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夏
逃げ水のふたり
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路上の逃げ水が北海道にも夏が来たと知らせている。私はアスファルトからストッキング越しに伝わる熱気を感じながら急ぎ足だった。
腕時計を見ると約束の時間まであと五分。きっと、彼はもう着いている。そう思いながら、目指す喫茶店の前で少し前髪をなおした。昔懐かしい呼び鈴の金属音をさせて、店内に入る。
「いらっしゃいませ」
出迎えた初老の女性に「連れが来ているので」と伝えると、彼女はにっこりと一番奥の席を案内してくれた。
ベルベットの赤いソファに足を組んで座る男が一人、私を待っていた。顔を見ると、自然と頬が緩む。
「久しぶり」
彼は懐かしい低い声でそう言いながら、手にしていたコーヒーを置いた。
「えぇ、久しぶり」
ゆっくりと噛み締めるように言う。もうこれで何度目だろうか。かつて私の夫だった男と、月に一度はこのやりとりをするのは。
「グアテマラを」
そう初老の女性にオーダーすると、彼女は静かに「かしこまりました」と言って去っていった。
「好きだなぁ、グアテマラ」
彼は私ではなく、初老の女性の後ろ姿を見送りながら呟くように言った。
「あなたも、同じでしょ?」
彼の手元にあるコーヒーをのぞき込んでおどけると、彼は「まぁな」と、目を細めて笑った。
「元気だったか?」
「えぇ。あなたも元気そう。仕事は?」
「あぁ、調子いいよ」
そんな他愛も無い話をしていると、コーヒーがやってきた。店員が再びカウンターの奥に消えるのを見届けてから、彼がふと笑う。
「信幸と貴幸は元気か?」
彼が会ってすぐに訊かないのは、本当は一番気になっているからだ。そう承知している私は、バッグから封筒を取り出した。
「先週、三人で富良野に行って来たときの写真よ」
太く短い指が封筒を受け取って、中の写真をまるで壊れ物でも扱うように取り出す。
写真には私たちの二人の息子たちがラベンダーを背に笑っている姿が沢山写っている。薄紫色のラベンダーソフトクリームを頬張っていたり、両手を広げてポーズをとっていた。長男の信幸は小学生になり、次男は幼稚園に通っている。
「あぁ、元気そうだ。本当に元気そうだ」
何度も呟く口許が緩むのを、私は胸を締め付けられるような気持ちで見ていた。
「お前が写ってないじゃないか」
ふと不満げに顔を上げる彼に、思わず苦笑する。
「私は写真を撮っていたもの。それに、別れた妻の写真なんて持っていたっていいことないわよ」
「そんなことないよ。たまに顔を見たい」
「よく言うわ」
冗談か本気かわからない言葉の応酬。そうね、私も同じだ。だからこそ、こうして月に一度は子どもたちの近況を伝える口実で、会っている。でもあなたの写真を持ちたいとは思わない。いえ、その必要はない。いつでも心の片隅にいるもの。離婚しても仲がいいって、絶滅危惧種みたいなものよね。
「ねぇ、子どもたちと暮らしたいと思う?」
今日はこれを訊きに来たのだ。
離婚したとき、彼はサラリーマンをやめ、念願の飲食店を立ち上げたばかりだった。気持ちのすれ違いだけではなく、明日の保障がない生活に耐えきれなかったのも離婚の原因だった。けれど、一番不安だったのは彼自身だったと今ならわかる。子どもを引き取りたくても、引き取れない葛藤も。
「自営業なんて油断できない仕事だから。軌道に乗ったなんて言える奴は成長しないし。俺には立派に子どもたちを支えてやれない。それはわかってるから」
彼はコーヒーを口に含んで顔をしかめる。その苦さにではなく、自分の姿に。
「答えになってないわ」
「お前はいつでも、遠慮がない」
幾分か渋い顔に笑みが浮かんだ。
「そりゃあ、毎日一緒にいたいさ。『おはよう』とか『ただいま』とか、そんな言葉を言う相手がいるのはいいことだって、お前たちが出て行って気がついた」
「私ね、ひとつ後悔しているの」
