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第6章 波乱を越えて
亮の撮影
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翌日、店番をしていると、麻美さんが写真館を訪ねてきた。
「これ、見てみて」
彼女が差し出したのは、フリーペーパーに載せる最終原稿だった。
「麻美さん、仕事早いですね」
「今日は金曜日でしょ。週末になる前にと思って最優先で仕上げてみたわ」
記事を見た俺は「すごいな」と思わず呟いていた。コピー用紙に連なっていた俺の字はポップな文体に姿を変え、小さなイラストまで加えてある。タイトルの『三代目が撮る』の頭に吹き出しで『甲斐写真館』と付け足してあった。
「なんだか、俺の書いたものじゃないみたい」
「何言ってんの。あなたの仕事の結果でしょ」
「はい」
記事に配置された洋子さんと仁志君の写真を見つめていると、胸にじんと熱いものがこみあげてきた。俺の仕事がたくさんの人の目に触れる実感が、初めて湧いてきた。
美月さんのホームページに画像を使われたときは、俺の作品であると同時に、あくまで美月さんの看板を背負っていたわけだ。でも、今は違う。俺の、そして甲斐写真館を背負う責任感が心に根付いたような気がした。
「じゃあ、次は亮君の店を取材しておいてね」
「えっ、もう次の記事ですか?」
「なにを呑気なこと言ってるのよ。仕事なんだからね、気を緩めて甘えないで」
「は、はい!」
「長い付き合いの憲史君だからこそ知る亮君の顔って、どんな風になるのかしら」
「どんなって言われてもなぁ。近すぎて、よくわかりませんよ」
「ちょっと、記事は大丈夫でしょうね?」
「なんとかやってみます」
「なんとかじゃないわよ。確実にこなしてよね」
「は、はい」
麻美さんのほわんとした声で手厳しい言葉を浴びると、なんだか怒鳴られるより怖い。思わず背筋を伸ばして、何度も頷いた。
「頑張ります」
すると、麻美さんの顔がふっと綻んで、柔らかいものになった。
「亮君があなたなら出来るって言ってたもの、大丈夫だとは思うけどね。何かあったらすぐ連絡して。いつでもいいから」
「はい!」
これがいわゆる飴と鞭というやつなんだろうか。さっきとは打って変わって、優しい声だった。なんだかこの人にそう言われると、出来ないことも出来てしまう気がしてくる。それに、亮が俺を信用してくれているのも、嬉しかった。
麻美さんがしみじみした顔で俺を見る。
「あのね、亮君ってあんまり広く人付き合いしないじゃない?」
「えっ、そうですね」
「その亮君がね、いつもあなたの話をするのよ。すごくいい顔してね」
「そうなんですか?」
つい照れ臭くなって唇を噛んでしまった。麻美さんはまるで姉のように慈愛に満ちた顔になっている。
「亮君があなたにしか見せない顔もあるだろうし、本屋に対する思いだって、あなたにだから本音で語るんじゃないかと思うの。楽しみにしてるわ。じゃあ、頼んだわよ」
麻美さんはとびっきりの笑顔で店を出て行った。多分、彼女の下で働いたら、のびのびと仕事ができるんだろう。ちょっと奔放すぎて苦労するかもしれないけれど、彼女の強さは嫌いじゃないと思った。
翌日の土曜日は書店でのバイトだ。奥田書店に向かうと、亮に最終原稿を渡した。
「これ、麻美さんから」
亮は入荷した本を本棚に並べるところだったが、麻美さんの名前を聞いて手を止めた。
「麻美さん、来たの?」
「うん。昨日の昼間だけどな。写真館に来たんだよ」
「ふぅん」
彼は頷き、俺が渡した最終原稿に目を通した。
「いいね。さすがは麻美さん」
「俺の手腕は?」
「あぁ、もちろんよくやってるよ」
素っ気ない言葉だが、口元がにやついているのを見逃さなかった。照れ屋の亮らしい仕草だ。
