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片翼の香水瓶
きりゅう
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その傍で仁王立ちをしているロッキーを見やると、彼は半ば夢見るような顔つきで、荒い息をしていた。
「ロッキー、何か見えたでござるか?」
駆け寄った菊千代に、彼は顔をしかめてぼやく。
「ああ。きりゅうが言っていたことは本当のようだ。妻が夫から殴られるところなんて、あまり見たくなかったな。胸糞悪い」
「では、こやつは双子の姉でござるか」
その問いに答えたのは、うずくまる女だった。
「そうです。妹の無念を思う気持ちに囚われました」
「お主、きりゅうの話を聞いたであろう? 香水瓶の片割れは割れてしまったでござる。それに、双子の妹も死んでしまわれた。それなのに、一人でどうしてこの世に残るのでござるか?」
そう問う菊千代に、彼女がさめざめと泣く。
「あの香水瓶に片翼の飾りがあるのをご覧になったでしょう? 香水瓶も、私たち姉妹も、互いが揃わなければ羽ばたけない。片方の翼だけでは地に堕ちてじたばたともがくより他に術がないのです」
その言葉にきりゅうが冷たく言い放つ。
「なにが翼じゃ。そんなものは思い込み、いや、言い訳じゃ。お前さんたちは自分たちを籠の鳥とでも自惚れているのかもしれんがな、なんてことはない。一人でいられなかった己の弱さに負けただけじゃ。お前さんの妹は迷惑なことに悪霊となって、今も夫の一族に取り憑いておる。屋敷は落ちぶれてしまったが、それでも妹の恨みは消えず、あの家の男はろくな死に方をせん。妹を助けたかったなら、なんとかせんか」
菊千代がきりゅうを「待たれい」と制する。
「決めるのは霊自身でござる。我らが強いることはできないでござるよ」
ロッキーが、口を開いた。
「俺にはあんたの過去が見えた。妹を思ってどんなに悲しんだかは知っているつもりだ。だけど、勘違いしちゃいけないよ。あんたは妹じゃない。妹の無念をはらすのは、あくまで妹でなけりゃ、意味がないんだ。それも生きているうちに、抗うべきだった」
ロッキーは小さくため息を漏らし、目を伏せた。
「あんたの妹は本当に旦那を愛してた。愛している人の理不尽に耐える辛さは、俺にだってわかる。いつかはあの優しかった頃に戻ってくれるかもしれないって希望を捨てきれず、踏み切れない辛さも、人生さえ諦めるしかなかった絶望もな」
菊千代は胸をつかれた。ロッキーの瞳の向こうに、底知れぬ悲しみが見える。けれど、すっくと立つ足は力強く、彼も何かしらの痛みを乗り越えてきたことを示していた。
「お前がエミさんから姿を写し取った男は、康之という名でな、俺とエミさんを捨てたが、救ってくれた人でもある」
ロッキーは胸に走る痛みをこらえ、目を閉じた。彼が子猫の頃だった。野良猫だったロッキーは、ある男からいつも餌をもらっていた。決して綺麗とは言えない姿なのに、優しく声をかけてくれたのだ。
しかし、ロッキーが心を許しかけたとき、男は豹変した。彼は濁った目でロッキーを池に投げ落とした。男は動物虐待の常習犯で、懐いた猫をいたぶることに快感を見出す人間だったのだ。
ロッキーが溺れながら喚く姿を見て、その男は悦に入っていた。ところが、そのとき鋭い怒声が起こる。
「お前、何してる!」
男は身を翻して脱兎のごとく逃げた。そこに駆けつけたのが、あの煙の男と同じ顔をした人物、康之だった。彼は躊躇することなく池の中に飛び込んだ。
「おい、じっとしてろ! こら!」
