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滅びる地球とぼくの妹
しおりを挟む七月に入ったある日曜日。
厚い雲に覆われた空を眺めながら『早く梅雨があけないかなぁ』なんて思っていたら、梅雨明け宣言より先に地球の余命が発表された。あと三ヶ月と少しらしい。
途方もなく大きな楕円軌道を描く、巨大隕石群が発見されたのだ。周期は推定で一万年以上。軌道は地球のそれと交差していて、三ヶ月後、地球は隕石群の真っ只中を通過することになる。
どうやらそれは、地球の致命傷となるらしい。
無数の隕石が地球に降りそそぐだけでなく、月ほどの重量のある隕石との衝突もあり得るというのだから絶望的なのだろう。
随分前にテレビの洋画劇場で、そんな感じの映画を見たことがある。確か……タイトルは、なんとかマゲドン。
その政府の発表のあと、学校は即座に夏休みへと突入した。新学期の開始日は未定だ。
毎年指折り数えて楽しみにしていた夏休みだけれど、さすがに『わあい、半月以上も早く夏休みだ!』なんて喜ぶ気にはならなかった。なぜなら、この夏休みは終わらないのだから。
でもぼくが、地球の余命宣告を聞いて最初に思ったのは『すごく平等だな』ということだ。これで少なくとも咲子の葬式には出なくて済む。
咲子の命が尽きるよりも前に、地球には隕石が降りそそぐ。
咲子は、ぼくの歳の離れた五歳の妹だ。半年前に小児癌が見つかって、余命一年だと宣告された。つまりあと半年だった。
ぼくはどんどん減ってゆく日めくりカレンダーに、やめてくれと叫びたい気持ちで毎日を過ごしていた。
ぼくの家は両親が離婚していて、母さんとぼくと咲子の三人家族だった。父さんが恋人を作って出て行って、三人家族になった。
それからしばらくして咲子の病気が見つかり、母さんは治療費を稼ぐために、仕事を二つ掛け持ちするようになった。夜遅くまで帰らない。
ぼくも春からは夕刊配達のバイトをはじめた。学校が終わると自転車で新聞配達をして、そのあと病院へ行き咲子と過ごす。母さんが仕事帰りに病院に寄って、咲子の寝顔を一緒に見て、それから家に帰る。
そんな生活があと半年続いて、その先にあるものが咲子の葬式だなんて、そんなの理不尽にも程がある。
だってそうだろう? 咲子はまだたった五歳なんだ。なんだってそんな目に遭わなくちゃいけないんだ? 咲子が何をしたって言うんだよ。
だからぼくは、地球の全ての生き物が滅びるって話を聞いた時……理不尽が世界中に平等に降りかかると知った時、『ざまぁみろ』って思ったんだ。
これで咲子の葬式に出なくて済む。咲子も世界中の人たちや、ほかの全ての生き物と一緒に死ぬ。
ぼくも、母さんも。
どこかで恋人と暮らしている父さんも。
それはとても平等なことなのだから、騒ぐほどのことじゃない。小さな咲子だけがこの世界からいなくなるよりも、むしろずっと正しい終わり方じゃないか。
地球上の全ての生き物は、同じ土俵に上がる。すごく平等だ。
今まで差別と格差にまみれていた人類が、例外なくお金持ちも偉い人も、幸せな人も、不幸のどん底にいる人も同じ土俵に上がるんだ。隕石は誰の上にも、容赦なく降り注ぐ。誰かが選ぶ『生き残った人が良い人』や『いなくなっても構わない人』なんていない。
たぶん。少なくとも、ぼくが知っている限りでは。
ともかく地球の余命宣告は、ぼくにほの昏い満足感に似た気持ちをもたらした。
その頃には、ぼくのやり切れない想いの大元が『死んでしまう咲子』よりも『咲子がいない世界で生きてゆくぼく』に向いていることに気づいていた。
でも、気づいたからこそ……余計にぼくは吹き荒れる嵐みたいに大騒ぎする世間の人たちを、観察するように眺めるようになった。
最初の一ヶ月くらいは、混乱と狂気が溢れかえっていた。
ぼくの暮らす中途半端な都会の街の道路は逃げ出す車が列を作り、怒鳴り声とクラクションの音に呑み込まれた。
みんな、どこへ向かっていたんだろう。そしてその後はどうしているんだろう。
