琥珀色の日々

深水千世

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第四章 手向けのカンパリ・ビア

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 琥珀亭のマスターである尊は、今までいろんなアルバイトをしてきた経験があるらしい。私が知っているのはカフェだけだったが、どうやらレンタルショップでも働いていたことがあるらしい。今さっき、琥珀亭に入ってきた男との会話を聞く限りでは。

 この夜はどす黒く分厚い雲が憂鬱だった。そんな天気のせいか、夜の十時を過ぎる頃には客足もぱったり途絶えてしまった。
 そこに入ってきた男が『ケンジ』と尊から親しげに呼ばれた男だった。

「よう、尊。久しぶりだな」

 片手を上げて入ってきた男は、左手に紙袋を下げていた。面長で切れ長の目に、鼻筋の通った高い鼻。ニッとつり上げた口角がまるで銀幕のスタアのようだった。

「賢治! おおぅ、久しぶりだな!」

 尊が歓声を上げ、男とカウンター越しにハイファイブを決める。旧知の仲のようだ。
 きょとんとする真輝を賢治に紹介した後、真輝にはこう説明した。

「こいつは賢治っていって、俺が大学生のとき一緒にレンタルショップでバイトしてた友達なんだ。俺が琥珀亭に来る前に横浜に就職する予定だったの覚えてるか? あのとき横浜に誘ってくれたのが、こいつだよ」

 私は心の中で「へぇ、あのときの」と呟いた。あれは三年前になるが、尊との出逢いは面白かった。

 尊が24の夏だったと思う。
 あいつは大学を卒業しても就職せず、アルバイトをかけもちして暮らしてたそうだ。

 そんな尊に『仕事があるから横浜に来ないか』という誘いがかかる。だが、あとは横浜に移動するだけというところまで準備が整った頃、その誘った男の会社が傾き、仕事の口は無くなった。尊は電話一本で、宿無しの職無しになっちまったらしい。

 そこで見つけたのが琥珀亭の求人だったという。
 求人の張り紙の『やる気のある方は店内へどうぞ』という文字につられて琥珀亭へやってきたんだ。

 私もそのとき、店に居合わせたが、そのときの尊はひどい有様だった。緊張で肩肘が強ばり、口を開けばどもっている。手には賃貸情報誌と求人情報誌ばかり入ったコンビニ袋。左右違うスニーカーを履いているのにも気づいてないくらい、取り乱していた。

 オーナーの真輝の同情で琥珀亭に居座ることになったんだが、それがまさか夫婦になって一緒に切り盛りすることになるとは、そのときは夢にも思わなかったがね。

 今夜、目の前に現れた賢治が、そのとき横浜行きを誘ってくれた友人らしい。
 私は興味を覚えながら、彼を目の端で見た。姿勢はよく、身振りも大きい。ついでに声も大きい。なんだか、年の割りには威厳があった。
 それもそのはず、真輝への自己紹介によると、賢治は転職した後、横浜で中小企業ながら役職についているらしかった。なるほどね。自分に自信がありそうだよ。

