俺は、何か面白いスライドショーでも見ているような気分で終始笑顔で見つめていた。
「だから検査でもし俺がアルファで夕顔がオメガだったら・・・夕顔は俺にくれるよね?まあ、了解を得れなくても昔から夕顔は俺のだけど。」
目を見開いたまま言葉を発することが出来ずにいる父に俺はうっそりとほほ笑む。
両親に申し訳ないという気持ちが全くないわけではない。ただ、夕顔とその他を天秤にかけるまでもなく俺の中の答えは昔から決まっているのだ。だから今ここで父に何を言われようと、反対されようと夕顔を諦めることだけはできない。
後から知ったことだが、父はアルファだった。だからこそ俺の夕顔(番)に対する執着の強さに本能的にいち早く気付いたのかもしれない。だが父はその事実から目を逸らしたのだ。親としては認めたくなかったのだろう。まさか自分の子供たちが、と。まあ、今更何をしても無駄だけれど。なぜなら俺と夕顔はこの世に既に生を受けてしまっている。お互いをお互いの半身として。
ふと視線を感じ隣を見ると夕顔が顔を真っ青にして俺を見ていた。
その時笑っていた自分に気付いたが、見られてしまっただろうか。瞬時に困ったような顔をしてみせがうまく誤魔化せたかは分からない。きっと夕顔には寝耳に水であったに違いない。それにたぶんオメガだという事実もきちんと正確には理解していないだろう。
彼女は俺との間の変化を嫌う。常に俺と同じであろうとする。成長するにつれて変化を伴うことは当たり前なのに、少しずつ変化している事柄をまるで見えていないかのように振る舞う。彼女の髪の毛も良い例だろう。俺は夕顔に綺麗な黒髪なのだから伸ばせばいいと昔から何度も言っているのにそれを頑なに拒否するのだ。俺と同じように短くしても俺と夕顔は何もかも違うのに。
「夕霧と私は二人で一つ。昔と変わらずずっと一緒だよ」
俺の腕の中で安心しきった顔をしながら、自分に言い聞かせるようにしてそう何度も口にするのはまるで呪いの呪文のようだ。彼女は自分で自分に呪いをかけているのだ。
頑なに大人になるのを拒否している彼女を見るのは心が痛むが、俺は俺でいつまでも隣で新しい呪いを彼女に吹き込むのだ。夕顔の呪いよりも強力な雁字搦めにして俺から離れられないようにする呪いを。
「大丈夫。俺と夕顔は二人で一つ。俺の一番は夕顔だよ。俺の唯一。」
だから早く俺と同じところまで落ちておいでと願いを込めながら。
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「なぜ私達の子供がこんなことに」と静かに涙を流す母に、「もう私たちではどうにもできないいんだよ」と母の肩を抱きよせながら優しくなだめる父の姿。
俺はあれから父と相談して、母にも夕顔が俺の運命の番であることを告げた。初めから理解してもらおうとは思っていなかったし、理解されずとも良いとさえ思っていた。ただ、実際に目の前で母が涙を流す姿は、胸の奥につきりと刺すものがあった。
一頻り泣いて落ち着いたのか母は俺にある条件を出してきた。それは何も知らない夕顔に俺から気持ちを伝えたり、運命の番なのだと伝えてはいけないと。ただ、夕顔自身が自ら俺を唯一にと望むのなら構わないと。
母はまだ涙の残る瞳に強い光を宿しながら俺を静かに見つめている。
「理解はできないけど、理解したいとは思っているのよ。ごめんね。お母さんにも時間を頂戴ね」
そんな母の言葉に視界がぼやける。理解してもらおうとも、理解してほしいとも思ってはいないなど、ただの虚勢だ。本当は理解しそのうえで許してほしい、認めてほしいと心の奥底では願っていたのに無理だと早々に諦めていたのだ。
夕顔を守ってあげてねと優しくほほ笑む母には俺はきっと一生敵わないだろう。俺は両親を安心させるように力強く頷いたのだった。
それからの俺の行動は早かった。