テレビでは連日、疲れた顔の政治家とアナウンサーが『落ち着いて行動して下さい。最後まで尊厳を手放さず、節度ある生活を送りましょう』と繰り返していた。
一人での出歩きや、夜間の外出が禁止された。
自殺する人が大勢いたし、ヤケになって犯罪に走る人もいたらしい。なぜ『らしい』なのかというと、そういった事件はニュースにならなくなったからだ。
夜中に女の人の叫び声や、ガラスが割れる音が聞こえることは日常茶飯事だった。漫画や映画の終末モノそのまんまの光景が、窓の外で繰り広げられてゆく。
地球が壊れるより先に壊れてしまう人は、ぼくが考えていたよりも、ずっと多かったみたいだ。
スーパーやコンビニ、家電量販店やホームセンターが襲撃されて商品の持ち去りが当たり前になった。現場では小競り合いや暴力沙汰が横行していたらしいので、ぼくと母さんはあまり外には出ずに、息を潜めるようにして暮らした。
咲子の面会にも行けなくなってしまったけれど、看護師さんたちの協力で何度か電話で話をすることが出来た。
こんな状態なのに、病院のスタッフは泊まり込みや交代で何とか運営してくれていた。母さんが電話口で、いつまでも深く頭を下げていた。
引きこもりのぼくらが干からびなかったのは、地球の余命宣言と同時に、日本政府が各家庭に食糧や水、電池や薬など最低限の生活必需品の配布が開始されたからだ。
ぼくの家にも、ぎっしり詰まった大きな段ボール箱が五つも届いた。
配布は滞りなく迅速に行われたので、実は随分前から準備していたんじゃないかって噂になった。それは地球の余命発表よりずっと前に、隕石のことを政治家たちは知っていたんだろうって話だ。
そんなのは当たり前だと思うし、きっと色々な苦労やドラマがあったんだろうなと思う。
NASAの人たちなんかは、きっとギリギリまで抗ったんだろう。それこそ『なんとかマゲドン』の映画みたいに、自爆覚悟の作戦があったかも知れない。
電気と水道、電話とインターネットはリモート化・半自動化されて、一日の決められた時間に、一定量だけしか利用出来なくなった。ガスは危険が多いので停止されたけれど、支援物資の中に小さなクッキングヒーターが入っていた。
余命宣言以前と比べたらとても不便で、でも今すぐに死んでしまうほどじゃない。そんな生活がはじまった。
ネットではどこかの秘密の島が安全だとか、地下何十メートルのシェルターなら乗り切れるとか、なんとか大学の研究室で人工冬眠装置が完成したなんていう、本当っぽい噂がいくつも出回った。
ぼくは今のところ、みんな一緒にスッキリと終わりで良いじゃないかって、そう思っているのだけれど。
そんな状態がしばらく続いて、世間は徐々に静かになっていった。慌てて大騒ぎしたまま過ごすには、三ヶ月は長過ぎたのだろう。
自暴自棄で暴れる人が少なくなった。たぶん、そういう人たちはもう、退場しちゃったんだと思う。
残った人たちは『まぁ、ギリギリまで頑張ってみるか……!』と、細々とした日常生活を取り戻していった。
八月がやって来て暑さが本格的になった頃、外出禁止令が解除された。今後は自己判断、自己責任ということになったのだ。
色々な『責任』を背負った人が、少しずつその荷物を下ろしはじめた。その分、世の中は更に不便になっていったけれど、そのことを責める人はそんなに多くはなかった。
たぶんここから先は、みんなが『やり残したこと』について考えるための時間だ。
外出禁止令が解除されてしばらくして、咲子の退院が決まった。
癌が消えたわけじゃない。健康になったわけじゃない。
病院から、全ての患者は退院することになったのだ。詳しいことは聞かなかった。動かせない病状の人や引き取ってくれる家族のいない人たち……。それはきっと考えても仕方のないたぐいの話だ。
動物園の猛獣、刑務所の囚人、老人ホームの身寄りのない老人。
政府の発表はない。
