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しおりを挟む「神様は可哀想な人間が好きなんだよ」
「右舷様!」 バタバタと足音を立てるにはふさわしくない優雅な廊下を走っていると、八の身体が突如宙に浮く。「ぎゃっ」と思わず下品な声を上げて振り返れば、背がスラリと高く、美しい翡翠色の長い髪を背中に流した男の姿 「八、今日は私と散歩に行く約束だろう」 「左舷様、」 眉を下げて悲しそうな顔をする左舷に、八は慌てて弁解する 「ち、ちがうのですっ 右舷様ってばお弁当をお忘れで…!」 腕の中から逃れようとする八を左舷が見下ろせば、ふむ。確かに巾着を持っている、と首を傾げた。 そもそも右舷と左舷には腹を満たすという概念は無いが、この可愛い八が精魂込めて作った弁当を無駄にする訳にもいかない 「なら私が食べよう」 「左舷様の分はもうあるんですよ」 「2つとも食べよう」 「お腹痛くなっちゃいますよ」 「はは、そんなわけない。私は神だぞ」
そうだ。右舷と左舷は神様だ 森の奥深くに雨乞いの生贄として置き去りにされ、傷を負い、やせ細って今にも息絶えそうだった八は双子の神様に拾われた。 八としては、生贄を捧げる対象など恐怖でしか無かったが それも最初のうちだけ。 まっすぐ歩けるようになるまで手を握って練習する頃には2人が大好きになっていた 「それでも…右舷様、お弁当楽しみにして下さってたのに」 「…」 左舷は心の中で右舷にゲンコツをくらわしていた。右舷は今会合に行っている 神とは、皆が慈悲に溢れ賢いわけでも、上品なわけでもない。 祭り好きで話の通じない連中が多くを占める中に1人仕事をしに行った右舷は、おおかた、八に会うためにわざと弁当を忘れたのだ。 右舷の思惑に乗せられるのは心底腹が立つが、可愛い八が悲しそうな顔をしていれば何とかしたくなるもの 「…わかったよ」 はぁ、とわざとため息をついて八にこれは貸しだと知らせておく
「なんで貴様が来るんだ!」 会合が開かれている屋敷の端で響いた怒声も、既にどんちゃん騒ぎの部屋の中では聞こえないようだ 「ふん、そんなことだろうと思ったよ。こんな場所に八を連れてくるわけないだろう」 左舷は、右舷の胸に弁当を押し付けて言い放つ。「八との時間をお前の為に割いてやったんだ。地に頭を擦り付けて有り難がれ」 「ほんっといい性格をしてるな貴様は!」 右舷は翡翠色の顎で切り揃えられた髪を振りかぶって更に怒鳴った。 「兄に向かってなんて口の利き方だ」 「俺達は同時に生まれたはずだが?!」
この2人は双子の山神として名が知られているが、人から生まれたわけではない。 始まりは小さな木だった。 鮮やかな葉をつけ、美しい実をつける頃には大木に育ち、周囲の生き物達は皆その木の恩恵をうけた 無意識の中の信仰は少しつづ募り、木の幹から右舷と左舷が生まれたのだ
「八を独り占めするんじゃないぞ!」
用は済んだとばかりに背を向けた左舷に、右舷が怒鳴る。
「しないさ、2人の嫁なんだから」
「今日は洗濯物あるかな」 八はうきうきと空の洗濯物カゴを抱えて屋敷の中を歩き回る。 神の家らしく、不浄のものが存在出来ないこの場所で洗濯せねばならない布などありはしないが、家事は妻の仕事だ。 だから食事を必要としない神である夫2人に弁当を作って渡し、わざわざ洗う必要の無い布を探して洗う 「右舷様と左舷様、お忙しいのかな」 右舷が弁当を忘れ、それを恐れ多くも左舷様に届けてもらい 帰ってきた左舷様の機嫌を伺うように散歩をした日から1週間。 そして3日前に2人とも仕事だといって南の大山に向かってしまった。 神の仕事など、人間の八には理解できやしないのだから詮索など勿論しないが 夫が3日間帰ってこないのはかなり心配になる。
