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知らぬ鬼より知っている鬼のほうがよい
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厨房は夕方のひんやりした空気で満ちていた。
日向は野菜を洗いながら、ふっと辺りを見回した。暖炉のほうへ窓からの西日がさし、光の帯を空中に描いている。天井の高い厨房には調理器具のたてる物音とともに、どこからともなく聞こえる音楽が響いていた。クラシックのようだが、彼女には何の曲かもわからない。それでも、うっとりする旋律だった。
もちろん帰りたいとは思うけれど、この厨房の雰囲気はなんだか妙に落ち着いて好きだと彼女は思い始めていた。
三蔵と悟空のために野菜中心の料理をしながら、日向が口を開く。
「ねぇ、エドガーさん」
「あぁ、エドガーと呼んでくださって結構ですよ」
すり鉢で胡麻をする手を止めてエドガーが顔を上げる。
「えと……じゃあ、エドガー」
「はい」
「この音楽は?」
「文章様が鑑賞なさっているのでしょう。バッハの『マタイ受難曲』ですね。千歳様のお好きだった曲です」
「あなたは千歳様って人に会ったことがあるの?」
「えぇ、もちろんですとも。私の元々の主は千歳様でございます」
「え、そうなの?」
「はい。あの方が当館の主だった頃、つまり文章様がまだ幼かった頃に私はここに参りましたので」
「ねぇ、千歳様ってどんな人? ずっと気になってたんだけど、文章の家族ってそのおばあ様だけなの? ご両親は?」
ふふっとエドガーが噴き出した。
「三蔵殿は開き直ったときの強さが似ていると仰っておりましたが、私には、そうやって質問を立て続けになさるところが、なんだか千歳様に似ていると思われます」
「私と似ているの?」
「えぇ、そうですね。どことなくですけれど。ですから文章様も快く登場人物たちを貸し出しているんだと思います」
「どんな人なの?」
「千歳様は医学・薬学博士として天才の名を欲しいままにした方ですよ」
エドガーが懐かしむように目を細めた。
「目元が文章様に似ているでしょうか。とても快活な方でした。旦那様も世界的な科学者でしたが、とても物静かな方で、正反対な性格のお二人が一緒にいるのも不思議なものだと思いましたよ」
「ふぅん」と相づちを打ち、日向がしげしげと彼を見つめる。
エドガーは若いとは言えない風貌だったが、とてもしなやかな体つきをしていて、動きも身軽だ。この不思議な館に何十年いるのだろうと思いをはせた。
「エドガー、あなた家族はいるの?」
そっと彼は首を横に振った。
「いいえ。父も母も覚えておりません。兄妹はおりましたが行方は知れず、気がつけばこの館におりました」
「あなたもここに迷い込んだのね?」
「えぇ、千歳様が身寄りのない私を引き取ってくださったんです。とてもお優しい方で、彼女の膝の上はとても心地よかったですよ」
「ひ、膝の上?」
とっさに奇妙な妄想が頭を駆け巡り、日向が顔を真っ赤にさせる。すると、エドガーが「あぁ」と苦笑した。
「変な意味ではありませんよ」
そして、少し考えてからこう切り出した。
「そうですね、私に関することくらいはお話してもいいでしょう」
固唾をのんでいると、彼の鈍い金色の目がすっと細くなる。
「あなたは先ほど、物事を受け入れるために知りたがりましたね」
「え、えぇ」
「この館にこれからもいるんだとしたら、知っておいたほうがきっと過ごしやすいでしょう」
そして、彼はこう言った。
「私のエドガーという名をつけてくださったのも千歳様です。何故かわかります?」
「さぁ」
「エドガー・アラン・ポーには『黒猫』という作品がありましてね。それにちなんだわけです。私は黒猫なのですよ」
「く、黒猫? あなたが?」
思わず素っ頓狂な声を上げると、彼が愉快そうに笑った。
「驚きますよね」
どこからどう見ても、人のよさそうな初老の男だ。顔にヒゲがあるわけでもないし、手の爪も人間のものだし、もちろんしっぽがあるわけでもない。
「以前、私は登場人物を呼び出せるのは文章様だけだと申しましたね」
「えぇ」
「あれは嘘ではないんですが、すべてでもありません」
「というと?」
日向が彼の言葉を待つ。極上の秘密を打ち明けられているようで、わくわくした。
「私にも文章様のように想像を現実にできる力はございます。けれど、私は文字が読めないので、本を読んだことがないのです。というわけで、登場人物を呼び出したくても呼び出せないのですよ」
「じゃあ、あなたが呼び出せるのは?」
すっと優雅な手つきで、彼は自分の胸に手を当てた。
「私自身です。私は黒猫の体では文章様のお力になれないと考え、もしも人間の体があったならと想像したんです。その結果がこの姿でした」
そういえば彼は歩くときに、一切の足音をたてない。なにやら腑に落ちたような気もするし、にわかには信じられないような気もする。
「じゃあ、黒猫の体はどこにあるの?」
「この館のある場所にございます」
思わず、日向の口からため息がもれた。
「よかったわ、あなたにネギを食べさせないで済んで」
彼女は昨日、エドガーにも夕食を作ろうとしたのだが遠慮されたのを思い出していた。中にはネギを使った料理などもあったのだが、猫にネギは禁忌だ。
「茹でたささみなら、時々はいただけたら嬉しいです」
おどけたエドガーに、思わず笑う。
「あ、じゃあ、栞さんは? 彼女は呼び出されたほうだって言ってたけど、正体はなんなの?」
「それは……」
エドガーが口を開きかけたとき、厨房の入り口から「栞よ」と声が聞こえた。顔を向けると、栞が熟れた桃でいっぱいのカゴを手に立っていた。
「し、栞さん!」
「さん付けでなくていいわ。まどろっこしいでしょ。これから長いつきあいになるかもしれないんだし」
相変わらずの仏頂面でそう言いながら歩み寄る。調理台にカゴを置くと、桃を一つ手にとって日向に手渡した。
「これ、ディコンからあなたに。植物園で採れた桃よ。蟠桃園の桃には負けるかもしれないけれど、なかなかの出来でしょ」
「あ、ありがとう……」
呆気にとられていると、栞が肩をすくめた。
「もうディコンに会ったのね」
「えぇ、今朝。とてもよくしてくれたわ」
「そりゃあ、そうね」
ふんと鼻を鳴らす栞が、まじまじと日向を見つめる。
「……私の正体に驚かないのね。少しは度胸ついてきたのかしら」
「へ?」
「だから、私の正体が栞だって知っても驚かなかったでしょ?」
「へ? え? さっきの『栞よ』は『栞さんではなく栞って呼べ』って意味じゃなくて? もしかして本に挟む栞が正体なの?」
「なんだ、わかってなかったの」
「だって、言葉が足りないんだもの」
「私は元々、文章様のお母様が愛用していた栞なの。なんでも安倍晴明に式神のことを教わって真似してみたら、私を呼び出してしまったそうよ」
驚き呆れる日向に、エドガーが笑いをかみ殺している。
「日向がここに長くいたら、栞の愛想も少しはよくなるかもしれませんね。栞は話をする相手がいなさすぎるんですよ」
さりげなく名前で呼ばれたことに気づき、日向は少し胸の奥がじんとした。
この漂流図書館はがらんとして寂しい気もする。元の世界に帰りたい気持ちに変わりはない。けれど、ここの住人たちはとても自然に自分と接してくれるのが嬉しくもあった。
「なんだか、ここの人たちはすんなりと私を受け入れてくれるのね」
思わずぽろりとこぼれ落ちた言葉に、栞が「そりゃあね」と頷く。彼女は壁にかけられていたエプロンを手に取った。どうやら夕食作りを手伝うつもりらしい。
「それは日向がこの世界の住人として認められているからよ」
「この世界って?」
「だから、この漂流図書館という存在のある世界よ」
栞は手際よくレンコンを飾り切りしながら、呟く。