ずっと、胸にひっかかっていたことを口にする。今日こそは。ううん、今日だから。
「子どもたちを連れ出したのは私たちの意志よ。子どもたちの意志じゃないわ。私たちは選択の機会すら与えなかった。それを忘れないでね」
「うん? どうした? 今日は様子が変だな」
そう言って、彼は唇をつり上げる。
「お前が手をもみ合わせるときは、気になることがあるときだ」
ハッとしてテーブルの上で無意識にもみ合わせていた両手を隠す。
「言ってごらん。俺に遠慮はいらないから」
その顔が『言わなくてもなんとなくわかるけれど』と、切なげに言葉なく笑っていた。
それから数十分後。彼は伝票を手にして立ち上がる。
「あ、それは私が払う」
そう手を差し出すと、彼はひらひらと伝票を揺らした。
「最後くらいはカッコつけさせろ。俺も男だ」
そう笑い、私の差し出した手に自分の手を重ねた。
「幸せになれよ」
「俺が言える立場じゃないか」と、彼は口ごもり、懐かしい感触がするりと離れた。遠ざかる足音のあと、レジが鳴る音がした。「ありがとうございました」の声と共にあの呼び鈴が鳴る。
私はしばらく振り返ることができなかった。目の前には冷めたコーヒーの残ったカップが二つ。もう見ることがないかもしれない光景が一つ。
私は溢れて来る涙をこらえ、膝の上で関節が白くなるほど手を握りしめた。とうに出尽くしたと思っていた涙だった。さようならは、幾つになっても辛い。
私はいずれ違う苗字に変わる。もうこうして会うこともない。それがこんなにも寂しい。離婚したのに、それでも寂しい。こんな私を誰が笑えるだろう? 別れても大切に思うひとがいる私を。
外に出ると、昼下がりの熱気が再び私を包み込んだ。家に帰るまでの道の向こうに、逃げ水が見える。
あぁ、あのひとみたい。ふと、そんなことを思った。
離婚しても月に一度は仲よくお茶を飲む私たちを、世間の人はとやかく言うこともある。もちろん、私たちが離婚したのも理由がある。
けれど、籍を外しても大切な家族には違いない。ただ『夫婦』というより『元夫婦』のほうが、互いを気遣い遠慮し、うまくいくだけの話だった。全員に理解されようとは思わない。けれど、これが私たちの形なのだ。
逃げ水みたいに遠くにあって心を揺らすもの。たまに現れて、焦がれるもの。幻みたいだけど、確かにそこにあるもの。そういう二人で丁度いい。
いろんな人から好奇や軽蔑の目で見られることもある。けれど、何とも思わない。私は胸を張るんだ。私の幸せを願ってくれる大切なひとを。
「おかえりなさい!」
家の前で、明るい声にふと顔が緩む。向こうから、長男の信幸が手を振っているのが見えた。ぎゅっと抱きしめると、土埃のにおいがする。汗まみれの額にはりついた髪を払ってやった。
「おばあちゃんのところに行って来た!」
近所に住む母は、よく息子の面倒を見てくれる。
「そう。楽しかった?」
「うん!」
眩しい笑顔だ。最近、よく笑ってくれるようになった。だが、離婚したばかりの頃は、ベッドの中でこっそり泣いていたのを、私は知っている。
「ねぇ、いつ札幌に引っ越しちゃうの?」
急に彼は眉を下げた。
「新しいお父さん、札幌にいるんでしょ?」
「そうね。秋には引越しかな。お友達とかおばあちゃんに会えなくなるわけじゃないわよ。すぐに遊びに来れるから、大丈夫」
「うん」
私の言葉に、長男は俯いた。きっと、彼の心にひっかかっているものは父親だろう。会わなくても、同じ街に住んでいるというだけで、気持ちは違うのかもしれない。
「ねぇ、信幸。お父さんのそばにいたい?」
訊ねると、彼はゆっくり顔を上げた。
「うん。でも、お父さんが大変なのは知ってるから。それに新しいお父さんがお母さんにちゃんと優しいか俺が見てなくちゃ」
「信幸は優しいね」
「あのね、俺、おばあちゃんに訊いたんだ。お父さんと一緒にいるにはどうしたらいいか」
驚いて小さな顔をじっと見ると、彼は白い歯を見せた。
「俺、学校を出て一人で食べていけるようになったら、お父さんと一緒にいてやるよ。だって、お父さんも俺に会いたいでしょ?」