いつの間にかお互いがお互いを思い、愛し合ったが 八は右舷か左舷どちらかを選ぶ事が出来ず、涙を流す程に自身の身の程の知らなさを嘆いた。 だが、さも当然。といった風に2人は八を妻に迎え入れ、そればかりか2人共平等に愛してくれてありがとうと八に礼を言ったのだ。神と人間の結婚は古くから数えきれぬ程繰り返されてきた。 だがその多くは悲しい末路を辿る
神と、人間の結婚の概念は違う 人間は神を姿形、声で認識するが、神は人間を魂で見るのだ。例え人間の身が朽ちても神にとってはどうでもいい 弔いもされず白骨化した人間の傍で、なんでもないように暮らし続ける神もいれば 神に見初められたと人間を喜ばせてから地に落とすように食い殺す神もいる
だが、夫である山神2人はそのどれでも無かった。八を心から愛し慈しみ、優しい心をもって家族から愛されなかった八を包む。 そして、八に自分達神と同じ時間を与えた
こんな幸せがあってよいのかと、なんて恐れ多い事なのかと毎日が夢見心地の八にとって、夫達と長く離れるのはいささか不安になるのだ 『ハチ』『ハチ』 足元から聞こえた声に振り向くと、割烹着を着た狸二匹が、二足歩行で八を見上げている 『これはあらえるだろうか』 『これも』 小さな獣の手で器用に手拭いを掴み差し出してくる。その姿に不安だった心は払拭された 「はい、これなら洗濯にぴったりです。ありがとうございます」 手拭いを受け取れば、頭をこちらに向けて撫でろと要求してくる。 優しく撫でればびびび、と尻尾を震わせて満足気に帰って行った。 彼らは夫2人のお世話係だ 右舷と左舷によれば、「自称」がつくらしいが、食事の用意も掃除もいらないこの屋敷でわざわざ割烹着を着ている姿は何かして山神様のお役に立ちたい、という心からだろう。 八も、何とかして夫の役に立ちたい 妻としての役目を果たしたいという気持ちで日々を生きている。 あの狸達とはいい家事仲間なのだ 「…それに可愛いし」 八はたった二枚しかない綺麗な洗濯物を持って井戸に向かった
神の嫁なのだから、お淑やかさを心がけているが八はバタバタと廊下を走るのはそろそろ終わりにせねばならない 「おかえりなさい!」 だが今日ばかりはと八は自分を許した。 右舷と左舷が1週間ぶりに帰ってきたのだ 「八~!会いたかったぞ!」 「右舷様!」 ぎゅ~と音が出そうなほど隙間なく抱き合えば、右舷のやや後ろを歩いていた左舷が不満げな声を上げた 「はーち、私は?」 「左舷様も!」 「もっ…て」とやはり不満気な声を出す左舷に八は言葉の使い方を謝ったが、それよりも気になるものが左舷の後ろに 「左舷様…その子」
「うん、村で忌み子として閉じ込められていたんだ。痣があるってだけで」 「八と同じだ!俺達が見つけられてよかった!」 「せめてもう少し大きくなるまでここに置いてやりたいんだ。構わない?八」 八は、少し呆然とした。 ガリガリで薄汚く、目に生気の無い子供は昔の自分を見ているようだったのだ 「八?どうした」伺うような右舷の声に我に返り、勿論です!と頷いた