「次はお前の写真を撮らなきゃいけないんだけどさ」
「あぁ、配達の前に撮っておこうか」
「それはいいんだけどさ」
亮の顔を見て、俺は眉を顰めた。
「正面の写真は使えないな」
亮の唇は、左端がまだ赤かった。
「右の横顔だけならその傷も見えないだろうけどな。だから喧嘩はよくないっていつも言ってるだろ。第一、拳で解決するものはないんだ」
「わかってるよ。説教は昨日の夜、十分聞いた」
「誰から?」
「麻美さん」
「会ったの? 夜に?」
「オケの練習があったんだよ。そのときに散々叱られた」
「あぁ、そうか」
麻美さんの前で小さくなっている亮を想像し、思わず噴き出した。
「なんだか、麻美さんってお姉さんみたいだな」
「そうか? どうして?」
「どうしてって、そんな深い意味はないけど。つまり、面倒見がいいというか、ぐいぐい引っ張っていってくれるというか、とにかく強いな」
すると、亮は「そうだな」と小さく呟き、少し黙った。そして小さく微笑む。
「あの人、ああ見えて実際は繊細で傷つきやすいところもあるんだけどな」
「へぇ」
「それじゃ、撮影しようか」
「おう」
俺はいったん家に戻ってカメラを持ってくると、本を並べる作業に戻った亮の撮影を始めた。だが、すぐに亮は「どうにもやりにくい」と、ぎこちない顔をしてぼやく。
「なんて顔してんだ。普段通りでいいんだよ」
「そんなこと言われてもな。写真を撮られることなんて滅多にないし、それを見られるかと思うとだな、どんな顔をしていいかわからん」
「お前、オーケストラでたくさんの人の前で演奏するんだから、大勢に見られることなんて慣れてるだろ? 第一、今見てるのはカメラ越しとはいえ、俺だぞ? 何を意識することがあるんだ」
「いや、大勢に見られるのは別にいいんだ。だけど、なぁ」
言い淀んで、彼は俯く。俺は思わず眉を上げた。亮の顔が赤くなっている。こいつのこんな顔を初めて見た。
「何を照れてるんだよ」
驚きながらも苦笑すると、彼は視線をそらしてぼそりと言った。
「うるせぇ」
まずいな。俺は口をへの字にして亮の横顔を見ていた。
このままでは洋子さんを初めて撮影したときと同じ失敗をしてしまいそうだ。とにかく固くなっている亮の気持ちをほぐさなければならない。
すっとカメラを下ろし、一歩後ずさる。どうしたものかと辺りに目を走らせると、少女コミックの棚に新しいポップが飾られているのを見つけた。見慣れた亮の字ではない。
「あれ? これって、もしかして里緒さんが書いたの?」
「うん? あぁ、それね」
亮は俺がカメラを構えていないことに気づき、少しばかり肩の力を抜いた。
「なかなか上手いよな。彼女、漫画が好きだっていうんで、コミックのポップをお願いすることにしたんだ」
「へぇ」
意外な一面を知って、なんだかほっこりした気分になる。
「俺はあんまりコミックを読まないからさ、この分野のポップはうまく書けなかったんだよな」
「そういうものか」
「うん。やっぱりちゃんと目を通して、お勧めしたい気持ちのこもったポップは違うよ」
そう話す亮の顔から、少しずつ緊張が取れていった。よし、この調子でいこう。俺はカメラを持ちながら、にんまりした。
「あのさ、一度訊いてみたかったんだけど、お前は本屋のどこが好きなの?」
「なんだよ、急に」
「いや、働かせてもらってこんなこと言うのなんだけど、書店の仕事ってどちらかというと地味だろ? それをずっと続けていくのってさ、やっぱり好きだからだと思うんだけど、どういうところがいいわけ?」
「そうだなぁ」
少し考え、彼はこう言った。
「俺にとって本は異世界への扉なんだ。誰かの知識や想像の世界を垣間見れるし、行ったことのない場所にも行ける。自分の力だけで世界のあらゆるものを見ようと思ったって、時間的にも金銭的にも無理があるだろ? 本はその力になってくれる」
