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片翼の香水瓶
発端
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ミサヲが菊千代たちの前に現れた日から、二ヶ月がたった。
桐生市では梅雨も明け、蒸し風呂のような暑さだ。特にこの年は記録的な猛暑で、連日のニュースで熱中症への注意が促されていた。
入道雲が高くそびえる日のことだった。
「いらっしゃいませ。何名様でしょう?」
「鴨せいろそばですね。少々お待ちください」
パートのミヨさんとマチさんの活気溢れる声が『たきのや』に響き渡っていた。時計の針は二時をさし、お昼時の慌ただしさも一段落している。とはいえ、まだ客が五組ほど席に座っていた。
霊体の菊千代はそんな中、薬箪笥に腰を下ろし、ミサヲと肩を並べている。
「今日も繁盛しているでござるな」
「そうねぇ。いいことだわ」
呑気な会話を交わす間にも、カンさんは黙々とそばを茹で、ミヨさんたちは忙しそうに動き回っていた。
ミヨさんというのは眼鏡をかけた年配の女性で、朗らかな性格をしていた。一方、マチさんは大学を卒業したばかり。男勝りの口調と性格で、働きながらカンさんからそば打ちを習っている。
オーダーを取りにいくタイミングを見計らいながら、マチさんがミヨさんにこっそり話しかけた。
「やっぱり、暑い日はみんなあっさりしたもの食べたいのね。昔は夏のそばって犬も食わないと思ってたけどね」
「カンさんのそばはいつ食べても美味いんですって」
ふふっと笑うミヨさんの隣で、マチさんが少し肩を落とす。
「それにしても、やっぱりエミさんがいないと大変っすね。最近はお客さんも増えてきて嬉しいけど忙しくて目が回りそう」
「まぁね。でも、本当に大変なのはエミさんだわ。ダイキを保育所に預けられるようになるまでは辛抱ね」
「そうっすよね。エミさんってこっちに身内いませんもんね」
「そういえば、もうすぐエミさんの誕生日じゃない?」
「そうそう。今年はお祝い、どうします?」
そこまで話したところで、客の一人が「すみません」と声をあげた。
「あとで相談しましょ」
ミヨさんがマチさんにそう言い残し、「はぁい」と明るい声で客に駆け寄った。
菊千代が「ふぅん」と唸る。
「そうか、母上の誕生日でござるか。それはめでたい」
すると、ミサヲが苦笑する。
「私のお母様なんて、お誕生日は毎年ご機嫌斜めだったわ」
「どうしてでござる?」
「年齢ってね、ある種の女性にとっては呪いなのよ」
「ふぅん、そういうものでござるか」
女心に縁のない菊千代は、気のない返事をして店内に視線を戻した。
『たきのや』では、人間たちが思い思いの昼時を過ごしていた。ここで英気を養って仕事に戻る者もいれば、夜勤明けの眠そうな顔でそばが来るのを待っているタクシー運転手もいた。
「私も働いてみたかったな」
「拙者は嫌でござる」
「どうして? やっぱり猫はのんびりしたい生き物なの?」
「若と一緒にいる時間が減るからでござるよ」
「あなたって、本当にダイキさん一筋ねぇ」
菊千代が少し耳を垂れて笑う。
「マリアが言うには、拙者が盲目的なのは自分が若を大事に思うように、幼い頃に誰かに大事にしてほしかったんじゃないかということでござるよ」
「そっか、菊千代は捨て猫だったものね。でも本当にそう思う?」
「わからぬでござる。そう言われてみればそんな気もするでござる」
「愛情ってそんなものよ」
知ったかぶりのミサヲに、菊千代が目を細めた。
「理屈を抜きにしても愛おしいものでござるよ。懸命に生を全うしようとする者というのは」
その言葉を聞いたミサヲがふっと自嘲した。
「私も生きているうちにそれがわかっていれば何か違ったのかな」
「かもしれぬなぁ。若の気品溢れるお姿を見れば、ミサヲ殿にもわかるでござるよ。この前は初めて寝返りを打ったでござる。あっぱれな勇姿でござった!」