たまらず、その小さな肩をぎゅっと抱きしめた。さっきまで我慢していた涙がはらはらと流れる。
ずっと不安だった。この子が『お父さんは俺たちなんていらないんだ』とか『お父さんに会いたくない』などと思わないか。そして、私たち二人の身勝手さを許してくれるかを。
「もちろんよ。お父さんだって、本当は信幸と貴幸と一緒にいたいのよ。本当よ」
「うん、でも今は無理なんでしょ? ちゃんと我慢するよ。でも大人になったら、今までお母さんの傍に居た分、お父さんの傍にいるよ」
彼の笑顔は、夏の陽射しに似て眩しい。そして同時に痛かった。私たちのわがままな身勝手さを刺すようで。
「ごめんなさい」と、小さく呟くと、彼は首を横に振る。
「それがうちの形でしょ?」
それは、私が何故離婚したのか訊かれるたびに答えてきた言葉だった。
あぁ、神様。これでよかったんでしょうか。
私は祈るような気持ちで、雲一つない青空を見上げた。濃い緑の街路樹が木漏れ日を抱いて揺れる。私の心を揺さぶるように。
私は愛しい息子の顔をそっと見下ろした。この子は父親に瓜二つだ。私はこの子を見れば、夫の成長過程を垣間みれる。そして、新しい愛を育むこともできる。
けれど、彼はどうだろう。写真しか見ることが許されず、心の中の記憶だけを抱きしめて独り生きていくしかない。『俺には結婚は向かないよ』と、仕事に打ち込むことにした彼は、誰もいない部屋で『おはよう』も『ただいま』も口にすることなく過ごすというのに。
どうか、息子の眩しい光があの人にも届きますように。何光年かかってもいいから、あの心を照らしますように。そう願った。
どんなに離れていても、彼は家族だった。私が心を砕き、寄せ、愛した人だ。たとえどんなに自分が幸せになれたとしても、あの人が幸せになって初めて自分も救われ、解放されるのだろう。伊達に『病めるときも健やかなるときも』と誓った仲ではない。夏の暑さで痺れた頭で、そんなことを考えた。
きっと私は逃げ水を見るたびに、彼を思い出す。グアテマラの匂いをひきつれて今日という日が蘇るはずだ。
逃げ水は黙ったまま、私を遠くから見つめて佇んでいた。
腕時計を見ると約束の時間まであと五分。きっと、彼はもう着いている。そう思いながら、目指す喫茶店の前で少し前髪をなおした。昔懐かしい呼び鈴の金属音をさせて、店内に入る。
「いらっしゃいませ」
出迎えた初老の女性に「連れが来ているので」と伝えると、彼女はにっこりと一番奥の席を案内してくれた。
ベルベットの赤いソファに足を組んで座る男が一人、私を待っていた。顔を見ると、自然と頬が緩む。
「久しぶり」
彼は懐かしい低い声でそう言いながら、手にしていたコーヒーを置いた。
「えぇ、久しぶり」
ゆっくりと噛み締めるように言う。もうこれで何度目だろうか。かつて私の夫だった男と、月に一度はこのやりとりをするのは。
「グアテマラを」
そう初老の女性にオーダーすると、彼女は静かに「かしこまりました」と言って去っていった。
「好きだなぁ、グアテマラ」
彼は私ではなく、初老の女性の後ろ姿を見送りながら呟くように言った。
「あなたも、同じでしょ?」
彼の手元にあるコーヒーをのぞき込んでおどけると、彼は「まぁな」と、目を細めて笑った。
「元気だったか?」
「えぇ。あなたも元気そう。仕事は?」
「あぁ、調子いいよ」
そんな他愛も無い話をしていると、コーヒーがやってきた。店員が再びカウンターの奥に消えるのを見届けてから、彼がふと笑う。
「信幸と貴幸は元気か?」
彼が会ってすぐに訊かないのは、本当は一番気になっているからだ。そう承知している私は、バッグから封筒を取り出した。
「先週、三人で富良野に行って来たときの写真よ」
太く短い指が封筒を受け取って、中の写真をまるで壊れ物でも扱うように取り出す。
写真には私たちの二人の息子たちがラベンダーを背に笑っている姿が沢山写っている。薄紫色のラベンダーソフトクリームを頬張っていたり、両手を広げてポーズをとっていた。長男の信幸は小学生になり、次男は幼稚園に通っている。
