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第7章 もろびと手をとり、歩き出せ
人生、そうはうまくいかない
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五月の総会が過ぎると、商店街はもう夏祭りに向けて話し合いが始まっていた。
父親の体調が悪いときには、俺が代理人として理事会に参加していた。
夏祭りでは、商店街は歩行者天国になる。道の真ん中に飲み食いが出来るようにベンチとテーブルが設置され、出店と催しものを楽しんでもらうのだ。
六月にもなると、俺と亮は手分けして手続きや準備に追われていた。
道路関係は警察署、飲食物は保健所に申請しなければならない。通行止めにするから、警備員もつける。出店で誰が何を出すかを決める。
そして一番難儀するのは、催しものだ。木製のステージを商店街の一角に用意して、出し物をするのだが、これに出演してくれる人を探すのが大変なのだ。
今年決まっているのは、花屋の美希さんが所属するジャズ愛好会のメンバーによる演奏と、地元の高校生のダンス、そして商店街にあるギター教室の合奏だった。欲を言えば、もう少し趣向の違う催しものも欲しいところだった。
ある日、吐き気がするという父親の代わりに理事会に出席してみると、その日の議題もやはり催しものをどうするかだった。
洋子さんが大きなため息をつく。
「こういうとき、自分に人脈がないって痛感するわね」
花屋の美希さんも頷いている。
「洋子さんはギター教室の先生に声をかけてくれたじゃないですか。人脈がないのは私も同じですよ」
「あらぁ、美希さんはジャズ愛好会を紹介してくれたじゃない」
「でも、これじゃ午前の部は埋まっても、午後の部が寂しいですよ。音楽の他にも、何か盛り上がりそうなものが欲しいですよね。こう、大会みたいな」
「そうは言ってもねぇ。ビールをストローで早飲みする大会ってどう?」
亮が「ストローはきついな」と苦笑しながら聞いている。
すると、ずっと黙っていた吉川さんがおずおずと切り出した。
「あのさ、それもいいんだけどさ」
一斉に彼に視線が集まる。
「うちの将棋クラブから有志を募ってさ、将棋大会も出来るかな?」
洋子さんが目を丸くした。
「将棋?」
「いやな、俺に出来ることってそれくらいだから」
確かに、吉川さんは夏祭りの話し合いで、今まで一つも案を出していなかった。
大野さんが「ううん」と小さく唸った。
「将棋大会っていうことは、トーナメントですか?」
「いや、それだと時間がかかるだろ? だから普通の対局じゃなくて、短い時間制限を設けて、くずし将棋とか簡単なものにしたら、子どもたちでも参加できるんじゃないかな」
亮が身を乗り出す。
「そういえば、子ども向けの催しものがありませんでしたよね」
「大人が出てもいいから、その場に居合わせた人をステージに引っ張りあげればいいんじゃないか? 賞品は多めに用意してさ、一度勝てばお菓子とかジュースをもらえるようにしてあげたら、喜ぶんじゃないかねぇ。ちょっと地味かなぁ?」
彼なりに力になりたいのだろう。その気持ちが嬉しくて、みんなで顔を見合わせた。誰もが笑みを浮かべ、そして輝いて見えた。
やっぱり、俺たちは少し前向きなれた気がする。それがなにより俺の胸を熱くした。
亮が「よし」と膝を打った。
「じゃあ、俺はオケのメンバーに協力してもらって、演奏しますよ。アニソンとか童謡とか、子どもに喜んでもらえる音楽をやったらどうかな。お年寄り向けに演歌でもいいですけど」
洋子さんが「わあ」と歓声を上げる。
「亮君が演奏するところを見れるのね」
すると、美希さんが「よし、私もやるわ」と唇を結んだ。
「私、歌う!」
