老王の心臓、将軍の心

丸田ザール

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「小さいね、」
自身の手の3分の1にも満たない柔らかい掌に、オリバーは唇を落とす。
特有の優しくいい匂いがして、無条件に幸福感に襲われた

同時に、堪えきれないほどの寂しさも

「オリバー」
背後から名を呼ばれるが、オリバーは振り返らなかった。憎きバンドレンが呼んだからという理由では無い
「王妃は祖国に還す」

王妃が、死んだ
赤子を産み、その胸に抱いた後静かに

オリバーは声をかけることも出来なかった。
母と子の、最初で最期の時間を邪魔する事など出来ない。
バンドレンの体の後ろでは、今まさに王妃の遺体が布に巻かれている
例え何がなにか分かっていなくとも、子に母親のそんな姿は見せたくなかった
「…そうですか」
態々王妃の遺体を王妃の国に送るのは、弔いの心では無い。
見せしめだ   王妃の祖国は身内が殺されても怒りに任せて戦争の誘いには乗らないだろう。誰が、戦神率いる国を滅ぼした国と戦いたいのか

まだ産まれて間もなく、所々肌がふやけている赤子。祖国にもこんな小さな子が沢山居ただろう

オリバーは自分が抱くべき感情が何なのか分からなかった。

愛しい王が遺した子
その子が死ぬこと無く生きる事
王妃が胸に我が子を抱いた時、涙を流しながら幸せそうに微笑んだ事
「母は、いつまでも貴方を愛していますよ」と告げた事

その時感じた感情だけは、覚えている

自分はまた
王の傍へいけなくなってしまったと


























「おりばー!」
「走ってはいけませんよ、若君」
この城の重苦しいという認識が変わる事は無いが この3年の間少し息がしやすくなった気がするのは無邪気なこの子供のおかげだろう。光が差し込み見た目だけが穏やかな城の廊下で、愛らしい声が響く
「おなまえをよんで!」
地団駄を踏んで怒る小さな王様にオリバーは困ったように笑った。
「ルファン様」
「うん!」


愛する王と、王妃の子。
本来であれば、ルタ国の有力な継承者となる存在
国が既に滅んだとはいえ、血族を残しておくなど通常では無いことだ。
世襲制では無かった祖国だが、戦神の血を引く人間がいると知れば 各地に分散した民達にまた国を取り戻す希望を与えることになるだろう。
だが、この事を知るものは極わずか。
表面ではルファンはバントレンの子として、生きている。

と、オリバーは信じて疑わない。
実際にルファンはバントレンの実子であり、愛する王の血など1ミリも継いでいないのだ。
だが、浅はかにもオリバーがその事を疑う事は無かった
勿論、それには理由がある

バントレンがオリバーを欲するのをまるで許したかのように、天が、産まれてきたルファンの瞳に戦神と同じ色与えたのだ
決して珍しい色では無いが、そもそも誇り高き王妃が他の男の子を孕むなどとオリバーには考えも出来ぬことだった。
瞳の色は、正に決め手といえる
「おりばー!おりばー!」
「はい」
兄のように慕ってくれるルファンの愛らしさに、オリバーは表情を綻ばせた。
幸福とも取れる感情が滲み出すが、それはほんの一瞬の事。その後に来るのはおびただしい量の切なさと苛立ち、そして寂しさ

