4 / 34
第1章 感傷的な帰郷
ほろ苦いビール
しおりを挟む
店じまいをした亮と一緒に出かけたのは、八時を過ぎた頃だった。
高瀬市の飲屋街は新陽通り商店街から歩いて五分という場所にある。
英知の店で飲むのは、この日で二度目。東京から戻ってきたとき三人で飲んだのは、彼の店だったからだ。いわゆるオーセンティックなバーというやつで、中通りのビルの二階にある。立地的には目立たないけれどセンスがいい、隠れ家的な印象だ。
「いらっしゃいませ」
出迎えてくれた英知は、白いワイシャツに黒いベストと蝶ネクタイ、サロン、そして革靴という、いかにもバーテンダーらしいいでたちだった。いつもはセットなんかしない髪も、ワックスで整えられている。
彼の店はこぢんまりとしていて、七人ほどが座れるL字型のカウンターと、テーブル席が一つあるだけ。内装は白い塗り壁と木材の色合いが調和して、落ち着いた雰囲気だ。
「よう、景気はどうだ」
亮が湯気の立つおしぼりで手を拭きながら言う。英知は冗談めかして答えた。
「正直、よくはないかな。だから、たくさん飲んでいってね」
すると、亮が俺の肩にぽん、と手を置いた。
「だってよ。今日はたらふく飲め」
「お前んとこのバイト代しか収入がないんだぞ、俺は」
「大丈夫、今日は俺のおごりだ」
英知が言葉にはしなかったが、『おや』という顔をした。俺も思わず眉根を寄せる。
「おい、亮」
「うん?」
「お前、俺に何か言いたいことがあるんじゃないのか?」
「なんでわかるの?」
亮はぎょっとしているが、カウンターの向こうでは、英知が肩を揺らして笑っていた。
亮が誰かにおごるときは、わざわざ「おごりだ」なんて口に出さない。いつも、気づかれないようにさりげなく会計を済ませておくんだ。
それなのに、こうして宣言するっていうことは、俺に申し訳ないという気持ちや、お願いしたいことがあって、あとから「だから、あのときおごって機嫌取りしたのか」と思われたくないからだ。前回こうしておごられたときは、俺が貸した服にコーヒーのシミを作ったんだっけ。
「あのな、何年の付き合いだと思ってんだ」
とりあえずビールで乾杯し、一息ついたところで亮が切り出す。
「しょうがない、白状しよう」
「うん」
「バイトが一人見つかってな、来週からは土日だけの勤務でもいいか?」
正直に言うと、少し残念だった。書店の仕事は単調だけど、嫌いじゃない。それに、週に二日の勤務では収入が心もとなかった。
けれど、バイトが見つかったのは喜ばしいことだし、土日だけでも雇い続けてくれるんだから、感謝こそすれ文句など言えるわけがない。
「もちろんだよ。バイトが見つかってよかったじゃないか」
なるべく明るい声で言いながら、笑みを浮かべて見せた。
「それに、もともと、新しいバイトが決まるまでって話だったじゃないか」
「うん、でも急な話で申し訳なくてさ」
「そんな気を遣うなよ。雇ってくれるだけでありがたいんだから。それより、どんな人なんだ?」
「女の人だよ。歳は俺らより四つ上かな」
「へえ」
そこで会話が途切れた。俺が「で?」と続きを促すと、亮がきょとんとする。
「で? って、何が?」
「それだけ? 他には?」
「あぁ、そうだな。真面目そうで、柔らかい雰囲気で、お前の好みのタイプだ」
「マジか。独身か?」
「そうらしいな」
一瞬わくわくしたが、すぐに「いや、期待しない」と肩を落とした。
英知が首を傾げる。
「憲史、どうしたの?」
「女はしばらくいい。懲りた」