俺が「へっ?」と驚いていると、吉川さんが「憲坊、知らないのか」と笑った。
「美希ちゃんはな、若い頃、東京で歌手をしていたんだ」
「ええ? 初耳!」
「有名アーティストのバックコーラスをしてたんだぞ」
しかし、洋子さんは心配そうに美希さんを見た。
「でもさ、美希ちゃん。あんた、花屋に嫁いだときに歌手は引退したから、二度と歌わないって言ってたのに」
「いいの、洋子さん。歌いたいの。ぜひ、歌わせて」
美希さんが感極まったように、言った。
「歌うのをやめたのは未練が残るからなの。でも、今までさ、うちの商店街がこんなにやる気になってるの見たことないじゃない。吉川さんが自分から案を出すなんて、私、なんだか感動してさ」
彼女はじんわりと目を潤ませ、感嘆のため息を漏らした。吉川さんは「うるせぇや」と言いながらも、照れくさそうにしている。
「駅ビルが出来たらどうしようって不安はあるけど、でも、みんなとだったら、なんとかなる気がするの。それってすごいことだなって思ったら、何かやらずにはいられない」
美希さんはジャズ愛好会の演奏のラストで歌声を披露することになった。
俺は一人、じっと議事録を見つめながら考え込んでいた。
「俺は、何が出来るだろう?」
思わず呟くと、亮が「愚問だな」と真顔で返してきた。
「お前にはカメラがあるだろう。お前と親父さんには撮影係になってもらうから、覚悟しておけよ」
「撮影係?」
「実はな、この前の話し合いで、商店街のホームページを立ち上げることになったんだ。そこで使う写真を、親父さんと手分けして撮ってくれ」
「今度も綺麗に撮ってね」
「おいおい、洋子さん、また念入りに化粧してくるんじゃないだろうな?」
「なんか悪いのかい」
「まぁまぁ、女心ですよねぇ」
「そうよ、美希ちゃん、あなた、今いいこと言った!」
賑わう声を聞きながら、感慨深い気持ちになった。夢も何もなかったはずの俺に、今ではカメラがある。しかもいつの間にかそれが俺の武器になっているなんて。
そんな中、大野さんがよく通る声で言った。
「憲史君、頼りにしてますよ」
「はい!」
人に認めてもらうことが、こんなに嬉しいことだなんて、今まで知らなかった。うっかり泣きそうになって、つい唇を噛んでしまう俺を、大野さんが優しい目で見ていた。
理事会から帰った俺はベッドに寝転んでいたが、ふと、あることを思いついて携帯電話を手にした。
「もしもし、今、話していいか?」
電話の相手は英知だった。
「大丈夫。どうした?」
「ちょっと提案というか、お願いがあるんだ」
英知は自分を計算高いと言うけれど、俺だってそうだ。だって、亮の力になりたい気持ちを知っていて、こうして電話するんだからな。最後に、そう英知に話すと、彼は笑うばかりだった。
夏祭りが近づいてきた。
街のいたるところで夏祭りのポスターを見かけるようになり、祭りの詳細をまとめた割引券つきの小冊子が各家庭に配られた。
アルバイトが休みで店番をしていた俺は、カウンターに座りながら、そわそわと自動ドアの向こうを見つめていた。
今日は里緒さんが奥田書店に勤務している日だ。あと少しで仕事を終えて出て来る。そこを呼び止めて、夏祭りに誘おうと心に決めていた。
父親が撮影している間、ほんの数時間だけど、それでも彼女と少しでも一緒に過ごしたい。それに、この商店街をもっと知ってほしい。そう思っていた。
俺のエゴかもしれないけれど、そうでもしない限り、なかなか会えないんだ。葵ちゃんのこともあるから、デートに誘うにしても難しく考えてしまい、実行できずにいた。
退勤時間が近づくにつれ、心臓がどくどく跳ね、手が汗ばんできた。
きっと、大丈夫だ。商店街のことだって、カメラのことだって、なんとか上向きになってきたじゃないか。恋愛だって、きっと大丈夫だ。自分にそう言い聞かせてはみるものの、ちっとも大丈夫じゃない。緊張のあまり、喉がカラカラだ。