それから、八は積極的に少年の世話をした。 身体を洗ってやり、八の食事を分けて 暖かい布団で眠らせた。身体のあちこちに座礁が出来ており、自分の事のように心を痛め、少年を救いたいと思った。かつて、右舷と左舷が八にしたように心の底から明るく笑えるように 「もうお腹いっぱい…?果物も食べる…?」 粥を3口与えただけで口を閉ざしてしまう少年に、八は眉を下げた。 1日目なら仕方ないと思ったが、数日続けば流石に危険だ 何とかして栄養を取らせないともしこの状態で発熱でもしたらとゾッとする。 「どうした、八」 「右舷様、それが」 障子を開けて中を伺ってきた右舷に心配事を話すと、「よし!」と快活に声を出してから右舷は少年を抱き上げ膝の上に乗せた。 これには、当の本人である少年だけではなく八も目を丸くする 「食べないと元気にならんぞ!さっ、口を開けろ」 「う、右舷さま…!そんな乱暴に…っ」 グイグイと匙を押し付ける右舷に八は焦って腰を上げたが、少年が大人しく口を開けた事によってストンと畳に逆戻りとなる 「よしよし、いい子だな」 先程の事が嘘のようにパクパクと粥を食べる少年に八は安堵と共に、自分の何がいけなかったかを考えた。毎度右舷の手を借りる訳にはいかないのだから、自分でも食べて貰えるように学ばなければとそう思った
だがそれは不要な考えだと、八は少しつづ知ることになる
「左舷様ー、お夕飯の時間ですよ~」 重ねるが、神に食事は必要ない それでも人間の八の為にわざわざ時間を作ってくれる夫2人の為に、少しでも見栄えのする料理を出そうと八はいつも前の日の晩から準備をする。人と離れた八の唯一の趣味と言ってもいいだろう。 今日は珍しく左舷が部屋に居なかった。 右舷ならば、釣りか蛙相手の将棋に夢中になって八が呼びに行くまで気付かない事が良くあるのだが、几帳面な左舷はいつも時間になると皆で食事をとる居間で待ってくれているのだ。
右舷のようにどこの部屋か検討がつかず、狸に聞いてみようと庭に出た時だった 「…」話し声が聞こえる 「左舷様?」 美しい木の向こうを覗き込めば、そこには少年を膝に乗せ、岩の上に座って何かを読んでいる左舷がいた 「うん、そう。これは船だよ」 どうやら少年に俗世の事を教えているらしい 確かにずっと閉じこめられていた少年には必要な事だろう
声をかけずらく、その場で佇んでいると八の背後からガサリッと狸達が出てきた 『左舷さま!ごはんですよ!』 元気で高い声に左舷は「ごめんね、もうそんな時間だったのか」と岩から降りてきた 八は、何故か狸に救われたと思った自分自身を不思議に思った 「おいで」 左舷が先におりて、少年に下から両手を伸ばす。少年はなんの疑いも無く体を預けていた 八の知らぬ所で、すっかり打ち解けているようだ 「今日は食べられそうかい?」 左舷は、
左舷は呼びに来た八を見もせずに少年に話しかけ続けた。「…あの!左舷様っ、今日はれんこんのおひたしがありますよ!」この時初めて八は、強烈な恐怖に襲われた
昔、とある神に言われた言葉がある。 あの時は神に気をかけられること自体が恐れ多過ぎて気にしていなかったが、今もその言葉を忘れることが出来ない理由は何だろう 「…八、すまない待っただろう」 少しの間すら八の不安を煽るが、考え過ぎだと嫌な考えを頭から無理矢理追い出す 「いえ!さ、食事にしましょ」 わざと腕に抱き着くようにして掴めば、左舷は機嫌良さそうに笑った その事にほっとしながらも、八は少年を見る事が出来なかった
「…右舷様、今日はどうしますか?」 「ん?なんの事だ」 左舷と右舷 2人で過ごす事もあれば、1人ずつ過ごす事もある 今日は右舷の日だった。 左舷より活発な性格の右舷は、よく八を連れて森に入り釣りや獣を追い回す。 その度八に無理をさせるなと左舷の拳骨が落ちるが、八も部屋で将棋を指すより走り回る方が今の歳ではあっているのか苦ではない。 だから、この質問をしたのだ 「…あの、今日は」 がしゃん、 右舷の膝に乗せられた少年が、将棋盤に手を置いて駒をぐしゃぐしゃにする 「おぉ、興味があるか!」 眉を一瞬顰めてしまい、八は焦って俯いた。 分かっている この少年には正しい大人が必要だ。出来るだけ多く 八がそうであったように 「将来私の勝負相手になるんだぞ」 将来。それはどれ程の時間のことを言っているのだろう 「右舷様!」 なんて醜く耳障りな声音だろうかと、八は思った。だが口に出してからでは遅い 「…どうした?八、」 案の定、目を丸くした右舷が八を見つめている。「ぁ、いえ…すみません大きな声を出して」変な笑い方をしている自覚が自分でもあるのに、右舷は「そうか?」とだけ告げぐしゃぐしゃになった将棋盤に目線を戻した。