「あなたが連れて行った登場人物は向こうの世界で実体を持てなかったでしょ?」
そう言われ、自分だけでなくピーターや悟空も誰の目にも触れないでいたのを思い出す。栞が切ったレンコンを酢水に放ちながら続けた。
「その世界では招かれざる客人だからよ。無理矢理行ったから、その世界に干渉することを許されていないの」
「でも、それじゃ時々ここに迷い込む人に貸し出した場合はどうなるの?」
「ちゃんと自分で帰り道がある人は元の世界の住人だから、その住人に契約された登場人物もそこで力を発揮できるの。けど、あなたはまだこの図書館を出ることを許されていないから。わかる?」
「つまり、私が誰の手も借りずに元の世界に戻れるときに登場人物を借りたら、そのときは向こうの世界でも力を借りられるってこと?」
「そういうこと」
栞が答え、小さなため息を漏らした。エドガーはそれを見て小さく笑ってあとを続けた。
「人は誰しも、その世界に属する契約をしているものです。それを越えて、異世界に干渉する権限はないようにできているのですよ、世界というものは。あなたは、今はこの漂流図書館の住人なので、ここの者たちも心を許しているのですね」
日向は胸をわくわくさせながら、エドガーに訊ねた。
「ねぇ、今までどんな人がどんな登場人物を借りていったの? 向こうの世界からどうやってここに返すの?」
「いろんな人がいました。たとえば『三国志』の呂布《りょふ》を呼び出して仇討ちをした者もおりました。赤兎馬《せきとば》はそれは見事な馬でしたよ」
「仇討ちって……つまり……」
口元をひきつらせる日向に、栞が無言のまま首の前で指をスライドさせた。エドガーが肩をすくめる。
「他にも光源氏に恋敵を誘惑させたり、ヘルメスに盗みを働かせたり、いいことのために登場人物を借りていく人も少ないですがね」
「なんだか残念な話ね」
「もっとも、すべてがそうではありませんよ。飼い犬が迷子になったから助けて欲しいとドリトル先生を連れて行った子どももいました。不眠症の母親の気持ちを紛らわそうとシェヘラザードに物語をねだった若者もいましたね」
「へぇ」
相づちを打つものの、あまり本を読まずにいた日向には誰が誰だかわからない。正直にそう言うと、栞が鍋に天ぷら油をしきながら答えた。
「これからはいくらでも時間があるんだから、好きなだけ読めばいいわ。何事も始めるのに遅すぎることなんてないのよ」
「それはどこのことわざ?」
「私の言葉よ」
栞が鍋を火にかけながら言った。
「私もそうしているの。文章様が本や文字以外のことも教えてくれる。最近はボタニカルアートを始めたの。文章様は優しくて、とっても寂しがりよ。だから、本当はあなたにここにいて欲しいくせに、納得して留まると決めてくれるまで力になってくれるはずよ」
ふと、あのすみれ色の瞳を思い出した。最初は怖く感じた目がそう思わなくなったのは、そういう部分を感じ取ったからなのだろうか。
エドガーが小さく呟く。
「文章様のご両親がまずお亡くなりになり、次いで旦那様、最後に千歳様が帰らぬ身となりました。想像を現実にできるとはいっても、死んだ者には何も届きませんし、どうすることもできません。文章様は今や天涯孤独。そしてこの漂流図書館に閉じ込められた身です。終わりがあるのかすらわからない、気が遠くなるような日々を送っているのです」
日向の胸が締め付けられた。エドガーはそんな彼女にいたわるような目を向ける。
「また母親と一緒にいられる可能性のあるあなたが羨ましくもあり、自分の代わりに救ってあげたい気持ちでもあるのですよ」
「……彼は、本当に登場人物を貸してくれるかしら?」
本当にここにいて欲しいと願うのなら、自分に協力してくれるものか。もし、彼が貸さないと決めたなら、母も自分もこのままだけれど、自分は知りたくない出来事を知らずに済むのではないか。そんなことを考えた日向は思わずうつむいた。
日向は少し、怖くなっていたのだ。自分と母に何が起こったか知るのが。
先ほど文章に言った言葉は嘘ではない。きっと、それは日向が知らなければならない事実だ。だけれど、同時に知らなくていいこともあるんじゃないかという気もしてきた。あの健司のなめるような目を思い出すだけで悪寒が走る。文章の言うように、知らないままでいれば安穏としていられることもあるのだ。
だが、栞がそんな日向を切り捨てる。
「もし貸し出さなければ、あなたが元の世界に戻れないのを文章様のせいにして自分を納得させるつもり? それとも自分に何があったか知るのが怖いから文章様のせいにして逃げたいの?」
日向はぎくりとした。
「文章様はそんなに度量の狭い方ではないわ。みくびらないで。きっと、あなたのために最適な登場人物を考えているはずよ」
「……私、もちろん戻りたくはあるけれど」
日向が呟き、ふっと一息ついてから、こう切り出した。
「私ね、本当の両親の名前も顔も思い出せない。それだけじゃなくて、もしかしたら、ペットはいたのか、誰と友達だったか、そんなことも自分では気付かないだけで、本当は記憶をばらまいて忘れているかもしれないのよね」
自分で口にしながら、思わず身震いをした。
「ずっとここにいるなら、何も知らないほうが元の世界をこれ以上恋しいと思わなくていいのかもしれないとも思うの。全部記憶を拾い集めて、もし帰り道をなくすだけなら、余計辛いもの」
そう言いながらも、彼女にはわかっていた。知るべきなのだ。本を読むように、出来事を紐解いて知ること。それこそが自分の居場所がどこか受け入れるための道なのだと頭ではわかっていた。何より大事なのは、目をそらさない覚悟だとも。
「もし、ここにいることになっても、協力してくれた彼は嫌いになれないと思うわ」
なぜ、彼の目が怖かったのか、今ではわかる。彼の瞳に映っていた、自分の知らない自分が怖かったのだ。
けれど、今ではその向こうに孤独や優しさが見えそうな気がした。たった数日前は無性に彼に苛立っていたが、今は不思議と腹が立たない。それどころか少しの憐憫すら感じる。
日向は手にしていた野菜をそっとなでた。食事は一人より二人がいい。そう言う文章の抱える孤独に、身に覚えがないわけではなかった。自分もそう願って生きてきたのだから。
厨房に漂う湯気と油の匂いが、日向の心をゆっくりと落ち着かせていた。
食事の支度を調えた日向は、文章と三蔵、そして悟空のいる一室に案内されて呆気にとられた。
「なんで部屋の中にこんなものが……」
扉を開けると、そこにあるのは枯山水だった。その中央には畳が敷いてあって、朱色の橋で繋がっている。
その畳の上で文章たちが座布団に座ってくつろいでいた。左側に文章と三蔵が並び、向かいに悟空がいる。悟空の隣に座布団があるのは、そこが日向の席だということらしかった。
「やぁ、待ちかねたよ。今日の献立はなにかな」
文章がそう言うと、エドガーが膳を運び出した。日向はおずおずと悟空の隣に座る。
「これは立派なお斎だなぁ」
悟空は嬉しそうに、そら豆を炊き込んだご飯の湯気を吸い込んでいる。
椀は湯葉のお吸い物だった。胡麻豆腐、レンコンの揚げ物、かぼちゃの煮物、にんじんのきんぴら、なすの漬け物が膳を彩っている。そして、ディコンがくれた桃を文章が嬉しそうに見つめていた。
「いただきます」
恭しく礼をする三蔵に思わずつられて頭を下げると、日向もお吸い物を手に取った。
それぞれが箸をすすめるたびに、どうやら口に合ったようだと、ほっと胸をなで下ろす。文章が最後の桃をゆっくり味わっているときなど、言葉がなくても彼が桃をどれだけ好きか伝わってしまい、思わず噴き出しそうになってしまった。
日向は満足そうな悟空を横目で見やり、ふと思う。
真朝に食事を作っているときは、もちろん「美味しい」と言う顔が見たい気持ちもあった。けれど、それよりも義務感のほうが強かったように思える。少しでも真朝の力になりたくて。少しでも経済的に負担をかけたくなくて。
