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序章:折り返し、急降下
逸り、終わり
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長針と短針が頂点で重なり、夜の街が目覚め活気づく頃。私はがらんとした電車に揺られていた。乗客はまばら、いずれもこっくりこっくりと舟を漕ぎ、あるいは息を引き取ったかのように静かに項垂れている。
こんな時間まで働く者で都会は溢れている。乗客のみならず、この電車だって同じだろう。普通、人は床に就く時間だ。そんな中でも今日という一日を戦い抜いた社会人を運ぶ電車も相当な社畜であると、妙な親近感を抱いた。
「もうすぐ三十代も折り返しかぁ……」
掠れた声で呟く。
なりたいものもなく、掴みたい夢もなく。ただ退屈な田舎で生涯を終えたくない。その一心で単身、都会へ飛び出した。頼れる人もいないのに、だ。
そんな世間知らずの高校生を雇う会社がまともなはずもなく、気が付けば膨大な仕事と責任を押し付けられていまに至る。辞めるに辞められず、余計なプライドが田舎に帰ることも許さず。ただ漫然と、仕事に人生を喰われる生活を続けていた。
もし、人生をやり直せるならどこからやり直そうか。
そんなことを当たり前のように考える日々にも、かろうじて救いはある。携帯電話のスリープモードを解除する。
「……ッフ」
自然と口角が上がる。慌てて周囲を見回すが、私のことを気に留める者など都会にはいない。
画面には、先日SNSに投稿された一枚の写真。一人の男の子がお弁当を頬張りながらカメラ目線でピースしている。お米で膨らんだ頬と、ギリギリ間に合ったことが伝わってしまう及第点のスマイル。その全てが愛おしい。
彼こそ私の生きる意味。新進気鋭の男性アイドルグループ、セブンス・ビートのセンター加賀谷大地くんだ。
天真爛漫な笑顔、伸び伸びとして安定した歌唱力、スタイルは人並みながらも胸を打つパフォーマンス、そして惜しみのないファンサービス。
真に偶像と呼ぶに相応しい十六歳の少年に日々を生き抜く力を貰っていた。
勿論、彼だけではない。セブンス・ビートは七人のグループであり、個性豊かなメンバーが揃っている。各メンバーの人気に大きな偏りはなく、幅広い年代にファンがいる。老若男女、万人に愛される奇跡のような存在だった。
今日は金曜日。帰宅さえしてしまえば幾年ぶりかの二連休。そして日曜日には一年を乗り切る力を貰える一大イベントが待っている。
携帯を操作し、メールフォルダを開く。保護したメールを見て、再び口の端が吊り上がった。
セブンス・ビートのファーストライブ、チケット当選のお報せ。
このメールが今日までを生きる力、明日もらうのはこれからを生きる力。チケットの抽選が始まったときから倹約に倹約を重ね、会場の物販で躊躇することはない蓄えも用意できた。推しが恥ずかしい想いをしないよう、スキンケアも妥協しなかった。
あとは推しをこの目で、画面を介さず肉眼で拝むだけ。
いいやそれだけではない。限界まで気持ちを昂らせ、盛り上がり、いつ死んでもいいと思えるくらい幸せな時間を満喫する。
明日を生きる力を得るため、あるいはセブンス・ビートがこれからもずっと最前線を駆け抜けるために。私は全力で彼らのファーストライブを楽しむ。これは最早義務なのだ。
いや、義務ではない。彼らを推すことは仕事なんかと同列に並べられない。義務ではなく使命と言う方が適切か。
つう、と頬を熱いものが伝った。
無意識だ。なにがあったわけでもない。ただ、彼らのことを想うだけで涙が込み上げてくる。デビューは決して鮮烈なものではなかっただけに、ここまで大きくなったことが素直に嬉しいのだ。まるで母親のような気持ちである。