美月さんの顔が、グラスに映って消えた。スタジオを辞めるとき、彼女は残念そうな顔をした。俺がスタジオを離れることを惜しいと思ってくれたのか、それとも失恋程度で故郷に逃げ帰る俺を残念に思ったのか。それを確かめる勇気もなかった。
まだ彼女の声が恋しい。最初から俺の手の中にはいなかった人だ。だけど、それでも、あの肌の温もりを失った虚しさは俺の胸に残っていた。
三人で飲んだとき、俺は亮と英知に美月さんとの不倫を話していた。二人はすぐにそのことに思い当たったらしい。英知は「あぁ」と呟き、亮のほうは「しょうがない奴だな」と、眉をしかめた。
「新しい恋が一番手っ取り早いと思うんだがな」
肩をすくめる亮を軽く睨む。
「他人事だからそんなこと言えるんだ。そんな簡単に割り切れない程度には好きだったんだよ。そういうお前は、俺が東京に行っている間、浮いた話の一つもなかったのか」
「そうだなぁ、ないなぁ」
「なんだよ、じゃあ英知は?」
「僕もないなぁ」
のらりくらりとかわされ、思わず唇を尖らせた。
「なんか、俺一人で話題提供して損した気分」
思えば学生時代から、二人とも恋愛の話は滅多にしない。誰かと付き合っても、馴れ初めや惚気話を自分から話そうとしないんだ。秘密主義というか、なんでも話してしまう俺とは対照的だった。
「なぁ、亮はどんな女がいいんだ?」
「そうだなぁ、V・I・ウォーショースキーみたいな女なら抱きたいな」
亮は愛用の手巻き煙草を手に、惚けるように呟いた。
「誰だ、それ?」
「いい女だぜ」
「ふぅん。ハリウッド女優?」
「いや、もっと手が届かない」
そこで英知が小さく笑って口を挟んだ。
「煙草嫌いだもんね、彼女」
亮がにやりとし、紫煙を吐いた。六年前は覚えたてだった煙草も、今ではすっかり慣れた手つきで燻らせている。
「じゃ、ダメじゃん」
「まぁ、俺のことよりお前は自分のことを考えてろ」
「そうするよ」
「平日のバイトから解放されるんだから、ハローワークにも通いやすくなるだろ」
ぐっと言葉に詰まる。今まで亮のバイトを言い訳にして職探しを怠けていたんだ。
でも、生活や貯金のことを考えると、そうは言ってられない。
わかっちゃいる。なんとかしなきゃって焦りだけが増していく。けれど、新しいステップに踏み出す勇気が持てない。
そのとき、英知がこう切り出した。
「それじゃあ、今度は僕の店でバイトしない?」
「え?」
「平日の夜、週に三日くらい来てくれるとこっちも助かるんだ」
「でも、この前飲んだとき、この店を切り盛りするのに一人で十分って言ってたのに。それに俺、カクテルなんて作れないしさ、足手まといになるだろ」
同情されたのだろうか。そう思った途端、情けなくなった。しかし、英知はそんな俺を見透かしたようで、慌てて「いやいや」と首を振った。
「実は僕、手荒れがひどくなっちゃってね。洗い物だけでもしてくれると助かるんだ。それに、忙しい時間帯はお通しを出したり、お客さんの相手をしてくれるだけでありがたいんだ」
そして、こう続ける。
「もっとも、そんなに賃金は出せないけど、就職活動にもお金はかかるでしょ?」
「お、おう。じゃ、お願いするよ」
「よかった。よろしくね」
英知はどことなくホッとした顔で笑う。すると、亮が俺のほうを見て、苦笑した。
「憲史は写真館を継がないのか?」
「まだ考えてないよ。親父は現役だし。第一、家を出て好き勝手してたのに、戻ったからってすぐ手伝いをするのも虫がいいだろ」
反抗していた過去がある分、余計に素直になれない。
「そうか。でもさ、そろそろ店を手伝ってもいいと思うけどね。お前だっていつかは継ごうって考えがあるから、東京でカメラマンになったんだろ?」
俺は飲みかけたビールをカウンターに置き、小さなため息を漏らした。