3年の間にオリバーは多くを学んだ
正に、恐れていた奴隷制度についても。
難しく解せない場所は更に知識を蓄えてから理解するまで何度も何度も読んだ。
そうしてオリバーが学んで得たものは王の恐ろしく無慈悲な事実だけでは無い。
学べば学ぶほど、愛した王の偉大さを痛感したのだ
過去のオリバーは王の強さについて、何も分かっていなかった
子供が読み聞かせてもらう絵本の中の英雄のような知識で、王を語っていた己が心底恥ずかしいとすら思った
「おりばー!今日は私と」
幼い故に力の加減など無い。
強く服を引っ張られ、屈んでやった瞬間だった。
「オリバー」
背後から、機動性のある細身の鎧を纏ったバントレンが歩いてきた。
どこよりも技術に発展した国らしく、歩いても金属が擦れる嫌な音は鳴らない
「…ちちうえ」
バントレンの姿にあからさまに縮こまったルファンの手をオリバーは優しく撫でた。
「はい、」
オリバーの声音にバントレンは片眉を器用に上げた。不快だという合図だ
ルファンが産まれてからというもの、オリバーはやや強く出るようになった。
本来の気質として、己に反抗的な態度を取る生き物をバントレンは好かない。
しかし、
「バントレン様、以前、ルファン様も演習に連れていかれると約束をされていました」
「今日ではない」
オリバーはバントレンの瞳を見て話し、会話の中で名を呼ぶようになった。

守るべき存在が出来たこと、学んだ物が身に付いた事がオリバーに自信を与えたのだろう。ルファンの存在により、オリバーから死の影は薄れ、柔らかな表情を見る事も出来るようになった。欠点だけではない。
むしろ充分な結果と言えよう
だがその全てはルファンの為にある
分かっていたことであったが、どこまでも戦神をオリバーから追い出す事は出来ない。

「ルファンよ、お前は赤子か」
「い、いいえ」
「ならば、すべき事があるはず」
バントレンが子を持つのは初めての事だ
血を分け与えた生き物を見た時、己の中の何かが変化する可能性を視野に入れていたが、全く持って何も変わらない
我が子だからといって無条件の愛があるわけでも、庇護欲が出るわけでも無い
変わらず、それが捧げられるのは1人だけだった。
「…まだ3才です、…毎日沢山頑張っているんですよね?ルファン様」
雲の上の存在と言える父に強く威圧を与えられ、幼いルファンは俯くしか無い。
叱られて泣くことすら無い子に、オリバーは覗き込むように顔を近付けて優しく声をかける。 

3年という月日は、オリバーも成長させた。
背は少し伸び、声もわずかに低くなった。
容姿は特筆して美しい訳では無いが、歳を重ねほの暗い面を学んでも、その澄んだ美しさが褪せる事はなく、むしろ増している
本人が不本意であれなんであれ、抱けば抱くほどバントレンに答える身体に作り変わっていく様は心底満たされた。本人は気付いて居ないだろうが、長く抱かれて愛され続けてきた身体はただの男の身体では無い。
細身だがしなやかに曲線を描く身体は服の上からも確認出来る程だ
年々増していく色香とは反対に清らかな雰囲気も持っているのだから、おかしくなる人間が現れないとは限らない

今も子に語りかける姿は、バンドレンにとって聖母のように美しいが、対象が許し難いのだ。
「来い」
「ぁっ、待って下さい…!ルファン様っ、真っ直ぐお部屋に帰るんですよ!」
頷いたのを見届けて、オリバーは名残惜しそうにしながらもバントレンに身を任せるように力を抜いた。
この重みは安心でもなんでもない。諦めだ
生きる目的を無理やり与えられたオリバーにとって、抵抗などただ疲れるだけだった
「痩せたか」
「…いいえ」
「もっと食え」
バントレンは己を分析する。
どうやらオリバーとただの会話が出来ることが嬉しいらしい。何とも健気な己が面白い
他愛の無い会話や、無意味な意思の疎通は高等な生き物に与えられた物だ。
かと言って進んでする必要性も無い人生を歩んでいたが、成程。とバントレンは思う

己の出した音に、これが応えて音を出す

喜びが無いなどと言えようか




















オリバーは今でも、バントレンに抱かれる事を苦痛に思っている
だが身体は嫌でも慣れる。次にどこに触れられるか、口付けをしようとしてくる前も瞳で予測がつくようになった
身体なんてただの器だと、割り切ろうともしたが、そうなるとオリバーの価値は何なのだろう。愛しい王はただの器を抱いたのだろうか
「ひっんっ…!」
「集中しろ」
ずくり、と奥を穿つ熱い熱い昂りに腰が震える。「やめっ、深いぃ…!ぁっ…!」
背中を逸らして喘げば、晒した喉にすかさずくらいつかれる。
救いを求めるようにシーツを掴んだ手を、大きな手で覆われ、指を交差される
まるで恋人同士の情事のようで、オリバーは振り払おうと肩に力を入れた
その時