前々からネットで吟味して夕顔のために用意しておいた首元を守るためのプロテクターを彼女にプレゼントした。夕顔はそれを見ても怪訝な顔をしていたが「俺の一番は夕顔で、夕顔の一番も俺なら心配だからしてほしい」と笑顔で言えば、俺の意図を正確には理解していないだろうが、納得したという顔をして大人しく俺の選んだプロテクターをしてくれている。彼女の白く細い首に巻かれた濃紺のプロテクターは、彼女にとても良く似合っている。しっかりとなめされたその皮は肌触りも良く、夕顔の綺麗な白い肌に傷をつけることはないだろう。
俺の独占欲の象徴ともいえるそのプロテクターが彼女の首に巻かれているのを見るたびに、腹の奥底から言いようもない喜びが込み上げてくる。夕顔は俺のものだと周りに主張している気分になる。本当の意味で早く俺だけのものにしたいが、まだその時ではないだろう。
夕顔に初潮が来たのはプロテクターを贈ってから少し経った頃だった。同じ家にいて夕顔を観察していればすぐ変化に気付いたが俺は何も言わなかった。夕顔の前では何も気付いていないふりをしていた。彼女ならそうしてほしいと分かっていたからだ。
深夜、両親が寝静まったのを見計らって夕顔の部屋のドアを静かに開けた。
ベッドのすぐ横に置かれたサイドランプからは弱い光がこぼれ、夕顔の顔を柔らかく照らしていた。泣き疲れて眠ってしまったのだろう。目じりが赤くはれ頬にはうっすらと涙の跡が見える。
可愛い俺の夕顔。可愛そうな俺の夕顔。彼女は自分の身体と心が咬み合わないことに悲鳴をあげているのだろう。オメガの彼女からしたらそれでも来るのは遅い方だっただろう。心が身体の成長を妨げてしまうほど、彼女の心は囚われている。一人で声を押し殺して泣くなんてこと本当はさせたくない。夕顔に悲しい思いなどさせたくない。それでも泣きたいと言うのならば俺の腕の中で泣いてほしい。
誰よりも近くにいて、誰よりも先に出会った俺と夕顔。
「ごめんね。でも、俺は待ってるんだよ。」
彼女の額に掛かる髪の毛を優しく払い額に一つキスをおとす。
泣かせたくない。誰よりも大切にしたいのも事実。だが、夕顔に初潮が来たことを喜んでいる俺がいるのも事実。きっとこれが彼女の大きな変化に繋がるだろうから。
夕顔の思いに逆らって少しずつ彼女は変化している。少しずつ、少しずつ、夕顔のペースで構わないのだ。君がめざめる刻もそう遠くはないだろう。迷って困惑して何度躊躇して立ち止まってもかまわない。最後には俺のところまで来てさえくれれば、俺はいつまでも待つつもりでいるから。
俺は父からの助言もあり志望校を早々に桜花学園に決めた。桜花学園には毎年全国から優秀なアルファが集まってくるのだと。自分のオメガである夕顔を守りたいのならば今から力をつけろと。優秀なアルファとのつながりを学生の内に作っておいて損はないとも教えられたからだ。
これから夕顔には頑張ってもらわないといけない。夕顔の今の成績を考えればこれが俺一人の我儘だと理解はしている。だが夕顔と離れると言う選択肢は俺にはない。志望校を伝えるのは早いに越したことはないだろう。勉強する時間などいくらあってもいい。
「もちろん夕顔も一緒に行くだろう?」
計算された問いに対する夕顔の答えなど初めから分かっていた。
俺と離れることを嫌い、異なることを否定し続けている夕顔だからこそ、あえて俺は当たり前のことのように口にしたのだ。夜遅くまで毎日二人で勉強することも夕顔と一緒だと思うと全く苦だとは思わなかった。そのおかげもあって、今俺たちは二人揃って桜花学園の制服を着ることが出来ている。
高校に入ってからもやはり夕顔は人気がある。華奢な身体に女性らしい柔らかな雰囲気。首筋が見えるほど短い髪の毛は彼女にとても似合っているが、その白く細い首に巻かれている濃紺のプロテクターがいやに目についてしまう。どこか中世的で微妙なバランスの上になりたっている彼女の美しさは、そのアンバランスさゆえに人の目を惹いてしまうのだろう。
それが、変化への拒絶から成り立っているのだと知っているのはこの中で俺くらいだろう。