暴れるロッキーをなんとか救い出し、憤りと安堵の入り混じった顔で言った。
「なんてひどいことをしやがる! お前、無事か?」
康之はロッキーを動物病院で診てもらい、アパートに連れ帰った。
「おかえりなさい」
そうして出迎えてくれたのが、当時同棲していたエミさんだった。
「子猫じゃない! どうしたの? それに、あなたもずぶ濡れになって」
康之が事情を話すと、エミさんは彼に抱きついた。
「あなたが通りがかって本当によかった。そういうところ、好きよ」
「惚れ直した?」
エミさんは返事の代わりに触れるだけのキスをした。康之は照れくさそうにしていたが、部屋の隅で怯えて小さくなっているロッキーを見て、真面目な顔になった。
「この子猫、うちで飼おうか」
「でも、うちのアパート、ペット禁止でしょ?」
「でも、放っておけないよ。思い切って引っ越そう」
「これ以上惚れ直させてどうする気?」
二人はじゃれるように身を寄せ合い、屈託なく笑った。幼いロッキーの目は、思わず彼らに吸い寄せられていた。朗らかに笑う人間を初めて見たのだ。その姿を見ていなければ、いずれ彼は人間を恨んでいただろう。
そして今、霊を前に彼は語る。
「俺はそうやって、エミさんたちの家の猫になった。けれど、康之はギャンブルにはまって、職場の金に手を出したんだ。そしてそれがバレると俺とエミさんを置いて姿を消した。エミさんは捨てられたんだ。そして俺はまた人間に裏切られた」
香水瓶の霊がじっとロッキーを見つめている。その眼差しを正面から受け止め、彼は話し続けた。
「そのときのエミさんは気も狂わんばかりだった。横領どころか、ギャンブルに夢中になっていることも知らなかったんだ。そして俺はまた人間に裏切られた絶望と、ほとぼりが冷めたら戻ってきてくれるんじゃないかという未練に苛まれた。でも、あいつは戻ってこなかった。今もどこでどうしているかわからない」
霊が静かに問う。
「それなのに、その男を恨む気にはなれなかったの?」
「恨んださ。だから、二度とあの顔を見たくないんだ。エミさんは泣いて泣いて、食べることも寝ることもできないくらい弱っていった。けれど、ある日、燃え尽きた。彼女は康之を責めることを止めたんだ」
エミさんはロッキーを撫でながら、泣きはらした目でこう言ったのだ。
『お互い様なのよ。だって、私も気づけなかった。だから、これから康之を忘れて生きることを許してもらいましょう。あの人がいなくても、幸せになることが、一番の仕返しだもの』
ロッキーは両手のグローブを目の前で叩き合せた。
「憎んでいないと言ったら、嘘になる。けれど、それは俺があの男を好きだったからこそだ。そして、誰よりも傷ついたはずのエミさんがそう言ったんだ。だから、俺は彼女についてきた」
菊千代は息を呑んだ。ロッキーの目にうっすらと涙が浮かんでいたからだ。
ロッキーの脳裏には、自分を膝に抱いて微笑む康之の顔が浮かんでいた。彼は傍のエミさんにこう言った。
『こいつ、溺れているとき、助けようとした俺に猫パンチを何度も繰り出して大変だったんだ。こいつの名前、ロッキーにしない? 俺、あの映画が大好きなんだよね』
そのとき、ロッキーは名前で呼ばれることの喜びを知った。ただの『猫』や『野良猫』に過ぎなかった自分は、少なくとも康之とエミさんにとってはかけがえのない存在になれた。ロッキーという名は、そのことの証に思えたのだ。彼にとっては確かに、康之という男が特別な存在だった。
「エミさんは俺を見ると康之を思い出すようだった。けれど、独りになっても彼がつけた俺の名前を変えようともせず、カンさんと結婚するために群馬に引っ越すときも俺を決して手放さなかった」