そうこうしているうちに電車は緩やかに速度を落とす。最寄駅に停車したようだ。鉛のように疲れ果てた体に鞭を打ち、立ち上がる。足取りは重く、緩慢な動作で改札に交通系マネーを翳した。
世の中の仕組みはこうして効率化されるか古い因習に縛られて時代錯誤の非効率な仕組みを貫くかを辿っていくものだ。弊社は間違いなく後者である。
駅を出てすぐの横断歩道。片側二車線、いまの私では青から赤に切り替わる寸前まで渡り切れないだろう。
――そう思っていたのに。
一刻も早くくたびれたスーツを脱いでしまいたい。仕事のことを忘れ、ライブに備えてゆっくり休みたい。その気持ちが加速していく。
右を見て、左を見て、車の影がないことを確認する。信号は赤。私は駆け出した。どうせ誰も見ちゃいない、車だって影も形もないとたかを括った。
「ったぁ!?」
その結果の転倒だ。立ち上がろうにも左足の様子がおかしい。見れば、新卒の頃からの付き合いであるパンプスが限界を迎えていた。ヒールが根本から破れ、だらしなく揺れている。
よりにもよって横断歩道のど真ん中でこんなことになるなんて。いや、ルールを守っていないのだから当然の天罰である。
「……うん? んん!?」
悪いことは続くもの。車高の低い洒落た車が見える。だが妙だ。千鳥足である。おまけに交通規制に中指を立てるかのような速度。正気の運転ではないことは火を見るより明らか。
逃げ出そうにも動けない。這って逃げられる距離でもない。焦りは思考を加速する一方で、車もルール上の限界を軽々と超えようとしている。
「まずっ――」
瞬間。
凄まじい衝撃と浮遊感。熱はあっという間に零れていき、体の自由が利かなくなる。薄らぐ視界、遠退く意識。気が触れた高笑いが鼓膜に貼りつく。
――最期に聞いたのがこれ……? どうせならセブンス・ビートのデビュー曲聴きながら死にたかった……。
こんなに悔いの残る人生もそうないだろう。なんにせよ、お楽しみを鼻先で奪われた恨みは晴らせるものでもない。私を轢いた彼らを末代にするべく祟ってやる。固い決意を胸に刻み、私はこと切れた。
こんな時間まで働く者で都会は溢れている。乗客のみならず、この電車だって同じだろう。普通、人は床に就く時間だ。そんな中でも今日という一日を戦い抜いた社会人を運ぶ電車も相当な社畜であると、妙な親近感を抱いた。
「もうすぐ三十代も折り返しかぁ……」
掠れた声で呟く。
なりたいものもなく、掴みたい夢もなく。ただ退屈な田舎で生涯を終えたくない。その一心で単身、都会へ飛び出した。頼れる人もいないのに、だ。
そんな世間知らずの高校生を雇う会社がまともなはずもなく、気が付けば膨大な仕事と責任を押し付けられていまに至る。辞めるに辞められず、余計なプライドが田舎に帰ることも許さず。ただ漫然と、仕事に人生を喰われる生活を続けていた。
もし、人生をやり直せるならどこからやり直そうか。
そんなことを当たり前のように考える日々にも、かろうじて救いはある。携帯電話のスリープモードを解除する。
「……ッフ」
自然と口角が上がる。慌てて周囲を見回すが、私のことを気に留める者など都会にはいない。
画面には、先日SNSに投稿された一枚の写真。一人の男の子がお弁当を頬張りながらカメラ目線でピースしている。お米で膨らんだ頬と、ギリギリ間に合ったことが伝わってしまう及第点のスマイル。その全てが愛おしい。
彼こそ私の生きる意味。新進気鋭の男性アイドルグループ、セブンス・ビートのセンター加賀谷大地くんだ。
天真爛漫な笑顔、伸び伸びとして安定した歌唱力、スタイルは人並みながらも胸を打つパフォーマンス、そして惜しみのないファンサービス。
真に偶像と呼ぶに相応しい十六歳の少年に日々を生き抜く力を貰っていた。