夕顔は初潮が来てからやはり少し変わったように思う。相変わらず彼女自身は変化を拒絶してはいるが、外見に滲み出るアンバランスさはこの頃からだったような気がする。それまではただ可愛いだけだった。今ほど人を惹きつける何かはなかったのではなかったか。やはり身体の成長が関係してくるのはオメガだからなのだろうか。
俺は夕顔とクラスは違えど授業中以外はいつも一緒にいるようにしている。俺の知らないところで夕顔に変な虫をつかせるわけにはいかない。同じ学年のそれなりに力のあるアルファ達には俺の権勢が言葉にせずとも伝わっているため、表だって夕顔に近づくような馬鹿は誰一人としていないが、心配なのはベータとその他の意図しないイレギュラーが現れた場合だ。俺の周りに群がってくる邪魔なモヤ達も夕顔に直接何かをしないのならば風景だと思えば全く気にならない。それに邪魔なモヤ達も夕顔の変化に役立ってくれることもある。
移動教室や体育の授業などで偶然校内で夕顔を目にすることがある。どこに居ても近くに居れば夕顔がいる場所など匂いですぐにわかる。彼女は俺の周りにモヤ達がいるのを見ると、毎回一瞬だが眉をひそめる。きっと自分では気付いてはいないのだろうが、俺にとっては数少ない夕顔の独占欲を見た目で実感できる良い機会でもある。
彼女は気付いていないのだろう。いや、頭のどこかでは気付いてはいるのかもしれないが、自分自身が拒絶しているため理解できないのかもしれない。だからこそ深く考えることなどないのだろう。
俺がどこに居ても夕顔を探せるように、夕顔自身も俺がどこに居ても見つけられるということに。そうでなければ毎回目が合うなんてことはないはずなのに。そして、なぜどこに居てもお互いが分かるのかということを。
夕顔から預かったのだと手紙を渡された時はそのモヤに一瞬だが殺意がわいた。差出人の所に2年D組と書かれているからそのもやは二年なのだろう。学年が異なると共通点がないため俺の権勢も届かない。だからこそ休み時間の度に夕顔の教室に行き、若宮夕霧は双子の妹である若宮夕顔を溺愛しているという「周知の事実」と、考えられる頭を持つ者やアルファであれば少し考えれば自ずと理解できるであろう真実。アルファである若宮夕霧が溺愛し、唯一手元に置く者がオメガである若宮夕顔であるならばその先にある答えはただ一つ。兄妹だろうが関係ない。彼の唯一であるから。若宮夕霧と若宮夕顔は運命の番であるという実しやかに流されている「噂」。
この二つの「周知の事実」と「噂」を自らコントロールする事でその他のカバーできないイレギュラーを今まで牽制していたと言うのに、それが通じない馬鹿が夕顔に直接コンタクトを取ってくるとは。
もう少し牽制の手札を増やした方が良いのかもしれない。
だが、このモヤは意図せずとも良い動きをしてくれたようだ。先ほどから香る夕顔の匂いが微量ではあるものの何時もより濃くなっているように感じる。
優しくて甘い心地よい夕顔の匂い。気付けばじわりと手に汗をかいている。
--もう少しだ。あとひと押しでーー
逸る気持ちを押し込め、出来るだけ優しく聞こえるように声を発する。
「夕顔はどうしたい?」
今の夕顔からはまだ答えなど帰ってこないだろう事を知った上であえて聞く俺は、きっと意地が悪いのだろう。
困惑している彼女を優しく抱きよせれば、安心したように息をつく夕顔が可愛くて仕方がない。今までの俺だったらこの辺りで手を離し逃がしていたが、今日は可哀想だけれどまだ逃がしてはあげられない。
俺の腕の中で安心しきっている夕顔に優しく優しく毒を吐く。「俺の一番は夕顔ではなくなるよ」と。
その時の俺は傍から見ればきっと悪い笑みを浮かべていたことだろう。その瞬間、夕顔の身体が音でもしそうなほど固まったのが分かったが気付いていないふりをした。一人中庭に残していった夕顔には俺の吐きだした毒がゆっくりゆっくりと身体にしみ込んでいることだろう。
そしてその夜ついに夕顔にも発情期がきた。