「来た」
思わず呟き、パイプ椅子から立ち上がる。でも、怖気付いて足が動かない。両手で膝頭を強く叩き、自分を奮い立たせた。
自動ドアを出ると、遠ざかりつつあった背中を呼び止めた。
「里緒さん!」
走り寄ると、里緒さんが振り向いて笑顔になった。
「あ、こんにちは。なんだかお久しぶりですね」
顔を見る程度の機会はあれど、こうして面と向かって話すチャンスはなかなかないんだ。
「憲史さんが札幌で働いてるし、商店街の手伝いもあって、忙しそうですもんね」
「はぁ、そうなんです」
でも、このまま里緒さんと過ごす時間を逃し続けるのはもうたくさんだ。この数ヶ月、商店街のみんなや麻美さんと過ごしたことで、里緒さんと、そして葵ちゃんとも向き合う自信をもらったんだ。
俺はぐっと拳を握りしめ、彼女に言った。
「里緒さん、夏祭りがあるんですけど、俺と一緒に見てまわりませんか?」
「えっ?」
「いや、親父と交代で撮影係なんで、数時間しかいられませんけど、葵ちゃんも遊びに来てくれないかなって」
「あぁ、葵がね、憲史さんに会いたいって言ってました」
「俺もですよ。あ、もし夏祭りが都合悪いようだったら、その、九月にある神社祭りでもどうです?」
舞い上がってしまって、言葉が口から勝手に飛び出る。いや、俺も葵ちゃんに会いたいけど、でも、そうじゃなくて、ここはビシッと言わなきゃいけない。
「里緒さん」
「はい?」
いつになく真面目な声になった俺に、里緒さんがきょとんとする。
「俺、里緒さんともっと一緒にいたいんです!」
思い切って言うと、彼女の目が見開かれた。俺の顔が真っ赤になっていくのがわかる。
すると、彼女ははにかみながらも、目を伏せた。
「あの、ごめんなさい。実は、お祭りは一緒に行く人がいるんです」
頭の上に石を落とされたような気分だった。
「あ、お友達ですか?」
「いえ、その……一緒に暮らしてる人がいるんです」
「それって、つまり……」
里緒さんは申し訳なさそうな顔をしながらも、頬を赤らめた。
「実は、秋に再婚するんですよ」
一瞬、意識がどこかに飛んでいったような気がした。
「お相手は小児科医なんですけど、葵とも仲良く過ごしてくれるし、離婚してしばらくたつから、そろそろ籍を入れようかって話になっていて」
「それは……おめでとうございます」
ぼうっとしながらも、やっと呟くように言った。里緒さんは「ありがとうございます」と頭を下げた。
「店長にはこれからお話しようと思ってるんです」
「あ、じゃあ、仕事は? 辞めちゃうんですか?」
「いえ、続けていきたいと思ってます。その、店長さえよければの話ですけど」
「そうですか……」
力なく返事をしてから、慌てて声を張った。
「いや、でも本当よかったですね。あの、葵ちゃんも嬉しいんじゃないですか?」
娘の名前に、彼女は顔を綻ばせた。
「そうなんです。やっと新しいパパができるって喜んでくれて。彼ともとっても仲良しなんですよ」
「そっかぁ」
ハンバーグ店での葵ちゃんを思い出し、失恋真っ最中だというのに、笑みがこぼれてしまった。あの子が俺でなくても笑うなら、思い切りお父さんに甘えられるなら、それでいいか。そう思えた。
「苗字も変わるんですか?」
「えぇ、岩井になります」
「おめでとうございます。じゃあ、夏祭りは家族で来てくださいね」
泣きそうだ。本当なら、俺が彼女と葵ちゃんの間で手を繋ぎたかった。けれど、こればかりは仕方ない。俺は自分のことで手一杯で、彼女に向かっていく余裕も持てなかった。その結果が、これなんだから。
「楽しみにしてますね。それじゃあ」
里緒さんはお辞儀をして、踵を返した。その手を取って引き寄せ、力一杯抱きしめたいのを、ぐっと堪えた。