菊千代が問う。
「それが、ロッキーがエミさんを守る理由でござるな」
「そうだ。康之がのらりくらり生きていようが、のたれ死にしていようが、知ったことか。ただ、俺とエミさんは幸せになる。それが一番の報復だからだ」
そう言うと、彼は霊に向かっていたわるように言った。
「よく考えるんだ。お前に出来ることはなんだ? 妹の代わりじゃない、お前自身の心に問いかけてみろ」
霊は俯き、ふうっと長い溜息をついた。
「もしこの執念が晴れたら、天へ逝き、妹を抱きしめてやりたいと考えていました」
そう言うと、霊はきりゅうに目をやる。
「しかし、このお方がおっしゃる通り、妹が悪霊となっているならば、迎えに行きたいと思います」
きりゅうが赤い唇を釣り上げた。
「そうか。あの妹と一緒に天へ逝ってくれるか」
そのときだった。
「待たれよ」
旋風と共に、凛とした声がした。
「それは無駄というものだ」
風がやんだ途端、霊の前に時雨が現れた。その背にマリアを乗せている。
「あんたたち、無事?」
「マリア!」
菊千代とロッキーが慌てて駆け寄る。
「エミさんは? どうなっている?」
「秋野が追っているわ。今の所は無事みたい」
「そうか」
「でもね、変なの。秋野が『東京行きの電車に乗ったところが見えた』って言うのよ」
「東京? なんだってまたそんなところに行くでござるか?」
「知らないわよ。だから変だって言ってんじゃないの」
「それで、骨董市にはおかしな動きはなかったでござるか?」
「私が行ったときには何も。ただ、雀のチュン助がおかしな老人の店を見たって」
それを聞き、時雨が鼻を鳴らした。
「きりゅう、お主であろう?」
猫たちがハッとしてきりゅうを見ると、彼は「おかしな老人とはひどい言い草じゃ」と肩を揺らした。
「まったく、仕方のないやつだ」
時雨は呆れ返っている。
「香水瓶の物憑きよ、お前には悪霊と化した妹を祓う力はない。行ったとしても、負の気に呑み込まれ、共に悪霊となるだろう。我らの住まう地でこれ以上の混乱が生じるのは見過ごせぬな」
「それでは、私はどうすれば?」
「大人しく天上へ逝き、神々におすがりするしかあるまい。そこで妹を待つことが、再会の唯一の手立てだ」
「私は今まで、持ち主を転々とし、妹を探し続けました。今すぐにでも妹をきつく抱きしめてやりたいというのに、また待たねばならぬのですか」
菊千代が時雨に問いかける。
「拙者たちでは祓えないでござるか?」
「お前たちの力は、あくまで物憑きの類に対するものだ。人間の悪霊にはきかぬだろうな」
「そうでござるか」
菊千代が霊の震える肩に手を置き、そっと囁くように話しかけた。
「力が及ばず、かたじけない」
霊が初めてふっと微笑み、菊千代の手に左手を添えた。
「ありがとうございます。そのお気持ちを胸に、天へ逝こうと思います」
そう言い終わらないうちに、天上から白い光が降りてきた。霊がすうっと吸い込まれるように昇っていく。
「さて、きりゅうよ」
時雨がきりゅうに話しかけた。
「騒ぎ立てるのもほどほどにしろ。ここのところ目に余るものがあると、道真公もお怒りでいらっしゃったぞ。然るべき場所へ戻られよ」
「断る」
きりゅうがふんと鼻を鳴らし、不敵な笑みを浮かべた。
「あそこは窮屈でかなわん」
「そのようなことを言うから面倒なことになるのだ」
「やかましいわい。儂は生まれたからにはあらゆるものを見たいのじゃ」
そう言うと、手にしていた杖を勢い良よく床に突き立てた。
「猫どもよ。しけた話はそれくらいにして、今度は儂と遊んでもらおうかの」