「本当のこと言うとさ、その気はなかったんだ」
「じゃあ、なんで写真の仕事にしたんだよ」
「実家が写真館ですって言ったら、採用されやすいかなって思って」
「それだけ?」
亮が呆れ顔になった。
「そう、それだけ。で、美月さんが採用してくれて、カメラって結構面白いって知ったの」
英知が「へぇ」と眉を上げた。
「憲史、東京でどんな写真撮ってたの?」
「どんなって、普通の記念写真だよ」
亮が煙草の灰を落としながら口を開いた。
「画像、ないの? 俺も見たいな」
「あぁ、何枚かある」
携帯電話を取り出し、美月さんのスタジオのホームページを検索した。トップページには許可をくれたお客さんの写真が掲載されていて、その中には俺が撮ったものもあるんだ。
「これと、これ。あと、この写真も俺が撮ったやつ」
電話を渡して見せると、亮と英知が画面を覗きこんで「へぇ」とか「おお」とか、声を漏らしている。入学や結婚の記念写真で、お客さんはもちろん、美月さんも気に入ってくれた出来栄えの作品だった。
亮はしばらく食い入るように見ていたが、そのうち何やら電話を操作し出した。
「お、この写真、いいね。これ誰?」
慌てて画面を見ると、オムライスの皿を手に笑っている美月さんが映っていた。細面に長いストレートの黒髪で、薄化粧を好む人だった。
「お前、人のカメラロール、勝手に見るなよ!」
慌てて亮の手から携帯電話を取り返そうとしたが、手で制された。英知がカウンターの向こうから画面を見て、「綺麗な人だね。誰?」と微笑む。
「うるせぇな。これが美月さんだよ」
亮がしげしげと美月さんの画像を見つめている。
「へぇ、なるほど、こりゃ美人だ。でもさ、このオムライス、彼女が作ったの? すごいぐしゃぐしゃなんだけど。見かけによらずワイルドだな」
「悪かったな、俺が作ったんだよ」
「お前が? 料理を? チャーハンも作れなかったのに?」
目を丸くした亮を、軽く睨んだ。
「一人で六年も暮らせば、それくらい作れるようになるだろ」
「ぐしゃぐしゃだけどな」
「うるせぇ」
すると、英知がなだめるようにフォローを入れた。
「でもさ、すごくいい笑顔だよね」
そうさ。悔しいくらい、すごくいい笑顔なんだ。だから振られても画像を削除できずにいる。
しんみりとした気分になって、思わず俯いた。
「美月さんって仕事はできるけど手先は不器用でさ」
壊れた蛇口から水が漏れるように、力なく言葉が出てきた。
「どっちがまともな料理を作れるかって話になって、彼女にオムライスを作ったんだ。見ての通り失敗したけど、美味しいって食べてくれた」
卵は裂けてチキンライスが丸見えだし、味も塩辛くなった。玉ねぎは生だった。
『ほら、絶対私のほうが綺麗に作れるって』
美月さんは俺をからかったあとで、へなちょこオムライスを綺麗に平らげた。
『私、あなたの料理、好きよ』
そう言ってスプーンを置き、優しいキスをくれた。
『あなたが一生懸命なところを見るのが好きだから』
その瞬間、俺は本当の意味で恋に落ちた。最低な話だけど、最初はゲーム感覚だったんだ。
残業が続くと、彼女は俺を食事に連れ出してくれていた。一人暮らしの俺を気遣ってくれたんだと思う。
けど、二人で食事に行くごとに、美月さんは、俺の前で無防備に笑うようになった。会社でも見たことのない、安心しきった顔だった。そしていつしか、彼女の夫婦仲が冷めていると知った。
もしかして、俺のほうが美月さんをたくさん笑顔にできるんじゃないか。そう思うと、彼女が欲しくてたまらなくなった。
だから、俺から仕掛けた。