「人生、そうはうまくいかないから人生なんだな」
ぼそりと呟くと、乾いた笑いを浮かべて店に戻っていったのだった。
父親の体調が悪いときには、俺が代理人として理事会に参加していた。
夏祭りでは、商店街は歩行者天国になる。道の真ん中に飲み食いが出来るようにベンチとテーブルが設置され、出店と催しものを楽しんでもらうのだ。
六月にもなると、俺と亮は手分けして手続きや準備に追われていた。
道路関係は警察署、飲食物は保健所に申請しなければならない。通行止めにするから、警備員もつける。出店で誰が何を出すかを決める。
そして一番難儀するのは、催しものだ。木製のステージを商店街の一角に用意して、出し物をするのだが、これに出演してくれる人を探すのが大変なのだ。
今年決まっているのは、花屋の美希さんが所属するジャズ愛好会のメンバーによる演奏と、地元の高校生のダンス、そして商店街にあるギター教室の合奏だった。欲を言えば、もう少し趣向の違う催しものも欲しいところだった。
ある日、吐き気がするという父親の代わりに理事会に出席してみると、その日の議題もやはり催しものをどうするかだった。
洋子さんが大きなため息をつく。
「こういうとき、自分に人脈がないって痛感するわね」
花屋の美希さんも頷いている。
「洋子さんはギター教室の先生に声をかけてくれたじゃないですか。人脈がないのは私も同じですよ」
「あらぁ、美希さんはジャズ愛好会を紹介してくれたじゃない」
「でも、これじゃ午前の部は埋まっても、午後の部が寂しいですよ。音楽の他にも、何か盛り上がりそうなものが欲しいですよね。こう、大会みたいな」
「そうは言ってもねぇ。ビールをストローで早飲みする大会ってどう?」
亮が「ストローはきついな」と苦笑しながら聞いている。
すると、ずっと黙っていた吉川さんがおずおずと切り出した。
「あのさ、それもいいんだけどさ」
一斉に彼に視線が集まる。
「うちの将棋クラブから有志を募ってさ、将棋大会も出来るかな?」
洋子さんが目を丸くした。
「将棋?」
「いやな、俺に出来ることってそれくらいだから」
確かに、吉川さんは夏祭りの話し合いで、今まで一つも案を出していなかった。
大野さんが「ううん」と小さく唸った。
「将棋大会っていうことは、トーナメントですか?」
「いや、それだと時間がかかるだろ? だから普通の対局じゃなくて、短い時間制限を設けて、くずし将棋とか簡単なものにしたら、子どもたちでも参加できるんじゃないかな」
亮が身を乗り出す。
「そういえば、子ども向けの催しものがありませんでしたよね」
「大人が出てもいいから、その場に居合わせた人をステージに引っ張りあげればいいんじゃないか? 賞品は多めに用意してさ、一度勝てばお菓子とかジュースをもらえるようにしてあげたら、喜ぶんじゃないかねぇ。ちょっと地味かなぁ?」
彼なりに力になりたいのだろう。その気持ちが嬉しくて、みんなで顔を見合わせた。誰もが笑みを浮かべ、そして輝いて見えた。
やっぱり、俺たちは少し前向きなれた気がする。それがなにより俺の胸を熱くした。
亮が「よし」と膝を打った。
「じゃあ、俺はオケのメンバーに協力してもらって、演奏しますよ。アニソンとか童謡とか、子どもに喜んでもらえる音楽をやったらどうかな。お年寄り向けに演歌でもいいですけど」
洋子さんが「わあ」と歓声を上げる。
「亮君が演奏するところを見れるのね」
すると、美希さんが「よし、私もやるわ」と唇を結んだ。
「私、歌う!」
俺が「へっ?」と驚いていると、吉川さんが「憲坊、知らないのか」と笑った。
「美希ちゃんはな、若い頃、東京で歌手をしていたんだ」
「ええ? 初耳!」
「有名アーティストのバックコーラスをしてたんだぞ」
しかし、洋子さんは心配そうに美希さんを見た。