「なるほど。それで?」
「書店にいるってことは、誰かとその扉の出会いに立ち会えるってことだ。ときには異世界への門番になって、現実から飛び出る手助けもできる。『これだ』と思う本に出会えた人の顔を見るのが好きなんだ」
「へぇ」
「本を読むことは知識のためじゃない。ときには逃げ場にもなる。どんなに辛いことがあっても、誰にも相手にされなくても、本は決して開く人を拒まない味方でいてくれる。本を読んでいる間、その人はどこまでも自由でいられるんだ」
亮の顔は少しずつ明るくなってきた。その目には今まで見たことのない光があり、いつになく饒舌な彼に驚かされた。
おずおずと、俺の指がシャッターに伸びる。カメラをゆっくり顔に近づけながら、亮という被写体を見つめていた。彼の心が裸になるまで、もう少し、もう少しだ。
「それじゃ、図書館でもいいわけだろ? 本屋に決めたのは、やっぱり生まれた場所だから?」
「それもあるけど、店の在庫を俺が管理できるだろ。ここは俺の砦だからな。誰かの下で働くのは、窮屈だ。それに陳列の仕方とかポップの出来で、客の反応が違うのを楽しむのが好きなんだ」
「それじゃ、いつから書店を継ごうと決めてたんだ? 俺が東京に行くとき、ここが居場所だって言ってたよな? そう気づいたのって、いつなの?」
手に持っていた本を見つめ、亮はぽつりと言った。
「本当のことを言うと、俺自身が気づいたんじゃないんだ」
「どういうこと? じゃあ、誰が気づいたんだよ」
「麻美さん」
その名を口にした亮は、ふと口元に笑みをこぼした。
「小学生の頃かなぁ。俺、カウンターの下でこっそり店の本を読むのが好きだったんだ」
麻美さんは『本屋の息子だからって、立ち読みはダメよ』と軽く叱ったあとで、亮にこう言ったそうだ。
『亮君はチェロより本が似合うね。この店に亮君がいないと寂しいもん』
亮はふっと小さく鼻で笑い、話を続けた。
「本当のこと言うとさ、その頃、密かにチェリストになりたいと考えてたんだ。だけど、麻美さんにそう言われて、『そうか、俺の居場所は書店なんだ』ってその気になった」
俺は呼吸を忘れた。亮の顔には過去を懐かしむ老人のような感傷的な影と、未来を見つめる若者の光が入り混じっていた。俺が待っていた顔がそこにある。
咄嗟にカメラを構えて夢中でシャッターを切った。その音に驚き、亮は「おいおい」と眉を釣り上げる。
「なんだ、いきなり撮るのかよ」
「いいから」
俺は少し語気を強めて、カメラ越しの亮に言い放った。
「もっと話し続けて。止めるな」
亮は「そう言われても」と困惑する。すかさず俺は次の質問を投げかけた。
「書店員で良かったと思う瞬間は?」
亮はひょいと肩をすくめ、観念したように本を並べ出す。
「一言じゃ言えないな。そりゃ、いろいろあるけど、やっぱり欲しかった本を見つけて真っ先に手を伸ばす瞬間を見たときかな。本と人との橋渡しをできたようで、嬉しいんだ」
「それで?」
「そういう瞬間があるたび、俺に本が似合うって言ってくれた麻美さんに感謝したくなるよ。あの人は俺の恩人でもあるんだ」
横顔しか撮れないのが惜しいくらい、彼は活力にあふれた魅力的な顔つきをしていた。シャッターを何度押したかわからない。俺は何かに取り憑かれたように彼を撮っていた。
「でも本当は、彼女に言われなくてもこうしていたんじゃないかと思う。確かに実際に得た経験は素晴らしいものだろうさ。ガイドブックを見て旅行した気分になっているだけじゃ、何も得てないのかもって思うときはある。でも、本じゃないと得られないもののほうが、俺の心を躍らせるんだ」
「それで、いつも本を読んでいるのか」
「そうだな。子どもの頃に読んだものでも、大人になってから読むとまた別の見方ができるときがあるだろ? だから、いくら読んでもキリがない。俺には世界を旅している時間はない」