「おおげさねぇ」と笑うミサヲの顔を見て、菊千代もつられて笑う。
「ミサヲ殿、なんだか顔つきが明るくなったでござるな。やはり善七殿とお話できたからでござるか」
「そうね。でも、それだけじゃないみたいなの。どうもカンさんがいると居心地がいいのよね」
「父上が怖いと言っていたのに、平気になったでござるか」
「そうなのよ。あんなに怖かったのが嘘みたい」
ミサヲは首を傾げて言う。
「ここに来たばかりの頃はカンさんを見ると、とてもじゃないけど怖くて近くにいられなかったの。それなのに、善七さんと話してわだかまりがとけてからは、カンさんの傍が打って変わって心地いいのよ」
「心地よいとな? ほう、それは不思議でござる」
「なんだか森の朝ってこんな清々しさなのかもしれないって思うわ。もっとも、私は森なんて行ったことないけど」
快活に笑い、ミサヲが薬箪笥を撫でた。
「私たち物憑きの霊は、依り代からあまり離れられないのよ。好きに外出できないのは病気のときと一緒ね」
「なに、来世では世界を駆け回るかもしれぬでござるよ」
「いつになるかしら」
返事の代わりに肩をすくめ、菊千代が立ち上がった。
「さて、拙者は若のところに戻るでござる」
「えっ、もう? もう少しお話しましょうよ」
「また明日来るでござるよ。そろそろ若の食事の時間ゆえ」
そう言い残すと、菊千代は脱兎の如く駆け出し、壁の向こうに消えていった。
「あっ、もう!」
つまらなさそうに唇を尖らせたミサヲの横で、ミヨさんがマチさんに「ねぇ」と話しかけていた。
「エミさんのプレゼントなんだけどね、今年は『時間』をあげない?」
「時間? どういう意味っすか?」
「つまりね……」
二人は寄り添い、声をひそめて相談を始めた。やがて、マチさんが「なるほど」と頷いた。
「それはいいっすね。そうしましょうよ」
「じゃあ、休憩時間になったら、カンさんにも相談してみましょう」
二人は顔を見合わせ頷くと、それぞれの仕事に戻っていった。
「あら、何か企んでるみたいね」
ミサヲがわくわくしながら、二人の後ろ姿を見守っている。
その企みこそが新たな騒動の発端になろうとは、このとき誰も予想だにしていなかった。
桐生市では梅雨も明け、蒸し風呂のような暑さだ。特にこの年は記録的な猛暑で、連日のニュースで熱中症への注意が促されていた。
入道雲が高くそびえる日のことだった。
「いらっしゃいませ。何名様でしょう?」
「鴨せいろそばですね。少々お待ちください」
パートのミヨさんとマチさんの活気溢れる声が『たきのや』に響き渡っていた。時計の針は二時をさし、お昼時の慌ただしさも一段落している。とはいえ、まだ客が五組ほど席に座っていた。
霊体の菊千代はそんな中、薬箪笥に腰を下ろし、ミサヲと肩を並べている。
「今日も繁盛しているでござるな」
「そうねぇ。いいことだわ」
呑気な会話を交わす間にも、カンさんは黙々とそばを茹で、ミヨさんたちは忙しそうに動き回っていた。
ミヨさんというのは眼鏡をかけた年配の女性で、朗らかな性格をしていた。一方、マチさんは大学を卒業したばかり。男勝りの口調と性格で、働きながらカンさんからそば打ちを習っている。
オーダーを取りにいくタイミングを見計らいながら、マチさんがミヨさんにこっそり話しかけた。
「やっぱり、暑い日はみんなあっさりしたもの食べたいのね。昔は夏のそばって犬も食わないと思ってたけどね」
「カンさんのそばはいつ食べても美味いんですって」
ふふっと笑うミヨさんの隣で、マチさんが少し肩を落とす。
「それにしても、やっぱりエミさんがいないと大変っすね。最近はお客さんも増えてきて嬉しいけど忙しくて目が回りそう」
「まぁね。でも、本当に大変なのはエミさんだわ。ダイキを保育所に預けられるようになるまでは辛抱ね」
「そうっすよね。エミさんってこっちに身内いませんもんね」
「そういえば、もうすぐエミさんの誕生日じゃない?」
「そうそう。今年はお祝い、どうします?」
そこまで話したところで、客の一人が「すみません」と声をあげた。
「あとで相談しましょ」
ミヨさんがマチさんにそう言い残し、「はぁい」と明るい声で客に駆け寄った。
菊千代が「ふぅん」と唸る。
「そうか、母上の誕生日でござるか。それはめでたい」
すると、ミサヲが苦笑する。
「私のお母様なんて、お誕生日は毎年ご機嫌斜めだったわ」
「どうしてでござる?」
「年齢ってね、ある種の女性にとっては呪いなのよ」
「ふぅん、そういうものでござるか」
女心に縁のない菊千代は、気のない返事をして店内に視線を戻した。
『たきのや』では、人間たちが思い思いの昼時を過ごしていた。ここで英気を養って仕事に戻る者もいれば、夜勤明けの眠そうな顔でそばが来るのを待っているタクシー運転手もいた。
「私も働いてみたかったな」
「拙者は嫌でござる」
「どうして? やっぱり猫はのんびりしたい生き物なの?」
「若と一緒にいる時間が減るからでござるよ」
「あなたって、本当にダイキさん一筋ねぇ」
菊千代が少し耳を垂れて笑う。
「マリアが言うには、拙者が盲目的なのは自分が若を大事に思うように、幼い頃に誰かに大事にしてほしかったんじゃないかということでござるよ」
「そっか、菊千代は捨て猫だったものね。でも本当にそう思う?」
「わからぬでござる。そう言われてみればそんな気もするでござる」
「愛情ってそんなものよ」
知ったかぶりのミサヲに、菊千代が目を細めた。
「理屈を抜きにしても愛おしいものでござるよ。懸命に生を全うしようとする者というのは」
その言葉を聞いたミサヲがふっと自嘲した。
「私も生きているうちにそれがわかっていれば何か違ったのかな」
「かもしれぬなぁ。若の気品溢れるお姿を見れば、ミサヲ殿にもわかるでござるよ。この前は初めて寝返りを打ったでござる。あっぱれな勇姿でござった!」
「おおげさねぇ」と笑うミサヲの顔を見て、菊千代もつられて笑う。
「ミサヲ殿、なんだか顔つきが明るくなったでござるな。やはり善七殿とお話できたからでござるか」
「そうね。でも、それだけじゃないみたいなの。どうもカンさんがいると居心地がいいのよね」
「父上が怖いと言っていたのに、平気になったでござるか」
「そうなのよ。あんなに怖かったのが嘘みたい」
ミサヲは首を傾げて言う。
「ここに来たばかりの頃はカンさんを見ると、とてもじゃないけど怖くて近くにいられなかったの。それなのに、善七さんと話してわだかまりがとけてからは、カンさんの傍が打って変わって心地いいのよ」
「心地よいとな? ほう、それは不思議でござる」
「なんだか森の朝ってこんな清々しさなのかもしれないって思うわ。もっとも、私は森なんて行ったことないけど」
快活に笑い、ミサヲが薬箪笥を撫でた。
「私たち物憑きの霊は、依り代からあまり離れられないのよ。好きに外出できないのは病気のときと一緒ね」
「なに、来世では世界を駆け回るかもしれぬでござるよ」
「いつになるかしら」
返事の代わりに肩をすくめ、菊千代が立ち上がった。
「さて、拙者は若のところに戻るでござる」
「えっ、もう? もう少しお話しましょうよ」
「また明日来るでござるよ。そろそろ若の食事の時間ゆえ」
そう言い残すと、菊千代は脱兎の如く駆け出し、壁の向こうに消えていった。
「あっ、もう!」
つまらなさそうに唇を尖らせたミサヲの横で、ミヨさんがマチさんに「ねぇ」と話しかけていた。
「エミさんのプレゼントなんだけどね、今年は『時間』をあげない?」
「時間? どういう意味っすか?」
「つまりね……」
二人は寄り添い、声をひそめて相談を始めた。やがて、マチさんが「なるほど」と頷いた。
「それはいいっすね。そうしましょうよ」
「じゃあ、休憩時間になったら、カンさんにも相談してみましょう」
二人は顔を見合わせ頷くと、それぞれの仕事に戻っていった。
「あら、何か企んでるみたいね」
ミサヲがわくわくしながら、二人の後ろ姿を見守っている。
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