店のお通しもそうだ。それを食べる客の喜ぶ顔なんて、一度も思い浮かべたことがない。予算内で飽きのこない品を毎日用意するだけで、誰かのために作るという気持ちがすっかり欠けていた気がした。
ほんのりとした塩気のそら豆ご飯を噛みしめながら、初めてこの漂流図書館に来てよかったと思えたことに、日向は驚いていた。
来たくて来たわけではない。文章の言うように、来るべくして来たのだとしても。ただ、料理を作る人間として大事なことをここで学べたと思ったのだ。
皮肉なものだと思う。元の世界に戻れるかわからないのに、これから料理人を目指すために必要なことを学ぶだなんて。
これから店で働いたとき、きっと不条理なことや理不尽なこともあるんだろう。もしかしたら自分が目指したい料理と店で出したい料理の方針が違うこともあるかもしれない。それでも、今のこの瞬間が自分を支えてくれるような予感がしていた。
大事そうに一口一口、箸をすすめている三蔵。満足げにお吸い物の香りを嗅いでいる悟空。そして桃の瑞々しさに笑みを浮かべる文章。彼らの姿を見ていると、もっと、こんな風に『作ってよかった』と思える料理をしてくるべきだったと、悔いが沸き起こる。思えば、何かにいつも追われていたような気がする。時間なのか。お金なのか。厄介者になりたくない負い目なのか、それとも……。
日向は目を伏せる。もしかしたら自分は、真朝の本当の娘という虚ろな存在に勝手に張り合おうともがいていたに過ぎないのかもしれない、と。
「おや、日向。なんだか少しすっきりした顔をしているね」
文章が目を細める。その仕草は、すべてを見透かしているようで、今までなら、日向をそわそわした気分にさせていたものだ。だが、彼がそういう目元をしたとき、そこに慈しみのようなものが滲むことに、今更ながら気がついたのだった。
「えぇ、ほんの少しだけど、すっきりしたわ」
そう答えて、彼女は桃を頬張る。櫛形に切られた桃の汁気が心まで甘く潤すようだった。少なくとも義務感だけで料理を作っていた自分よりは、マシな人間になったような気がした。
三蔵と悟空は本に戻る間際、日向に深々と礼をした。
「あんたのお斎は最高だったって、みんなに言っておくよ。ありがとう」
「悟空、礼を言うのはこちらよ。ありがとう」
初めて料理をする醍醐味に気付かされたようだった。深々と礼をしたとき、文章の指がパチンと鳴る。日向が顔を上げたときには、三蔵も悟空の姿もなかった。
食事が終わると、エドガーが膳をさげ、入れ替わりに栞がお茶を用意してくれた。
漂流図書館を出てからの出来事を詳しく話すと、文章が「ふむ」と顎をさする。
「やはり、結構な記憶をばらまいて来たんだね、君は」
そして、こう言いながら指折り数える。
「容疑者はいくらでもいる。ぱっと思い浮かぶだけでいくつかの可能性があるよ。まず笑子だ。君の母親と恋人を襲ったのは、彼女だとするのが妥当だろうね。だが、もしかしたら母親がアパートに向かっている間に第三者が店に来たと考えてもおかしくはない」
「第三者ってたとえば?」
「知るもんか。ただ、可能性の話だよ。それに、恋人の上に母親が覆い被さっていたんだろう? 恋人を襲ったのは母親かもしれないし、母親はその後で他の誰かに襲われたということも考えられるんだ」
「そんな、お母さんがなんで健司さんを襲うのよ? 第一、どうやって? 力の差もあるだろうし……」
「襲うといっても、出血がひどいらしいということしかわからないじゃないか。刃物で切りつけたのか、鈍器で殴打したのかもわからない。僕はこういう確証のない話は好きじゃないんだけれど」
そう言うと、にやりと唇の端をつり上げた。
「もしかしたら、君かもしれないよ」
「はぁ? やめてよ! 喧嘩うってんの?」
思わずムッとすると、彼が飄々と肩をすくめる。
「だって、記憶をずいぶんとなくしているんだから、違うなんて言い切れない。実際、健司という男が色目を使ってきて嫌っていたという動機になりそうな事実もあるし。それすら忘れているんだから、自分が健司を襲っていないとは言い切れないだろう?」
ぐっと言葉に詰まる。だが、それでも首を横に振った。
「確かにあの男は気持ち悪かったけれど、そこまでしないわ。だって意識不明になるまで出血するってことは、つまり……殺そうとしたのよね?」
口にしてから、思わず身震いする。何故、こんなことに母も自分も巻き込まれなければならなかったのだろう。
「とにかく……悟空の話では図書館がまた動き始めたらしいからね。元の世界に記憶をたどっていけるのも、次が最後だと思ったほうがいい」
文章の『とにかく』という言葉にハッとする。母の口癖を思い出したのだ。
「そういえば、お母さんは? どうしてる?」
ここでどんなに気をもんでも仕方ないとはいえ、井戸のそばに立つ真朝が心配なことには変わりはない。たとえ、死人と同然で声も届かないとしても。
すると、栞が腕組みをし、とんとんと指を動かしている。
「あいかわらず、立ち尽くしているわ。どうして自分がここにいるのかわかってないんでしょうけど、あそこにいるってことは、元の世界でもまだ意識が戻ってないでしょうね」
「そう……」
日向はほっとしたような、いたたまれないような複雑な心境になる。たとえ姿が消えたとしても、元の世界に戻らずに死後の世界に行ってしまう可能性もあるのだから、気が抜けない。
「ねぇ、最後に向こうの世界に戻って、何があったか知ることが出来ても、私も母も戻れるかはわからないのよね?」
「そうだね。怖いかい?」
「そうね。怖いわ」
素直に認めると、日向がくっと自嘲する。
「でも、とにかく、もがいてみなきゃ始まらないと思うの」
そう、とにかく……絶対に、だ。
「叔母とはいえ、本当の母親ではない人のためにそこまで強くなれるものなのかい?」
「母のためだけじゃないわ」
真朝がぐっと拳を強く握りしめる。
「私が自分を従えるためよ」
ここにいるしかないとしても、どう時間を過ごすかを自分自身で決めるため。そのために、うだうだ考えるだけではなく、とにかく動こうと彼女は心に刻んだのだ。
文章がふふ、と笑う。
「アメリカ合衆国の第十六代大統領リンカーンは『人間は四十を越すと、誰でも自分の顔に責任を持たねばならぬ』と言っているが、別に四十にならなくてもそうだと思うね、僕は」
不意にそう言うと、彼がすっと唇をつり上げた。
「ここに来たばかりの君の顔はね、物事を他者のせいにする悲劇のヒロインみたいなところがあったけれど、たった数日でずいぶん肝が据わったね」
「あのね、そりゃいきなりこんな境遇になったら、誰だってパニックでしょうが」
眉間にしわを寄せると、彼が人差し指を揺らして「チッチッチ」と舌を鳴らす。
「ここに迷い込んだことだけじゃなくて、すべてにおいてそんな考え方をしている顔だったんだよ。たとえば母が自分を愛しているかわからないのは、自分が本当の娘じゃないからだと勝手に負い目を感じていたんだろ? そのくせ、母親の本当の気持ちを知るのが怖くて目をそらしていたんじゃないかい?」
ぐさりと突き刺さるような言葉だった。だが、それに非難することも抗議することもできない。多分、そうだと思うからだ。なぜなら、母がどんな目で自分を見ていたか、思い出せないのだ。
おそらく調理師専門学校にすすんだ一番の理由は、そこにある。料理に感銘を受けたからではない。料理人に憧れたわけでもない。ただただ真朝の力になれること、自分でもすぐできること、そして彼女に認めてもらうことで手っ取り早いと思ったのが料理だっただけなのだろう。
初めて真朝にご飯を作ったとき、三蔵たちに振る舞ったときのように感動したのかもしれない。もしかしたら、「美味しいよ。すごいね」と真朝が笑ってくれたのかもしれない。でも、そこにあるのは母に振り向いて欲しい願いなのだろうと、そんな気がしていた。