ロッキーが牙をむいた。
「お前、何が目的だ? あの香水瓶の記憶を覗いたとき、陰から一部始終を見ているお前の姿も見えたぞ。どうして傍観しておきながら、今になってあの霊に手を出した?」
しかし、きりゅうは答えない。時雨がハッとして叫んだ。
「離れろ!」
きりゅうが老人とは思えぬ素早さで杖を打ち込んできた。猫たちは慌てて飛び退いたが、杖の先が菊千代の髭をかすめて空を切った。時雨の掛け声がなければ頭を猛打していたと、肝を冷やす。
きりゅうはまるで面白い玩具を見つけた子どものように目を輝かせ、「少しは骨がありそうじゃの」と杖を構えた。
ロッキーが牙をむいて、きりゅうを睨みつけた。
「俺たちはエミさんを迎えに行く。お前に構っている暇はない」
「お前たちにその気が無くとも、弁財天から賜った得物はそうは言わぬと思うぞ」
そう言い終えたきりゅうの体がみるみるうちに膨らみ、形を変えていく。
「この姿を見ても、構ってはもらえぬかの」
タールのようにどろりとした黒いものが皮膚から湧き出て、その身を包んでいった。それは次第に老人の姿を飲み込み、巨大な泥人形のようになっていく。
「なんだ、これは?」
菊千代が呆然とした。目の前に立つのは、黒光りするぶよぶよとした体に、深紅の口と瞳を持つ化け物だった。あの白く細いヒゲにも黒いものが粘りつき、ゆらりと揺れている。
ゆっくり吐き出される息から漂う腐臭に顔をしかめたマリアが、悲鳴を漏らした。きりゅうの体全体に、黒光りする人の顔が幾つも浮かび上がってきたのだ。どれも苦渋に満ちた悲壮な顔ばかりだ。
血のように赤い口から、くぐもった声が漏れた。
「香水瓶の霊を祓った褒美として、儂が何者か教えてやろう。儂は桐生の『つくも神』じゃ。儂の背負うものを祓えるかな?」
その声音に、菊千代の背筋が凍りつく。言い知れぬ恐ろしさに、地獄の底を見せられたような気がしたのだった。
「ロッキー、何か見えたでござるか?」
駆け寄った菊千代に、彼は顔をしかめてぼやく。
「ああ。きりゅうが言っていたことは本当のようだ。妻が夫から殴られるところなんて、あまり見たくなかったな。胸糞悪い」
「では、こやつは双子の姉でござるか」
その問いに答えたのは、うずくまる女だった。
「そうです。妹の無念を思う気持ちに囚われました」
「お主、きりゅうの話を聞いたであろう? 香水瓶の片割れは割れてしまったでござる。それに、双子の妹も死んでしまわれた。それなのに、一人でどうしてこの世に残るのでござるか?」
そう問う菊千代に、彼女がさめざめと泣く。
「あの香水瓶に片翼の飾りがあるのをご覧になったでしょう? 香水瓶も、私たち姉妹も、互いが揃わなければ羽ばたけない。片方の翼だけでは地に堕ちてじたばたともがくより他に術がないのです」
その言葉にきりゅうが冷たく言い放つ。
「なにが翼じゃ。そんなものは思い込み、いや、言い訳じゃ。お前さんたちは自分たちを籠の鳥とでも自惚れているのかもしれんがな、なんてことはない。一人でいられなかった己の弱さに負けただけじゃ。お前さんの妹は迷惑なことに悪霊となって、今も夫の一族に取り憑いておる。屋敷は落ちぶれてしまったが、それでも妹の恨みは消えず、あの家の男はろくな死に方をせん。妹を助けたかったなら、なんとかせんか」
菊千代がきりゅうを「待たれい」と制する。
「決めるのは霊自身でござる。我らが強いることはできないでござるよ」
ロッキーが、口を開いた。
