『秋雨のfantasìa』

彩景色

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06 どんなストーリーも突然に

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 金曜の日、いつになく学校が早く終わった。普段ならば、遅くとも日が西陽になっている時刻にもかかわらず、この日はまだ少し傾いたほどの時間だった。なんでも校舎の老朽化が進んでしまったため、一度大規模な点検が今日から入るそうだ。

 表立ってはいなかったものの、この学校ももう大分長く聳え立つ。古めかしさを当時はきっと感じさせなかったのだろうとは思うコンクリではあるが、今は亀裂が入り、色は褪せ、ホコリやらゴミやら汚れやらが溜まってしまっている。 

 これまでも何度か業者の人間らしき人がよく出入りはしていたものの、大して興味もなかったので流して聞いていた。このままだと近いうちに危なくなる可能性があるということだという。

 作業やらで、生徒だけでなく教師も学校から出なければならないらしい。午前の授業を終えたら、すみやかに帰宅するようにと強く言われてしまった。周りがいつもよりも騒がしく、ガタガタと集団で玄関に向かっている。学校の出口までどこもかしこも人だらけだった。それは学校ないだけでなく、玄関を出た後に関しても同様である。傘が大量に灰色のコンクリを染め上げて、空虚な点を埋め尽くしている。

 いつもならば、まだ空いているはずの図書館へ向かう道も、学校から出た少し先までは人が群がっている。やれどこに行くだとか、誰が何しただとか、くっついた、離れた、至極如何でも良い言葉ばかりで、うるさかったことこの上無い。動物の檻の中のような見世物らしさは、近づいてしまうたびに気分が悪くなる。曇る汚い淀んだ言葉が秋風の漂う空気の振動と共に自分の鼓膜を揺さぶって、穢れをベタベタと残して去っていく。名前も知らない誰かもわからない無責任に放たれるそれは、ただただ醜く世界を汚された。

 耳を塞ぎたくなる騒音を、なるべく気にしないように、目を向けないように運ぶ足のストライドを広く取り、回転数を上げきって勇み足で向かっていった。

 一歩、また一歩と自分の足を踏み出すたびに、降りかかる雨の重さが強く加速する。頭上に掲げた半透明なビニールが、地の引力によって加速された雨粒に、一つ一つ凹まされていくのがよくわかる。

 コンクリートを蹴った足から裾に跳ね上がる人口的な汚泥が、歩くことによって体内の分子を活性化させ、火照る体温を静かに引き下げようとする。もし魂というのが自身の胸中に存在するとしたら、それはきっと、湿っていてどろっとした固形と液体との間の存在であるかと考える。一度思い浮かべるだけで、血液が全身を巡る感覚を浮き彫りにし、異分子との結合を必要以上に促してくる。思考に通常運転をさせまいと脳内の言語化を妨げて、感性ばかりが鋭くなる。不要な不安といくばくかの期待を背負って、空想が机上からも離れてしまうのだ。

 この感情をどう形容して良いのか、言語化することに躊躇いのような拒絶のような感覚がある。
 だが、いつかは、そう表したい。

 もし、若し万が一、それが叶おうものならば、ドイツのアルケミストのように、今、この瞬間を———そう言い現すだろう。

 一世紀が経とうとしたこの現代においても未だ名訳が存在しないその言の葉を、どのように具現化すれば良いのだろうか。頑なに固執するのか、いっその事死を選ぶのか。先駆を鑑みたとしても、自身の発するそれとは合致しない。それ以前に、百年ほどが経過しようとするのだから、それが自然とは言い切れないだろう。だから、相応な、伝えたい言葉を見出せた時、自身が信じる想いの丈を———精一杯に表してみようと———そう思う。

 そんな風に思考がまた漂流したところで、ちょうど右足が水たまりにはまってしまった。湿りくる感覚がその足裏を伝うその前に、脊髄から引き上げる命令が下される。自身の体幹など気にもとめずに直様回避したその右足によって、体の重心が丹田を通っていた正中線から幾分か外れてしまった。

 重心のバランスを崩した重い体を、なんとか自らの筋力によって平静に保とうと、地面に残った左足で地に引き寄せようとアスファルトを掴むように踏ん張って、浮き足立つ右足を元の地に速やかに戻そうと躍起する。さながら誰か違う人間に足を重いっきり引っ張られるかのような、そんな姿であった。