「だからこそ、私は今度こそ、自分で道を決めるのよ! どんなことでも、甘んじて受け入れるために」
「よろしい。それでこそ、君だ」
文章がポケットから呼び鈴を取り出す。
「なかなか当館の一員にふさわしい顔つきだよ、日向」
そしてあの鈴の音とともに自分の魂が体から分離するのを感じた。倒れかけた体をエドガーが支えてくれて、座布団の上に横たえてくれている。
「さて、準備は整った」
そう言うやいなや、彼は栞に向かって手を差し出した。一方の栞は音もなく歩み寄ると、なにやら一冊の古びた本を手渡す。満足げにその表紙を見つめると、彼はそれを目の前に置き、呼び鈴を一振りした。すっかり耳に馴染んでしまった音色が今一度、日向の鼓膜をふるわせる。
「姫、おいで願いたく存じます」
慇懃に請う文章に応えるように、本から白い靄が浮かび上がる。次第にそれはすらりとした人の形に変わり、やがて姿を現したのは長い黒髪の若い女性だった。その身を包むのは、教科書でいつか見た十二単のようだ。
「文章、久しいな」
まばゆいほどの白い肌と美しい顔をしている。つややかな唇からこぼれた言葉は、歌のように甘い響きを帯びて耳に飛び込んでくる。
思わず惚けた日向に、文章が笑う。
「姫、ご紹介します。こちらが新しい料理人の榊日向です」
慌てて礼をすると、姫と呼ばれた女性がひさしのような睫毛の目を伏せた。
「榊……それで、こんなところまで来たわけか」
「おそらく、そのせいもあるでしょうね。難儀な一族です」
何を言っているのかきょとんとしていると、文章が『なんでもない』と言いたげに眉を上げた。
「日向、こちらは『なよ竹のかぐや姫』だよ」
日向の口があんぐりと開いたままになる。
「かぐや姫の空飛ぶ車が一番早いと思いましてね。なにせ月の世界まで走るんですから」
「それはそうじゃが、珍しいこともあるものよ。いくら妾《わらわ》がお主の顔を見たいと願っても呼び出してくれぬくせに」
少しばかり恨めしそうに見つめるが、その目にはぞくりとするような艶っぽさがある。だが、文章にはちっともなびく様子がなかった。
「姫が月の世界でおかした罪を教えてくださらないうちは、僕はあなたのものにはりませんとお答えしたではありませんか」
かぐや姫は月の世界に帰るために五人の求婚者や帝まで退けたが、この姫はどうやら文章が気に入っているようだ。日向が驚いていると、姫が上機嫌に笑う。
「ふふ、それでよい。指の間からすり抜ける月の光のようなところがいいのじゃ、お主は」
そして、ゆっくりと日向を見やった。
「して、この者を連れて行けばいいのじゃな?」
「えぇ。車が早い分、少しでも長く向こうにいられるでしょうし」
「月の者は、地上は汚れていると嫌な顔をするだろうがの」
彼女は手にしていた扇をパチンと鳴らす。
「よいよい。退屈していたところじゃ。余興になるかわからぬがの」
かぐや姫が「では行くか」と言うと、どこからともなく雲に乗った車があらわれた。まるで『源氏物語』にでも出てきそうな御簾のついた車だ。
「てっきりかぐや姫って羽衣で飛んでいったんだと思ったけど、違うのね」
思わず口走ると、文章が笑う。
「かぐや姫の羽衣は身につけると人間らしい心をなくしてしまう、月の世界の者の象徴ともいうものだね。車に乗って帰ったんだよ、姫は」
そして、彼は恭しくかぐや姫に礼をした。
「日向をよろしくお願いしますね、姫」
「よいよい。千歳殿には古本屋で破れたまま放置されていた妾を引き取って修繕までしてくださった恩義がある。その孫の願いとあれば、尽力しよう」
彼女の強気なところは文章の祖母の影響かもしれないと、密かに納得する。そんな日向を尻目に、かぐや姫がエドガーに手を添えられながら車に乗り込んだ。
「では、参るぞ、日向とやら」
慌てて車に乗り込むと、ぎしっと軋む音に若干の不安を感じる。だが、なにやらかぐわしい香りに包まれてすぐに気持ちが落ち着いていった。
ふわりと体が宙に浮くような感覚が走る。そうかと思えば、御簾の向こうがもう真っ白だ。
「なにをぼんやりしておる。もう靄の中じゃ。お主の記憶をたどるぞ。行きたいほうを指し示せ」
「へ? あ、はい」
間抜けな声を出しつつも、慌てて御簾越しに目をこらす。なんとなく気になるほうに車を走らせていくと、遠くからまた小さな光が見えた。
「あ、あれだ」
そう呟いた途端、光の粒が日向に迫り来る。あっという間に光に呑み込まれる日向を、かぐや姫が興味深そうに見ていた。
光の向こうに見えたのは流れゆく景色だった。
白い霧を突き進み、駆けていく。そこは飲み屋街の、見慣れた景色だ。駐車場から店に続くいつもの道を抜け、日向は母の店のドアノブに手をかけた。
だが、扉は開かない。ポケットのキーケースを取り出し、店の鍵をあけようとした。
焦っているのかうまく鍵穴に入らない。やっと扉を開けたと同時に、日向は自分の口から「ひっ」という悲鳴が漏れるのを聞いた。
店は少し暗めの照明でいつも通りだった。ただ違うのは、床に倒れこむ人影があったことだ。健司が横倒れになっており、赤黒い血だまりができかけていた。そして、そこに覆い被さるようにしている母の背中がある。だが、その顔は見えず、気絶しているのかすらわからない。
日向を襲ったのは恐怖だった。すうっと血の気が引き、重力が消えるような意識の遠のきを感じた。
襲う目眩をこらえる。わななく唇から「警察……警察呼ばなきゃ」と言葉が漏れた。
次の瞬間、彼女の胸がハッと衝かれ、手がポケットをたぐる。その中で指先に触れたのは、真朝のSDカードだった。
日向は「落ち着け」と唱えると、扉の鍵をしめて歩き出した。誰もいない通りでも、誰が見ているかわからないのが飲み屋街だと知る彼女は、焦る気持ちを必死におさえ、早歩きでいく。つんのめりながら進むと、途中でふと顔を上げた。
そしていつもなら素通りする横道に迷わず足を踏み入れたのだ。少しでも早く駐車場へ行かねば。少しでも早くこれを捨てなければ。そんな一心で。
お気に入りの靴のつま先がアスファルトにこすれるのも、普段なら怖いと思う暗がりも一切意識せず、彼女は霧に包まれた横道に消えていった。
やがて駐車場へ戻ると、自分の車の運転席に座るやいなや、大きな息を吐き出した。
「あぁ!」
叫び声は二つ響いた。一つは記憶の中で。そしてもう一つは記憶から我に返った日向の口元で。
大きく胸で息をする日向を、かぐや姫が目を細めて見つめていた。
「参った」
記憶の欠片から醒めた日向がうめく。
「私は殺してはいないけれど、見殺しにはしたのかもしれない」
思わず髪をかきむしる。かぐや姫に見たことを話すと、彼女が呆れ顔になった。
「すぐに警察と救急車を呼んでいれば、母親の容態は少しはよかったかもしれぬな。それにあそこで逃げたら、自分がやったと思われても不思議ではないぞ、愚か者め」
「わかってるけれど、しょうがないわ」
思わずため息が漏れた。それでもあのときの自分はカードをなんとかしようとしたのだ。いつもは通らない横道で近道してまで早く車に戻ろうとした。
ふと、日向が顔を上げる。
「そうか、きっとあのときの横道が記憶の最後なんだ」
おそらく、あの横道を進んだところから先の記憶をばらまいたのだろう。だからあのあとを何も覚えていないし、横道を通って漂流図書館にたどり着いたような気がしたのだ。では一体自分はどこでずぶ濡れになったのだろうか。
かぐや姫がやれやれと首を振る。
「地上の者はややこしい。気が動転するというのはどういうものなのかのう。何故そのようなことをするのか理解できぬわ」
「私にだってわからないわよ、覚えてなかったんだから」
自嘲した途端、車が白い靄の壁に突っ込む。
今度が最後のチャンスだと思いながら、彼女は唇を噛みしめた。