「あぁ、元気そうだ。本当に元気そうだ」
何度も呟く口許が緩むのを、私は胸を締め付けられるような気持ちで見ていた。
「お前が写ってないじゃないか」
ふと不満げに顔を上げる彼に、思わず苦笑する。
「私は写真を撮っていたもの。それに、別れた妻の写真なんて持っていたっていいことないわよ」
「そんなことないよ。たまに顔を見たい」
「よく言うわ」
冗談か本気かわからない言葉の応酬。そうね、私も同じだ。だからこそ、こうして月に一度は子どもたちの近況を伝える口実で、会っている。でもあなたの写真を持ちたいとは思わない。いえ、その必要はない。いつでも心の片隅にいるもの。離婚しても仲がいいって、絶滅危惧種みたいなものよね。
「ねぇ、子どもたちと暮らしたいと思う?」
今日はこれを訊きに来たのだ。
離婚したとき、彼はサラリーマンをやめ、念願の飲食店を立ち上げたばかりだった。気持ちのすれ違いだけではなく、明日の保障がない生活に耐えきれなかったのも離婚の原因だった。けれど、一番不安だったのは彼自身だったと今ならわかる。子どもを引き取りたくても、引き取れない葛藤も。
「自営業なんて油断できない仕事だから。軌道に乗ったなんて言える奴は成長しないし。俺には立派に子どもたちを支えてやれない。それはわかってるから」
彼はコーヒーを口に含んで顔をしかめる。その苦さにではなく、自分の姿に。
「答えになってないわ」
「お前はいつでも、遠慮がない」
幾分か渋い顔に笑みが浮かんだ。
「そりゃあ、毎日一緒にいたいさ。『おはよう』とか『ただいま』とか、そんな言葉を言う相手がいるのはいいことだって、お前たちが出て行って気がついた」
「私ね、ひとつ後悔しているの」
ずっと、胸にひっかかっていたことを口にする。今日こそは。ううん、今日だから。
「子どもたちを連れ出したのは私たちの意志よ。子どもたちの意志じゃないわ。私たちは選択の機会すら与えなかった。それを忘れないでね」
「うん? どうした? 今日は様子が変だな」
そう言って、彼は唇をつり上げる。
「お前が手をもみ合わせるときは、気になることがあるときだ」
ハッとしてテーブルの上で無意識にもみ合わせていた両手を隠す。
「言ってごらん。俺に遠慮はいらないから」
その顔が『言わなくてもなんとなくわかるけれど』と、切なげに言葉なく笑っていた。
それから数十分後。彼は伝票を手にして立ち上がる。
「あ、それは私が払う」
そう手を差し出すと、彼はひらひらと伝票を揺らした。
「最後くらいはカッコつけさせろ。俺も男だ」
そう笑い、私の差し出した手に自分の手を重ねた。
「幸せになれよ」
「俺が言える立場じゃないか」と、彼は口ごもり、懐かしい感触がするりと離れた。遠ざかる足音のあと、レジが鳴る音がした。「ありがとうございました」の声と共にあの呼び鈴が鳴る。
私はしばらく振り返ることができなかった。目の前には冷めたコーヒーの残ったカップが二つ。もう見ることがないかもしれない光景が一つ。
私は溢れて来る涙をこらえ、膝の上で関節が白くなるほど手を握りしめた。とうに出尽くしたと思っていた涙だった。さようならは、幾つになっても辛い。
私はいずれ違う苗字に変わる。もうこうして会うこともない。それがこんなにも寂しい。離婚したのに、それでも寂しい。こんな私を誰が笑えるだろう? 別れても大切に思うひとがいる私を。
外に出ると、昼下がりの熱気が再び私を包み込んだ。家に帰るまでの道の向こうに、逃げ水が見える。
あぁ、あのひとみたい。ふと、そんなことを思った。
離婚しても月に一度は仲よくお茶を飲む私たちを、世間の人はとやかく言うこともある。もちろん、私たちが離婚したのも理由がある。
けれど、籍を外しても大切な家族には違いない。ただ『夫婦』というより『元夫婦』のほうが、互いを気遣い遠慮し、うまくいくだけの話だった。全員に理解されようとは思わない。けれど、これが私たちの形なのだ。