勿論、彼だけではない。セブンス・ビートは七人のグループであり、個性豊かなメンバーが揃っている。各メンバーの人気に大きな偏りはなく、幅広い年代にファンがいる。老若男女、万人に愛される奇跡のような存在だった。
今日は金曜日。帰宅さえしてしまえば幾年ぶりかの二連休。そして日曜日には一年を乗り切る力を貰える一大イベントが待っている。
携帯を操作し、メールフォルダを開く。保護したメールを見て、再び口の端が吊り上がった。
セブンス・ビートのファーストライブ、チケット当選のお報せ。
このメールが今日までを生きる力、明日もらうのはこれからを生きる力。チケットの抽選が始まったときから倹約に倹約を重ね、会場の物販で躊躇することはない蓄えも用意できた。推しが恥ずかしい想いをしないよう、スキンケアも妥協しなかった。
あとは推しをこの目で、画面を介さず肉眼で拝むだけ。
いいやそれだけではない。限界まで気持ちを昂らせ、盛り上がり、いつ死んでもいいと思えるくらい幸せな時間を満喫する。
明日を生きる力を得るため、あるいはセブンス・ビートがこれからもずっと最前線を駆け抜けるために。私は全力で彼らのファーストライブを楽しむ。これは最早義務なのだ。
いや、義務ではない。彼らを推すことは仕事なんかと同列に並べられない。義務ではなく使命と言う方が適切か。
つう、と頬を熱いものが伝った。
無意識だ。なにがあったわけでもない。ただ、彼らのことを想うだけで涙が込み上げてくる。デビューは決して鮮烈なものではなかっただけに、ここまで大きくなったことが素直に嬉しいのだ。まるで母親のような気持ちである。
そうこうしているうちに電車は緩やかに速度を落とす。最寄駅に停車したようだ。鉛のように疲れ果てた体に鞭を打ち、立ち上がる。足取りは重く、緩慢な動作で改札に交通系マネーを翳した。
世の中の仕組みはこうして効率化されるか古い因習に縛られて時代錯誤の非効率な仕組みを貫くかを辿っていくものだ。弊社は間違いなく後者である。
駅を出てすぐの横断歩道。片側二車線、いまの私では青から赤に切り替わる寸前まで渡り切れないだろう。
――そう思っていたのに。
一刻も早くくたびれたスーツを脱いでしまいたい。仕事のことを忘れ、ライブに備えてゆっくり休みたい。その気持ちが加速していく。
右を見て、左を見て、車の影がないことを確認する。信号は赤。私は駆け出した。どうせ誰も見ちゃいない、車だって影も形もないとたかを括った。
「ったぁ!?」
その結果の転倒だ。立ち上がろうにも左足の様子がおかしい。見れば、新卒の頃からの付き合いであるパンプスが限界を迎えていた。ヒールが根本から破れ、だらしなく揺れている。
よりにもよって横断歩道のど真ん中でこんなことになるなんて。いや、ルールを守っていないのだから当然の天罰である。
「……うん? んん!?」
悪いことは続くもの。車高の低い洒落た車が見える。だが妙だ。千鳥足である。おまけに交通規制に中指を立てるかのような速度。正気の運転ではないことは火を見るより明らか。
逃げ出そうにも動けない。這って逃げられる距離でもない。焦りは思考を加速する一方で、車もルール上の限界を軽々と超えようとしている。
「まずっ――」
瞬間。
凄まじい衝撃と浮遊感。熱はあっという間に零れていき、体の自由が利かなくなる。薄らぐ視界、遠退く意識。気が触れた高笑いが鼓膜に貼りつく。
――最期に聞いたのがこれ……? どうせならセブンス・ビートのデビュー曲聴きながら死にたかった……。
こんなに悔いの残る人生もそうないだろう。なんにせよ、お楽しみを鼻先で奪われた恨みは晴らせるものでもない。私を轢いた彼らを末代にするべく祟ってやる。固い決意を胸に刻み、私はこと切れた。
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