「俺にはあんたの過去が見えた。妹を思ってどんなに悲しんだかは知っているつもりだ。だけど、勘違いしちゃいけないよ。あんたは妹じゃない。妹の無念をはらすのは、あくまで妹でなけりゃ、意味がないんだ。それも生きているうちに、抗うべきだった」
ロッキーは小さくため息を漏らし、目を伏せた。
「あんたの妹は本当に旦那を愛してた。愛している人の理不尽に耐える辛さは、俺にだってわかる。いつかはあの優しかった頃に戻ってくれるかもしれないって希望を捨てきれず、踏み切れない辛さも、人生さえ諦めるしかなかった絶望もな」
菊千代は胸をつかれた。ロッキーの瞳の向こうに、底知れぬ悲しみが見える。けれど、すっくと立つ足は力強く、彼も何かしらの痛みを乗り越えてきたことを示していた。
「お前がエミさんから姿を写し取った男は、康之という名でな、俺とエミさんを捨てたが、救ってくれた人でもある」
ロッキーは胸に走る痛みをこらえ、目を閉じた。彼が子猫の頃だった。野良猫だったロッキーは、ある男からいつも餌をもらっていた。決して綺麗とは言えない姿なのに、優しく声をかけてくれたのだ。
しかし、ロッキーが心を許しかけたとき、男は豹変した。彼は濁った目でロッキーを池に投げ落とした。男は動物虐待の常習犯で、懐いた猫をいたぶることに快感を見出す人間だったのだ。
ロッキーが溺れながら喚く姿を見て、その男は悦に入っていた。ところが、そのとき鋭い怒声が起こる。
「お前、何してる!」
男は身を翻して脱兎のごとく逃げた。そこに駆けつけたのが、あの煙の男と同じ顔をした人物、康之だった。彼は躊躇することなく池の中に飛び込んだ。
「おい、じっとしてろ! こら!」
暴れるロッキーをなんとか救い出し、憤りと安堵の入り混じった顔で言った。
「なんてひどいことをしやがる! お前、無事か?」
康之はロッキーを動物病院で診てもらい、アパートに連れ帰った。
「おかえりなさい」
そうして出迎えてくれたのが、当時同棲していたエミさんだった。
「子猫じゃない! どうしたの? それに、あなたもずぶ濡れになって」
康之が事情を話すと、エミさんは彼に抱きついた。
「あなたが通りがかって本当によかった。そういうところ、好きよ」
「惚れ直した?」
エミさんは返事の代わりに触れるだけのキスをした。康之は照れくさそうにしていたが、部屋の隅で怯えて小さくなっているロッキーを見て、真面目な顔になった。
「この子猫、うちで飼おうか」
「でも、うちのアパート、ペット禁止でしょ?」
「でも、放っておけないよ。思い切って引っ越そう」
「これ以上惚れ直させてどうする気?」
二人はじゃれるように身を寄せ合い、屈託なく笑った。幼いロッキーの目は、思わず彼らに吸い寄せられていた。朗らかに笑う人間を初めて見たのだ。その姿を見ていなければ、いずれ彼は人間を恨んでいただろう。
そして今、霊を前に彼は語る。
「俺はそうやって、エミさんたちの家の猫になった。けれど、康之はギャンブルにはまって、職場の金に手を出したんだ。そしてそれがバレると俺とエミさんを置いて姿を消した。エミさんは捨てられたんだ。そして俺はまた人間に裏切られた」
香水瓶の霊がじっとロッキーを見つめている。その眼差しを正面から受け止め、彼は話し続けた。
「そのときのエミさんは気も狂わんばかりだった。横領どころか、ギャンブルに夢中になっていることも知らなかったんだ。そして俺はまた人間に裏切られた絶望と、ほとぼりが冷めたら戻ってきてくれるんじゃないかという未練に苛まれた。でも、あいつは戻ってこなかった。今もどこでどうしているかわからない」
霊が静かに問う。
「それなのに、その男を恨む気にはなれなかったの?」