あの後の休み時間もいつもと変わらない風を装い、夕顔から香る匂いの強さを密かに確かめていた。もしも授業中に夕顔が発情してしまい、彼女に何かあったらと思うと気が気ではなかったが、なんとか下校するときまでは無事だったようだ。
家に帰ってからも俺は注意深く彼女を観察していた。両親も夕顔の変化に気付いたのだろう。母が「今日の夜は何があっても絶対に家から出かけてはいけない」と強く言い聞かせていたが、当の本人である夕顔は自分の身体の変化に未だ気付いていないのか、訳が分からないという顔をしていた。
その間も、どんどん強くなる夕顔の匂いに何度も思わず手を伸ばしそうになったが、まだ早いと自分で自分を抑え込み何とか耐えた。結果がでるのは今ではない。全てが終わった後なのだから。
深夜、夕顔が部屋を出て行く音がしたので 、その後の行動を気にしていたがなかなか部屋に戻ってくる気配がなかったため、どうしたのかと探しに行くと扉越しに彼女がキッチンの床に蹲っているのが見えた。辺りには茶葉が散らばっている。
キッチンへと続く扉を開ければむせ返るほどの強烈な甘い匂いが部屋中に充満していた。
一気に自分の身体の体温が上がるのを感じる。
このままではまずい。
「夕顔」
蹲ったまま動かない夕顔を支えようと伸ばした俺の腕がびりびりと歓喜に震えている。熱く、じっとりと汗ばむ夕顔の身体を抱き起こすと、彼女は息も絶え絶えに固く瞑った目尻からは涙が溢れていた。息苦しいのだろう。開かれたままの口元からは飲み込めなかった涎が伝い落ちている。
耳に聞こえる荒い息遣いは夕顔のものか、それとも俺自身のものか。
首筋に巻かれたプロテクターの下の素肌が気になる。
ひたり、と首元に手を伸ばすと滑らかな皮の感触と汗で湿った温かな素肌の下に、どくどくと脈打つ血管に触れたのが分かった。
--これは俺のオメガだ。ーー
脳内に響く声。
プロテクターの金具に指がかかったその時、熱に浮かされ苦しそうな夕顔と目があった。
「ゆ、ゆう…ぎ…り…」
夕顔が俺を呼ぶ声を聞いた瞬間、身体の熱量は一気に肥大したが頭の中は冷水を浴びせられたような気がした。
俺は両親を呼びに行き夕顔を彼女の部屋へ運びいれる。発情期を緩和させるための緊急抑制剤を夕顔に打ち、同じオメガである母がこれからの一週間、夕顔の世話をすると言っていた。
夕顔の部屋はこうなった時のために、防音とフェロモンの匂いが外に漏れないよう特殊な素材を使用しているのだと。これは夕顔だけでなく俺をも守るための物だと父から教えられた。
以前、両親が何か準備していたのはこれだったのかと。そして俺はこの時初めてちゃんと理解したのだ。
両親は自分たちが思うよりも遥かに深く、俺と夕顔のことを考え、そして愛してくれているのだと。
俺は自分の部屋に戻りベッドに腰を下ろすと、自分の手先が微かに震えていることに気付いた。
夕顔の匂いに安心を感じていた今までの自分の概念が一瞬で掻き消され、脳内が揺さぶられるほど彼女の匂いはどこまでも甘かった。
目を閉じてもありありと浮かぶ先程の夕顔の姿。熱くじっとりと汗ばんだ柔らかな身体は上気しており、どこもかしこも薄っすらと赤みを帯び、開かれた口元からこぼれ落ちる吐息すらも甘く感じた。
父は、よく耐えたなと言ってくれたが、プロテクターの下の首筋に噛みつきたいと言う衝動を抑えられたのは、夕顔が俺を呼ぶ声を聞いたからだ。
彼女に名を呼ばれた瞬間、自分でも浅ましいほどに身体が夕顔を求めるのが分かった。だが、頭だけは急速に冷え込んでいったのだ。
俺は夕顔に何をしようとしたのだと。彼女の意思も聞かず、自分の欲だけを通そうとしていたのか、と。
俺は夕顔が自分の意思で今の俺自身を見、考え、選んでくれる事をずっと待っていた。俺が無理やり選ばせるのではなく、彼女自身で俺を選んで欲しかったのだ。だからこそずっと側で見守っていたはずなのに。
未だに身体の熱は冷めてはいない。寧ろ、酷くなってきてさえいる気がする。