 真輝は深々と頭を下げた。

「初めまして。真輝と申します。感謝しなくちゃいけませんね。あなたのおかげで私たちはこうしているんですから」

「いや、奥さん。あのときは俺、本当に尊に悪いことしたって思ってるんですよ。結婚式の案内もいただいてたんですけど、仕事で出席できずに申し訳ありませんでした」

 賢治がしっかりした口調で頭を垂れる。笑うと、ちょっと剽軽な雰囲気をまとう男だった。

「お前、なんだかやつれてるぞ」

 尊が心配そうに眉間にしわを寄せた。

「なんだか、目の下にクマまであるじゃないか。大丈夫か?」

 尊の言う通り、彼は顔色が悪かった。目が落窪んで、頬の肉がやや落ちているように見えた。

「はは、大丈夫。ここのところ、ちょっと忙しかったんだ」

「そうか。里帰りしてるなら教えてくれればよかったのに。まぁ、座れよ」

 賢治は尊に促されるまま腰を下ろし、左手に持っていた紙袋をカウンターに上げた。

「いやぁ、すまないな。今回は急だったもんで。実は、親父の葬式だったんだ」

「えっ、嘘だろ? あの親父さんが?」

 ひどくショックを受けたらしい。尊の顔が歪んでいる。

「そう。あの丈夫な親父がさ。心筋梗塞だとよ。あっけないもんだ」

「そうか......それは辛かったな」

「ご愁傷様です」

 尊と真輝が同時に頭を下げる。賢治は「いやいや」と手を振った。

「葬式は身内だけで済ませたんだよ。身辺整理も今日で終わったし、明日には横浜に帰るんだ」

「え? もう帰るのか?」

「そんなに長いこと仕事休めないしさ」

 そう言うと、彼はふっと微笑んだ。尊がふてくされた顔をしていたのだ。

「悪かったよ、お前に連絡しないで。だからこそ、こうしてお前の店に飲みに来てるんじゃないか」

 賢治が「尊は相変わらず何でも顔に出るんだな」と苦笑した。真輝が注文を訊くと、彼は酒の瓶が並んだ棚の一角を指差した。

「そのカンパリで作って欲しいのがあるんだけど」

「おう」

 尊が取り出したのは『カンパリ』という薬草系のリキュールだ。目にも鮮やかな赤色で綺麗だが、味は苦い。

「グラスにカンパリを入れて、ビールで割って欲しいんだが。いいか?」

「あぁ、『カンパリ・ビア』か。もちろんいいよ」

 カンパリ・ビアの名を聞いて、賢治がふっと笑った。

「そんな立派な名前があったんだな、その飲み方」

 そう言うやいなや、彼はカウンターの上に置いた紙袋にごそごそと手をつっこむ。

「このグラスで作ってほしいんだ」

 そう言って出されたのは、黒みを帯びた赤い切り子のビアグラスだった。

「このグラス、親父の形見なんだよ。いつもこれで晩酌していたんだ。親父はカンパリをビールで割るのが好きでさ。家の冷蔵庫にはいつも冷えたカンパリがあった。そんな飲み方、どこで覚えてきたんだろうな?」

 そう言うと、彼は小さく「今となっちゃ、わからないけど」と呟いた。しんみりした空気を誤摩化すように、彼はすぐに笑みを取り繕う。

「まぁ、今夜はせっかくだから、親父の味で乾杯しようと思ってな」

「わかった」

 尊は潔く答え、グラスを受け取った。
 綺麗にグラスを拭くと、カンパリの栓が開けられる。赤い液体をメジャーカップで量り入れ、ビールサーバーから黄金色のビールを注いだ。
 揺らぎ、馴染み、染まる赤を、私はじっと見つめていた。

「お待たせしました」

 コースターと共に出された『カンパリ・ビア』は一見するとただのビールだが、カンパリのせいでほんのりピンクに染まっていた。

 賢治が「皆さんもどうぞ何か飲んでください」と酒をすすめる。ついでに、私のほうに向き直ってこう言った。

「あなたもどうぞ。どうか、親父のために乾杯してやってくださいませんか?」

 私は軽く頭を下げて快諾した。

「もちろんですよ。ご冥福をお祈りします」

 かくして全員に『カンパリ・ビア』が渡り、彼の父親のための乾杯が交わされた。
 たまにはこんな夜もあるもんだ。

 『カンパリ・ビア』がどんな飲み物かと問われれば、私は「苦味の旨味を楽しむものだ』と、答えるだろう。ビールの苦みと、カンパリの苦み、それぞれ違った個性が絡み合い、苦みの面白さを楽しませてくれる。
 ぐいっとカンパリ・ビアを飲んだ賢治が、意外そうな顔をした。

「......あれ? 美味いな」

 彼は一人で戸惑っている。尊が訝しげな顔をした。

「どうした? 何か変か?」

「あぁ、いや......俺、実はこの飲み方が嫌いだったんだ。二十歳になったばかりの頃、親父に無理矢理飲まされてさ。苦くて飲めたもんじゃないって思ってたんだけど」

 賢治が不意に「はは」と力なく笑った。そして、こう呟いたのだ。

「俺も大人になっちまってたんだなぁ」

 私は彼の言葉が気になった。『なった』ではなく『なっちまってた』という言い回しが、妙にひっかかったんだ。

「自分では大人になりきれていないとでも思っていたんですかな?」

 私が問うと、彼は首を横に振った。

「いえ、そういう意味ではないんです。ただ、大人になると味覚が変わることってあるでしょう? 若い頃は美味いと思わなかったものを、時が経ってから口にすると美味く感じたりしませんか?」

