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片翼の香水瓶
何かが動き出す
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その頃、エミさんは住宅街の坂道を駆け足で通り抜けていた。
「ダメよ、戻って! ダイキが、ダイキが泣いてるわ!」
真っ暗な心の中で、エミさんが泣き喚く。だが、まったく同じ姿をしたもう一人のエミさんがそばに立ち、冷たく言い放った。
『本当に戻りたいの? じゃあ、どうして足が止まらないの?』
涙で濡れた顔を上げ、エミさんは「わからない」と呻いた。
ダイキを一人にしておく訳にはいかない。なのに押し寄せてくる開放感に抗えない。アスファルトを蹴る足取りは軽やかで、背中に羽でも生えたかのようだ。
『こんなに自分の体が軽いなんて忘れていたでしょう? どこまでも行けそうじゃない?』
そう言われて、否定できなかった。妊娠中は大きなお腹を抱えて思うように動けなかった。出産後も常にダイキを背負っている。息子の重みに慣れきった今、確かに身軽になった喜びは大きかった。
「でも、絶対に手放しちゃいけない重みなのよ」
あの重みは命の重みなのだ。自分で産み落とした息子であっても、その命は息子のものだ。そう言おうとしたエミさんが目の前に立つもう一人の自分を睨みつけたときだ。その目が大きく見開かれ、驚愕で口が開いた。
もう一人の自分がぼやけたかと思うと、見覚えのある男の姿になったのだ。カンさんに似ている雰囲気を持っていたが、どこか冷たい目をしていた。
「あ、あんた、どうしてここにいるの?」
ぽかんとしたエミさんに、男が微笑んだ。
「俺に会いたいんだろう?」
「何を言ってんのよ、今更!」
激昂したエミさんを手で制し、彼は笑う。
「だって、俺を思い描いてくれたから、こうして姿を現せたんだ。戻って来いよ、香川に」
そう言うと、男が道の先を歩き始める。
「ちょっと、待ってよ!」
追いかけるが、どんなに走っても、彼との距離が縮まらない。
ダイキのところへ戻らなければ。けれど、彼に聞きたいことや言いたいことが山ほどある。そんな葛藤に苛まれる間にも、まるで何かに誘われているかのように足が勝手に動いていく。
彼女は駅に着くと、東京行きの切符を買い、ホームへと進んでいた。そこではたと気づく。
『私、誰かに操られているの?』
そう思えるほど、抗えない。到着した電車に乗り込みながら、胸の中で彼女は叫ぶ。
『やだ、助けて! カンさん! 誰か!』
しかし、電車のドアは無情に閉まり、動き出したのだった。
一方、『たきのや』にいるミサヲは奇妙な気配を二つ感じ取っていた。一つは母屋のほうだ。冷たく禍々しい負の臭いがする。だが、菊千代たちがいるのを知っているので、いずれおさまるだろうと気にしなかった。ところが、もう一つの気配は店の中からするのだ。こちらはまるで蛍の光のように小さく、悪いものとは思えなかったが、こんなことは今までなかった。
「なんだろう、あれは」
小上がりには茶箪笥が置いてあり、その上にはそば猪口のコレクションが並べられている。その中の一つが、カタカタと小さな音をたてているのだ。周囲は昼時を迎えて人間たちで賑わっているが、人間たちはまったく気づいていない。
近づいて見ると、そば猪口が蚊の鳴くような声でミサヲに話しかけた。
「ミサヲさん、お願いがあります」
「あんた、物憑きの霊なの?」
「いいえ、でもいずれはそうなる定めの者です。この家に長くいるもので、こうしてお話しできる霊力がつきました」
「この家にいるから? どういうこと?」
「あなたも感じているはずです。この家が心地いいことに」
ミサヲは頷いてみせた。善七への負の想いが祓われた日から、彼女はこの家の持つ空気が気持ちのいいものだと知った。それまではなんとなく怖かったカンさんがいるだけで、空気が凛と締まるようなのだ。
「この家の人たちは気づいていませんが、それぞれ確かな霊力の恩恵を受けているのです。私もそれなりにいい品ですので、もともとの霊力はあるのですが、彼らのおかげでより強くなっているのです」
「それで、どうしてあんたはさっきからカタカタうるさいの?」
「この家の力になりたいともがいておりました。ミサヲさん、あなたの力をお貸しください。あなたの霊力と合わせれば、一矢報いることができます」
「何が起こってるの?」
「母屋のほうで、物憑きの霊が暴れようとしております。けれど、もっと大きい力がこちらに近づいてくる気配がするのです」
「大きい力?」
「名を『きりゅう』という霊です。私は骨董市にいるとき、あの者を見かけたことがありますが、この辺りでは一番大きな力を持つ物憑きでしょう」
「私も骨董市にいたけど、知らないわ。だって、箪笥の中にこもってたんですもの。でも、そんな奴がどうしてこの家に?」
身震いしたミサヲに、そば猪口が「力を貸してください」と繰り返した。
「私はまだ物憑きになる前ですので、力を使えば砕けるでしょう。けれど、それでも、なんとかしなければならないときが来ています」
「あなた、砕けてもいいっていうの?」
「形あるものはいずれ砕けるものですから」
「私、どうすればいい?」
「私に手をかざしてくださいませ。そうすれば私があなたの霊力を吸い取ります。ミサヲさんは少しお疲れになるでしょうが、どうかお願いします」
「わかったわ」
両手でそば猪口に手をかざした瞬間、ミサヲはすうっと意識が遠のき、ばたりと倒れた。