「恨んださ。だから、二度とあの顔を見たくないんだ。エミさんは泣いて泣いて、食べることも寝ることもできないくらい弱っていった。けれど、ある日、燃え尽きた。彼女は康之を責めることを止めたんだ」
エミさんはロッキーを撫でながら、泣きはらした目でこう言ったのだ。
『お互い様なのよ。だって、私も気づけなかった。だから、これから康之を忘れて生きることを許してもらいましょう。あの人がいなくても、幸せになることが、一番の仕返しだもの』
ロッキーは両手のグローブを目の前で叩き合せた。
「憎んでいないと言ったら、嘘になる。けれど、それは俺があの男を好きだったからこそだ。そして、誰よりも傷ついたはずのエミさんがそう言ったんだ。だから、俺は彼女についてきた」
菊千代は息を呑んだ。ロッキーの目にうっすらと涙が浮かんでいたからだ。
ロッキーの脳裏には、自分を膝に抱いて微笑む康之の顔が浮かんでいた。彼は傍のエミさんにこう言った。
『こいつ、溺れているとき、助けようとした俺に猫パンチを何度も繰り出して大変だったんだ。こいつの名前、ロッキーにしない? 俺、あの映画が大好きなんだよね』
そのとき、ロッキーは名前で呼ばれることの喜びを知った。ただの『猫』や『野良猫』に過ぎなかった自分は、少なくとも康之とエミさんにとってはかけがえのない存在になれた。ロッキーという名は、そのことの証に思えたのだ。彼にとっては確かに、康之という男が特別な存在だった。
「エミさんは俺を見ると康之を思い出すようだった。けれど、独りになっても彼がつけた俺の名前を変えようともせず、カンさんと結婚するために群馬に引っ越すときも俺を決して手放さなかった」
菊千代が問う。
「それが、ロッキーがエミさんを守る理由でござるな」
「そうだ。康之がのらりくらり生きていようが、のたれ死にしていようが、知ったことか。ただ、俺とエミさんは幸せになる。それが一番の報復だからだ」
そう言うと、彼は霊に向かっていたわるように言った。
「よく考えるんだ。お前に出来ることはなんだ? 妹の代わりじゃない、お前自身の心に問いかけてみろ」
霊は俯き、ふうっと長い溜息をついた。
「もしこの執念が晴れたら、天へ逝き、妹を抱きしめてやりたいと考えていました」
そう言うと、霊はきりゅうに目をやる。
「しかし、このお方がおっしゃる通り、妹が悪霊となっているならば、迎えに行きたいと思います」
きりゅうが赤い唇を釣り上げた。
「そうか。あの妹と一緒に天へ逝ってくれるか」
そのときだった。
「待たれよ」
旋風と共に、凛とした声がした。
「それは無駄というものだ」
風がやんだ途端、霊の前に時雨が現れた。その背にマリアを乗せている。
「あんたたち、無事?」
「マリア!」
菊千代とロッキーが慌てて駆け寄る。
「エミさんは? どうなっている?」
「秋野が追っているわ。今の所は無事みたい」
「そうか」
「でもね、変なの。秋野が『東京行きの電車に乗ったところが見えた』って言うのよ」
「東京? なんだってまたそんなところに行くでござるか?」
「知らないわよ。だから変だって言ってんじゃないの」
「それで、骨董市にはおかしな動きはなかったでござるか?」
「私が行ったときには何も。ただ、雀のチュン助がおかしな老人の店を見たって」
それを聞き、時雨が鼻を鳴らした。
「きりゅう、お主であろう?」
猫たちがハッとしてきりゅうを見ると、彼は「おかしな老人とはひどい言い草じゃ」と肩を揺らした。
「まったく、仕方のないやつだ」
時雨は呆れ返っている。
「香水瓶の物憑きよ、お前には悪霊と化した妹を祓う力はない。行ったとしても、負の気に呑み込まれ、共に悪霊となるだろう。我らの住まう地でこれ以上の混乱が生じるのは見過ごせぬな」