ちょっと間をおいて、彼はこうも言った。
「オズの魔法使いの名台詞に、我が家が一番ってやつがあるだろ? 俺にとって、旅は帰る場所があって初めてできるものだ。俺には帰る場所はここしかない。そしてここを守るので手一杯で、外に出る余裕もないのが正直なところだ」
そして、少し寂しげに眉を下げた。
「親父たちがさ、すぐそこにいる気がするんだ。ここを離れずにいるのは依存かもしれない。だけど、ここが一番俺らしくいられる場所だって肌で感じる。だから、俺の居場所はここでいいんだ。本当は麻美さんに言われる前から、無意識に知っていた気がするんだよな」
亮が話し終えたとき、俺はカメラからゆっくり顔を離し、長いため息を吐いた。
カメラを向けた時間はほんの数分だったと思う。けれど、まるで長い夢でも見ていたようだった。恍惚とした気分で、また一つ、ため息を漏らす。
これこそ、自分の求めていた時間だと思った。普段は隠れているものを映し出す鏡になれた満足感で、胸が溢れそうだった。
「おい、撮り終わったのか?」
シャッター音が止んだのに気付き、亮が俺のカメラを覗き込んできた。だが、俺は返事もせず、真っ先にデータをチェックする。
何枚もの写真を次々と見ていくうちに、ぼそりと「これだ」と呟いた。液晶モニターに映し出されたのは、少し俯き加減の横顔だった。その目は優しく本に落とされ、少し開いた唇から言葉が漏れ出ている瞬間だった。まるで、本を慈しみ、何か声をかけているようにも見える。
「これにしよう」
亮は画像を一目見て、少し驚いたようだ。
「俺って、こんな顔してんの?」
「してたんだよ」
にんまり笑うと、彼は照れたように頭を掻いた。
「お前にあんな話をしたのは、初めてだな」
「そうだな」
二十八年も一緒にいるのに、意外と互いの腹を割って話すことも少なかった。けれど、それは俺が誰かにきちんと向き合うことから逃げていたからだ。カメラ越しとはいえ、こうして亮と初めて向き合えたことは、本当に嬉しく思った。
「これ、見てみて」
彼女が差し出したのは、フリーペーパーに載せる最終原稿だった。
「麻美さん、仕事早いですね」
「今日は金曜日でしょ。週末になる前にと思って最優先で仕上げてみたわ」
記事を見た俺は「すごいな」と思わず呟いていた。コピー用紙に連なっていた俺の字はポップな文体に姿を変え、小さなイラストまで加えてある。タイトルの『三代目が撮る』の頭に吹き出しで『甲斐写真館』と付け足してあった。
「なんだか、俺の書いたものじゃないみたい」
「何言ってんの。あなたの仕事の結果でしょ」
「はい」
記事に配置された洋子さんと仁志君の写真を見つめていると、胸にじんと熱いものがこみあげてきた。俺の仕事がたくさんの人の目に触れる実感が、初めて湧いてきた。
美月さんのホームページに画像を使われたときは、俺の作品であると同時に、あくまで美月さんの看板を背負っていたわけだ。でも、今は違う。俺の、そして甲斐写真館を背負う責任感が心に根付いたような気がした。
「じゃあ、次は亮君の店を取材しておいてね」
「えっ、もう次の記事ですか?」
「なにを呑気なこと言ってるのよ。仕事なんだからね、気を緩めて甘えないで」
「は、はい!」
「長い付き合いの憲史君だからこそ知る亮君の顔って、どんな風になるのかしら」
「どんなって言われてもなぁ。近すぎて、よくわかりませんよ」
「ちょっと、記事は大丈夫でしょうね?」
「なんとかやってみます」
「なんとかじゃないわよ。確実にこなしてよね」
「は、はい」
麻美さんのほわんとした声で手厳しい言葉を浴びると、なんだか怒鳴られるより怖い。思わず背筋を伸ばして、何度も頷いた。
「頑張ります」
すると、麻美さんの顔がふっと綻んで、柔らかいものになった。