「自分が何をしたのか、きちんと見届けられたらいいけど」
彼女は、これが本当に見納めにならないことを祈って呟いたのだった。
日向は野菜を洗いながら、ふっと辺りを見回した。暖炉のほうへ窓からの西日がさし、光の帯を空中に描いている。天井の高い厨房には調理器具のたてる物音とともに、どこからともなく聞こえる音楽が響いていた。クラシックのようだが、彼女には何の曲かもわからない。それでも、うっとりする旋律だった。
もちろん帰りたいとは思うけれど、この厨房の雰囲気はなんだか妙に落ち着いて好きだと彼女は思い始めていた。
三蔵と悟空のために野菜中心の料理をしながら、日向が口を開く。
「ねぇ、エドガーさん」
「あぁ、エドガーと呼んでくださって結構ですよ」
すり鉢で胡麻をする手を止めてエドガーが顔を上げる。
「えと……じゃあ、エドガー」
「はい」
「この音楽は?」
「文章様が鑑賞なさっているのでしょう。バッハの『マタイ受難曲』ですね。千歳様のお好きだった曲です」
「あなたは千歳様って人に会ったことがあるの?」
「えぇ、もちろんですとも。私の元々の主は千歳様でございます」
「え、そうなの?」
「はい。あの方が当館の主だった頃、つまり文章様がまだ幼かった頃に私はここに参りましたので」
「ねぇ、千歳様ってどんな人? ずっと気になってたんだけど、文章の家族ってそのおばあ様だけなの? ご両親は?」
ふふっとエドガーが噴き出した。
「三蔵殿は開き直ったときの強さが似ていると仰っておりましたが、私には、そうやって質問を立て続けになさるところが、なんだか千歳様に似ていると思われます」
「私と似ているの?」
「えぇ、そうですね。どことなくですけれど。ですから文章様も快く登場人物たちを貸し出しているんだと思います」
「どんな人なの?」
「千歳様は医学・薬学博士として天才の名を欲しいままにした方ですよ」
エドガーが懐かしむように目を細めた。
「目元が文章様に似ているでしょうか。とても快活な方でした。旦那様も世界的な科学者でしたが、とても物静かな方で、正反対な性格のお二人が一緒にいるのも不思議なものだと思いましたよ」
「ふぅん」と相づちを打ち、日向がしげしげと彼を見つめる。
エドガーは若いとは言えない風貌だったが、とてもしなやかな体つきをしていて、動きも身軽だ。この不思議な館に何十年いるのだろうと思いをはせた。
「エドガー、あなた家族はいるの?」
そっと彼は首を横に振った。
「いいえ。父も母も覚えておりません。兄妹はおりましたが行方は知れず、気がつけばこの館におりました」
「あなたもここに迷い込んだのね?」
「えぇ、千歳様が身寄りのない私を引き取ってくださったんです。とてもお優しい方で、彼女の膝の上はとても心地よかったですよ」
「ひ、膝の上?」
とっさに奇妙な妄想が頭を駆け巡り、日向が顔を真っ赤にさせる。すると、エドガーが「あぁ」と苦笑した。
「変な意味ではありませんよ」
そして、少し考えてからこう切り出した。
「そうですね、私に関することくらいはお話してもいいでしょう」
固唾をのんでいると、彼の鈍い金色の目がすっと細くなる。
「あなたは先ほど、物事を受け入れるために知りたがりましたね」
「え、えぇ」
「この館にこれからもいるんだとしたら、知っておいたほうがきっと過ごしやすいでしょう」
そして、彼はこう言った。
「私のエドガーという名をつけてくださったのも千歳様です。何故かわかります?」
「さぁ」
「エドガー・アラン・ポーには『黒猫』という作品がありましてね。それにちなんだわけです。私は黒猫なのですよ」
「く、黒猫? あなたが?」
思わず素っ頓狂な声を上げると、彼が愉快そうに笑った。
「驚きますよね」
どこからどう見ても、人のよさそうな初老の男だ。顔にヒゲがあるわけでもないし、手の爪も人間のものだし、もちろんしっぽがあるわけでもない。
「以前、私は登場人物を呼び出せるのは文章様だけだと申しましたね」
「えぇ」
「あれは嘘ではないんですが、すべてでもありません」
「というと?」
日向が彼の言葉を待つ。極上の秘密を打ち明けられているようで、わくわくした。
「私にも文章様のように想像を現実にできる力はございます。けれど、私は文字が読めないので、本を読んだことがないのです。というわけで、登場人物を呼び出したくても呼び出せないのですよ」
「じゃあ、あなたが呼び出せるのは?」
すっと優雅な手つきで、彼は自分の胸に手を当てた。
「私自身です。私は黒猫の体では文章様のお力になれないと考え、もしも人間の体があったならと想像したんです。その結果がこの姿でした」
そういえば彼は歩くときに、一切の足音をたてない。なにやら腑に落ちたような気もするし、にわかには信じられないような気もする。
「じゃあ、黒猫の体はどこにあるの?」
「この館のある場所にございます」
思わず、日向の口からため息がもれた。
「よかったわ、あなたにネギを食べさせないで済んで」
彼女は昨日、エドガーにも夕食を作ろうとしたのだが遠慮されたのを思い出していた。中にはネギを使った料理などもあったのだが、猫にネギは禁忌だ。
「茹でたささみなら、時々はいただけたら嬉しいです」
おどけたエドガーに、思わず笑う。
「あ、じゃあ、栞さんは? 彼女は呼び出されたほうだって言ってたけど、正体はなんなの?」
「それは……」
エドガーが口を開きかけたとき、厨房の入り口から「栞よ」と声が聞こえた。顔を向けると、栞が熟れた桃でいっぱいのカゴを手に立っていた。
「し、栞さん!」
「さん付けでなくていいわ。まどろっこしいでしょ。これから長いつきあいになるかもしれないんだし」
相変わらずの仏頂面でそう言いながら歩み寄る。調理台にカゴを置くと、桃を一つ手にとって日向に手渡した。
「これ、ディコンからあなたに。植物園で採れた桃よ。蟠桃園の桃には負けるかもしれないけれど、なかなかの出来でしょ」
「あ、ありがとう……」
呆気にとられていると、栞が肩をすくめた。
「もうディコンに会ったのね」
「えぇ、今朝。とてもよくしてくれたわ」
「そりゃあ、そうね」
ふんと鼻を鳴らす栞が、まじまじと日向を見つめる。
「……私の正体に驚かないのね。少しは度胸ついてきたのかしら」
「へ?」
「だから、私の正体が栞だって知っても驚かなかったでしょ?」
「へ? え? さっきの『栞よ』は『栞さんではなく栞って呼べ』って意味じゃなくて? もしかして本に挟む栞が正体なの?」
「なんだ、わかってなかったの」
「だって、言葉が足りないんだもの」
「私は元々、文章様のお母様が愛用していた栞なの。なんでも安倍晴明に式神のことを教わって真似してみたら、私を呼び出してしまったそうよ」
驚き呆れる日向に、エドガーが笑いをかみ殺している。
「日向がここに長くいたら、栞の愛想も少しはよくなるかもしれませんね。栞は話をする相手がいなさすぎるんですよ」
さりげなく名前で呼ばれたことに気づき、日向は少し胸の奥がじんとした。
この漂流図書館はがらんとして寂しい気もする。元の世界に帰りたい気持ちに変わりはない。けれど、ここの住人たちはとても自然に自分と接してくれるのが嬉しくもあった。
「なんだか、ここの人たちはすんなりと私を受け入れてくれるのね」
思わずぽろりとこぼれ落ちた言葉に、栞が「そりゃあね」と頷く。彼女は壁にかけられていたエプロンを手に取った。どうやら夕食作りを手伝うつもりらしい。
「それは日向がこの世界の住人として認められているからよ」
「この世界って?」
「だから、この漂流図書館という存在のある世界よ」
栞は手際よくレンコンを飾り切りしながら、呟く。
「あなたが連れて行った登場人物は向こうの世界で実体を持てなかったでしょ?」
そう言われ、自分だけでなくピーターや悟空も誰の目にも触れないでいたのを思い出す。栞が切ったレンコンを酢水に放ちながら続けた。
