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第2章 商店街の人びと
英知の秘密
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商店街を抜け、飲屋街へ出た俺は少したじろいでしまった。昼間の飲屋街を見たのは初めてだが、まるで廃墟に迷い込んだ気分になった。
ネオンで色づく妖しさが消え失せた通りは、カラスが道を跳ねるばかりで、物悲しいほど閑散としている。夜の闇が隠していたのはビルの隙間に転がるゴミや錆だらけのシャッターだけではなく、侘しいほどの静けさだった。
中通りに出ると、英知の店の前に車が二台、止まっていた。一台は英知のものだ。
「英知、いるか?」
店の扉を開けた俺は、目に飛び込んできたものに、息をするのも忘れて立ち尽くした。
店のカウンターの前で、英知は一人の男と向き合って立っていた。男は長身痩躯で、見る限りでは、俺より年下だろうと思われた。
俺は自分の目を疑っていた。なぜって、二人は身を寄せ合い、おまけに男が英知の腰に手を回しているのが見えたからだ。左手のほうは英知のジーンズのバックポケットに突っ込まれている。
英知は俺を見るなり、ぎょっとした顔をして凍りついた。しかし、男は「邪魔くせぇ」と不機嫌そうに呟くと、英知の顎を引き寄せてキスをした。まるで見せつけるようだった。
「ちょっと!」
我に返った英知が顔をしかめてのけぞると、男は鼻を鳴らして離れた。
「じゃあな」
彼は、俺のすぐ隣をすり抜けながら、鋭い一瞥を残していった。
扉が閉まり、男が階段を降りる足音が消えても、俺と英知は身動きとれずにいた。
先に口を開いたのは、英知だった。深いため息をつき、こう言った。
「ごめんね。彼、嫉妬深いんだ」
「嫉妬? 俺に? へ?」
「こんな形で憲史に話すとは思ってなかったけど」
英知は俺をまっすぐ見据え、きっぱりと言った。
「つまり、あの人は僕が今付き合っている人で、これから憲史とご飯を食べに行くって話したら妬いたんだ」
「えぇ!」
店内に俺の素っ頓狂な声が木霊した。
「え? 付き合ってるって? ゲイってこと? いやいや、だってお前、女と歩いてたりしただろ? あれ?」
「うん、だから僕はバイセクシャルなんだと思うよ」
「ええ!」
再び、大きな声が飛び出た。けれど、その直後、腑に落ちるものがあって、一気に止まっていた思考が流れ出した。
「そうか、それでかぁ」
どおりで自分の恋愛話をしたがらないわけだ。
「ごめん、驚いたよね」
少しうつむき、英知が苦笑する。
「そりゃ、驚くよ」
「うん、だよね。気持ち悪い、かな?」
一瞬、言葉を失った。みるみるうちに頭に血が上り、気がつけば「ふざけんな!」と、怒鳴っていた。
「俺が? お前を? 気持ち悪い? 本気でそんなこと訊いてんのか?」
英知は何も言わなかった。けれど、その目の奥に隠れている怯えを感じ取り、思わず拳を握り締める。
「二度とそんなくだらねぇこと言うんじゃねぇ。俺をみくびるなよ」
英知の目がまん丸になり、そしてくしゃっと崩れた。
「うん、そうだね」
少しの沈黙のあと、俺はぼそっと言った。
「お前、パスタ好きだったよな?」
「うん」
「久しぶりに大野さんとこに行こうぜ。亮と三人でよく行ってただろ?」
「うん」
「吉川さんが言うには、あそこの鉄板ナポリタンが美味いらしいぞ」
「うん」
英知は『うん』しか言わない。いや、言えないのだ。声がかすかに震えている。彼の目にはうっすら涙のようなものが光っていたが、見ない振りをした。
バーテンダーの衣装を合わせてから、大野さんの喫茶店に行くと、俺たちは一番奥の席に腰を下ろした。ナポリタンが出来上がる前に、俺の前にはクリームソーダが、英知の前にはアメリカンが置かれた。
真向かいでカップを口に運ぶ英知の伏し目は、まつ毛が陽に透けていた。今更ながら、綺麗な顔だなと見入ってしまう。女だけでなく男も放っておかないのはわかる気がした。あれこれ訊いてみたいことはあったが、どうにも声にならない。
すると、英知がこちらを見つめ返し、ふっと力なく笑った。
「どこまで質問していいか迷ってる?」
「うん。なんでわかるの」
「だって、憲史は真っ直ぐだから」
「わかりやすいってこと?」