「それでは、私はどうすれば?」
「大人しく天上へ逝き、神々におすがりするしかあるまい。そこで妹を待つことが、再会の唯一の手立てだ」
「私は今まで、持ち主を転々とし、妹を探し続けました。今すぐにでも妹をきつく抱きしめてやりたいというのに、また待たねばならぬのですか」
菊千代が時雨に問いかける。
「拙者たちでは祓えないでござるか?」
「お前たちの力は、あくまで物憑きの類に対するものだ。人間の悪霊にはきかぬだろうな」
「そうでござるか」
菊千代が霊の震える肩に手を置き、そっと囁くように話しかけた。
「力が及ばず、かたじけない」
霊が初めてふっと微笑み、菊千代の手に左手を添えた。
「ありがとうございます。そのお気持ちを胸に、天へ逝こうと思います」
そう言い終わらないうちに、天上から白い光が降りてきた。霊がすうっと吸い込まれるように昇っていく。
「さて、きりゅうよ」
時雨がきりゅうに話しかけた。
「騒ぎ立てるのもほどほどにしろ。ここのところ目に余るものがあると、道真公もお怒りでいらっしゃったぞ。然るべき場所へ戻られよ」
「断る」
きりゅうがふんと鼻を鳴らし、不敵な笑みを浮かべた。
「あそこは窮屈でかなわん」
「そのようなことを言うから面倒なことになるのだ」
「やかましいわい。儂は生まれたからにはあらゆるものを見たいのじゃ」
そう言うと、手にしていた杖を勢い良よく床に突き立てた。
「猫どもよ。しけた話はそれくらいにして、今度は儂と遊んでもらおうかの」
ロッキーが牙をむいた。
「お前、何が目的だ? あの香水瓶の記憶を覗いたとき、陰から一部始終を見ているお前の姿も見えたぞ。どうして傍観しておきながら、今になってあの霊に手を出した?」
しかし、きりゅうは答えない。時雨がハッとして叫んだ。
「離れろ!」
きりゅうが老人とは思えぬ素早さで杖を打ち込んできた。猫たちは慌てて飛び退いたが、杖の先が菊千代の髭をかすめて空を切った。時雨の掛け声がなければ頭を猛打していたと、肝を冷やす。
きりゅうはまるで面白い玩具を見つけた子どものように目を輝かせ、「少しは骨がありそうじゃの」と杖を構えた。
ロッキーが牙をむいて、きりゅうを睨みつけた。
「俺たちはエミさんを迎えに行く。お前に構っている暇はない」
「お前たちにその気が無くとも、弁財天から賜った得物はそうは言わぬと思うぞ」
そう言い終えたきりゅうの体がみるみるうちに膨らみ、形を変えていく。
「この姿を見ても、構ってはもらえぬかの」
タールのようにどろりとした黒いものが皮膚から湧き出て、その身を包んでいった。それは次第に老人の姿を飲み込み、巨大な泥人形のようになっていく。
「なんだ、これは?」
菊千代が呆然とした。目の前に立つのは、黒光りするぶよぶよとした体に、深紅の口と瞳を持つ化け物だった。あの白く細いヒゲにも黒いものが粘りつき、ゆらりと揺れている。
ゆっくり吐き出される息から漂う腐臭に顔をしかめたマリアが、悲鳴を漏らした。きりゅうの体全体に、黒光りする人の顔が幾つも浮かび上がってきたのだ。どれも苦渋に満ちた悲壮な顔ばかりだ。
血のように赤い口から、くぐもった声が漏れた。
「香水瓶の霊を祓った褒美として、儂が何者か教えてやろう。儂は桐生の『つくも神』じゃ。儂の背負うものを祓えるかな?」
その声音に、菊千代の背筋が凍りつく。言い知れぬ恐ろしさに、地獄の底を見せられたような気がしたのだった。
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