「おりばー、起きてる…?」

「…っ」これにはバントレンも穿つ腰を止めた。扉の向こうにルファンがいるのだ
目の前のバントレンの様子を伺うのがおそろしくなった。理由は2つ
邪魔をされた事に対して恐らく怒っているだろうと言う事
そして、今日バントレンは珍しくオリバーの部屋で行為を求めてきた。
ルファンがオリバーの部屋に訪れたことが1度では無いことを、恐らく勘づかれた
「…ル、んんっ」
口を塞がれる
返事さえしなければルファンは自室に帰るだろうが、メイドを付けて来ていないことをオリバーは知っているのだ。
夜遅くに長い長い廊下を1人で部屋に戻らせるのは胸が傷んで、いつも手を引いて送ってていた。出来るならば共に寝てやりたいのに
「おりばー…?」
口を塞がれたまま、じっとしているとルファンは諦めたのか名前を呼ばなくなった。
だが柔らかな下履を履いているせいか、靴音がしないので去ったかどうかがオリバーには分からない。
「ぁ、」バントレンが舌打ちをひとつ落とすと、オリバーの上から退いた。ずるりと昂りを抜かれて漏れそうになる声を自ら手で抑える。問答無用にシーツを被せられそうになり、オリバーはバントレンの腕を掴んだ
「…叱らないで上げて下さい」
オリバーから触れられ、素早く振り返る程の反応をした己が滑稽に思えたバントレンは、無言のまま扉に向かった




「…っ!おり…ばー…」
ルファンの顔は真っ青だ
立ち去るには名残惜しく、その場で少し佇み粘っていた時。開いた扉に歓喜したのもつかの間
恐れている己の父が、そこには立っていた。
「何故ここに居るかは問わないでいてやる。部屋に戻れ」
「…ぁ、」
この父と対する時は、いつも心の準備が必要だった。強い存在感に感じるのは、本能的な恐怖と憧れ。抱き上げてもらった事も無い。
父も、母も実質居ないようなルファンにとってオリバーだけが、心の拠り所だった
今日も夜がどうしても心細くベットから抜け出してきたのだ。オリバーは優しく出迎えてくれ、暖かいミルクを入れてくれる。
そして少し話し、ルファンが眠気まなこを擦ると一緒に自室まで手を繋いでくれるのだ

ルファンが立ち去るまで、見張っているつもりなのだろう。ルファンとてこの状況から逃れたいが、身体が動かない。
いっそ駄々を捏ねて、オリバーを呼んでしまいたい。だがそれをすると、父の怒りをかうことを幼いながらに理解している。
「…っ、ふ…え…」
それでも、まだ3才なのだ





「ルファン様…!」
バントレンの扉にかけた腕の隙間から、いつの間にか服を身に付けたオリバーが飛び出てきた。「貴様」怒りを滲ませた冷たいバントレンの声音に、オリバーは一瞬怯むが、目の前で涙が目尻を突破しそうなルファンを見て思考が切り替わる。弱々しく震える声でもしかしたらと思ったが、本当に泣いている
「っ、おりばー…おりばー…」
「はい、ここにいますよ。怖い夢でも見ましたか?」
ふるふると首を振って抱き着いてくるルファンの背中を撫でてやると、小さな手がまたも加減無く服を掴んでくる。
何を問いかけても首を振るだけのルファンにオリバーは少し困る。
「オリバー、立て」
頭上から降ってくる音の冷酷さは、今にも人を殺しそうな程だ
「…ルファン様はまだ3才です、こんな日もあります。…貴方は、父親でしょう」

少なくとも、ルファンにとってはそうじゃないかと オリバーは反抗的に見つめ返した。
バントレンは子が産まれ、オリバーが手中に入ったからと言って決して柔らかくなどなっていない。何も変わっていないのだ
「"ソレ"を使って私に牙を剥くのをやめろ。生かしているだけ感謝すべきものを
自惚れるなよ、小僧」