ほんの少しのかすり傷や、微熱、ささくれにさえ気付く右舷がだ 八の不安でたまらないと鳴り続ける心臓の音さえ、聞こえてしまえそうなのに
じわりじわりと、八の頭を巡るあの言葉が迫ってくる。 「…食事の準備をしてきますね」
返事はなかった
その日から明確に右舷と左舷が八を認識しなくなる事が増えた。 飽きられたと思えば簡単な事だが、夫2人はそんな事で八を蔑ろにしたりしない。と信じている 2人の優しさも、穏やかさも、明るさも、幼さも、八は傍で見てきたのだ。 「左舷様、右舷様」 最早最近では袖を掴んで呼ばねば気付いてもらえなくなった。 「おお、八!見てくれ、最後の蕾が咲きそうなんだ!」 「全く、そんな事の為に"皆"を呼び出したのか。餓鬼かお前は」 「貴様…」
皆
右舷と左舷が騒ぎ立てる光景は見慣れたのに。その中にいつもいたのは八なのに 最早彼らの言う、皆の中に八は居ないのかもしれない。だって、だって八は呼ばれてもいないのだ 「…お洗濯を、してきます」 だが、様子を見る限り2人は意図的に八を忘れている訳では無い。 盃を交わして婚儀を行ったのだ 新しい風が入り、何かが変わったのならそれを乗り越えるのも夫婦ではないだろうか 「…よし」 八は、廊下をとぼとぼと歩く足取りをしっかりとしたものに変え、いつもより一層気合いを入れて厨房に入った
「右舷様!左舷様!」 こんな大きな声を出して、乱暴に障子を開けるなんて以前の八なら真っ青ものだろう 案の定、右舷も左舷も目を丸くして手に持っていた猪口を落としそうになっていた 「はい!肴ですよ!こっちはきんぴらでこっちはお刺身です!…右舷様が捕ってきてくださったお魚ですよ!」 あの少年が、左舷の膝の上に乗っていた事で八の勢いが一瞬萎むが、予想通りではあった。構わず大きな声で2人の前に肴を置いていく「こっちは豆を甘く煮たものです!左舷様は苦手だろうから、」
「八、そんなに大きな声を出したらびっくりするだろう」
口を噤むしかなかった。 左舷は少年の耳に手をあて、右舷は心底訝しげに八を見ている。そんな目を向けられたことがなかった八は思わず顔を伏せた 「…ぁ、…」 ここで負けていては変わらない。 2人は気付いてないのだ、八が言わねば誰が言うのか 「…だって…だっておふたりとも僕の事を、まるで忘れたみたいに」 震える声に乗るのは不安と、期待 「八、おいで」 優しい声と共に2人に手を取られ、勝利したのは期待だと思った 「そうか、八は寂しいのか」 「ごめんね、気付いて上げられなくて。でも私達はこれからずっと一緒にいるんだから、心配しなくていいんだよ。今はこの子の成長を一緒に見守ろう。きっと一瞬だ」 2人は決して八を忘れたわけではないのかもしれない、そうだ。忘れるなんて有り得ない 2人が言った通り八の時間は神と契った為にとても長いのだ この少年の事もいずれ遠い過去の事となる そうだ、 そうだ 「…はい」
八は蓋をしてしまった。 声が届かないのに思い過ごしなどあるわけ無かろうに、 それでも怖くて堪らなかった 考えたくはなかった あの神の言葉を、信じたくは無かった