自身の欲望一つコントロールすることさえ出来ない俺が、「待つ」だなんてよく言えたものだ。こんなのは口先だけのまだまだ子供ではないか。俺は中心に集まる熱の塊を情けない心持でただ眺めていた。
あれから一週間後、夕顔の意識がはっきりしてきたと母から伝えられた。そして発情期の間、夕顔は無意識にずっと俺の名を呼んでいた事も教えられた。だから会いに行ってあげて、と。母の気持ちが純粋に嬉しかった。
この一週間は俺にとってもかなりきついものだった。母から夕顔の移り香を感じる度、勝手に身体が反応し熱を持つ。何度夕顔の部屋の扉の前に足が向いたことか。
この扉の向こうに俺のオメガがいる。今頸を噛めばこのオメガは俺だけのものになる。
そんな貪欲で狂暴な感情に支配されそうになる度、夕顔の笑顔を思い出し、両親の事を考えた。
夕顔の部屋には鍵がかけられていなかった。俺が入ろうと思えば簡単に入ることが出来てしまう。だがここで部屋に入り抵抗できない夕顔を手に入れるのは簡単だが、それをしてしまったら二度と本当に俺が欲しい夕顔は手に入らないだろう。
そして、こんな俺を信用してくれた両親の信頼をも裏切る事にもなる。
母と入れ違いに夕顔の部屋に入ると、そこには一週間ぶりの夕顔の姿があった。匂いはかなり落ち着いているようで安堵する。少し痩せたように見えるのは気のせいだろうか。だが気怠げな雰囲気とは裏腹に表情が険しい事が気にかかる。
「夕顔?」
弾かれたようにこちらを見る夕顔の瞳の中は、恐怖と困惑が入り混じっているかのようだ。
--だめかもしれない。ーー
そんな最悪の結末が頭をよぎる。
恐る恐る彼女の元へ近付き声を掛ける。
「大丈夫?」
今、声が震えなかっただろうか。夕顔にはいつも通りの「夕霧」に映っているだろうか。俺は今どんな顔をしているのだろう。緊張しているのだろうか。手足の先の感覚が曖昧だ。
拒絶されるのではと不安で仕方がないのに、彼女に触れたくて仕方がない。
夕顔の頬にそっと手を伸ばすと一瞬、彼女がぴくりと反応したのが分かり心臓がドクンと嫌な音をたてる。
だがそれも一瞬のことで、夕顔に触れている所からじわりと安堵が広がっていく。
触れている先から感じる感情には拒絶は含まれてはいないようだ。これは寧ろーーー。
その先に辿り着く答えの可能性に思わず笑みがこぼれる。
「おいで」
俺の腕の中で涙をこぼしながら謝る夕顔がただ愛しくて仕方がない。
夕顔が俺と同じところまで来てくれるのをいつまでも待つつもりでいた。彼女が俺に執着している事には気付いていた。だが、それは彼女の昔の記憶の中の俺であって、今の俺自身ではなかった。
夕顔の記憶の中の俺は、優しく穏やかでいつまでも変わらず大人になることもない。大人にならなければ変わらずにいられる。だからこそ彼女はあんなにも自分自身の変化を恐れていたのだろう。例えお互いの変化に気付いても見ないふりをし、自分を、自分自身の世界を守っていた。
だからこそ俺は、最後に「発情期」が来ることを待っていた。夕顔の身体と心が追いつく刻を。少女だった夕顔がめざめる刻を。その刻に夕顔が選ぶ答えを。
夕顔が望むのならばもう少しくらいは彼女に優しい世界にいさせてあげることも出来たかもしれない。だが、俺は既に選んでしまったのだ。夕顔が俺の一番だと。俺は知ってしまった。夕顔が俺の運命の番であると。
「待って…くれてたんだよね?」
ああ、待っていたよ。夕顔が自らの意思で今の俺自身の手を取ってくれることを。
「夕霧、好き・・・。大好きよ、私の半身。」
「夕顔・・・。俺の一番。俺の唯一。」
俺たちは二人で一つ。どんなにお互いが変わったとしても、この先もそれは変わることはない。
忘れないで。俺がいつも隣に居ることを。
世界で一番大切な俺の夕顔。
夢から覚めてしまう前に優しいキスをしよう。もう二度と離れることがないように。
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