「ありがとう。しばらく休めば、起きられますよ。では、さようなら」
そば猪口に亀裂が走り、同時に一筋の光が飛んで行ったのだった。
「ダメよ、戻って! ダイキが、ダイキが泣いてるわ!」
真っ暗な心の中で、エミさんが泣き喚く。だが、まったく同じ姿をしたもう一人のエミさんがそばに立ち、冷たく言い放った。
『本当に戻りたいの? じゃあ、どうして足が止まらないの?』
涙で濡れた顔を上げ、エミさんは「わからない」と呻いた。
ダイキを一人にしておく訳にはいかない。なのに押し寄せてくる開放感に抗えない。アスファルトを蹴る足取りは軽やかで、背中に羽でも生えたかのようだ。
『こんなに自分の体が軽いなんて忘れていたでしょう? どこまでも行けそうじゃない?』
そう言われて、否定できなかった。妊娠中は大きなお腹を抱えて思うように動けなかった。出産後も常にダイキを背負っている。息子の重みに慣れきった今、確かに身軽になった喜びは大きかった。
「でも、絶対に手放しちゃいけない重みなのよ」
あの重みは命の重みなのだ。自分で産み落とした息子であっても、その命は息子のものだ。そう言おうとしたエミさんが目の前に立つもう一人の自分を睨みつけたときだ。その目が大きく見開かれ、驚愕で口が開いた。
もう一人の自分がぼやけたかと思うと、見覚えのある男の姿になったのだ。カンさんに似ている雰囲気を持っていたが、どこか冷たい目をしていた。
「あ、あんた、どうしてここにいるの?」
ぽかんとしたエミさんに、男が微笑んだ。
「俺に会いたいんだろう?」
「何を言ってんのよ、今更!」
激昂したエミさんを手で制し、彼は笑う。
「だって、俺を思い描いてくれたから、こうして姿を現せたんだ。戻って来いよ、香川に」
そう言うと、男が道の先を歩き始める。
「ちょっと、待ってよ!」
追いかけるが、どんなに走っても、彼との距離が縮まらない。
ダイキのところへ戻らなければ。けれど、彼に聞きたいことや言いたいことが山ほどある。そんな葛藤に苛まれる間にも、まるで何かに誘われているかのように足が勝手に動いていく。
彼女は駅に着くと、東京行きの切符を買い、ホームへと進んでいた。そこではたと気づく。
『私、誰かに操られているの?』
そう思えるほど、抗えない。到着した電車に乗り込みながら、胸の中で彼女は叫ぶ。
『やだ、助けて! カンさん! 誰か!』
しかし、電車のドアは無情に閉まり、動き出したのだった。
一方、『たきのや』にいるミサヲは奇妙な気配を二つ感じ取っていた。一つは母屋のほうだ。冷たく禍々しい負の臭いがする。だが、菊千代たちがいるのを知っているので、いずれおさまるだろうと気にしなかった。ところが、もう一つの気配は店の中からするのだ。こちらはまるで蛍の光のように小さく、悪いものとは思えなかったが、こんなことは今までなかった。
「なんだろう、あれは」
小上がりには茶箪笥が置いてあり、その上にはそば猪口のコレクションが並べられている。その中の一つが、カタカタと小さな音をたてているのだ。周囲は昼時を迎えて人間たちで賑わっているが、人間たちはまったく気づいていない。
近づいて見ると、そば猪口が蚊の鳴くような声でミサヲに話しかけた。
「ミサヲさん、お願いがあります」
「あんた、物憑きの霊なの?」
「いいえ、でもいずれはそうなる定めの者です。この家に長くいるもので、こうしてお話しできる霊力がつきました」
「この家にいるから? どういうこと?」
「あなたも感じているはずです。この家が心地いいことに」
ミサヲは頷いてみせた。善七への負の想いが祓われた日から、彼女はこの家の持つ空気が気持ちのいいものだと知った。それまではなんとなく怖かったカンさんがいるだけで、空気が凛と締まるようなのだ。
「この家の人たちは気づいていませんが、それぞれ確かな霊力の恩恵を受けているのです。私もそれなりにいい品ですので、もともとの霊力はあるのですが、彼らのおかげでより強くなっているのです」
「それで、どうしてあんたはさっきからカタカタうるさいの?」
「この家の力になりたいともがいておりました。ミサヲさん、あなたの力をお貸しください。あなたの霊力と合わせれば、一矢報いることができます」
「何が起こってるの?」
「母屋のほうで、物憑きの霊が暴れようとしております。けれど、もっと大きい力がこちらに近づいてくる気配がするのです」
「大きい力?」
「名を『きりゅう』という霊です。私は骨董市にいるとき、あの者を見かけたことがありますが、この辺りでは一番大きな力を持つ物憑きでしょう」
「私も骨董市にいたけど、知らないわ。だって、箪笥の中にこもってたんですもの。でも、そんな奴がどうしてこの家に?」
身震いしたミサヲに、そば猪口が「力を貸してください」と繰り返した。
「私はまだ物憑きになる前ですので、力を使えば砕けるでしょう。けれど、それでも、なんとかしなければならないときが来ています」
「あなた、砕けてもいいっていうの?」
「形あるものはいずれ砕けるものですから」
「私、どうすればいい?」
「私に手をかざしてくださいませ。そうすれば私があなたの霊力を吸い取ります。ミサヲさんは少しお疲れになるでしょうが、どうかお願いします」
「わかったわ」
両手でそば猪口に手をかざした瞬間、ミサヲはすうっと意識が遠のき、ばたりと倒れた。
「ありがとう。しばらく休めば、起きられますよ。では、さようなら」
そば猪口に亀裂が走り、同時に一筋の光が飛んで行ったのだった。
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