レストランからの帰り道だった。並んで歩いているとき、わざと立ち止まった。彼女がきょとんとして歩みを止めたところを抱き寄せ、キスをした。美月さんは抵抗せず、ゆっくりと俺の背に手を回した。それが始まりだった。
いつか夫のもとを去って、俺を選んでくれるだろうか。そんな賭けにも似たゲームをしているつもりだった。それなのに、終わってみたら俺の完敗だ。
そう話すと、英知が呆れ顔で言う。
「そういえば、憲史は昔からそういうところがあったね。学校のテストもゲーム感覚だったし。試験範囲から問題を作る教師の心理を読むゲームだって言ってたな」
そう、そんな俺は学校の成績はよかった。けれど実際はやることがバカだし、今では勉強の中身なんて何も覚えてない。
この性格は、真剣に向き合わなければならないものほど茶化してしまう。だから何もこの手に残らない。
「俺、美月さんからたくさん『初めて』をもらったんだ」
今まで付き合ってきた女は、全部向こうから告白してきた。自分が望んだ相手と付き合えたのは、美月さんが初めてだった。それに、初めて尊敬した人だった。写真の魅力を教えてくれた。俺の料理を「美味しい」と完食してくれた。寝顔を愛おしいと思った。いろんな『初めて』をくれた人だった。
「だからかなぁ。しんどいな」
自ら欲して、一度は手にしたものが滑り抜けていく。その寂しさと虚無に視界がぼやけて、慌てて唇を噛んだ。
亮がため息まじりに言った。
「いつになく感傷的だな」
そりゃそうだ。だって、北海道に戻ってきた俺を待っていたのは感傷的なものばかり。
老いた父の後ろ姿。生まれ育った商店街の寂れた様子。大事なことは何も見えず、友達に助けられてばかりの情けない自分。
この日のビールはいつも以上にほろ苦かった。
高瀬市の飲屋街は新陽通り商店街から歩いて五分という場所にある。
英知の店で飲むのは、この日で二度目。東京から戻ってきたとき三人で飲んだのは、彼の店だったからだ。いわゆるオーセンティックなバーというやつで、中通りのビルの二階にある。立地的には目立たないけれどセンスがいい、隠れ家的な印象だ。
「いらっしゃいませ」
出迎えてくれた英知は、白いワイシャツに黒いベストと蝶ネクタイ、サロン、そして革靴という、いかにもバーテンダーらしいいでたちだった。いつもはセットなんかしない髪も、ワックスで整えられている。
彼の店はこぢんまりとしていて、七人ほどが座れるL字型のカウンターと、テーブル席が一つあるだけ。内装は白い塗り壁と木材の色合いが調和して、落ち着いた雰囲気だ。
「よう、景気はどうだ」
亮が湯気の立つおしぼりで手を拭きながら言う。英知は冗談めかして答えた。
「正直、よくはないかな。だから、たくさん飲んでいってね」
すると、亮が俺の肩にぽん、と手を置いた。
「だってよ。今日はたらふく飲め」
「お前んとこのバイト代しか収入がないんだぞ、俺は」
「大丈夫、今日は俺のおごりだ」
英知が言葉にはしなかったが、『おや』という顔をした。俺も思わず眉根を寄せる。
「おい、亮」
「うん?」
「お前、俺に何か言いたいことがあるんじゃないのか?」
「なんでわかるの?」
亮はぎょっとしているが、カウンターの向こうでは、英知が肩を揺らして笑っていた。
亮が誰かにおごるときは、わざわざ「おごりだ」なんて口に出さない。いつも、気づかれないようにさりげなく会計を済ませておくんだ。
それなのに、こうして宣言するっていうことは、俺に申し訳ないという気持ちや、お願いしたいことがあって、あとから「だから、あのときおごって機嫌取りしたのか」と思われたくないからだ。前回こうしておごられたときは、俺が貸した服にコーヒーのシミを作ったんだっけ。