「そうだね。でも、褒めてるんだよ」
英知は目を細めて、俺のクリームソーダに視線を移した。
「クリームソーダ、懐かしいね。昔から、いつもそれだね」
「あぁ」
「憲史は揺るがないね」
「揺るぎまくってるから、職なし女なしなんだけど?」
「でも、大事なところはブレてないよ。だから、憲史といると安心する」
俺は彼の目を見て「しょうがない奴だな」と小さなため息を落とした。さっき見えた怯えは消えている。その代わり、安堵に似たものを感じた。
「俺もお前のことを当ててやる」
「えっ?」
「お前、ずっと話したかったんだろう?」
「うん、そうかもしれない。なんでわかるの」
「だって、すごく楽になった顔をしてるから」
英知が声を上げて笑った。こいつは図星をさされると、いつもこうして笑う。
「で、いつからなんだ?」
「はっきり自覚したのは高校生の頃だと思う」
「そんなに前から?」
「小さい頃から男の人をかっこいいなって思うことが多かったんだ。ただ、女の人を好きになれたし、セックスもできたし、自覚するのに時間がかかったな」
「亮は知ってるのか?」
「どうかな。でも、僕は自分から人に話したことはないんだ。気づいた人には正直に打ち明けることにしてるけど」
「気づく人もいるのか」
俺なんて高校生のときから毎日一緒にいても、まったく気づかなかったのに。
「飲屋街の人たちは、割に鋭いよ」
「そうなのか」
「僕が今まで話さなかったのは、気持ち悪がられたらどうしようって怖かっただけじゃなくて、心のどこかで本当にバイか疑ってる自分もいたからなんだ」
彼はアメリカンで唇を湿らせ、再び話し出した。
「さっきの彼もそうだけど、僕が今まで男の人と付き合うときって、向こうから好きだって言ってくるんだ。僕が自分から好きだと思った男の人って一人だけ。だから、その人が友達として大好きなだけなんじゃないかって思えてね。でも、高校生のときにはっきりと男相手に『好き』だって思ってね。あぁ、僕って女だけじゃなくて男もいけるんだなって」
高校生の頃ということは、俺も知っている人なのかもしれない。けれど、質問するのはやめた。今は、英知が話したいことだけを黙って聞けばそれでいい。そんな気がした。
「僕さ、一旦は教師になっただろ?」
「あぁ、うん」
「教師を辞めた理由を話さなかったのは、このことが原因だったからなんだ」
「なんだよ、職場で噂にでもなったのか?」
「ううん。多分、誰も知らなかった。けれど、僕が勝手に怖くなったんだ」
生徒に、父兄に、そして同僚の教師たちに知れたら、どう思われるのか。そう怯えるうちに、呼吸すら苦しくなった。英知はそう言って、力なく笑った。
「教師になるような人って、真っ直ぐ道を歩いてきた人に見えたんだ。人とは違う生き方にいいイメージがないんじゃないかって怖くてたまらなかった」
俺は何も言わず、ただクリームソーダのアイスの淵をスプーンでつついていた。
「もちろん、教師の仕事は大変だけどやりがいがあったよ。生徒たちが成長していくのを見るのも嬉しかった。子どもたちってまっすぐで、でもとても繊細で。向き合うのは難しいけど、素晴らしい瞬間をたくさん見せてくれる。だけど、僕はそれよりも自分が楽になる道を選んだ。ことが起こる前に、勝手に怯えて逃げたんだ」
「そうだったのか」
「そのあとは何をしていいかわからなくて、呆然としてた」
「なんだ、今の俺みたいだな」
「そうなんだ。僕は手当たり次第いろんなバイトをして、自分に合う仕事を見つけようとしたんだけどね、それでバーテンダーに落ち着いたってわけ」
「飲めないのにバーテンダーになるってすごいよな」
「飲めないからいいんだよ。それに、僕は飲屋街の空気が好きなんだ」
「空気?」
「そう。自由で義理人情にあつくて、でもどこか無責任で自分の足で立たないと生きていけないところ」
英知は苦笑する。
「僕がバイだって知っても、誰も気にしないんだ。僕に『僕は本州の生まれです』って言われても『へぇ、そうなの』って思うだろ? そんな感じなんだよ」
「そうなのか」
少し驚いた。酔っ払いに絡まれたりしないか、ちょっと心配だったからだ。けれど、英知の顔つきを見る限り、飲屋街は居心地のいい場所のようだった。
そのとき、大野さんがナポリタンを運んできた。
「美味そうだな」