どちらに向けて言ったのか、どちらにせよ、直接ルファンの耳に入れるような言葉では無い。オリバーは反射的に聞こえぬようにルファンの頭を抱き込んだ
行動を起こしてから後悔してももう遅い
「ぐっ、」
「おりばー…!」
この城に、バントレンに囲われてから数年間
1度も暴力的危害を加えられた事がなかったが「けほ、」喉を大きな手で掴まれ、締め上げられる。背中は厚い胸板に押し付けられ身動きひとつ取れなかった

「これはお前の母では無い。私のものだ」
涙を零しながら見上げるルファンなど目もくれず、初めてオリバーの肢体を腕の中に抱いた、戦神の前で奪ってやった時をバントレンは今に重ねた。
昔も今も、苦しむオリバーは美しかった
「ふ、んんっ、…!」
噛み付くように上から唇を奪えば、抗議の声が上がる。子供だろうが何だろうが、そんなものバントレンには関係の無い事
しかし、目の前でオリバーを犯してもルファンは幼すぎて理解出来ないだろう。
オリバーを見る目を変えるきっかけを与えてやるつもりもない
「去れ」
鋭く睨みつければ、ルファンはしゃくりを上げながらその場から逃げた。



泣いているのは、恐ろしい事だけが理由では無い。自分にとって大切な人間であるオリバーが苦しんでいたのに、助ける勇気が出なかった自分が情けなかったのだ。
ルファンはその夜、悔しくて悔しくて眠る事が出来なかった







































「寒い」
城の中に居るというのに白い息が出る
わざとはぁ、と出して息が染まるのを何度か繰り返ししていると「オリバー?」
ルファンが不思議そうにこちらを見ていた。
子供っぽい行動を凝視されて、恥ずかしさを隠すように笑って首を振った
「今日のお勉強は早く終わりましたね」
「はい。教師が次の学年に進んでも良いと」
「ルファン様はとても優秀です」

ルファンは、11歳になった
背も伸び、言葉使いもとてもしっかりしている。
教養がきちんと身についた振る舞いは王族の子になんら引けをとらない
「ルファン様、お口を開けてください」
「も、もう!」
だがオリバーにとってはまだまだ幼子。
つい昨日まで赤子だった感覚が抜けない
乳歯から永久歯へと生え変わる時期の最中、先日最後の前歯の乳歯が抜けたらしい。
ルファンはそれが不格好だと恥ずかしいらしく余り笑わなくなってしまった。
悪戯心が芽生えたオリバーはわざと覗き込んで笑った。「オリバー!」年頃の男の子をあまり揶揄うのもよくない
オリバーは大人しく「すみません、ですがとっても可愛らしいですよ」
まだ柔らかさの残る頬をつん、とつつくとルファンは顔を真っ赤にして俯いてしまった。
やはりからかいすぎてしまったと、オリバーは見てないふりをして立ち上がった。

「…っ、」
「オリバーっ!」

まただ、とオリバーは眉間に皺を寄せた
何もルファンの目の前で起きずとも良いでは無いかと足に力を入れる
ここ最近、たまに強い目眩に襲われるのだ
それは今のように立ち上がった時であったり、歩いている時。
本当に稀なことなので気にもしていなかったが、つい最近 バントレンの傍でそれは起きた。

弱みを見せたくは無くて、バントレンに悟られぬようにせねばと思っても、自制が出来ぬほど強く世界が揺れて、テーブルの上のクロスとカップを引きずり倒しながらオリバーは倒れた。目の前が真っ暗になった後、じわりじわりと視界が開けていく
その時には既に逞しい腕の中におり、バントレンが声を荒らげて医師を呼ぶ声が聞こえた。
めずらしい  などと呑気に思いながら、感覚を取り戻さない身体がやけに重くてその日はそのまま眠った。