 すると、右手に持っていた鞄が、自身の体勢を引き戻そうとしたその拍子で、うっかりと地面に落としてしまった。濡れた鞄を拾い上げ、軽くついた汚れを払い落とす。その間、湿っていた靴がさらに水気を帯びて重たくなる。右足の不快感を携えて、なんとか図書館へ勇み足で向かっていった。その間はひどく機嫌が悪かった。
 図書館について傘の雨粒をふるい落とす。ついでに身体中についた雨などを払ってから中へと入った。

 いつもの席に座ると、本を取りに行く前に靴下を脱いで乾かそうと椅子の下に置いておく。湿った靴を裸足のまま履いて、簡単に本をとってきて、椅子の下の靴下と同じく、靴も少しでも乾かそうと置いておいた。この滑稽な姿をどう遥香に言い訳しようか。まあ、かっこ悪くても、ありのまま伝えるほかあるまい。

 一時間か、それほど経ったであろうか。未だに人の気配はなかった。いつもならば、遅くとも数十分ほどでくるはずだったのだが、この日はいくら待っても遥香の姿はなかった。自分はいつものように二十時過ぎまで本を読み勉強してから、生乾きの靴を履いて帰宅した。

 家に帰ると、鞄に入れていた携帯の電源が入らないことに気がついた。普段さほど携帯など使わないけれど、いざ使えないとなるとそれはそれで困る気がしていた。別段誰かから連絡があるなんてことはほとんどありえないが、やはり自分も現代人なのだと改めて実感する。

 明日はちょうど休みなので、街の携帯ショップまで足を延ばそう。別に困るデータもないし、バックアップもとってあるから、万が一使えないということであれば、数年前の古いモデルだったので買い替えも悪くないと思った。

 次の日は、先日までの生ぬるい雨を降らせた空色は、打って変わって晴れ空だった。どうやら梅雨が明けたらしい。その置き土産を食らってしまったので、鞄に携帯を入れて街へと向かった。

 携帯というのは面倒だ。そこまで使うものではないのに、だがなければ無いで焦燥に駆られてしまうという不可思議さを持ち合わせている。そう言った面倒もそうなのに、買うのもまた面相だ。高いし時間もかかる。正午ほどに手続きをしたが、結局夕方前ほどまでかかってしまった。

 帰宅してからは、すでに億劫ではあったものの携帯電源を入れてデータを移した。うとうととしながら、来週からの学校の宿題をしていたはずなのに、意識を失いつつある自分がいる。この分では明日もまた学校の準備をしなくてはならない。
 と、思っていたはずなのに、机に立てた左肘がカクンと落ちた。何か夢を見そうだったが、目の前にあるパソコンの画面には同期中と表示されたままだ。仕方なく、その日はそのままにして眠ることにした。

 朝起きて、携帯を確認して、これほど驚いたことは人生で一時もなかったと思う。画面を確認して、来ていたメールにすぐさま返信をして、来ていた寝巻きを放り投げ、身支度を整えて家を出た。何が起きたのか、詳しくはわからなかった。
 いや詳細を聞かされても、頭が働かず真っ白になっていたので、とても理解できなかった。ただ呆然と、人間らしくないように淡々と話を聞いたのだった。この日は打って変わって一睡もしなかった。

 次の日の月曜日、普段当然あるHRの代わりに、朝一番で緊急の全校集会が突如行われた。皆がざわざわと落ち着きのない様子で、不安の形相の者、ケラケラと嗤っている者、気だるそうにしている者、様々だった。教職員もほとんど変わらない。ただ、生徒と異なるのが、顔つきが険しく、また夕闇よりも数段暗く、目元を赤くはらした教師がいるということだった。

 全校集会は体育館で行われる。汗やカビやらが混じった汚い芳香に包まれた中、生徒指導の先生が壇上に登り、マイクを使って話し出した。普段ならしゃべるのを止めることなくやかましい生徒は、そのガヤガヤとうるさく響いた空間を、息を飲むような静寂に包むまでには一分もかからなかった。それは、
「昨日、この学校の生徒である東山さんが亡くなられました」

 きっかけはその言葉だった。
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