「あのな、何年の付き合いだと思ってんだ」
とりあえずビールで乾杯し、一息ついたところで亮が切り出す。
「しょうがない、白状しよう」
「うん」
「バイトが一人見つかってな、来週からは土日だけの勤務でもいいか?」
正直に言うと、少し残念だった。書店の仕事は単調だけど、嫌いじゃない。それに、週に二日の勤務では収入が心もとなかった。
けれど、バイトが見つかったのは喜ばしいことだし、土日だけでも雇い続けてくれるんだから、感謝こそすれ文句など言えるわけがない。
「もちろんだよ。バイトが見つかってよかったじゃないか」
なるべく明るい声で言いながら、笑みを浮かべて見せた。
「それに、もともと、新しいバイトが決まるまでって話だったじゃないか」
「うん、でも急な話で申し訳なくてさ」
「そんな気を遣うなよ。雇ってくれるだけでありがたいんだから。それより、どんな人なんだ?」
「女の人だよ。歳は俺らより四つ上かな」
「へえ」
そこで会話が途切れた。俺が「で?」と続きを促すと、亮がきょとんとする。
「で? って、何が?」
「それだけ? 他には?」
「あぁ、そうだな。真面目そうで、柔らかい雰囲気で、お前の好みのタイプだ」
「マジか。独身か?」
「そうらしいな」
一瞬わくわくしたが、すぐに「いや、期待しない」と肩を落とした。
英知が首を傾げる。
「憲史、どうしたの?」
「女はしばらくいい。懲りた」
美月さんの顔が、グラスに映って消えた。スタジオを辞めるとき、彼女は残念そうな顔をした。俺がスタジオを離れることを惜しいと思ってくれたのか、それとも失恋程度で故郷に逃げ帰る俺を残念に思ったのか。それを確かめる勇気もなかった。
まだ彼女の声が恋しい。最初から俺の手の中にはいなかった人だ。だけど、それでも、あの肌の温もりを失った虚しさは俺の胸に残っていた。
三人で飲んだとき、俺は亮と英知に美月さんとの不倫を話していた。二人はすぐにそのことに思い当たったらしい。英知は「あぁ」と呟き、亮のほうは「しょうがない奴だな」と、眉をしかめた。
「新しい恋が一番手っ取り早いと思うんだがな」
肩をすくめる亮を軽く睨む。
「他人事だからそんなこと言えるんだ。そんな簡単に割り切れない程度には好きだったんだよ。そういうお前は、俺が東京に行っている間、浮いた話の一つもなかったのか」
「そうだなぁ、ないなぁ」
「なんだよ、じゃあ英知は?」
「僕もないなぁ」
のらりくらりとかわされ、思わず唇を尖らせた。
「なんか、俺一人で話題提供して損した気分」
思えば学生時代から、二人とも恋愛の話は滅多にしない。誰かと付き合っても、馴れ初めや惚気話を自分から話そうとしないんだ。秘密主義というか、なんでも話してしまう俺とは対照的だった。
「なぁ、亮はどんな女がいいんだ?」
「そうだなぁ、V・I・ウォーショースキーみたいな女なら抱きたいな」
亮は愛用の手巻き煙草を手に、惚けるように呟いた。
「誰だ、それ?」
「いい女だぜ」
「ふぅん。ハリウッド女優?」
「いや、もっと手が届かない」
そこで英知が小さく笑って口を挟んだ。
「煙草嫌いだもんね、彼女」
亮がにやりとし、紫煙を吐いた。六年前は覚えたてだった煙草も、今ではすっかり慣れた手つきで燻らせている。
「じゃ、ダメじゃん」
「まぁ、俺のことよりお前は自分のことを考えてろ」
「そうするよ」
「平日のバイトから解放されるんだから、ハローワークにも通いやすくなるだろ」
ぐっと言葉に詰まる。今まで亮のバイトを言い訳にして職探しを怠けていたんだ。
でも、生活や貯金のことを考えると、そうは言ってられない。