「亮君があなたなら出来るって言ってたもの、大丈夫だとは思うけどね。何かあったらすぐ連絡して。いつでもいいから」
「はい!」
これがいわゆる飴と鞭というやつなんだろうか。さっきとは打って変わって、優しい声だった。なんだかこの人にそう言われると、出来ないことも出来てしまう気がしてくる。それに、亮が俺を信用してくれているのも、嬉しかった。
麻美さんがしみじみした顔で俺を見る。
「あのね、亮君ってあんまり広く人付き合いしないじゃない?」
「えっ、そうですね」
「その亮君がね、いつもあなたの話をするのよ。すごくいい顔してね」
「そうなんですか?」
つい照れ臭くなって唇を噛んでしまった。麻美さんはまるで姉のように慈愛に満ちた顔になっている。
「亮君があなたにしか見せない顔もあるだろうし、本屋に対する思いだって、あなたにだから本音で語るんじゃないかと思うの。楽しみにしてるわ。じゃあ、頼んだわよ」
麻美さんはとびっきりの笑顔で店を出て行った。多分、彼女の下で働いたら、のびのびと仕事ができるんだろう。ちょっと奔放すぎて苦労するかもしれないけれど、彼女の強さは嫌いじゃないと思った。
翌日の土曜日は書店でのバイトだ。奥田書店に向かうと、亮に最終原稿を渡した。
「これ、麻美さんから」
亮は入荷した本を本棚に並べるところだったが、麻美さんの名前を聞いて手を止めた。
「麻美さん、来たの?」
「うん。昨日の昼間だけどな。写真館に来たんだよ」
「ふぅん」
彼は頷き、俺が渡した最終原稿に目を通した。
「いいね。さすがは麻美さん」
「俺の手腕は?」
「あぁ、もちろんよくやってるよ」
素っ気ない言葉だが、口元がにやついているのを見逃さなかった。照れ屋の亮らしい仕草だ。
「次はお前の写真を撮らなきゃいけないんだけどさ」
「あぁ、配達の前に撮っておこうか」
「それはいいんだけどさ」
亮の顔を見て、俺は眉を顰めた。
「正面の写真は使えないな」
亮の唇は、左端がまだ赤かった。
「右の横顔だけならその傷も見えないだろうけどな。だから喧嘩はよくないっていつも言ってるだろ。第一、拳で解決するものはないんだ」
「わかってるよ。説教は昨日の夜、十分聞いた」
「誰から?」
「麻美さん」
「会ったの? 夜に?」
「オケの練習があったんだよ。そのときに散々叱られた」
「あぁ、そうか」
麻美さんの前で小さくなっている亮を想像し、思わず噴き出した。
「なんだか、麻美さんってお姉さんみたいだな」
「そうか? どうして?」
「どうしてって、そんな深い意味はないけど。つまり、面倒見がいいというか、ぐいぐい引っ張っていってくれるというか、とにかく強いな」
すると、亮は「そうだな」と小さく呟き、少し黙った。そして小さく微笑む。
「あの人、ああ見えて実際は繊細で傷つきやすいところもあるんだけどな」
「へぇ」
「それじゃ、撮影しようか」
「おう」
俺はいったん家に戻ってカメラを持ってくると、本を並べる作業に戻った亮の撮影を始めた。だが、すぐに亮は「どうにもやりにくい」と、ぎこちない顔をしてぼやく。
「なんて顔してんだ。普段通りでいいんだよ」
「そんなこと言われてもな。写真を撮られることなんて滅多にないし、それを見られるかと思うとだな、どんな顔をしていいかわからん」
「お前、オーケストラでたくさんの人の前で演奏するんだから、大勢に見られることなんて慣れてるだろ? 第一、今見てるのはカメラ越しとはいえ、俺だぞ? 何を意識することがあるんだ」
「いや、大勢に見られるのは別にいいんだ。だけど、なぁ」
言い淀んで、彼は俯く。俺は思わず眉を上げた。亮の顔が赤くなっている。こいつのこんな顔を初めて見た。
「何を照れてるんだよ」
驚きながらも苦笑すると、彼は視線をそらしてぼそりと言った。
「うるせぇ」
まずいな。俺は口をへの字にして亮の横顔を見ていた。