その日から、八はまたいつもの日常に戻った。時に気付かれず、時に声をかけられず 最も堪えたのは、外出していた2人が屋敷に帰って来た時 出迎えようと玄関で待っていた。
「右舷様!左舷様!おかえりな、」
さい。最後まで言えなかった理由は 2人が八を通り過ぎ後ろに隠れていた少年の元に向かったから 「…ぁ…」 この時我慢出来ず泣く事になった ここを離れる時が来たのか 「八、そんな所にいたのか!」 そう思うと、次は情けをかけられる 離れようにも、離れ難い 泣きっ面を見られたくなくて振り返れなかった八は、帰宅に喜びの声をかけて家事の途中だと逃げ出した。明らかに普通の様子では無かったはずだが、2人が追いかけてくることは無い もうどうすればよいのか分からない。 だが、少年がここから居なくなる事を最善だと考えてしまう八は己の醜さに苦しむ もし八がそれを口に出せば、2人も八を醜いと思うだろう。 だって神は清く美しい
そして今日も、右舷と左舷の背中に触れて食事に呼び 居間で待った。 30分、1時間、2時間を超えてからは八は座って待つことをやめて、行儀悪く食事の目の前で寝そべった。 この屋敷の中で、食べ物が腐ることは無い 既に蔵の中には手をつけられていない手料理がいくつか保管されている。 傷んでいないのに捨てるのは勿体無いが、かといって日を置いた物を夫の口に入れるのは嫌だった 少しずつ八が消費しているが、そろそろ収拾がつかなくなるだろう
『はち、はち』 狸が呼んでいる 膝をつきながら無気力に返事をして障子を開けた。 『はち、これはどうだろう』 『これは洗えるか』 小さな獣の手によって掲げられる布に、八はゆるりと口を覆った 洗う必要など無い、美しい染め布 この時八は、自身の役目など無いに等しいこの空間にさよならを告げる事を決めた 「はい、ぴったりです」 目からボタボタと水を流す八に、狸は首を傾げて不思議そうに見上げてくる 『痛い?お腹空いた?』 まだ八がここに来て間も無い頃は、全てが恐ろしくて泣き続ける日々だった。 その時、優しさをくれたのは右舷と左舷だけではない。泣く八の周りをくるくると歩き回り、どうにかしようと必死に考えてくれた狸達。 言葉を喋ると言っても獣だ 人間に抱き上げられたりするのは嫌な気持ちになるだろうとずっと我慢してきた 「…膝に乗ってくれたら、嬉しいです」 『膝?』 『膝?ここの事か?』 いいよ、とよじ登ってくる2匹は想像よりもずっと重たく、心地よかった 「ありがとうございます、大好きですよ」 『…すごい!』 『大好きって言われた!好きじゃなくて』 『大好き!』 八は、久しぶりに自然と微笑んだ 彼らは神の使いだ。たとえ自称だとしても、山神2人がこの屋敷の敷地内に入れているのだ。本来ならば生きた獣は不浄と見なされ入ることは出来ない 八がここを去れば、この狸達にも会えなくなるだろう
八は、何も知らぬ狸達に別れを告げ その足で夫達の元へ向かった
長く、天井が反射するほど綺麗な廊下を最後だと噛み締めて歩く。 今日は雨だ。恐らく、右舷と左舷は少年と共にどこかの部屋にいるはず。 どうせならばと、夫達と共に過ごした他の部屋も見ていこうと特に理由もなく障子や襖を開けていくと、八はとある部屋で衝撃で固まることになる 「え、」 恐ろしい程静かな筈だったのに、その襖が開かれた途端隙間から溢れてきたのは多くの下品で騒がしい声と、酒瓶が倒れる音、太鼓の音 神達の宴が開かれていたのだ。 勿論、八は何も聞かされておらず 面妖な神達の隙間を目で縫えば案の定、夫2人が少年と共に中心に座って笑っている