 尊が「そうだな、俺は柚子だったな」と相づちを打った。賢治が「俺も。それに、山菜もだ」と続けた。

「あの頃はわからなかった美味しさってやつが、いつの間にかわかるようになっててびっくりしたんだ」

 そして、彼は目を細めてグラスを見つめた。

「俺が大人になってるんだもんな。そりゃ、親父はジジイになってるさ。いつ死んだっておかしくなかったんだよな」

 誰もが、何も言えなかった。

「よく『孝行したいときに親はなし』って言うけどさ。まさか自分がそうなるとは思っていなかったな」

 賢治がそっと呟いた。

「このグラスさ、本当は青いのもあったんだ」

「綺麗な切り子だな」

「だよな。俺が中学生の頃かなぁ。親父がお袋と小樽に旅行に行って、土産として買ってきたんだよ。親父はもう一つの青い切り子を箱にしまったまま、大事に飾っていた」

「その青いグラスはどうしたんだ?」

「俺ってその頃、すごい反抗期でさ。親父と喧嘩して、そのグラスを箱ごとぶん投げちまったんだよ」

「えぇ? それじゃ......」

「もちろん、箱の中で粉々。だけど、ほら」

 賢治がカウンターの上に置かれた紙袋から、もう一つの箱を取り出した。

「割れたのに、とっておいたのか?」

 驚く尊に、彼は寂しそうに頷いた。

「親父はさ、グラスを買ったとき『賢治が成人したらこのグラスで一緒に晩酌するんだ』ってお袋に言っていたらしいんだ。俺がグラスを割ったときの悲しそうな目、忘れられないよ。親父はこっそり、この箱をとっておいたらしい」

 彼はそっと箱を紙袋に戻しながら言葉を続ける。

「俺、馬鹿だよなぁ。喧嘩の理由なんてたいしたことじゃないんだ。だって、今じゃ覚えてもいないんだから。葬式の後でお袋からグラスを渡されてさ。えらい泣かれたよ」

 賢治の父は、割れたグラスを捨てようとした妻を止め、大事そうに箱を抱えてこう言ったという。

『あの小さかった賢治がさ、反抗期なんだぜ? これって、自立への一歩なんだよな。なんだかそう思ったら、一緒に晩酌をするより嬉しいな』

 器の大きな人じゃないか。私はそう思って、ふっと微笑んでしまった。

「まぁ、俺が横浜に引っ越したせいもあるんだけど、親父とはあんまり会う機会もなくてさ。たまに実家に帰っても親父と飲もうとしなかったんだ。親父はウワバミで朝まで飲むし、付き合いきれないと思って」

 そこまで言うと、彼は肩を落とした。

「今思うと、ゆっくり晩酌に付き合ってやれば良かった」

 そして、彼のしんみりした言葉が宙に浮いた。

「俺って、本当に馬鹿だよ。気づいたときには遅すぎるってことがなんて多いんだろう」

 確かにね。でも、そういうものさ。私は言葉にしなかったが、深く頷いて見せた。賢治もそんな私にちょっと肩をすくめて見せた。

「仕事ばかりで嫁にも逃げられて、親父に孫の顔も見せられずじまいになっちまった。嫁とちゃんと向き合っていれば、何か変えられたのにな。彼女がいなくなって、家の中が空っぽになってから、俺にも足りないところがあったんだって気づいたんだよ」

「お前、離婚していたのか?」

 初耳だったらしい。口をぽかんと開ける尊に、彼は自嘲じみた顔になる。

「悪いな、知らせないで。わざわざ連絡するほどでもないかと思ってさ」

 彼は失意を浮かべた顔で微笑んだ。

「いつもそうなんだ。いつも、気づくのが遅いんだよ」

 すると、今まで黙っていた真輝が静かに口を開いた。

「失ってしまわないと気づかないこともあるって言いますよ。そういうことに限って、大事なことなんですよね、きっと」

 尊が何か言いたげな顔をして妻の顔を見やった。
 真輝は尊と出逢ったとき、未亡人だった。初婚の相手はこのバーに弟子入りしていた男だったが、祖父であり琥珀亭の創業者である蓮太郎と一緒に交通事故で他界している。真輝にも失ってから気づいたことがあったんだろう。

 私の脳裏に今は懐かしい顔ぶれが浮かんでは消えていった。
 かつての想い人だった蓮太郎。その妻となった私の親友の遥。そして最後に、死んだ旦那の顔が私の胸を締め付けた。