その時、愛しい王の夢を見た。
過去を縫うわけでも、願望を叶えるわけでも、絶望を掘り返す訳でもない
ただただ王がそこに居るだけの夢 

何故か、とても恐ろしかった。


「オリバー!医師を…っ」
「平気ですっ、どうか」
ルファンの腕を掴み、止める。
大袈裟な事にはしたくない
バントレンに知られれば、また部屋の中に閉じ込められる事になる。
ルファンと過ごす時間は年々減っていっていた。こうして2人きりで話す事も秘密なのだ

医師から治療のひとつとして陽の光に当たるようにと言われ、昔からオリバーの世話を焼くメイドが強制的に日当たりの良い場所にあたたかい分厚い布を敷き詰め決まった時間になるとオリバーをここに座らせるのだ。
そのバルコニーに、本格的に剣技を習い始めたルファンが稽古帰りに忍び込む。
これがバレたら、オリバーだけでなくルファンにも罰が下るだろう
そう思いながらも、ルファンに来るのをやめろとは言えなかった。

オリバーは気付いたのだ。
もう、王の顔を思い出せない
声を思い出せない
温もりを思い出せない
まるで王の事を思い出す事事態を忘れていたような感覚に 吐き気がした
そんなはずが無いのに、いつだって王の事を考え傍に行きたいと願い続けているのに
記憶は無常にも削れていく

だが、ルファンの瞳が、
王の子という存在がオリバーに王を身近に感じさせてくれる。
身代わりではない。と綺麗事は言えなかった

今オリバーが生きている意味はルファンだ
いつかルファンが1人でも生きていけるようになった時には   その時には

「そろそろメイドが迎えにきます。行ってください」
「ですが…!」
オリバーは、ルファンの乱れた髪を耳にかけてやり「大丈夫」と微笑んだ。





















「海…?」
「そうだ」
何故突然、とオリバーはきょとんとする
その身を奪って10年余
ただの情人とするならばかなりの長さだろう
それでも、バンドレンにとってオリバーの無防備な表情は貴重だ。
「海の民が勢力を広げている」
海の民、その言葉にオリバーの表情が強ばったのが分かる。バンドレンはこの10年の間にオリバーに政治の話をするようになった
勿論、助言や見解を求めているわけではなく
ただの会話の一環のように
「…戦争が?」
「国名すら存在しない野蛮人にかける戦争などあるものか。だが、後の火種になる可能性は否定できん。」
それは戦争ということでは無いのかとオリバーは喉の所まででかかったが、この男の発言に食ってかかると何十倍にもなって返ってくるのだ。

「そうですか」

これ以外の言葉を返すのは、いつの間にかやめてしまった。長い時間の中一体何度この国は、いや  バンドレンは戦争を起こしただろう。何度オリバーは戦争の残酷さを訴えただろう。
だがその度にバンドレンはオリバーの人としての甘さと世間知らずを説いてくる
そんな事が繰り返されればオリバーとて人間だ。ただ、単純に不快な気持ちになる
オリバーはバンドレンと長く過ごしたが、好意的な感情を抱くわけは無かった
王が死んでからオリバーの時は止まったままだが、嫌でも知識や精神的な面は育つ。

今のオリバーはまるで、過酷な状況で子を持つ野良猫と同じ。
もしかしたらいっそ死んでしまった方が楽なのに、子猫がそれを阻む。だが子猫が憎いわけではない。むしろ愛しくて愛しくて堪らない、何とか生き延びて欲しい 強く育って欲しい。それがルファンに抱いている感情だ
「ルファンも連れていく」
だから、野良猫の母を冷たい目で見下ろして来た人間が子猫を奪おうとするのならば

「…ふざけるな!ルファンはまだ子供です!」
「ルファンをそこらの子供と同じにするな。アレを私の子とするならば、遅いくらいだ」
オリバーは怒りで手が震えた。
この男の理不尽で不必要な戦争に、何も知らないルファンを巻き込むというのだ
「ルファンは貴方の物じゃない!あの子は…!」その続きを言う事は、ルファンの存在自体を危うくする。
それでも、止まれなかった
「あの子は陛下の子です…!」
ルファンは王が唯一遺した忘れ形見。誰にも、好き勝手にされたくは無かった
「アレを生かしているのがただの善意とでも思っているのか。この10年お前は何を学んだのだ、オリバー」
案の定、バンドレンの怒りを踏んだようだ。
「10年、10年だオリバー。お前はいつまで戦神に固執する、民も散らばりお前の祖国は滅んだ。何故私がお前を傍に置いていると思う」