別れを告げに来たと言うのに、これでは八の声が届くか分からない 『おお!奥方ではないか!』 『儂は初めてお会いするかな!』 八は、夫以外の神と殆ど話した事がない。 元々人付き合いが得意とはいえなかった為、無意識に後ずさった。しかし、目敏く気付いた神の一人が声を出せばあっという間に注目の的となった 「…あ、」 緊張して声が出ない。何を話せばいいのか どんな表情をすればいいのか 「みなどうした?」 「酒が足りないね」 右舷と左舷の声で神達が笑って振り返る 『山の神、秘蔵の嫁さんが来てくれたぞ』 『会わしてくれんかったものな』 茶化すような笑い声がどっ、と広い部屋に広がり八は少しの期待をした。 他の誰かを伝って八の存在を訴えた事が無かったからだ。彼らの言葉なら2人に届く もしかしたらと、
「なんのことだ?」
期待など、するものではない もはや、2人は完全に八の事を忘れてしまっている 右舷と左舷にとって、八は妻では無くなり 数多く存在する人間の1人と成り下がった。 神達は不思議そうな顔をしたが、やはりその内の1人が合点がいったと嫌な笑みで八を振り返った 『はぁ、なるほどなるほど。山神は可哀想な人間が好きだからなぁ』
可哀想な人間 ずっと、ずっとずっと八の頭を巡っていたその言葉は、結婚する前にとある小さな祠の神が通りすがりの八に言ったものと同じだ。 『よしよし、さぞかし寂しかろうて』 『オイ、山の神の番だぞ…やめておけ』 『何を言うか、山神は奥方に気付いてすらない。もう、』
認識されていないのだ 『はは!それもそうだ!位が高いのも難儀なものだな!』 神とは、とても残酷な存在だ。 人々が悪行をすれば神に裁かれると怯えてしない事も、平気でしてしまう 猫どころか、虎が鼠をいたぶる様に 「ッ」八は背筋をゾッとさせる神達の目に本能的に踵を返したが、逃げる事は叶わなかった 「いやだ!離せ!」 『おぉ、お転婆な人間だね。』 『縛るか』 『馬鹿め、そんな事したら足を開かせられないだろう』 神の隙間から次々と伸びてくる手が八の衣服を切り裂く。爪が鋭いもの、力が強いもの、手が氷のように冷たいもの、なんのお構いもなくそれらは八の生肌に擦り傷を付けていくのだ。 八は畳を掻きむしりながら叫んだ 恐ろしい、気持ちが悪い 相手を殺す気で抵抗してもなんの意味もなさない。呼ばずにはいられなかった 「右舷様!!左舷様!!」 視界いっぱいに神が蠢いてて2人の姿は見えない。それどころか、八が犯されてる事などお構い無しに祭りはまだ続いている。 音楽は鳴り止まず、笑い声は耐えなかった。 「やめろ…んぐ…っ!」 異形の生き物達が実に楽しそうに八の身体を弄び、更にはお前達も来い。と他の神を呼び付ける 狂ってしまう
左舷と右舷 2人は、等々八が神達に交互に貫かれ始めても助けに来ることは無かった 神達が動かなくなった八に飽きて1人、2人と数を減らしていって開いた隙間から見えたものは八が期待していたものでは無い。
「どうした、なんで泣くんだ」 「他の神たちが恐ろしいのか」
少年には、八の悲鳴が聞こえていた 自分と同じ人間である八に群がるその様は、捕食されているのかと思うだろう。 自分もそうなるのだと恐ろしさに震え泣く事しか出来なかった だって少年に優しいこの2人は、あの八という人間も大事にしていた。 なのに、今は助けを求めてるのに知らんぷり。神とは、なんて恐ろしいのか 自分を閉じ込めていた村の人間よりももっとずっと
八の意識は、泣きじゃくる少年を伺う夫2人の姿を最後に途切れた。 もう、身体が何も感じないのだ 痛くも、冷たくも、熱くもない。 このまま目覚めなければいいのにと、そう思った