「その世界では招かれざる客人だからよ。無理矢理行ったから、その世界に干渉することを許されていないの」
「でも、それじゃ時々ここに迷い込む人に貸し出した場合はどうなるの?」
「ちゃんと自分で帰り道がある人は元の世界の住人だから、その住人に契約された登場人物もそこで力を発揮できるの。けど、あなたはまだこの図書館を出ることを許されていないから。わかる?」
「つまり、私が誰の手も借りずに元の世界に戻れるときに登場人物を借りたら、そのときは向こうの世界でも力を借りられるってこと?」
「そういうこと」
栞が答え、小さなため息を漏らした。エドガーはそれを見て小さく笑ってあとを続けた。
「人は誰しも、その世界に属する契約をしているものです。それを越えて、異世界に干渉する権限はないようにできているのですよ、世界というものは。あなたは、今はこの漂流図書館の住人なので、ここの者たちも心を許しているのですね」
日向は胸をわくわくさせながら、エドガーに訊ねた。
「ねぇ、今までどんな人がどんな登場人物を借りていったの? 向こうの世界からどうやってここに返すの?」
「いろんな人がいました。たとえば『三国志』の呂布《りょふ》を呼び出して仇討ちをした者もおりました。赤兎馬《せきとば》はそれは見事な馬でしたよ」
「仇討ちって……つまり……」
口元をひきつらせる日向に、栞が無言のまま首の前で指をスライドさせた。エドガーが肩をすくめる。
「他にも光源氏に恋敵を誘惑させたり、ヘルメスに盗みを働かせたり、いいことのために登場人物を借りていく人も少ないですがね」
「なんだか残念な話ね」
「もっとも、すべてがそうではありませんよ。飼い犬が迷子になったから助けて欲しいとドリトル先生を連れて行った子どももいました。不眠症の母親の気持ちを紛らわそうとシェヘラザードに物語をねだった若者もいましたね」
「へぇ」
相づちを打つものの、あまり本を読まずにいた日向には誰が誰だかわからない。正直にそう言うと、栞が鍋に天ぷら油をしきながら答えた。
「これからはいくらでも時間があるんだから、好きなだけ読めばいいわ。何事も始めるのに遅すぎることなんてないのよ」
「それはどこのことわざ?」
「私の言葉よ」
栞が鍋を火にかけながら言った。
「私もそうしているの。文章様が本や文字以外のことも教えてくれる。最近はボタニカルアートを始めたの。文章様は優しくて、とっても寂しがりよ。だから、本当はあなたにここにいて欲しいくせに、納得して留まると決めてくれるまで力になってくれるはずよ」
ふと、あのすみれ色の瞳を思い出した。最初は怖く感じた目がそう思わなくなったのは、そういう部分を感じ取ったからなのだろうか。
エドガーが小さく呟く。
「文章様のご両親がまずお亡くなりになり、次いで旦那様、最後に千歳様が帰らぬ身となりました。想像を現実にできるとはいっても、死んだ者には何も届きませんし、どうすることもできません。文章様は今や天涯孤独。そしてこの漂流図書館に閉じ込められた身です。終わりがあるのかすらわからない、気が遠くなるような日々を送っているのです」
日向の胸が締め付けられた。エドガーはそんな彼女にいたわるような目を向ける。
「また母親と一緒にいられる可能性のあるあなたが羨ましくもあり、自分の代わりに救ってあげたい気持ちでもあるのですよ」
「……彼は、本当に登場人物を貸してくれるかしら?」
本当にここにいて欲しいと願うのなら、自分に協力してくれるものか。もし、彼が貸さないと決めたなら、母も自分もこのままだけれど、自分は知りたくない出来事を知らずに済むのではないか。そんなことを考えた日向は思わずうつむいた。
日向は少し、怖くなっていたのだ。自分と母に何が起こったか知るのが。
先ほど文章に言った言葉は嘘ではない。きっと、それは日向が知らなければならない事実だ。だけれど、同時に知らなくていいこともあるんじゃないかという気もしてきた。あの健司のなめるような目を思い出すだけで悪寒が走る。文章の言うように、知らないままでいれば安穏としていられることもあるのだ。
だが、栞がそんな日向を切り捨てる。
「もし貸し出さなければ、あなたが元の世界に戻れないのを文章様のせいにして自分を納得させるつもり? それとも自分に何があったか知るのが怖いから文章様のせいにして逃げたいの?」
日向はぎくりとした。
「文章様はそんなに度量の狭い方ではないわ。みくびらないで。きっと、あなたのために最適な登場人物を考えているはずよ」
「……私、もちろん戻りたくはあるけれど」
日向が呟き、ふっと一息ついてから、こう切り出した。
「私ね、本当の両親の名前も顔も思い出せない。それだけじゃなくて、もしかしたら、ペットはいたのか、誰と友達だったか、そんなことも自分では気付かないだけで、本当は記憶をばらまいて忘れているかもしれないのよね」
自分で口にしながら、思わず身震いをした。
「ずっとここにいるなら、何も知らないほうが元の世界をこれ以上恋しいと思わなくていいのかもしれないとも思うの。全部記憶を拾い集めて、もし帰り道をなくすだけなら、余計辛いもの」
そう言いながらも、彼女にはわかっていた。知るべきなのだ。本を読むように、出来事を紐解いて知ること。それこそが自分の居場所がどこか受け入れるための道なのだと頭ではわかっていた。何より大事なのは、目をそらさない覚悟だとも。
「もし、ここにいることになっても、協力してくれた彼は嫌いになれないと思うわ」
なぜ、彼の目が怖かったのか、今ではわかる。彼の瞳に映っていた、自分の知らない自分が怖かったのだ。
けれど、今ではその向こうに孤独や優しさが見えそうな気がした。たった数日前は無性に彼に苛立っていたが、今は不思議と腹が立たない。それどころか少しの憐憫すら感じる。
日向は手にしていた野菜をそっとなでた。食事は一人より二人がいい。そう言う文章の抱える孤独に、身に覚えがないわけではなかった。自分もそう願って生きてきたのだから。
厨房に漂う湯気と油の匂いが、日向の心をゆっくりと落ち着かせていた。
食事の支度を調えた日向は、文章と三蔵、そして悟空のいる一室に案内されて呆気にとられた。
「なんで部屋の中にこんなものが……」
扉を開けると、そこにあるのは枯山水だった。その中央には畳が敷いてあって、朱色の橋で繋がっている。
その畳の上で文章たちが座布団に座ってくつろいでいた。左側に文章と三蔵が並び、向かいに悟空がいる。悟空の隣に座布団があるのは、そこが日向の席だということらしかった。
「やぁ、待ちかねたよ。今日の献立はなにかな」
文章がそう言うと、エドガーが膳を運び出した。日向はおずおずと悟空の隣に座る。
「これは立派なお斎だなぁ」
悟空は嬉しそうに、そら豆を炊き込んだご飯の湯気を吸い込んでいる。
椀は湯葉のお吸い物だった。胡麻豆腐、レンコンの揚げ物、かぼちゃの煮物、にんじんのきんぴら、なすの漬け物が膳を彩っている。そして、ディコンがくれた桃を文章が嬉しそうに見つめていた。
「いただきます」
恭しく礼をする三蔵に思わずつられて頭を下げると、日向もお吸い物を手に取った。
それぞれが箸をすすめるたびに、どうやら口に合ったようだと、ほっと胸をなで下ろす。文章が最後の桃をゆっくり味わっているときなど、言葉がなくても彼が桃をどれだけ好きか伝わってしまい、思わず噴き出しそうになってしまった。
日向は満足そうな悟空を横目で見やり、ふと思う。
真朝に食事を作っているときは、もちろん「美味しい」と言う顔が見たい気持ちもあった。けれど、それよりも義務感のほうが強かったように思える。少しでも真朝の力になりたくて。少しでも経済的に負担をかけたくなくて。
店のお通しもそうだ。それを食べる客の喜ぶ顔なんて、一度も思い浮かべたことがない。予算内で飽きのこない品を毎日用意するだけで、誰かのために作るという気持ちがすっかり欠けていた気がした。