「うん」
俺たちはそう言うと、目を合わせて小さく笑った。そしてそれきり、その話は打ち切りになった。
「そういえば亮のところのバイトさんはどうだった?」
パスタを頬張りながら、俺は里緒さんがどんな人だったか説明した。
「ふぅん、お子さんも一緒に食事か。いいね」
英知の顔つきは、さっきまで浮かんでいた重苦しさが消え、いつもの穏やかさを取り戻していた。
喫茶店を出ると、英知は別れ際にふっと笑った。
「憲史は僕のことを『楽になった顔』って言ったよね」
「あぁ」
「僕ね、憲史と亮に知られたとき、『どうして話してくれなかったんだ』って怒られないかずっと怖かった。だからかもしれない」
「アホか、怒るわけないだろ」
「うん、知ってた」
英知がまっすぐ俺を見つめた。
「僕が教師を辞めたとき、憲史と亮だけは、どうして理由を話さないんだって言わなかったから。ただ、黙って受け止めてくれた。だから怒らないとは思ってた。けれど、それでも親友に話せないのは怖いと同時に辛かった」
思わずため息が漏れた。
「昔からお前はあれこれ心配しすぎるんだよ。なんで親友だからって絶対話さなきゃいけないんだ。お前、さっき偶然知られなかったら、俺にこうして話してないだろ?」
「うん」
「カミングアウトなんてしてもしなくてもいいんだ。言わないことが辛いなら、聞かせてほしいと思う。言わないでいるほうが楽なら、黙ってていい。俺たちはいくらでも受け止める。それだけだ」
「ありがとう」
英知は静かに言い、背を向けて歩き出した。
彼は言わなかったけれど、俺の知らないところで差別されたりバカにされたりしたこともあるのかもしれない。
自覚したとき、人知れず悩んで苦しんでいたのかもしれない。そのとき、俺は隣で何をしていたんだろう。
夢だった教師の話をしたとき、あいつの目は輝いていた。多分、まだ教師を続けていたかった気持ちはあるのだろう。一生後悔するのかもしれない。
それでも彼は自分の居場所を見つけたんだ。そう思うと、羨ましくもあった。
帰路についていると、商店街のアーチ看板が見えてきた。商店街の人びとも、親友も、毎日何かを積み重ねているんだと思った。それが変化にしろ、不変にしろ、それぞれの居場所で生きている。なんだか無性に、置いてけぼりにされているような気がした。
ネオンで色づく妖しさが消え失せた通りは、カラスが道を跳ねるばかりで、物悲しいほど閑散としている。夜の闇が隠していたのはビルの隙間に転がるゴミや錆だらけのシャッターだけではなく、侘しいほどの静けさだった。
中通りに出ると、英知の店の前に車が二台、止まっていた。一台は英知のものだ。
「英知、いるか?」
店の扉を開けた俺は、目に飛び込んできたものに、息をするのも忘れて立ち尽くした。
店のカウンターの前で、英知は一人の男と向き合って立っていた。男は長身痩躯で、見る限りでは、俺より年下だろうと思われた。
俺は自分の目を疑っていた。なぜって、二人は身を寄せ合い、おまけに男が英知の腰に手を回しているのが見えたからだ。左手のほうは英知のジーンズのバックポケットに突っ込まれている。
英知は俺を見るなり、ぎょっとした顔をして凍りついた。しかし、男は「邪魔くせぇ」と不機嫌そうに呟くと、英知の顎を引き寄せてキスをした。まるで見せつけるようだった。
「ちょっと!」
我に返った英知が顔をしかめてのけぞると、男は鼻を鳴らして離れた。
「じゃあな」
彼は、俺のすぐ隣をすり抜けながら、鋭い一瞥を残していった。
扉が閉まり、男が階段を降りる足音が消えても、俺と英知は身動きとれずにいた。
先に口を開いたのは、英知だった。深いため息をつき、こう言った。
「ごめんね。彼、嫉妬深いんだ」
「嫉妬? 俺に? へ?」
「こんな形で憲史に話すとは思ってなかったけど」
英知は俺をまっすぐ見据え、きっぱりと言った。
「つまり、あの人は僕が今付き合っている人で、これから憲史とご飯を食べに行くって話したら妬いたんだ」
「えぇ!」
店内に俺の素っ頓狂な声が木霊した。
「え? 付き合ってるって? ゲイってこと? いやいや、だってお前、女と歩いてたりしただろ? あれ?」
「うん、だから僕はバイセクシャルなんだと思うよ」
「ええ!」
再び、大きな声が飛び出た。けれど、その直後、腑に落ちるものがあって、一気に止まっていた思考が流れ出した。