わかっちゃいる。なんとかしなきゃって焦りだけが増していく。けれど、新しいステップに踏み出す勇気が持てない。
そのとき、英知がこう切り出した。
「それじゃあ、今度は僕の店でバイトしない?」
「え?」
「平日の夜、週に三日くらい来てくれるとこっちも助かるんだ」
「でも、この前飲んだとき、この店を切り盛りするのに一人で十分って言ってたのに。それに俺、カクテルなんて作れないしさ、足手まといになるだろ」
同情されたのだろうか。そう思った途端、情けなくなった。しかし、英知はそんな俺を見透かしたようで、慌てて「いやいや」と首を振った。
「実は僕、手荒れがひどくなっちゃってね。洗い物だけでもしてくれると助かるんだ。それに、忙しい時間帯はお通しを出したり、お客さんの相手をしてくれるだけでありがたいんだ」
そして、こう続ける。
「もっとも、そんなに賃金は出せないけど、就職活動にもお金はかかるでしょ?」
「お、おう。じゃ、お願いするよ」
「よかった。よろしくね」
英知はどことなくホッとした顔で笑う。すると、亮が俺のほうを見て、苦笑した。
「憲史は写真館を継がないのか?」
「まだ考えてないよ。親父は現役だし。第一、家を出て好き勝手してたのに、戻ったからってすぐ手伝いをするのも虫がいいだろ」
反抗していた過去がある分、余計に素直になれない。
「そうか。でもさ、そろそろ店を手伝ってもいいと思うけどね。お前だっていつかは継ごうって考えがあるから、東京でカメラマンになったんだろ?」
俺は飲みかけたビールをカウンターに置き、小さなため息を漏らした。
「本当のこと言うとさ、その気はなかったんだ」
「じゃあ、なんで写真の仕事にしたんだよ」
「実家が写真館ですって言ったら、採用されやすいかなって思って」
「それだけ?」
亮が呆れ顔になった。
「そう、それだけ。で、美月さんが採用してくれて、カメラって結構面白いって知ったの」
英知が「へぇ」と眉を上げた。
「憲史、東京でどんな写真撮ってたの?」
「どんなって、普通の記念写真だよ」
亮が煙草の灰を落としながら口を開いた。
「画像、ないの? 俺も見たいな」
「あぁ、何枚かある」
携帯電話を取り出し、美月さんのスタジオのホームページを検索した。トップページには許可をくれたお客さんの写真が掲載されていて、その中には俺が撮ったものもあるんだ。
「これと、これ。あと、この写真も俺が撮ったやつ」
電話を渡して見せると、亮と英知が画面を覗きこんで「へぇ」とか「おお」とか、声を漏らしている。入学や結婚の記念写真で、お客さんはもちろん、美月さんも気に入ってくれた出来栄えの作品だった。
亮はしばらく食い入るように見ていたが、そのうち何やら電話を操作し出した。
「お、この写真、いいね。これ誰?」
慌てて画面を見ると、オムライスの皿を手に笑っている美月さんが映っていた。細面に長いストレートの黒髪で、薄化粧を好む人だった。
「お前、人のカメラロール、勝手に見るなよ!」
慌てて亮の手から携帯電話を取り返そうとしたが、手で制された。英知がカウンターの向こうから画面を見て、「綺麗な人だね。誰?」と微笑む。
「うるせぇな。これが美月さんだよ」
亮がしげしげと美月さんの画像を見つめている。
「へぇ、なるほど、こりゃ美人だ。でもさ、このオムライス、彼女が作ったの? すごいぐしゃぐしゃなんだけど。見かけによらずワイルドだな」
「悪かったな、俺が作ったんだよ」
「お前が? 料理を? チャーハンも作れなかったのに?」
目を丸くした亮を、軽く睨んだ。
「一人で六年も暮らせば、それくらい作れるようになるだろ」