逃げ水みたいに遠くにあって心を揺らすもの。たまに現れて、焦がれるもの。幻みたいだけど、確かにそこにあるもの。そういう二人で丁度いい。
いろんな人から好奇や軽蔑の目で見られることもある。けれど、何とも思わない。私は胸を張るんだ。私の幸せを願ってくれる大切なひとを。
「おかえりなさい!」
家の前で、明るい声にふと顔が緩む。向こうから、長男の信幸が手を振っているのが見えた。ぎゅっと抱きしめると、土埃のにおいがする。汗まみれの額にはりついた髪を払ってやった。
「おばあちゃんのところに行って来た!」
近所に住む母は、よく息子の面倒を見てくれる。
「そう。楽しかった?」
「うん!」
眩しい笑顔だ。最近、よく笑ってくれるようになった。だが、離婚したばかりの頃は、ベッドの中でこっそり泣いていたのを、私は知っている。
「ねぇ、いつ札幌に引っ越しちゃうの?」
急に彼は眉を下げた。
「新しいお父さん、札幌にいるんでしょ?」
「そうね。秋には引越しかな。お友達とかおばあちゃんに会えなくなるわけじゃないわよ。すぐに遊びに来れるから、大丈夫」
「うん」
私の言葉に、長男は俯いた。きっと、彼の心にひっかかっているものは父親だろう。会わなくても、同じ街に住んでいるというだけで、気持ちは違うのかもしれない。
「ねぇ、信幸。お父さんのそばにいたい?」
訊ねると、彼はゆっくり顔を上げた。
「うん。でも、お父さんが大変なのは知ってるから。それに新しいお父さんがお母さんにちゃんと優しいか俺が見てなくちゃ」
「信幸は優しいね」
「あのね、俺、おばあちゃんに訊いたんだ。お父さんと一緒にいるにはどうしたらいいか」
驚いて小さな顔をじっと見ると、彼は白い歯を見せた。
「俺、学校を出て一人で食べていけるようになったら、お父さんと一緒にいてやるよ。だって、お父さんも俺に会いたいでしょ?」
たまらず、その小さな肩をぎゅっと抱きしめた。さっきまで我慢していた涙がはらはらと流れる。
ずっと不安だった。この子が『お父さんは俺たちなんていらないんだ』とか『お父さんに会いたくない』などと思わないか。そして、私たち二人の身勝手さを許してくれるかを。
「もちろんよ。お父さんだって、本当は信幸と貴幸と一緒にいたいのよ。本当よ」
「うん、でも今は無理なんでしょ? ちゃんと我慢するよ。でも大人になったら、今までお母さんの傍に居た分、お父さんの傍にいるよ」
彼の笑顔は、夏の陽射しに似て眩しい。そして同時に痛かった。私たちのわがままな身勝手さを刺すようで。
「ごめんなさい」と、小さく呟くと、彼は首を横に振る。
「それがうちの形でしょ?」
それは、私が何故離婚したのか訊かれるたびに答えてきた言葉だった。
あぁ、神様。これでよかったんでしょうか。
私は祈るような気持ちで、雲一つない青空を見上げた。濃い緑の街路樹が木漏れ日を抱いて揺れる。私の心を揺さぶるように。
私は愛しい息子の顔をそっと見下ろした。この子は父親に瓜二つだ。私はこの子を見れば、夫の成長過程を垣間みれる。そして、新しい愛を育むこともできる。
けれど、彼はどうだろう。写真しか見ることが許されず、心の中の記憶だけを抱きしめて独り生きていくしかない。『俺には結婚は向かないよ』と、仕事に打ち込むことにした彼は、誰もいない部屋で『おはよう』も『ただいま』も口にすることなく過ごすというのに。
どうか、息子の眩しい光があの人にも届きますように。何光年かかってもいいから、あの心を照らしますように。そう願った。
どんなに離れていても、彼は家族だった。私が心を砕き、寄せ、愛した人だ。たとえどんなに自分が幸せになれたとしても、あの人が幸せになって初めて自分も救われ、解放されるのだろう。伊達に『病めるときも健やかなるときも』と誓った仲ではない。夏の暑さで痺れた頭で、そんなことを考えた。
きっと私は逃げ水を見るたびに、彼を思い出す。グアテマラの匂いをひきつれて今日という日が蘇るはずだ。
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