「でもさ、美希ちゃん。あんた、花屋に嫁いだときに歌手は引退したから、二度と歌わないって言ってたのに」
「いいの、洋子さん。歌いたいの。ぜひ、歌わせて」
美希さんが感極まったように、言った。
「歌うのをやめたのは未練が残るからなの。でも、今までさ、うちの商店街がこんなにやる気になってるの見たことないじゃない。吉川さんが自分から案を出すなんて、私、なんだか感動してさ」
彼女はじんわりと目を潤ませ、感嘆のため息を漏らした。吉川さんは「うるせぇや」と言いながらも、照れくさそうにしている。
「駅ビルが出来たらどうしようって不安はあるけど、でも、みんなとだったら、なんとかなる気がするの。それってすごいことだなって思ったら、何かやらずにはいられない」
美希さんはジャズ愛好会の演奏のラストで歌声を披露することになった。
俺は一人、じっと議事録を見つめながら考え込んでいた。
「俺は、何が出来るだろう?」
思わず呟くと、亮が「愚問だな」と真顔で返してきた。
「お前にはカメラがあるだろう。お前と親父さんには撮影係になってもらうから、覚悟しておけよ」
「撮影係?」
「実はな、この前の話し合いで、商店街のホームページを立ち上げることになったんだ。そこで使う写真を、親父さんと手分けして撮ってくれ」
「今度も綺麗に撮ってね」
「おいおい、洋子さん、また念入りに化粧してくるんじゃないだろうな?」
「なんか悪いのかい」
「まぁまぁ、女心ですよねぇ」
「そうよ、美希ちゃん、あなた、今いいこと言った!」
賑わう声を聞きながら、感慨深い気持ちになった。夢も何もなかったはずの俺に、今ではカメラがある。しかもいつの間にかそれが俺の武器になっているなんて。
そんな中、大野さんがよく通る声で言った。
「憲史君、頼りにしてますよ」
「はい!」
人に認めてもらうことが、こんなに嬉しいことだなんて、今まで知らなかった。うっかり泣きそうになって、つい唇を噛んでしまう俺を、大野さんが優しい目で見ていた。
理事会から帰った俺はベッドに寝転んでいたが、ふと、あることを思いついて携帯電話を手にした。
「もしもし、今、話していいか?」
電話の相手は英知だった。
「大丈夫。どうした?」
「ちょっと提案というか、お願いがあるんだ」
英知は自分を計算高いと言うけれど、俺だってそうだ。だって、亮の力になりたい気持ちを知っていて、こうして電話するんだからな。最後に、そう英知に話すと、彼は笑うばかりだった。
夏祭りが近づいてきた。
街のいたるところで夏祭りのポスターを見かけるようになり、祭りの詳細をまとめた割引券つきの小冊子が各家庭に配られた。
アルバイトが休みで店番をしていた俺は、カウンターに座りながら、そわそわと自動ドアの向こうを見つめていた。
今日は里緒さんが奥田書店に勤務している日だ。あと少しで仕事を終えて出て来る。そこを呼び止めて、夏祭りに誘おうと心に決めていた。
父親が撮影している間、ほんの数時間だけど、それでも彼女と少しでも一緒に過ごしたい。それに、この商店街をもっと知ってほしい。そう思っていた。
俺のエゴかもしれないけれど、そうでもしない限り、なかなか会えないんだ。葵ちゃんのこともあるから、デートに誘うにしても難しく考えてしまい、実行できずにいた。
退勤時間が近づくにつれ、心臓がどくどく跳ね、手が汗ばんできた。
きっと、大丈夫だ。商店街のことだって、カメラのことだって、なんとか上向きになってきたじゃないか。恋愛だって、きっと大丈夫だ。自分にそう言い聞かせてはみるものの、ちっとも大丈夫じゃない。緊張のあまり、喉がカラカラだ。
「来た」
思わず呟き、パイプ椅子から立ち上がる。でも、怖気付いて足が動かない。両手で膝頭を強く叩き、自分を奮い立たせた。
自動ドアを出ると、遠ざかりつつあった背中を呼び止めた。
「里緒さん!」
走り寄ると、里緒さんが振り向いて笑顔になった。
「あ、こんにちは。なんだかお久しぶりですね」
顔を見る程度の機会はあれど、こうして面と向かって話すチャンスはなかなかないんだ。
「憲史さんが札幌で働いてるし、商店街の手伝いもあって、忙しそうですもんね」
「はぁ、そうなんです」
でも、このまま里緒さんと過ごす時間を逃し続けるのはもうたくさんだ。この数ヶ月、商店街のみんなや麻美さんと過ごしたことで、里緒さんと、そして葵ちゃんとも向き合う自信をもらったんだ。
俺はぐっと拳を握りしめ、彼女に言った。
「里緒さん、夏祭りがあるんですけど、俺と一緒に見てまわりませんか?」
「えっ?」
「いや、親父と交代で撮影係なんで、数時間しかいられませんけど、葵ちゃんも遊びに来てくれないかなって」
「あぁ、葵がね、憲史さんに会いたいって言ってました」
「俺もですよ。あ、もし夏祭りが都合悪いようだったら、その、九月にある神社祭りでもどうです?」
舞い上がってしまって、言葉が口から勝手に飛び出る。いや、俺も葵ちゃんに会いたいけど、でも、そうじゃなくて、ここはビシッと言わなきゃいけない。
「里緒さん」
「はい?」
いつになく真面目な声になった俺に、里緒さんがきょとんとする。
「俺、里緒さんともっと一緒にいたいんです!」
思い切って言うと、彼女の目が見開かれた。俺の顔が真っ赤になっていくのがわかる。
すると、彼女ははにかみながらも、目を伏せた。
「あの、ごめんなさい。実は、お祭りは一緒に行く人がいるんです」
頭の上に石を落とされたような気分だった。
「あ、お友達ですか?」
「いえ、その……一緒に暮らしてる人がいるんです」
「それって、つまり……」
里緒さんは申し訳なさそうな顔をしながらも、頬を赤らめた。
「実は、秋に再婚するんですよ」
一瞬、意識がどこかに飛んでいったような気がした。
「お相手は小児科医なんですけど、葵とも仲良く過ごしてくれるし、離婚してしばらくたつから、そろそろ籍を入れようかって話になっていて」
「それは……おめでとうございます」
ぼうっとしながらも、やっと呟くように言った。里緒さんは「ありがとうございます」と頭を下げた。
「店長にはこれからお話しようと思ってるんです」
「あ、じゃあ、仕事は? 辞めちゃうんですか?」
「いえ、続けていきたいと思ってます。その、店長さえよければの話ですけど」
「そうですか……」
力なく返事をしてから、慌てて声を張った。
「いや、でも本当よかったですね。あの、葵ちゃんも嬉しいんじゃないですか?」
娘の名前に、彼女は顔を綻ばせた。
「そうなんです。やっと新しいパパができるって喜んでくれて。彼ともとっても仲良しなんですよ」
「そっかぁ」
ハンバーグ店での葵ちゃんを思い出し、失恋真っ最中だというのに、笑みがこぼれてしまった。あの子が俺でなくても笑うなら、思い切りお父さんに甘えられるなら、それでいいか。そう思えた。
「苗字も変わるんですか?」
「えぇ、岩井になります」
「おめでとうございます。じゃあ、夏祭りは家族で来てくださいね」
泣きそうだ。本当なら、俺が彼女と葵ちゃんの間で手を繋ぎたかった。けれど、こればかりは仕方ない。俺は自分のことで手一杯で、彼女に向かっていく余裕も持てなかった。その結果が、これなんだから。
「楽しみにしてますね。それじゃあ」
里緒さんはお辞儀をして、踵を返した。その手を取って引き寄せ、力一杯抱きしめたいのを、ぐっと堪えた。
「人生、そうはうまくいかないから人生なんだな」
ぼそりと呟くと、乾いた笑いを浮かべて店に戻っていったのだった。
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