病院がその役目を終えることや、政府の対応に文句なんてない。咲子のために痛み止めや体調を整える薬を充分に確保してくれた。それだけでぼくは、たくさんの人に足を向けて寝られないほどに感謝している。
とにかく咲子は今日退院する。ぼくと母さんは最大限に武装して、病院へと向かった。
▽△▽
「や、や、やすひろ! 母さんから離れちゃダメよ!」
母さんが支給品のヘルメットを被って、屁っ放り腰で歩きながら言った。
「母さんの方が危なっかしいよ。難しくても平気なふりをしないと。弱いと思われたら、餌食になるんだって」
「餌食とか、怖いこと言わないでよ!」
ぼくらは、つっぱり張り棒に滑り止めテープを巻いた物を持っている。武器のつもりだけれど、二人ともコレで戦う勇気なんてない。
でも、世の中少し安定したとはいえ、丸腰で外に出るのはリスクが大きい。女性や幼児の連れ去りは、普通に横行している。
咲子の病院は電車で四駅先にある。もちろん電車もバスもストップしているので、歩いて向かっている。
「帰りに避難所寄って行こうね。今日は咲子の好きなもの作りたいな!」
母さんがニコニコしながら言った。
学校なんかの避難所には割とたくさんの人が住んでいて、自然と物々交換の場所になっている。校庭に野菜畑を作ったりもしているので、収穫までの時間が短い葉物野菜なんかが、少しずつ手に入るようになった。
それでも生の野菜や果物は天元突破の高値だ。畑がたくさんある田舎の方では違うかも知れないけれど、ぼくの住んでいる街ではほとんど畑は見かけない。
物々交換では電池やガソリンなんかの燃料系が一番価値が高い。他にも医薬品や缶詰め、石けんや煙草も需要が高い。
意外なところでは小説も人気がある。溢れるほどの娯楽に囲まれて暮らしていた現代人は、たった三ヶ月と少しの時間をも持て余した。それはぼくも同じだ。
あるいは現実逃避なのかも知れない。人の手を渡り歩いてボロボロになった文庫本には、読んだ人のコメントが貼り付けてあったりする。それもまた、面白い読みものとなっている。
「咲子の好物で作れそうなもの……。トマトとツナのうどんかな。プランターのミニトマト、そろそろ収穫出来るよね?」
「うん。大葉もワサワサ生えてる。乾麺はまだたくさんあるから、ツナ缶欲しいな」
うちのベランダには、母さんが気まぐれで育てていたプランターがいくつかある。世の中、何が幸いになるかわからないもんだよな。以前は面倒で仕方なかった水やりが、今では何よりも大切な仕事だ。
「世の中がこんなじゃなかったら、ホールケーキ買って来て退院のお祝いしたかったね」
世の中がこんなじゃなかったら、咲子は退院しなかった。癌が治ったわけじゃないからお祝いもしなかっただろう。
そんなことはきっと母さんもわかっている。それでもぼくらは今日、咲子が帰って来ることが本当に嬉しくて仕方がないのだ。
街はたった一ヶ月で随分と荒廃していた。道路には大破した乗用車が放置されているし、至るところにゴミが溢れている。夏なので虫がわいていて臭いもキツイ。
鼻と口にタオルを巻いて、ヘルメットを被ってつっぱり棒を手にして歩く。少し前だったらぼくらは通報待ったなしの不審者だし、お互いの姿を見て笑ってしまったに違いない。
だけれど今のぼくらは至極大まじめだ。無事に病院までたどり着いて、安全かつ速やかに咲子を連れて帰らなければならない。
道の向こうから、男の人が歩いて来た。ぼくと母さんは緊張して無口になる。それは相手も同じだったみたいで、お互いに目を合わせないように俯いて、足速にすれ違った。
その人の後ろ姿が見えなくなって、ようやく母さんがため息と共に口を開いた。
「ドキドキしたね。でもやすひろがいてくれて良かった。男の子も産んどくもんだね!」
母さんはたぶん、気分を明るくするために言ったんだと思う。でもぼくはその言葉で何となく父さんを思い出して憂うつになった。あの人のことなんて、少しも考えたくはない。
父さんには、咲子の病気のことを知らせていない。ぼくと母さんで話し合って決めたことだ。最後に会わせて欲しいだなんて、絶対に言わせてやるもんか!