「ぐしゃぐしゃだけどな」
「うるせぇ」
すると、英知がなだめるようにフォローを入れた。
「でもさ、すごくいい笑顔だよね」
そうさ。悔しいくらい、すごくいい笑顔なんだ。だから振られても画像を削除できずにいる。
しんみりとした気分になって、思わず俯いた。
「美月さんって仕事はできるけど手先は不器用でさ」
壊れた蛇口から水が漏れるように、力なく言葉が出てきた。
「どっちがまともな料理を作れるかって話になって、彼女にオムライスを作ったんだ。見ての通り失敗したけど、美味しいって食べてくれた」
卵は裂けてチキンライスが丸見えだし、味も塩辛くなった。玉ねぎは生だった。
『ほら、絶対私のほうが綺麗に作れるって』
美月さんは俺をからかったあとで、へなちょこオムライスを綺麗に平らげた。
『私、あなたの料理、好きよ』
そう言ってスプーンを置き、優しいキスをくれた。
『あなたが一生懸命なところを見るのが好きだから』
その瞬間、俺は本当の意味で恋に落ちた。最低な話だけど、最初はゲーム感覚だったんだ。
残業が続くと、彼女は俺を食事に連れ出してくれていた。一人暮らしの俺を気遣ってくれたんだと思う。
けど、二人で食事に行くごとに、美月さんは、俺の前で無防備に笑うようになった。会社でも見たことのない、安心しきった顔だった。そしていつしか、彼女の夫婦仲が冷めていると知った。
もしかして、俺のほうが美月さんをたくさん笑顔にできるんじゃないか。そう思うと、彼女が欲しくてたまらなくなった。
だから、俺から仕掛けた。
レストランからの帰り道だった。並んで歩いているとき、わざと立ち止まった。彼女がきょとんとして歩みを止めたところを抱き寄せ、キスをした。美月さんは抵抗せず、ゆっくりと俺の背に手を回した。それが始まりだった。
いつか夫のもとを去って、俺を選んでくれるだろうか。そんな賭けにも似たゲームをしているつもりだった。それなのに、終わってみたら俺の完敗だ。
そう話すと、英知が呆れ顔で言う。
「そういえば、憲史は昔からそういうところがあったね。学校のテストもゲーム感覚だったし。試験範囲から問題を作る教師の心理を読むゲームだって言ってたな」
そう、そんな俺は学校の成績はよかった。けれど実際はやることがバカだし、今では勉強の中身なんて何も覚えてない。
この性格は、真剣に向き合わなければならないものほど茶化してしまう。だから何もこの手に残らない。
「俺、美月さんからたくさん『初めて』をもらったんだ」
今まで付き合ってきた女は、全部向こうから告白してきた。自分が望んだ相手と付き合えたのは、美月さんが初めてだった。それに、初めて尊敬した人だった。写真の魅力を教えてくれた。俺の料理を「美味しい」と完食してくれた。寝顔を愛おしいと思った。いろんな『初めて』をくれた人だった。
「だからかなぁ。しんどいな」
自ら欲して、一度は手にしたものが滑り抜けていく。その寂しさと虚無に視界がぼやけて、慌てて唇を噛んだ。
亮がため息まじりに言った。
「いつになく感傷的だな」
そりゃそうだ。だって、北海道に戻ってきた俺を待っていたのは感傷的なものばかり。
老いた父の後ろ姿。生まれ育った商店街の寂れた様子。大事なことは何も見えず、友達に助けられてばかりの情けない自分。
この日のビールはいつも以上にほろ苦かった。
0
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
イーペン・サンサーイのように
黒豆ぷりん
青春