ほんのりとした塩気のそら豆ご飯を噛みしめながら、初めてこの漂流図書館に来てよかったと思えたことに、日向は驚いていた。
来たくて来たわけではない。文章の言うように、来るべくして来たのだとしても。ただ、料理を作る人間として大事なことをここで学べたと思ったのだ。
皮肉なものだと思う。元の世界に戻れるかわからないのに、これから料理人を目指すために必要なことを学ぶだなんて。
これから店で働いたとき、きっと不条理なことや理不尽なこともあるんだろう。もしかしたら自分が目指したい料理と店で出したい料理の方針が違うこともあるかもしれない。それでも、今のこの瞬間が自分を支えてくれるような予感がしていた。
大事そうに一口一口、箸をすすめている三蔵。満足げにお吸い物の香りを嗅いでいる悟空。そして桃の瑞々しさに笑みを浮かべる文章。彼らの姿を見ていると、もっと、こんな風に『作ってよかった』と思える料理をしてくるべきだったと、悔いが沸き起こる。思えば、何かにいつも追われていたような気がする。時間なのか。お金なのか。厄介者になりたくない負い目なのか、それとも……。
日向は目を伏せる。もしかしたら自分は、真朝の本当の娘という虚ろな存在に勝手に張り合おうともがいていたに過ぎないのかもしれない、と。
「おや、日向。なんだか少しすっきりした顔をしているね」
文章が目を細める。その仕草は、すべてを見透かしているようで、今までなら、日向をそわそわした気分にさせていたものだ。だが、彼がそういう目元をしたとき、そこに慈しみのようなものが滲むことに、今更ながら気がついたのだった。
「えぇ、ほんの少しだけど、すっきりしたわ」
そう答えて、彼女は桃を頬張る。櫛形に切られた桃の汁気が心まで甘く潤すようだった。少なくとも義務感だけで料理を作っていた自分よりは、マシな人間になったような気がした。
三蔵と悟空は本に戻る間際、日向に深々と礼をした。
「あんたのお斎は最高だったって、みんなに言っておくよ。ありがとう」
「悟空、礼を言うのはこちらよ。ありがとう」
初めて料理をする醍醐味に気付かされたようだった。深々と礼をしたとき、文章の指がパチンと鳴る。日向が顔を上げたときには、三蔵も悟空の姿もなかった。
食事が終わると、エドガーが膳をさげ、入れ替わりに栞がお茶を用意してくれた。
漂流図書館を出てからの出来事を詳しく話すと、文章が「ふむ」と顎をさする。
「やはり、結構な記憶をばらまいて来たんだね、君は」
そして、こう言いながら指折り数える。
「容疑者はいくらでもいる。ぱっと思い浮かぶだけでいくつかの可能性があるよ。まず笑子だ。君の母親と恋人を襲ったのは、彼女だとするのが妥当だろうね。だが、もしかしたら母親がアパートに向かっている間に第三者が店に来たと考えてもおかしくはない」
「第三者ってたとえば?」
「知るもんか。ただ、可能性の話だよ。それに、恋人の上に母親が覆い被さっていたんだろう? 恋人を襲ったのは母親かもしれないし、母親はその後で他の誰かに襲われたということも考えられるんだ」
「そんな、お母さんがなんで健司さんを襲うのよ? 第一、どうやって? 力の差もあるだろうし……」
「襲うといっても、出血がひどいらしいということしかわからないじゃないか。刃物で切りつけたのか、鈍器で殴打したのかもわからない。僕はこういう確証のない話は好きじゃないんだけれど」
そう言うと、にやりと唇の端をつり上げた。
「もしかしたら、君かもしれないよ」
「はぁ? やめてよ! 喧嘩うってんの?」
思わずムッとすると、彼が飄々と肩をすくめる。
「だって、記憶をずいぶんとなくしているんだから、違うなんて言い切れない。実際、健司という男が色目を使ってきて嫌っていたという動機になりそうな事実もあるし。それすら忘れているんだから、自分が健司を襲っていないとは言い切れないだろう?」
ぐっと言葉に詰まる。だが、それでも首を横に振った。
「確かにあの男は気持ち悪かったけれど、そこまでしないわ。だって意識不明になるまで出血するってことは、つまり……殺そうとしたのよね?」
口にしてから、思わず身震いする。何故、こんなことに母も自分も巻き込まれなければならなかったのだろう。
「とにかく……悟空の話では図書館がまた動き始めたらしいからね。元の世界に記憶をたどっていけるのも、次が最後だと思ったほうがいい」
文章の『とにかく』という言葉にハッとする。母の口癖を思い出したのだ。
「そういえば、お母さんは? どうしてる?」
ここでどんなに気をもんでも仕方ないとはいえ、井戸のそばに立つ真朝が心配なことには変わりはない。たとえ、死人と同然で声も届かないとしても。
すると、栞が腕組みをし、とんとんと指を動かしている。
「あいかわらず、立ち尽くしているわ。どうして自分がここにいるのかわかってないんでしょうけど、あそこにいるってことは、元の世界でもまだ意識が戻ってないでしょうね」
「そう……」
日向はほっとしたような、いたたまれないような複雑な心境になる。たとえ姿が消えたとしても、元の世界に戻らずに死後の世界に行ってしまう可能性もあるのだから、気が抜けない。
「ねぇ、最後に向こうの世界に戻って、何があったか知ることが出来ても、私も母も戻れるかはわからないのよね?」
「そうだね。怖いかい?」
「そうね。怖いわ」
素直に認めると、日向がくっと自嘲する。
「でも、とにかく、もがいてみなきゃ始まらないと思うの」
そう、とにかく……絶対に、だ。
「叔母とはいえ、本当の母親ではない人のためにそこまで強くなれるものなのかい?」
「母のためだけじゃないわ」
真朝がぐっと拳を強く握りしめる。
「私が自分を従えるためよ」
ここにいるしかないとしても、どう時間を過ごすかを自分自身で決めるため。そのために、うだうだ考えるだけではなく、とにかく動こうと彼女は心に刻んだのだ。
文章がふふ、と笑う。
「アメリカ合衆国の第十六代大統領リンカーンは『人間は四十を越すと、誰でも自分の顔に責任を持たねばならぬ』と言っているが、別に四十にならなくてもそうだと思うね、僕は」
不意にそう言うと、彼がすっと唇をつり上げた。
「ここに来たばかりの君の顔はね、物事を他者のせいにする悲劇のヒロインみたいなところがあったけれど、たった数日でずいぶん肝が据わったね」
「あのね、そりゃいきなりこんな境遇になったら、誰だってパニックでしょうが」
眉間にしわを寄せると、彼が人差し指を揺らして「チッチッチ」と舌を鳴らす。
「ここに迷い込んだことだけじゃなくて、すべてにおいてそんな考え方をしている顔だったんだよ。たとえば母が自分を愛しているかわからないのは、自分が本当の娘じゃないからだと勝手に負い目を感じていたんだろ? そのくせ、母親の本当の気持ちを知るのが怖くて目をそらしていたんじゃないかい?」
ぐさりと突き刺さるような言葉だった。だが、それに非難することも抗議することもできない。多分、そうだと思うからだ。なぜなら、母がどんな目で自分を見ていたか、思い出せないのだ。
おそらく調理師専門学校にすすんだ一番の理由は、そこにある。料理に感銘を受けたからではない。料理人に憧れたわけでもない。ただただ真朝の力になれること、自分でもすぐできること、そして彼女に認めてもらうことで手っ取り早いと思ったのが料理だっただけなのだろう。
初めて真朝にご飯を作ったとき、三蔵たちに振る舞ったときのように感動したのかもしれない。もしかしたら、「美味しいよ。すごいね」と真朝が笑ってくれたのかもしれない。でも、そこにあるのは母に振り向いて欲しい願いなのだろうと、そんな気がしていた。
「だからこそ、私は今度こそ、自分で道を決めるのよ! どんなことでも、甘んじて受け入れるために」
「よろしい。それでこそ、君だ」