オリバーは少々面食らった。
そうだ、バンドレンの言う通り10年
大人とはいえぬ年だったオリバーは20半ばを越え、まだ若いと言えたバンドレンは正に男としての力が最も強い39歳だ
その長い、長い時間の間にバンドレンが今のような言葉をオリバーに吐いたのは初めてだった。
「…そんなの、私には関係ありません。望んで生きているわけでも、望んで貴方に抱かれているわけでもない…!ずっと、ずっと僕は…!陛下と、んんっ」
次第に涙ぐんでいくオリバーの声を塞ぐ術は昔と同じだった

バンドレンの恋も、この10年何も進んでいない
「…ルファンは王族の子如く育てられた。アレが求める誇りや名誉の形も、王の子と変わらん。お前がいくら愛情を注いだとて、ルファンもいつか人を殺すのだ」
するり、と抱き慣れたオリバーの身体に手を滑らせればびくりと肢体が震える。
つい最近までこの反応に気分を良くしていた。だが、身体だけなのだ
バンドレンが欲しいのは もっと違うものだというのに、10年それを諦める事ができない























「オリバー、起きなさい。オリバー」
オリバーは歓喜した。これは、この夢は
「…陛下、陛下…!」
夢だと分かってしまっている事が辛いが、それでも嬉しかった。王の温もりを感じるこの瞬間がオリバーを堪らなくさせる。
ここはかつての王宮、王の寝所だ
オリバーが寝ていたのはベットの上ではなく、王が執務をする机の傍のソファだった。
目の前に現れた逞しい身体に感極まって抱きつけば、王は軽く笑ってそのまま抱き上げる
「どうした、」
「…とても恐ろしい、夢を見たんです」
「話してみよ。餌を嗅ぎ付けて獏が寄ってくるかもしれん」
震えて離れないオリバーを宥める為か、まるで幼子にに対するような言葉をかけられて涙腺が言うことをきかなくなる
「…陛下が、いなくなってしまわれる夢です。僕は、陛下の顔や声を…思い出せなくなって」
「オリバー、私を見よ」
「陛下、居なくならないでっ!ずっとお傍にいさせてください…!僕は、オリバーは永遠に陛下のものです…!」

「オリバー」
静かな王の声には、少し困ったような声が混ざっていた。オリバーはその事にゾッとする。
どうしよう、どうしよう 呆れられた、子供のような癇癪を起こして困らせた。どうしよう

「オリバー、お前に話さねばならない事がある」





見上げた王の顔には、何も無かった















「オリバー、起きろ。オリバー」
「…っ、ぁ…あ…」
体を揺さぶられる感覚に水から上がるように意識が鮮明になる。滲む視界には、褐色の肌がいっぱいに広がっていた。
「どうした」
震える身体を摩る大きな手には、優しさが滲んでいた。この優しさを受け入れる事を考えたことは1度も無い 。礼を言うことも、求めようとした事だって1度も無い
「…っ、ぅ…」
それでも、手を伸ばしてしまうくらいにはあの夢は恐ろしかった。
まさに目の前の男が全ての現況だと言うのに
「オリ、バー」
この男を悪魔だと言った。
違う。陛下を殺した男に縋る自分こそ、その名に相応しいのだ
「…も、や…です…苦しい、やだ…」
陛下の事を思い出す度、思い出せない自分を殺したい程憎くなるが、死ぬ事は出来ない。
いつか来る死を望んでいるくせに、死にたくないと思っている自分を許せない。
自分を縛るルファンの存在に息が詰まりそうになっている自分が許せない
死にたいと思う理由さえ今では、王の元に行きたいからではなくこれ以上忘れる後ろめたさから逃れたい理由なのが許せない