ぼくは『よーし!』と声に出して気合いを入れなおし、つっぱり棒をブンブンと振り回した。
母さんの言った通り、ぼくは男なんだから、非力なりに母さんと咲子を守りたいと思う。世の中がこんなことになるなら、剣道部にでも入って鍛えておけば良かったな。
新聞配達と咲子の病院へ行くことで忙しかったぼくは、学校生活をかなり疎かにしていた。春のクラス替え以来、新しい友だちは一人も出来ていないし、所属していた音楽部ではすっかり幽霊部員になってしまった。
ぼくはトランペットを吹くことが、とても好きだったのだけれど。
信号機が斜めに傾いた交差点を渡り、ガラスの破片を避けて歩き、壊れた乗用車の脇に座り込んでいる人に飛び上がるほど驚いたりしながら、咲子の病院を目指す。
大きな川沿いの遊歩道に入ると、景色は比較的平和になった。蝉の声がうるさいほどに耳につく。おそらく蝉はずっと鳴いていた。ぼくはどうやら、それに気づかないほど緊張していたらしい。
「暑いね。エアコン使えないから、咲子の体調が心配だなぁ」
「うん。でも真冬よりはきっとマシだよ」
真冬に暖房器具が使えなかったら、きっと世間はもっと悲惨なことになっていただろう。物が腐りにくいのは良いかも知れないけれど。
「川で釣りとか出来ないかな? 魚、いないかな?」
ぼくはタンパク質が恋しくなって、川面を覗き込んでみた。コンクリートの川底に水草が揺れている。
「うーん、母さんが魚だったら、こんな川には住みたくないなぁ」
ぼくもそう思う。そもそも、釣り竿もないし、釣りもしたことがない。
「ばあちゃん家のそばの川なら釣り出来そうだよね。じいちゃん釣り竿持ってたし」
母さんの実家はこの街より、ずっと田舎の方にある。畑も多いし、今の世の中ならきっとこの街よりよほど暮らしやすい。
「咲子の体調見て、行ってみる? 調べたら歩いても四、五日くらいで行けそうだよ」
今までは咲子のことがあったから、ぼくらにこの街から離れる選択肢はなかった。
「それも良いかもね。ばあちゃんたちも咲子も、両方喜ぶだろうし」
それはとても良い考えだと思った。思い出の中にある祖父母の住む田舎の風景は、空が広くて風通しが良い。
ぼくと母さんは久しぶりに前向きで明るい気持ちになって、心なしか足取りも軽くなった。咲子を迎えに行く。咲子の好物を作って一緒に食べる。母さんの実家を目指して、旅に出る。
先のことが楽しみだと思えるなんて、ここしばらくは忘れていた感覚だ。
「ふふふ、そうね。行ってみようか!」
母さんが噛み締めるみたいに、笑いながら言った。
「いいね! 楽しみだ!」
ぼくの笑いも、声になった。
父さんが出て行って、咲子が病気になって、人類が滅亡することになった。ぼくと母さんにとってこの半年と少しの間は、散々な出来事ばかりだった。
久しぶりに今日のぼくらは、とても健やかな笑い声を上げた。
咲子はきっと、病院のロビーでぼくらを見つけたら、笑って駆け寄って来る。ぼくと母さん、どちらに向かって駆けて来るだろう。
「ぼくだと思うな!」
「あら、母さんに決まってるじゃない!」
どちらも譲らずに、また笑った。
咲子がぼくに駆け寄って来たら、抱き上げてくるくると回ってあげよう。きっと喜んで声をあげて笑う。咲子の笑い声を聞いたら、ぼくは泣いてしまうかも知れない。
ぼくは咲子の兄ちゃんなので、泣き顔を見られるのはあまりよろしくない。もし本当に泣いてしまったら、見られないうちに、急いで咲子を抱きしめよう。
帰り道は三人で手を繋いで歩こう。手を繋いでツナ缶を買いに行こう。避難所には咲子の友達のりょうすけくんがいるから会いに行っても良いな!
家に帰ったらベランダのトマトを収穫して、電気が使える時間になったら、急いでトマトとツナ缶のうどんを作ろう。
咲子はうどんを食べることを『おうどん、ちゅるちゅるする』と言う。食べる時には一本ずつで、本当にちゅるちゅると音を立てる。
「ふふふ」
「なあに? 思い出し笑い?」
「久しぶりに咲子の『ちゅるちゅる』が聴けるなと思って」
隕石は降るだろう。人類は滅びるのだろう。咲子の病状は、この先悪化するばかりだろう。
それでもぼくは笑っている。笑うことが出来ている。こんな状況なのに、些細なことで幸せだと思うなんて、呆れるほどに脳天気だ。
でもきっと、今日はそう悪くない一日になる。
空を見あげて深呼吸する。ふと隣へと視線を移すと、母さんも同じように空を見上げていた。
「帰ったらマンションの屋上でトランペットを吹こうかな」
「あら、良いわね! 母さんのリクエスト聞いてくれる?」
「もちろん! でも咲子のリクエストが先かなぁ。きっと、ラピュタかトトロ!」
「鳩と少年。良いわね! 母さんも大好き!」
二ヶ月後に隕石の雨を降らせる空は、眩しい木漏れ日の向こうで、今まで見たどんな空よりも青く広がっていた。
その空を、名前の知らない小さな鳥がちゅーいちゅーいと鳴きながら飛んでゆく。
ぼくは誰も救えない。
大切な家族である母さんも、可愛くて仕方のない咲子も、名前の知らない小さな鳥も。
けれども、今日みたいな夏の空にはトランペットの音がとても良く似合うことを、ぼくは知っている。
おしまい
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