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第十二話 さすがにもう夜の学校は怖くない

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 克哉と二人で、今度は二人の通っている西高へと向かう。というか、俺の母校だ。卒業以来一度も足を踏み入れていない。

 急勾配な国道を登り切り、信号を右折して並木道へと入ると、ガラリと風も景色も変わる。

 このなだらかな、長い長い坂道が好きだった。ペダルを踏む足を止めて、緩やかなスロープを下る。カラカラカラと車輪の廻る二人分の音を聞いていると、夕焼けのかすかに残る空を背景にした、広い校庭が見えて来た。

「騒ぎはまだ起きてないみたいだな。行ってみよう」

 校門を入り、人気のない自転車置き場に自転車を停める。在校中と少しも変わらない佇まいに、甘酸っぱい懐かしさが込み上げてきた。

 体育館ではまだバスケ部が練習しているらしく、ボールを弾く床の音やバッシュの擦れる音が入り口から漏れている。

「バスケ部は頑張るなぁ」

 克哉が少し羨ましそうな声で言った。バスケ部は県大会出場の常連であり、県内屈指の強豪だ。

「今年の二年は特に強いんだよ。全国、行けるかもって言われてる」

 んー、残念ながら来年の春バスケ、準決勝でまさかの逆転負けなんだよなぁ。全国行けるのは二年後だ。

「俺ももう少し頑張りたいんだけど、先輩たちのやる気がなぁー!」

 克哉の所属する陸上部は、部員も少なく顧問の先生も熱心ではない。でも、そんなのは言い訳だってことは、俺も克哉もよく知っている。

 体育館の脇を抜け、正面玄関から短い階段を降りれば校庭だ。サッカーコート二面分で、市内でもかなりの広さを誇る。左手の部室棟を見ると、いくつかの部屋に明かりが点いていた。

「サッカー部の部室ってどれだっけ?」

「うーんと、二階の一番奥。誰かいるみたい」

「よし、行くか!」

 気楽な風を装って克哉の背中を軽く叩く。

 部室の前まで来ると、わいわいと談笑する声が聞こえて来た。俺の記憶だと、中には同クラの松崎を含む、一年と二年が数名がいるはずだ。

 細く開いた小窓から、煙草の臭いが漏れている。克哉が自分をゆび指して『俺が行く』と口パクで伝えて来る。

 軽くノックしてから、割と遠慮のない感じでガチャリとドアを開く。克哉の背中越しから覗くと、何人かが焦って煙草の火を消しているのが見えた。

「おい、職員室に先生まだいるぞ。こんなところで煙草吸ってんなよ」

「なんだ克哉かよ! びっくりさせんな!」

 松崎の声と、それに続いて『誰?』『陸上部の二年』『焦った~!』と声が続く。松崎とは一年の時から同じクラスだった。部室のボヤ騒ぎで停学になり、部活も辞めてしまった。

「誰、その人」

 松崎が克哉の後ろにいる俺に気づき、警戒した声を出す。

「親戚の人。俺、忘れ物取りに来ただけだから」

「学校に言いつけたりしないから、火の始末ちゃんとして帰りなさい」

 若干『コラ!』という威圧感を出しながらも、物分かりの良い雰囲気で言う。兼ね合いが難しいな。どうせ見ず知らずの俺に何を言われようと、聞きゃーしない年齢だ。

『さーせん!』『あざーす!』

 全員がガタガタと椅子から立ち上がり、意外に素直な返事をして頭を下げた。絡まれるかもと思っていたので、少し拍子が抜ける。

「煙草、十年吸ったら禁煙大変だぞ。ニコチン中毒舐めんなよ。それに二十年後には一箱五百円だから。やめるなら今のうちだぞ!」

 拍子抜けして、つい余計なことを言ってしまった。サッカー部の連中は『ういっす!』『了解っす!』などと、適当な返事をして、バラバラと部室から出て行った。

 最後に残った一年と一緒に、もう一度火の始末を確認してからドアに鍵をかけて部室を後にした。

「これで解決……か?」

「うーん。しばらくは部室では吸わないんじゃないかな?」

 揺り返しがないとは言い切れないけれど、当該の出来事は阻止できた気がする。

「克哉も煙草、吸うなよ。ほんと禁煙、大変なんだから」

「……すげぇ実感こもってるな……」

 

     * * * *



「イチさんは、もう陸上やってないの?」

 校庭を突っ切りながら、克哉が聞いてきた。

「普通に生活してたら、ハードルなんか跳ぶ機会はないよ」

 高校で部活を引退して以来、ハードルをまたいだことすら一度もない。

 そりゃそうだよなぁ、と克哉が空を見上げる。とっぷりと日が暮れて、真っ暗な校庭はどこか所在なさを感じる。

「健康のために週に三、四回は走ってるぞ。まぁ、軽いジョギングだけどな」

 自分の言葉が、思いのほか言い訳じみて耳に響く。

「跳んでみる?」

「真っ暗だぞ」

「蛍光塗料の塗ったヤツあるよ。勝負しよう!」

「バカやろう、現役に勝てるわけないだろう」

「じゃあさ! 俺、やるから見ててよ。ちょっと今日は走り足りなかったんだ」

 克哉は言いながら、もう倉庫に向けて走り出していた。なぜ急にそんなことを……。俺が不甲斐ないせいか?

 誰だって自分の将来には希望を持っていたいものだ。二十年後に、お前は結婚もせずにしょぼくれた中年になると突きつけられて、がっかりしないはずがない。

 俺が提示できるのは『そこそこの技術者として認められている』とか『別にずっと恋人がいなかったわけじゃない』とか『まあまあの給料をもらっている』とか、その程度だ。夢も希望もあったもんじゃない。

 でもさ、それが普通だろう? 俺は社長になるとか芸能人になるとか、そんな夢を見てはいなかった。
 だが、高校生の俺は、たぶん今とは違う大人になれると思っていた。




 克哉が持ってきたハードルを並べて、準備運動をはじめた。

「まずは軽く流すね」

 薄暗闇の中、かつての自分だった少年が駆け抜けていく。記憶の中の自分よりも力強く地面を蹴り、水面を跳ねる小石のように、障害物を越えていく。

「どう?」

「あ……ああ。踏み切り、もう少し手前の方が良いかも。あと、抜き足の戻し意識して」

 克哉が真剣な顔でうなずく。

「よし! 本気で行く!」

「おい、怪我するなよ! 暗いんだから程々にしとけよ」

「大丈夫!」

 クラウチングスタートから鋭く地面を蹴る音がして黒い塊が薄闇に放たれる。あっという間に俺の目の前を通り過ぎ、さっきよりもほんの少し手前で踏み切る。

 ちくしょう、俺なんかのアドバイス、真面目に聞くのかよ!

 足を引っ掛けると思った瞬間、グンッと上半身が倒れた。

 ああ、良いな! さっきより全然良い。


 陸上競技から離れて、もう二十年近い。テレビで世界陸上やオリンピックを観るくらいで、普段はハードル走のことなんか思い出しもしない。

 なのに……。

 なんでこんなにも、胸が熱くなるんだ。

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