「…っ、」 しかし、天井が視界に入り八は落胆した。 意識を失う前とは一変、まるで身体の骨が砕けているかのように痛い。いや、実際に砕けているだろうか 目は腫れぼったく、口の中は血の味がする そしてとてつもなく静かだ 軋ませながら上体を起こすと、広い部屋には大量の酒瓶が転がり 座布団があちらこちらに飛んでいる。 部屋は薄暗く、襖の隙間から差し込む恐らく朝日が八を照らした。 「…はは、」なんて場違いな美しい光だろう。不浄なものを許さない場所のはずなのに、八の体から溢れる神のおぞましい液は消えていない。 神に不浄など有り得ないのだ たとえ誰かを犯しても、その誰かが誰かの妻でも、妻を助けるはずの誰かが妻を忘れてしまっても、 憎しみに近い感情が急激に膨れ上がり、萎んだ。 もうそんなものに心を燃やす余裕は無い 必要も無い。だって、だって八はもう
死ぬのだから
身体を引き摺って広間から出ると、爽やかな風が髪を揺らした。 それを気にもとめず、柱に掴まって立ち上がると下半身に激痛が走る。 裂けるような痛みに怯むが、構わず歩いた 部屋を出て、廊下を歩き、母屋から離れ、外に繋がる庭に出た。 もういっそ、屋敷の中で白骨化してやろうかとすら思った。いつか夫だった2人が八を思い出した時自責の念にかられてしまえばいいのだ。苦しめばいいのだ だが、そんな確証は無い。死後まで右舷と左舷の八への想いに囚われたくは無い この屋敷に、2人に八は必要ないのだ 役目も何も無くただ存在し、忘れられる 「けほ、」 空っぽの胃が捻れるように痛み蹲りそうになるが、腰をかがめようとすると激痛が走り踏んだり蹴ったりだ。 「…っ」 最期は自分で決める 十分幸せと言える時間を過ごしたから、もういいのだ。終わりは悲惨な結果で、恩人であり愛した存在に怒りと恨みと悲しみを抱く事にはなってしまったが 思い出に縋りあの屋敷で衰弱するよりずっといい。八にだって八としての誇りがあるのだ
屋敷から出て不安定な森の中をひたすら歩けば、激しい水の音が近くなる。 ここには崖を切り裂くような滝と、その遥か下に大きな川があった 右舷がよく八をここに連れてきてくれては、危険だと左舷に怒られていた。 八はいつもこの壮大な自然の姿にいつも圧倒され、怒る左舷にその素晴らしさを熱く語っていた。 『八、お前が望むなら何度でも!』 『私の言うことを聞いていたか?危険だと、』 『左舷は堅いやつだ!八!耳を塞げ!』 『右舷調子に、八~、ほんとに塞ぐの?』
「…はは、」ボロりと零れる涙は仕方ない。 だって、本当に幸せだったのだ 叶うならば永遠に続いて欲しいと、いや 続くと思っていた。 憎い、八を忘れた2人が憎い、悲しい、苦しい これらは神に抱くべき感情では無い。 八は何だかんだ、今も2人を夫だと思っている 「来世は、人間以外がいいな」 虫でも花でも狸でも。 人間なんて、神なんて面倒くさい 崖の終わりに足を踏み出したその時
『八!!』
全身の神経が歓喜に震えた。 それと同時に、勘弁してくれとも思った ゆるりと振り返ればずっと待っていた2人の姿。右舷と左舷が、神には不必要な汗をかいてこちらを見ている。その表情の全てが物語っていた 彼らは八を思い出したのだろうが、今までの事からして八に何があったかまで覚えているかは分からない、そして何故この機なのかも分からない
だが、破かれた着物に、打撲の跡 血をこびりつかせた唇に泣き腫らした瞼
2人の知っている八の姿で無いことは確かだ
『…!…っ』 右舷と左舷、なにか叫びながら今にも落ちそうな八に近付いてくる
『神様は、』
あぁ、そうか
『可哀想な人間が好きなんだよ』
「…僕は今可哀想なのか」
可哀想じゃないと、愛してくれないのか
八は、滝に身を投げた
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