文章がポケットから呼び鈴を取り出す。
「なかなか当館の一員にふさわしい顔つきだよ、日向」
そしてあの鈴の音とともに自分の魂が体から分離するのを感じた。倒れかけた体をエドガーが支えてくれて、座布団の上に横たえてくれている。
「さて、準備は整った」
そう言うやいなや、彼は栞に向かって手を差し出した。一方の栞は音もなく歩み寄ると、なにやら一冊の古びた本を手渡す。満足げにその表紙を見つめると、彼はそれを目の前に置き、呼び鈴を一振りした。すっかり耳に馴染んでしまった音色が今一度、日向の鼓膜をふるわせる。
「姫、おいで願いたく存じます」
慇懃に請う文章に応えるように、本から白い靄が浮かび上がる。次第にそれはすらりとした人の形に変わり、やがて姿を現したのは長い黒髪の若い女性だった。その身を包むのは、教科書でいつか見た十二単のようだ。
「文章、久しいな」
まばゆいほどの白い肌と美しい顔をしている。つややかな唇からこぼれた言葉は、歌のように甘い響きを帯びて耳に飛び込んでくる。
思わず惚けた日向に、文章が笑う。
「姫、ご紹介します。こちらが新しい料理人の榊日向です」
慌てて礼をすると、姫と呼ばれた女性がひさしのような睫毛の目を伏せた。
「榊……それで、こんなところまで来たわけか」
「おそらく、そのせいもあるでしょうね。難儀な一族です」
何を言っているのかきょとんとしていると、文章が『なんでもない』と言いたげに眉を上げた。
「日向、こちらは『なよ竹のかぐや姫』だよ」
日向の口があんぐりと開いたままになる。
「かぐや姫の空飛ぶ車が一番早いと思いましてね。なにせ月の世界まで走るんですから」
「それはそうじゃが、珍しいこともあるものよ。いくら妾《わらわ》がお主の顔を見たいと願っても呼び出してくれぬくせに」
少しばかり恨めしそうに見つめるが、その目にはぞくりとするような艶っぽさがある。だが、文章にはちっともなびく様子がなかった。
「姫が月の世界でおかした罪を教えてくださらないうちは、僕はあなたのものにはりませんとお答えしたではありませんか」
かぐや姫は月の世界に帰るために五人の求婚者や帝まで退けたが、この姫はどうやら文章が気に入っているようだ。日向が驚いていると、姫が上機嫌に笑う。
「ふふ、それでよい。指の間からすり抜ける月の光のようなところがいいのじゃ、お主は」
そして、ゆっくりと日向を見やった。
「して、この者を連れて行けばいいのじゃな?」
「えぇ。車が早い分、少しでも長く向こうにいられるでしょうし」
「月の者は、地上は汚れていると嫌な顔をするだろうがの」
彼女は手にしていた扇をパチンと鳴らす。
「よいよい。退屈していたところじゃ。余興になるかわからぬがの」
かぐや姫が「では行くか」と言うと、どこからともなく雲に乗った車があらわれた。まるで『源氏物語』にでも出てきそうな御簾のついた車だ。
「てっきりかぐや姫って羽衣で飛んでいったんだと思ったけど、違うのね」
思わず口走ると、文章が笑う。
「かぐや姫の羽衣は身につけると人間らしい心をなくしてしまう、月の世界の者の象徴ともいうものだね。車に乗って帰ったんだよ、姫は」
そして、彼は恭しくかぐや姫に礼をした。
「日向をよろしくお願いしますね、姫」
「よいよい。千歳殿には古本屋で破れたまま放置されていた妾を引き取って修繕までしてくださった恩義がある。その孫の願いとあれば、尽力しよう」
彼女の強気なところは文章の祖母の影響かもしれないと、密かに納得する。そんな日向を尻目に、かぐや姫がエドガーに手を添えられながら車に乗り込んだ。
「では、参るぞ、日向とやら」
慌てて車に乗り込むと、ぎしっと軋む音に若干の不安を感じる。だが、なにやらかぐわしい香りに包まれてすぐに気持ちが落ち着いていった。
ふわりと体が宙に浮くような感覚が走る。そうかと思えば、御簾の向こうがもう真っ白だ。
「なにをぼんやりしておる。もう靄の中じゃ。お主の記憶をたどるぞ。行きたいほうを指し示せ」
「へ? あ、はい」
間抜けな声を出しつつも、慌てて御簾越しに目をこらす。なんとなく気になるほうに車を走らせていくと、遠くからまた小さな光が見えた。
「あ、あれだ」
そう呟いた途端、光の粒が日向に迫り来る。あっという間に光に呑み込まれる日向を、かぐや姫が興味深そうに見ていた。
光の向こうに見えたのは流れゆく景色だった。
白い霧を突き進み、駆けていく。そこは飲み屋街の、見慣れた景色だ。駐車場から店に続くいつもの道を抜け、日向は母の店のドアノブに手をかけた。
だが、扉は開かない。ポケットのキーケースを取り出し、店の鍵をあけようとした。
焦っているのかうまく鍵穴に入らない。やっと扉を開けたと同時に、日向は自分の口から「ひっ」という悲鳴が漏れるのを聞いた。
店は少し暗めの照明でいつも通りだった。ただ違うのは、床に倒れこむ人影があったことだ。健司が横倒れになっており、赤黒い血だまりができかけていた。そして、そこに覆い被さるようにしている母の背中がある。だが、その顔は見えず、気絶しているのかすらわからない。
日向を襲ったのは恐怖だった。すうっと血の気が引き、重力が消えるような意識の遠のきを感じた。
襲う目眩をこらえる。わななく唇から「警察……警察呼ばなきゃ」と言葉が漏れた。
次の瞬間、彼女の胸がハッと衝かれ、手がポケットをたぐる。その中で指先に触れたのは、真朝のSDカードだった。
日向は「落ち着け」と唱えると、扉の鍵をしめて歩き出した。誰もいない通りでも、誰が見ているかわからないのが飲み屋街だと知る彼女は、焦る気持ちを必死におさえ、早歩きでいく。つんのめりながら進むと、途中でふと顔を上げた。
そしていつもなら素通りする横道に迷わず足を踏み入れたのだ。少しでも早く駐車場へ行かねば。少しでも早くこれを捨てなければ。そんな一心で。
お気に入りの靴のつま先がアスファルトにこすれるのも、普段なら怖いと思う暗がりも一切意識せず、彼女は霧に包まれた横道に消えていった。
やがて駐車場へ戻ると、自分の車の運転席に座るやいなや、大きな息を吐き出した。
「あぁ!」
叫び声は二つ響いた。一つは記憶の中で。そしてもう一つは記憶から我に返った日向の口元で。
大きく胸で息をする日向を、かぐや姫が目を細めて見つめていた。
「参った」
記憶の欠片から醒めた日向がうめく。
「私は殺してはいないけれど、見殺しにはしたのかもしれない」
思わず髪をかきむしる。かぐや姫に見たことを話すと、彼女が呆れ顔になった。
「すぐに警察と救急車を呼んでいれば、母親の容態は少しはよかったかもしれぬな。それにあそこで逃げたら、自分がやったと思われても不思議ではないぞ、愚か者め」
「わかってるけれど、しょうがないわ」
思わずため息が漏れた。それでもあのときの自分はカードをなんとかしようとしたのだ。いつもは通らない横道で近道してまで早く車に戻ろうとした。
ふと、日向が顔を上げる。
「そうか、きっとあのときの横道が記憶の最後なんだ」
おそらく、あの横道を進んだところから先の記憶をばらまいたのだろう。だからあのあとを何も覚えていないし、横道を通って漂流図書館にたどり着いたような気がしたのだ。では一体自分はどこでずぶ濡れになったのだろうか。
かぐや姫がやれやれと首を振る。
「地上の者はややこしい。気が動転するというのはどういうものなのかのう。何故そのようなことをするのか理解できぬわ」
「私にだってわからないわよ、覚えてなかったんだから」
自嘲した途端、車が白い靄の壁に突っ込む。
今度が最後のチャンスだと思いながら、彼女は唇を噛みしめた。
「自分が何をしたのか、きちんと見届けられたらいいけど」
彼女は、これが本当に見納めにならないことを祈って呟いたのだった。
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