誰にも助けてを言えないこの状況と、ただ自分を責める以外選択肢が無いこの状況に長く居すぎた。
オリバーは、もう何も保っていられなかった
「…あぁ、誰か…」

もう、陛下を忘れていく事で苦しみたくはない。だって、オリバーを置いていったのは陛下なのに
連れて行ってくれなかった。
逃げる時にオリバーを殺してくれなかった
きっとずっと、オリバーはその事を怒っている
苦しい、苦しい。こんなにも苦しいのに
心から陛下がいなくなる事は無い
苦しい、もう愛したくない。撫でてくれない、抱いてくれない、名前を呼んでくれない 
 
どんなに愛しても、もう会えない

「…あなたを、好きになれたらいいのに」
それは最早。オリバーの中の死だった
「…オリバー」
低く掠れた声が、何処か感極まったように聞こえるのを、オリバーは無感情に受け止めた。

そしてバンドレンにとってはその言葉はこう捉えられた。
『オリバーが、戦神を忘れたがっている』と

「ぁ…っ」
身体を強くまさぐられ、眠る前にもバンドレンを受け止めていた為か簡単に侵入を許す。
「ぁっ、あぁ」背中が浮くほど逸らして快感を逃がそうとすれば、赤く染まった乳首にかぶりつかれる。「ひっ、ぃん…っ」
ずちゅずちゅ、と間もなくして卑猥な音が出始めオリバーは自分が娼婦にでもなった気分を味わった。
自ら足を開いて男根を迎え入れ、水音に煽られ喘ぐ。

全てが、馬鹿らしくなった
「ぁ、ん」
目の前の男に手を伸ばせば、深い口付けが降ってくる。
「…愛している」

その言葉はずっと、陛下から欲しかった言葉だった















オリバーは変わった。
バンドレンが手を伸ばせばその手を取り、胸に抱けば頭を預けてくる
口付ければ応え、身体を揺さぶれば縋ってくる。
それらは焦がれてこがれてその身を恋の炎に燃やしていたバンドレンを愚かなまでに喜ばせた。

だが、恋を知った愚かな男といえどただの男ではない。バンドレンは、オリバーが受け入れた訳では無いことを知っている
むしろ、さらに遠くなってしまった。
ルファンに見せていた表情ですら、以前とは違う。
オリバーがルファンに固執しなくなるのであれば、それは喜ばしいことのはずだ
だが、嫌な予感がバンドレンをついてまわっている。
バンドレンが愛したオリバーの澄んだ美しさが、日に日に翳っていくのだ

「今夜は帰らん。」
「はい」
まるで田舎の爵位持ちの夫の若妻のように、バンドレンの衣服を整えるオリバーの手際は良いとは言えない。それでもやはり妻のように夫に無様な格好はさせまいと襟を整えカフスを止める姿はバンドレンを堪らなくさせる
「ぁ、…んぅ」
腰を抱いて唇に噛み付けば、抗議のように声が上がった。「は、針が」
危ない という言葉はバンドレンが首に口付けを落としたことによって空気のみ吐き出される
「明日の朝、出迎えよ」
「…はい」
最後のカフスを止め終え、形を保つためのピンを抜いてオリバーは頷いた。
そこにはなんの感情があるのだろう
バンドレンにとって、オリバーの一喜一憂は手に取るほど簡単に読み取れるものだった。
だが今は、どうだろうか。
まるで生きているだけ、死んでいないだけのオリバーの様子はバンドレンに焦燥感を味あわせる

きっと今オリバーの中には、誰もいない
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みんなの感想(2件)

ちり。
2024.04.22 ちり。

だいぶ想像力を働かせないといけないと思っていたら補完されて助かりました

このお話切なく苦しいですが、とても好きです
続きも楽しみにしています

解除
nico
2023.11.08 nico

新作ありがとうございます(ノ*>∀<)ノ♡
老王(まだ50代だけど?笑)が殺されるシーンからのスタート。
また、毎日の楽しみに読ませていただきます💗

解除
1 / 5

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