「そうか、それでかぁ」
どおりで自分の恋愛話をしたがらないわけだ。
「ごめん、驚いたよね」
少しうつむき、英知が苦笑する。
「そりゃ、驚くよ」
「うん、だよね。気持ち悪い、かな?」
一瞬、言葉を失った。みるみるうちに頭に血が上り、気がつけば「ふざけんな!」と、怒鳴っていた。
「俺が? お前を? 気持ち悪い? 本気でそんなこと訊いてんのか?」
英知は何も言わなかった。けれど、その目の奥に隠れている怯えを感じ取り、思わず拳を握り締める。
「二度とそんなくだらねぇこと言うんじゃねぇ。俺をみくびるなよ」
英知の目がまん丸になり、そしてくしゃっと崩れた。
「うん、そうだね」
少しの沈黙のあと、俺はぼそっと言った。
「お前、パスタ好きだったよな?」
「うん」
「久しぶりに大野さんとこに行こうぜ。亮と三人でよく行ってただろ?」
「うん」
「吉川さんが言うには、あそこの鉄板ナポリタンが美味いらしいぞ」
「うん」
英知は『うん』しか言わない。いや、言えないのだ。声がかすかに震えている。彼の目にはうっすら涙のようなものが光っていたが、見ない振りをした。
バーテンダーの衣装を合わせてから、大野さんの喫茶店に行くと、俺たちは一番奥の席に腰を下ろした。ナポリタンが出来上がる前に、俺の前にはクリームソーダが、英知の前にはアメリカンが置かれた。
真向かいでカップを口に運ぶ英知の伏し目は、まつ毛が陽に透けていた。今更ながら、綺麗な顔だなと見入ってしまう。女だけでなく男も放っておかないのはわかる気がした。あれこれ訊いてみたいことはあったが、どうにも声にならない。
すると、英知がこちらを見つめ返し、ふっと力なく笑った。
「どこまで質問していいか迷ってる?」
「うん。なんでわかるの」
「だって、憲史は真っ直ぐだから」
「わかりやすいってこと?」
「そうだね。でも、褒めてるんだよ」
英知は目を細めて、俺のクリームソーダに視線を移した。
「クリームソーダ、懐かしいね。昔から、いつもそれだね」
「あぁ」
「憲史は揺るがないね」
「揺るぎまくってるから、職なし女なしなんだけど?」
「でも、大事なところはブレてないよ。だから、憲史といると安心する」
俺は彼の目を見て「しょうがない奴だな」と小さなため息を落とした。さっき見えた怯えは消えている。その代わり、安堵に似たものを感じた。
「俺もお前のことを当ててやる」
「えっ?」
「お前、ずっと話したかったんだろう?」
「うん、そうかもしれない。なんでわかるの」
「だって、すごく楽になった顔をしてるから」
英知が声を上げて笑った。こいつは図星をさされると、いつもこうして笑う。
「で、いつからなんだ?」
「はっきり自覚したのは高校生の頃だと思う」
「そんなに前から?」
「小さい頃から男の人をかっこいいなって思うことが多かったんだ。ただ、女の人を好きになれたし、セックスもできたし、自覚するのに時間がかかったな」
「亮は知ってるのか?」
「どうかな。でも、僕は自分から人に話したことはないんだ。気づいた人には正直に打ち明けることにしてるけど」
「気づく人もいるのか」
俺なんて高校生のときから毎日一緒にいても、まったく気づかなかったのに。
「飲屋街の人たちは、割に鋭いよ」
「そうなのか」
「僕が今まで話さなかったのは、気持ち悪がられたらどうしようって怖かっただけじゃなくて、心のどこかで本当にバイか疑ってる自分もいたからなんだ」
彼はアメリカンで唇を湿らせ、再び話し出した。
「さっきの彼もそうだけど、僕が今まで男の人と付き合うときって、向こうから好きだって言ってくるんだ。僕が自分から好きだと思った男の人って一人だけ。だから、その人が友達として大好きなだけなんじゃないかって思えてね。でも、高校生のときにはっきりと男相手に『好き』だって思ってね。あぁ、僕って女だけじゃなくて男もいけるんだなって」
高校生の頃ということは、俺も知っている人なのかもしれない。けれど、質問するのはやめた。今は、英知が話したいことだけを黙って聞けばそれでいい。そんな気がした。
「僕さ、一旦は教師になっただろ?」
「あぁ、うん」
「教師を辞めた理由を話さなかったのは、このことが原因だったからなんだ」
「なんだよ、職場で噂にでもなったのか?」
「ううん。多分、誰も知らなかった。けれど、僕が勝手に怖くなったんだ」
生徒に、父兄に、そして同僚の教師たちに知れたら、どう思われるのか。そう怯えるうちに、呼吸すら苦しくなった。英知はそう言って、力なく笑った。
「教師になるような人って、真っ直ぐ道を歩いてきた人に見えたんだ。人とは違う生き方にいいイメージがないんじゃないかって怖くてたまらなかった」
俺は何も言わず、ただクリームソーダのアイスの淵をスプーンでつついていた。
「もちろん、教師の仕事は大変だけどやりがいがあったよ。生徒たちが成長していくのを見るのも嬉しかった。子どもたちってまっすぐで、でもとても繊細で。向き合うのは難しいけど、素晴らしい瞬間をたくさん見せてくれる。だけど、僕はそれよりも自分が楽になる道を選んだ。ことが起こる前に、勝手に怯えて逃げたんだ」
「そうだったのか」
「そのあとは何をしていいかわからなくて、呆然としてた」
「なんだ、今の俺みたいだな」
「そうなんだ。僕は手当たり次第いろんなバイトをして、自分に合う仕事を見つけようとしたんだけどね、それでバーテンダーに落ち着いたってわけ」
「飲めないのにバーテンダーになるってすごいよな」
「飲めないからいいんだよ。それに、僕は飲屋街の空気が好きなんだ」
「空気?」
「そう。自由で義理人情にあつくて、でもどこか無責任で自分の足で立たないと生きていけないところ」
英知は苦笑する。
「僕がバイだって知っても、誰も気にしないんだ。僕に『僕は本州の生まれです』って言われても『へぇ、そうなの』って思うだろ? そんな感じなんだよ」
「そうなのか」
少し驚いた。酔っ払いに絡まれたりしないか、ちょっと心配だったからだ。けれど、英知の顔つきを見る限り、飲屋街は居心地のいい場所のようだった。
そのとき、大野さんがナポリタンを運んできた。
「美味そうだな」
「うん」
俺たちはそう言うと、目を合わせて小さく笑った。そしてそれきり、その話は打ち切りになった。
「そういえば亮のところのバイトさんはどうだった?」
パスタを頬張りながら、俺は里緒さんがどんな人だったか説明した。
「ふぅん、お子さんも一緒に食事か。いいね」
英知の顔つきは、さっきまで浮かんでいた重苦しさが消え、いつもの穏やかさを取り戻していた。
喫茶店を出ると、英知は別れ際にふっと笑った。
「憲史は僕のことを『楽になった顔』って言ったよね」
「あぁ」
「僕ね、憲史と亮に知られたとき、『どうして話してくれなかったんだ』って怒られないかずっと怖かった。だからかもしれない」
「アホか、怒るわけないだろ」
「うん、知ってた」
英知がまっすぐ俺を見つめた。
「僕が教師を辞めたとき、憲史と亮だけは、どうして理由を話さないんだって言わなかったから。ただ、黙って受け止めてくれた。だから怒らないとは思ってた。けれど、それでも親友に話せないのは怖いと同時に辛かった」
思わずため息が漏れた。
「昔からお前はあれこれ心配しすぎるんだよ。なんで親友だからって絶対話さなきゃいけないんだ。お前、さっき偶然知られなかったら、俺にこうして話してないだろ?」
「うん」
「カミングアウトなんてしてもしなくてもいいんだ。言わないことが辛いなら、聞かせてほしいと思う。言わないでいるほうが楽なら、黙ってていい。俺たちはいくらでも受け止める。それだけだ」
「ありがとう」
英知は静かに言い、背を向けて歩き出した。
彼は言わなかったけれど、俺の知らないところで差別されたりバカにされたりしたこともあるのかもしれない。
自覚したとき、人知れず悩んで苦しんでいたのかもしれない。そのとき、俺は隣で何をしていたんだろう。
夢だった教師の話をしたとき、あいつの目は輝いていた。多分、まだ教師を続けていたかった気持ちはあるのだろう。一生後悔するのかもしれない。
それでも彼は自分の居場所を見つけたんだ。そう思うと、羨ましくもあった。
帰路についていると、商店街のアーチ看板が見えてきた。商店街の人びとも、親友も、毎日何かを積み重ねているんだと思った。それが変化にしろ、不変にしろ、それぞれの居場所で生きている。なんだか無性に、置いてけぼりにされているような気がした。
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