「あぁ、懐かしい痛みだね」

 思わず口をついて出た言葉に、賢治が顔を向けた。

「あなたも、こんな想いをしたことがあるんですね」

「そりゃあね。これだけ生きていれば、一度や二度じゃないさ」

 私は煙草を唇に挟み、ライターを鳴らした。

「私は自分を馬鹿だとは思わなかったがね、自分が『弱い』ってことに気づいたよ」

「お凛さんが弱い?」

 尊が目を丸くしている。私は苦笑して、その顔を煙草で指した。

「こいつの反応を見ての通り、どうも私は『強い』イメージがあるらしい。自分でもそう思っていた。だけど、それは違ったんだ」

 賢治は黙って私の話に耳を傾けている。

「私が強くあれたのは、周りに支えてくれる大切な人たちがいたからだ。彼らがいなくなってから、そう知った。特に旦那に先立たれたときにね」

「そうですか」

 賢治がカンパリ・ビアを見つめる。

「後悔がこんなに辛いなんて知りませんでした。グラスを割ったこともそうだけど、親父と一緒に晩酌しなかったことを一番悔いてます」

 そして、グラスをゆっくり持ち上げる。

「これからは、俺が親父の代わりにカンパリ・ビアを飲み続けますよ。親父には良い手向け水になるでしょうから。それに......自分への戒めって意味も含めてね」

 彼はそう言うと、グラスに残っていたカンパリ・ビアを一気に飲み干した。

「......やっぱり苦いですね」

 空になったグラスを置き、彼は微笑んだ。ライトに照らされて、うるんだ目が輝いている。やがて、ぐすっと鼻をこすり、尊に礼を言った。

「ありがとうな。親父の酒を飲ませてくれて」

 尊は黙ってそれを聞いていたが、やがてカウンターの向こうにある戸棚を開けた。そこに並んでいたのは栓を開けられるのを待つストックの酒だった。彼はその中から真新しいカンパリを取り出し、賢治の前に静かに置いた。

「俺からの香典だ。受け取れよ。香典返しはいらねぇぞ」

「一丁前なことしやがって」

 賢治は泣きながら笑っていた。

「カンパリ・ビア飲んで、ちゃんと飯食って、ちゃんと寝ろ」

 尊は鼻と目を真っ赤にする賢治に、優しく沁み入るような声で言った。

「歳なんか関係なく、俺やお前もみんな死と背中合わせなんだ。だから体を大事にしろ。そんなやつれた顔を見せるな」

 賢治は両手で濡れた頬を手荒く拭った。

「あぁ。本当にお前に会いにきて良かったよ。いつだってお前と会うと、ほっとするんだ。だから俺は、お前に会いたかったのかもしれないな。誰かに許してほしくてさ」

「やっぱり馬鹿だよ、お前は。許して欲しい時でなくても会いに来い」

 彼らは互いの顔を見つめ合い、そして同時ににやりとする。

「あぁ、まったくだな。そうするよ。お前も横浜に来い。奥さん連れてな」

 賢治は横浜に着いたら連絡すると尊に約束し、帰っていった。大事そうに紙袋を抱え、こう言い残して。

「親父のために新しい小樽切り子を買うよ。俺がカンパリ・ビアを飲むときは、親父の分も用意しなきゃな」

 彼が扉の向こうに消えてから、私たちはしばらく無言だった。
 沈黙を一番最初に破ったのは、尊だった。

「なぁ。真輝は失ってから、何に気づいたんだ?」

 彼は愛する妻の顔をまっすぐ見つめ、心配そうな顔をしている。こういうことをストレートに訊けるのは、尊の持って生まれた性格だね。だからこそ、ためこむタイプの真輝は救われるんだろうが。

 真輝はふっと笑った。

「私は自分が『独りだったんだ』って気づいたわ。家族が死んだから独りになったんじゃなくて、元から独りなのよ、みんな」

 そう言いながら、彼女は賢治のいた席を片付け始めた。

「個で生まれて、個で死んでいくんだもの。独りだからこそ、誰かと寄り添いたくなるのよね。独りだからこそ、誰かがくれる愛情が嬉しいんだわ」

 尊は「そうか」と一言だけ呟き、そっと微笑んだ。
 彼はまだ賢治や真輝、そして私が味わった痛みを知らないはずだ。だが、その顔はいたわりに満ちていた。こういうとき、彼らは良い夫婦だと心から思うよ。

 賢治の流した涙はカンパリ・ビアよりも苦かっただろう。だけど、きっとこれからは何かが変わるさ。今度は違う誰かに違う態度で接してやれるはずだ。カンパリ・ビアは苦いだけの酒じゃないからね。

 会計を済ませて外に出ると、いつの間にか雨が降っていた。傘もなく歩いて帰った賢治の涙を隠してくれただろうね。冷たくて、でも優しい雨だったよ。
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