このままでは洋子さんを初めて撮影したときと同じ失敗をしてしまいそうだ。とにかく固くなっている亮の気持ちをほぐさなければならない。
すっとカメラを下ろし、一歩後ずさる。どうしたものかと辺りに目を走らせると、少女コミックの棚に新しいポップが飾られているのを見つけた。見慣れた亮の字ではない。
「あれ? これって、もしかして里緒さんが書いたの?」
「うん? あぁ、それね」
亮は俺がカメラを構えていないことに気づき、少しばかり肩の力を抜いた。
「なかなか上手いよな。彼女、漫画が好きだっていうんで、コミックのポップをお願いすることにしたんだ」
「へぇ」
意外な一面を知って、なんだかほっこりした気分になる。
「俺はあんまりコミックを読まないからさ、この分野のポップはうまく書けなかったんだよな」
「そういうものか」
「うん。やっぱりちゃんと目を通して、お勧めしたい気持ちのこもったポップは違うよ」
そう話す亮の顔から、少しずつ緊張が取れていった。よし、この調子でいこう。俺はカメラを持ちながら、にんまりした。
「あのさ、一度訊いてみたかったんだけど、お前は本屋のどこが好きなの?」
「なんだよ、急に」
「いや、働かせてもらってこんなこと言うのなんだけど、書店の仕事ってどちらかというと地味だろ? それをずっと続けていくのってさ、やっぱり好きだからだと思うんだけど、どういうところがいいわけ?」
「そうだなぁ」
少し考え、彼はこう言った。
「俺にとって本は異世界への扉なんだ。誰かの知識や想像の世界を垣間見れるし、行ったことのない場所にも行ける。自分の力だけで世界のあらゆるものを見ようと思ったって、時間的にも金銭的にも無理があるだろ? 本はその力になってくれる」
「なるほど。それで?」
「書店にいるってことは、誰かとその扉の出会いに立ち会えるってことだ。ときには異世界への門番になって、現実から飛び出る手助けもできる。『これだ』と思う本に出会えた人の顔を見るのが好きなんだ」
「へぇ」
「本を読むことは知識のためじゃない。ときには逃げ場にもなる。どんなに辛いことがあっても、誰にも相手にされなくても、本は決して開く人を拒まない味方でいてくれる。本を読んでいる間、その人はどこまでも自由でいられるんだ」
亮の顔は少しずつ明るくなってきた。その目には今まで見たことのない光があり、いつになく饒舌な彼に驚かされた。
おずおずと、俺の指がシャッターに伸びる。カメラをゆっくり顔に近づけながら、亮という被写体を見つめていた。彼の心が裸になるまで、もう少し、もう少しだ。
「それじゃ、図書館でもいいわけだろ? 本屋に決めたのは、やっぱり生まれた場所だから?」
「それもあるけど、店の在庫を俺が管理できるだろ。ここは俺の砦だからな。誰かの下で働くのは、窮屈だ。それに陳列の仕方とかポップの出来で、客の反応が違うのを楽しむのが好きなんだ」
「それじゃ、いつから書店を継ごうと決めてたんだ? 俺が東京に行くとき、ここが居場所だって言ってたよな? そう気づいたのって、いつなの?」
手に持っていた本を見つめ、亮はぽつりと言った。
「本当のことを言うと、俺自身が気づいたんじゃないんだ」
「どういうこと? じゃあ、誰が気づいたんだよ」
「麻美さん」
その名を口にした亮は、ふと口元に笑みをこぼした。
「小学生の頃かなぁ。俺、カウンターの下でこっそり店の本を読むのが好きだったんだ」
麻美さんは『本屋の息子だからって、立ち読みはダメよ』と軽く叱ったあとで、亮にこう言ったそうだ。
『亮君はチェロより本が似合うね。この店に亮君がいないと寂しいもん』
亮はふっと小さく鼻で笑い、話を続けた。
「本当のこと言うとさ、その頃、密かにチェリストになりたいと考えてたんだ。だけど、麻美さんにそう言われて、『そうか、俺の居場所は書店なんだ』ってその気になった」
俺は呼吸を忘れた。亮の顔には過去を懐かしむ老人のような感傷的な影と、未来を見つめる若者の光が入り混じっていた。俺が待っていた顔がそこにある。
咄嗟にカメラを構えて夢中でシャッターを切った。その音に驚き、亮は「おいおい」と眉を釣り上げる。
「なんだ、いきなり撮るのかよ」
「いいから」
俺は少し語気を強めて、カメラ越しの亮に言い放った。
「もっと話し続けて。止めるな」
亮は「そう言われても」と困惑する。すかさず俺は次の質問を投げかけた。
「書店員で良かったと思う瞬間は?」
亮はひょいと肩をすくめ、観念したように本を並べ出す。
「一言じゃ言えないな。そりゃ、いろいろあるけど、やっぱり欲しかった本を見つけて真っ先に手を伸ばす瞬間を見たときかな。本と人との橋渡しをできたようで、嬉しいんだ」
「それで?」
「そういう瞬間があるたび、俺に本が似合うって言ってくれた麻美さんに感謝したくなるよ。あの人は俺の恩人でもあるんだ」
横顔しか撮れないのが惜しいくらい、彼は活力にあふれた魅力的な顔つきをしていた。シャッターを何度押したかわからない。俺は何かに取り憑かれたように彼を撮っていた。
「でも本当は、彼女に言われなくてもこうしていたんじゃないかと思う。確かに実際に得た経験は素晴らしいものだろうさ。ガイドブックを見て旅行した気分になっているだけじゃ、何も得てないのかもって思うときはある。でも、本じゃないと得られないもののほうが、俺の心を躍らせるんだ」
「それで、いつも本を読んでいるのか」
「そうだな。子どもの頃に読んだものでも、大人になってから読むとまた別の見方ができるときがあるだろ? だから、いくら読んでもキリがない。俺には世界を旅している時間はない」
ちょっと間をおいて、彼はこうも言った。
「オズの魔法使いの名台詞に、我が家が一番ってやつがあるだろ? 俺にとって、旅は帰る場所があって初めてできるものだ。俺には帰る場所はここしかない。そしてここを守るので手一杯で、外に出る余裕もないのが正直なところだ」
そして、少し寂しげに眉を下げた。
「親父たちがさ、すぐそこにいる気がするんだ。ここを離れずにいるのは依存かもしれない。だけど、ここが一番俺らしくいられる場所だって肌で感じる。だから、俺の居場所はここでいいんだ。本当は麻美さんに言われる前から、無意識に知っていた気がするんだよな」
亮が話し終えたとき、俺はカメラからゆっくり顔を離し、長いため息を吐いた。
カメラを向けた時間はほんの数分だったと思う。けれど、まるで長い夢でも見ていたようだった。恍惚とした気分で、また一つ、ため息を漏らす。
これこそ、自分の求めていた時間だと思った。普段は隠れているものを映し出す鏡になれた満足感で、胸が溢れそうだった。
「おい、撮り終わったのか?」
シャッター音が止んだのに気付き、亮が俺のカメラを覗き込んできた。だが、俺は返事もせず、真っ先にデータをチェックする。
何枚もの写真を次々と見ていくうちに、ぼそりと「これだ」と呟いた。液晶モニターに映し出されたのは、少し俯き加減の横顔だった。その目は優しく本に落とされ、少し開いた唇から言葉が漏れ出ている瞬間だった。まるで、本を慈しみ、何か声をかけているようにも見える。
「これにしよう」
亮は画像を一目見て、少し驚いたようだ。
「俺って、こんな顔してんの?」
「してたんだよ」
にんまり笑うと、彼は照れたように頭を掻いた。
「お前にあんな話をしたのは、初めてだな」
「そうだな」
二十八年も一緒にいるのに、意外と互いの腹を割って話すことも少なかった。けれど、それは俺が誰かにきちんと向き合うことから逃げていたからだ。カメラ越しとはいえ、こうして亮と初めて向き合えたことは、本当に嬉しく思った。
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