生まれたときから間が悪い真野さくら。引っ込み思案で目立たないように生きてきたけれど、中学校で出会った秋月楓との出会いで、新たな自分と向き合って行こうとするお話。
黄昏は悲しき堕天使達のシュプール
Mr.M
青春
『ほろ苦い青春と淡い初恋の思い出は・・
黄昏色に染まる校庭で沈みゆく太陽と共に
儚くも露と消えていく』
ある朝、
目を覚ますとそこは二十年前の世界だった。
小学校六年生に戻った俺を取り巻く
懐かしい顔ぶれ。
優しい先生。
いじめっ子のグループ。
クラスで一番美しい少女。
そして。
密かに想い続けていた初恋の少女。
この世界は嘘と欺瞞に満ちている。
愛を語るには幼過ぎる少女達と
愛を語るには汚れ過ぎた大人。
少女は天使の様な微笑みで嘘を吐き、
大人は平然と他人を騙す。
ある時、
俺は隣のクラスの一人の少女の名前を思い出した。
そしてそれは大きな謎と後悔を俺に残した。
夕日に少女の涙が落ちる時、
俺は彼女達の笑顔と
失われた真実を
取り戻すことができるのだろうか。
不人気プリンスの奮闘 〜唯一の皇位継承者は傍系宮家出身で、ハードモードの無理ゲー人生ですが、頑張って幸せを掴みます〜
田吾作
青春
21世紀「礼和」の日本。皇室に残された次世代の皇位継承資格者は当代の天皇から血縁の遠い傍系宮家の「王」唯一人。
彼はマスコミやネットの逆風にさらされながらも、仲間や家族と力を合わせ、次々と立ちはだかる試練に立ち向かっていく。その中で一人の女性と想いを通わせていく。やがて訪れる最大の試練。そして迫られる重大な決断。
公と私の間で彼は何を思うのか?
隣の席の関さんが許嫁だった件
桜井正宗
青春
有馬 純(ありま じゅん)は退屈な毎日を送っていた。変わらない日々、彼女も出来なければ友達もいなかった。
高校二年に上がると隣の席が関 咲良(せき さくら)という女子になった。噂の美少女で有名だった。アイドルのような存在であり、男子の憧れ。
そんな女子と純は、許嫁だった……!?
スカートなんて履きたくない
もちっぱち
青春
齋藤咲夜(さいとうさや)は、坂本翼(さかもとつばさ)と一緒に
高校の文化祭を楽しんでいた。
イケメン男子っぽい女子の同級生の悠(はるか)との関係が友達よりさらにどんどん近づくハラハラドキドキのストーリーになっています。
女友達との関係が主として描いてます。
百合小説です
ガールズラブが苦手な方は
ご遠慮ください
表紙イラスト:ノノメ様
吉祥寺行
八尾倖生
青春
中古のスケッチブックのように、黙々と自宅、学校、アルバイト先を行き来する淀んだ白い日々を送る芳内克月。深海のように、派手派手しい毎日の裏に青い葛藤を持て余す風間実。花火のように、心身共に充実という名の赤に染まる鳥飼敬斗。モザイクのように、過去の自分と今の自分、弱さと強さ、嘘と真実の間の灰色を彷徨う松井彩花。
八王子にある某私立大学に通う四人の大学生は、対照的と言うべきか、はたまた各々の穴を補うような、それぞれの「日常」を過ごしていた。そうして日常を彩る四つの運命が、若者たちの人生に色彩を与える。
知っているうちに並行し、知らないうちに交差する彼らの一週間と二週間は、彼らの人生、生き方、日常の色を変えた。
そして最後の日曜日、二人のゲストを迎え、人々は吉祥寺に集結する。
男子高校生の休み時間
こへへい
青春
休み時間は10分。僅かな時間であっても、授業という試練の間隙に繰り広げられる会話は、他愛もなければ生産性もない。ただの無価値な会話である。小耳に挟む程度がちょうどいい、どうでもいいお話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる