新陽通り商店街ワルツ

深水千世

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第2章 商店街の人びと

せめぎ合う

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 正誤表の最後の届け先は奥田書店だった。
 自動ドアの扉が開くと同時に、「あれ」と声が漏れた。カウンターに見知らぬ女性が立っている。

「いらっしゃいませ」

 緊張しているのだろう、声が少し震えた。瞬時に新しいバイトだと気付き、慌てて「どうも」と礼をした。

「初めまして、甲斐憲史といいます。はす向かいにある写真館の息子です」

「あっ、じゃあ、土日のバイトの!」

 客じゃないことがわかって、少し気持ちがほぐれたらしい。パッと笑顔が咲いた。

「金田里緒といいます。よろしくお願いします」

 深々と頭を垂れ、また顔を上げた彼女につい見とれてしまった。なるほど、亮が俺の好みだと言うだけあって確かに可愛い。色白で黒目が大きく、まるで小動物だ。小柄なせいでなおのこと、ウサギのようだった。
 かなりの童顔で、とても年上には見えなかった。とはいうものの、俺も童顔なので人のことはとやかく言えないのだが。
 亮は新しい恋が手っ取り早いとか言っていたけれど、恋の予感というよりむしろ、可愛い後輩ができた気分になった。

「あの、あれ? 亮はいます?」

「亮、さん?」

「あ、ここの店主」

「あぁ、店長なら奥で電話に出てます」

 ちょうどそのとき、階段を降りる足音がして、亮がひょっこり顔を出した。

「よう、憲史。ちょうどよかった、今呼ぼうと思ってたんだ。紹介するよ。うちの新しいバイトさん」

「もう自己紹介は終わってるよ」

 苦笑しながら、正誤表を渡した。

「ほらよ、店長さん」

「うん? あぁ、ありがとな」

 亮は受け取った正誤表を見つめていたが、不意に顔を上げた。

「なぁ、もし組合員に了承がとれたらなんだけど、お前に写真の仕事を依頼していい?」

「俺に? 写真? 何を撮るの?」

「商店街」

「別にいいけど、商店街の何を撮ればいいの?」

「人」

 相変わらず言葉の足りない奴だ。呆れて二の句が継げなくなっていると、里緒さんが笑いをこらえているのに気づいた。

「こいつ、口下手ですけどよろしくお願いしますね」

「お前によろしくされる覚えはないぞ、バイト君」

 里緒さんはとうとう噴き出し、鈴が鳴るように笑った。

「仲がいいんですね」

 二人同時に「腐れ縁です」と口にし、また里緒さんの笑いを誘ってしまった。
 その後、亮は彼女にこう言った。

「一人でレジを打てるまで、今日みたいにちょっと早めに出勤してもらいますが、基本は平日の午前十一時から午後三時まででお願いします」

 シフトの時間を聞いて、俺はおや、と引っかかるものがあった。亮が募集していたバイトは、開店前の八時から昼の一時までの早番と、昼の十二時から午後五時までの遅番の二種類だったはずだ。けれど、言い間違えたわけではなさそうだった。

「しばらく働いてみて、勤務時間に不都合があれば言ってくださいね。お互い、調整しましょう。憲史とはすれ違いの勤務ですが、欠勤したり人手不足のときは突然お願いすることもあるかもしれません」

 そう言った亮に、里緒さんは「はい」と答えた。人柄のよさが伝わってくる実直そうな声だった。

「あと、用事があるときや体調が悪いときは、遠慮せずにどんどん申し出てくださいね。体が資本ですからね」

 そこまで話すと、亮は何か思い当たったらしい。すがるような顔つきで俺に「頼みがある」と切り出した。

「今日、急に商店街の話し合いをすることになってな。資料を作らなきゃならないんだ。午後には配達もあるし、午前中に終わらせておきたくてさ。ちょっと今日だけ、里緒さんに仕事教えてくれないか?」

「あぁ、いいよ」

「すまない」

 亮は里緒さんに向き直り、申し訳なさそうに言った。

「初日だっていうのに、立て込んでてすみませんね」

「いえ、とんでもない」

「じゃ、俺は二階にいますんで、何かあったら呼んでください」

 そう言い残し、足早に階段をかけていく。亮の姿が消えると、俺はどこか心細そうな顔をしている里緒さんになるべく優しく話しかけた。

「里緒さん、今日が初日だったんですね」

「は、はい」

「今まで本屋で働いたことはあるんですか?」

「いいえ、初めてなんです。先月までボヌールでレジを打ってたんです」

「あれ、あそこって閉店しちゃうって話ですよね」

「そうなんです。それでこちらに勤務することになりました」

 スーパーには大勢の従業員がいて、一人ひとりに生活がある。守るべき家族もいるだろうし、頼る相手もいない人だっているはずだ。当たり前のことなんだけど、それを思うと閉店の影響力は大きい。現にこうして、里緒さんも職を失い、仕事を一から覚えなくてはならないんだから。

 とりあえず亮が配達に行っている間に店を守れればいいとはいえ、教えることはたくさんあった。
 レジの操作方法から始まり、ISBNコードと書籍JANコードを簡単に説明する。取り置きの本を置く場所、定期購読の本を渡したときの台帳のつけ方、売上スリップのまとめ方をざっと説明した。

「私、ISBNコードなんて知りませんでした。今まで意識して見たことなかったな」

「雑誌コードっていうのもありますよ」

「えっ、雑誌は別なんですか」

 俺は店頭から週刊誌を引き抜き、裏を見せた。

「ほら、ここに数字が並んでるでしょ。頭が0と1だと月刊とか季刊誌で、週刊誌は2か3なんですよ。他にもいろいろあるんですけど、とりあえずそこだけ覚えておくとなにかと便利かな」

「私、店長が配達に行っている間、一人で大丈夫かしら」

「大丈夫ですよ」

 レジに並ぶほどの客なんて来ないし。うっかりそう言いそうになって、慌てて言葉を飲み込んだ。

「えっと、何かあったら連絡ください。すぐに駆けつけますから」

「はす向かいですもんね」

 里緒さんが小さく笑った。少し緊張がほぐれてきたらしい。二人で売上スリップをまとめながら、こう切り出した。

「里緒さんの歓迎会しませんか?」

「えっ、私のですか?」

「うん。あ、お酒飲めます?」

「は、はい」

「じゃあ、今日仕事終わったら、どうですか?」 

 しかし、彼女はおずおずと言った。

「あの、すみません。お気持ちは嬉しいんですけど、仕事が終わったら幼稚園に迎えに行かなきゃいけないんです」

「幼稚園?」

 きょとんとすると、彼女は「はい。娘が待っているので」と言い、うつむいた。

「お子さん、いらっしゃるんですか!」

「えぇ、五歳の娘がいるんです」

「五歳?」

 思わず声が大きくなる。とてもじゃないけど、子どもがいるようには見えなかった。でも言われてみれば確かに、穏やかな笑顔に母性が滲んでいる気もする。

「いや、驚きましたけど、でも言われてみれば里緒さんが穏やかな感じするのって、普段『お母さん』してるからなのかな」

「あ、ありがとうございます」

 昨日、亮に『独身か?』と訊いたとき、『そうらしいな』と答えた。ということは、未婚の母か、そうでなければ離婚しているのだろう。左手の薬指に目を走らせると、やはり指輪はなかった。
 彼女の十一時から三時までという勤務時間にも納得がいった。亮のことだから、面接であれこれ聞いたあとで、彼女が一番働きやすい時間に設定したのだろう。
 娘と二人で暮らしてるのか、実家に戻ったのかは知らないが、どのみち夜出歩くのは難しいかもしれない。

「じゃ、日を改めて、娘さんも一緒に、娘さんの好きなものを食べに行きましょう」

「えっ、娘も一緒でいいんですか?」

「もちろん。夜だと娘さんが眠くなっちゃうだろうから、週末の日中にでも」

「あ、ありがとうございます」

「ファミレスでもどこでも、娘さんが一番食べたいものでいいですから。あ、娘さんのお名前は?」

「葵です」

「アオイちゃんか。可愛い名前ですね」

 里緒さんの頬が一瞬にして緊張を忘れ、緩んだ。娘が本当に大事なんだなと思うと、微笑ましい。
 そのとき、階段から足音がして、亮が降りてきた。

「すまんな、終わったぞ」

「おう」

 早速、歓迎会の話を持ち出すと、亮が呆れ顔になった。

「お前ね、そりゃあ、いきなり今日って言われても人には都合があるだろうが。でも、娘さんと一緒にってのは名案だな」

「だろう?」

「あの、でも、いいんですか?」

「もちろんですよ。娘さんも職場にどんな人がいるかわかれば、何かあったときに連絡しやすいでしょうし」

 だが、亮がカレンダーを見て「ううん」と軽く唸った。

「問題は、俺も歓迎したいのはやまやまなんだけど、商店街の集まりとオケの練習があってしばらくは難しいってことかな。俺抜きで行ってきてくれ」

「なんだよ、付き合い悪いな」

 亮は里緒さんに「すみませんね」と詫びる。

「じゃあ、もし都合のいい日があれば、行きましょう。でも、里緒さんと娘さんがよければの話でいいですからね」

 あんまり強引にすすめるのもよくないと思い、軽く礼をした。

「亮、また昼にな」

「おう」

 書店を出て、キッチンに買ってきたパンを並べる。その中からきつね色のカレーパンを手に取って、自分の部屋に戻った。
 窓から見えるのは、色とりどりのトタン屋根と少しのビルがある、いつもの風景だ。
 北海道には瓦屋根の家がない。本州では瓦屋根を新鮮に思っていたのに、今ではそれがないことに驚きを感じる。『当たり前』の認識がすり変わる程度に、六年という月日は、短いようで長かったんだとしみじみする。

 少し窓を開けてカレーの匂いを外に逃がしながら、窓辺でパンを頬張った。遠くに撤退予定のスーパーが一部分だけ見える。建物は残るんだろうか。そうでなければ、ここからの景色も変わることになる。

「どうなるんだろうなぁ、俺も商店街も」

 このまま閉店する店舗が増えていくと、このカレーパンだっていつかは食べられなくなるんだろうか。俺の中で『変わりたい』気持ちと『変わりたくない』願望がせめぎ合っていた。
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