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マリアの引き出し
再会、そして
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一方、マリアを乗せた秋野は力強く地を駆けていた。秋野が軽々と田んぼを飛び越え、線路を走り、電線に飛び移っていく様子は、まるで風のようだと、マリアは目を白黒させる。
群馬県にそびえる赤城山から吹き下ろす強風を『赤城おろし』と呼ぶが、実はその正体は秋野ではないかと思われるほどだ。
「ねぇ、秋野! 気になっていることがあるんだけど」
「なんだ?」
「私、どうしてミサヲが自分に会いに来たような気がしたのかしら」
「お前がではない。そのギターがそう感じたのだ」
「ギターが?」
「祓う瞬間というのは、似ている記憶を共有する。あの霊に、お前の中にある悔いや弱さに似たものを見出したのだ。祓うということは、同化し、分かち合い、許し、そして見届けることなのだよ」
「あぁ、それでミサヲも私の過去を覗いたのね」
「そうだ。弁財天様がお前たちにくださったのは、霊を駆除するものではなく、寄り添って見送る力なのだよ」
「弁財天様はどうしてそんな力を私たちにくださったの?」
「言っただろう。赤ん坊を守るためだ」
「私が訊きたいのは、どうして弁財天様がそこまでしてくださるのかってことよ」
以前、狛犬はこう語った。
『元々は我らがお仕えする菅原道真公がお望みになられたことだ。だが、この家の赤ん坊が関わっていると知れたので、弁財天様にお力を貸していただいたわけだ』
その言葉を思い出しながら、マリアは問う。
「菅原道真公はどうして守ろうとしてくださったの? それに、ダイキだとわかったら弁財天様に委ねる理由がわからないわ。弁財天様は滝沢家と何か関係があるの?」
「エミさんは弁財天様の加護を受けている家柄の出なのだよ」
「えぇ? どういう意味?」
「言葉通りの意味だ。道真公については、いずれ語るべき御方が語るであろう。我ら神の使いが、主について語ることはよしとされないのだ。神使の世界にも、しきたりがあってね」
そう言うと、体にかかっていた風圧が和らいで、秋野がゆったりと走るのをやめた。
「さぁ、着いたぞ」
「えっ、もう?」
マリアが驚いて目を丸くする。
秋野が走ったのはほんの僅かな時間だったが、それでも桐生市の外れにある山間の地区にまで移動していた。
秋野たちが立っているのは小高い山の頂上にそびえるスギの木のてっぺんだ。そこから見下ろすと、ふもとに民家が並んでいる。その中にひときわ大きな施設があった。秋野はそこを顎で指し示した。
「あの施設だ。二階にカーテンが開いている部屋があるだろう? そこに彼女はいる。我はここで待つが、ゆっくりしてくるといい」
「帰りも送ってくれるの?」
「我の足なら、数分で戻れる。そうすれば、少しでも長くご婦人といられるだろう? 明日の朝までゆっくりしてこい」
「どうしてそこまでしてくれるの?」
きょとんとしたマリアに、秋野は「なに、お前のためではないよ」と、美しい宝石のような目を細めた。
「あのご婦人がもう一度お前と会うことを願っていたからだ。彼女は、亡くなったご主人とよく骨董市に来ていた。そのたびに我ら狛犬にまで挨拶してくれたものだ。私も時雨も、彼女が好きだったのだ。だからこそ、時雨もお前を送っていくことに何も言わなかったのだよ」
「そうだったの」
「とても優しい人だね、お前の大切な人は」
秋野のしみいるような声に、マリアが目を潤ませて力一杯頷いた。
「えぇ。そうよ。知ってるわ」
マリアがニッと笑い、秋野の背から飛び降りた。施設めがけて山を駆け下りながら、自然と胸が高鳴るのを感じていた。
会うのが怖かったはずだった。自分を保健所に送ったのが本当は彼女の意志だったらどうしよう。そう考えては、会いたい気持ちと天秤にかけていた。ゴキ爺が『まだ足取りがわからない』と申し訳なさそうに言うのを、どこかほっとした気持ちで聞いていた自分がいるのを知っている。
だが、どうだろう。間違いなく、今の彼女の胸に溢れているのは歓喜でしかなかった。懐かしさと愛おしさで口元が緩み、気が急いた。
やはり自分は彼女が好きだったのだ。素直にそう思えることが嬉しくもあり、同時にそう言えるのはカンさんの愛情が自分をいやしてくれたからだと知っていた。
マリアは施設にそびえる木に飛び移ると、勢いよくカーテンが開いている部屋に飛び込む。霊体の彼女が壁をすり抜けた先には、ベッドに横になる老婦人がいた。
マリアはその姿を一目見て、まるで金縛りにあったように動けなくなった。
老婦人は確かに元の飼い主だった。だが、そこにいるのは記憶の中の彼女そのものではなかった。髪に白いものが増え、痩せた頬の肉がたるんでいた。肌の艶は失われているのに、目だけはやたらとぎらついている。皺だらけの顔に浮かぶ表情はぼんやりとしていて、無気力だ。
「珠緒奥様」
霊体では声も届かないと知りつつも、掠れた声でそう呼んでみる。ずっと口にしたくてもできなかった名前に、多くの想いが一気に溢れ出した。
マリアはベッドに飛び移って膝の上に乗った。そこにある老婦人の手の甲には、残酷なまでに老いの影が刻まれていた。
こんな顔だっただろうか。老婦人と別れて、二年ほどしか経っていない。それなのに、彼女はその短い間に一気に生気を失い、枯れかけている。時間の流れは平等でも、命はそうではないという真理が、浮き彫りになっていた。
「奥様、私です。サビオです」
昔の自分の名前を口にすると、胸がじんと熱くなった。それは老婦人が『珠緒』という自分の名前にちなんでつけてくれた名前だ。
幼いマリアを初めて見たとき、彼女はそっと抱き上げて、こう言った。
『珠緒のサビ猫だから名前は『サビオ』にしましょう。私の生まれた北海道では絆創膏をサビオって呼ぶ人が多いの。薬局の猫の名前にぴったりだわ』
あの頃と同じ調子で「にゃあ」と甘えてみた。すると、どこか遠くを見ていた老婦人が「おや」と、マリアに気がついた。その目が驚いて見開かれ、口元に笑みが広がった。
「お前、どこから入ってきたの? おいで、おいで」
体を起こした老婦人に手招きをされ、マリアは素直に従った。
「可愛い子ね。どうして修道女の格好をしているの? 近頃の飼い主は犬だけでなく猫にも服を着せるのかね。そのギターはおもちゃ?」
そう笑う声は掠れ、弱々しかった。
たまらずマリアは自分の体を老婦人の胸元にこすりつけようとした。霊体になっている今、温もりは感じられない。それでも、そうせずにはいられなかった。こうして霊体の自分が見えるということは、やはり彼女の時間は残り少ないのだ。そう思うと、胸が張り裂けそうだった。
老婦人はマリアの背を撫でようとしたが、感触がないことに気がつくと、笑みをこぼした。
「なんだ、これはきっと夢ね。そうよね。こんな格好の猫がいるはずないもの」
彼女は、そっとマリアを抱き包むように両手をまわし、優しげに目を細めた。その仕草は、膝の上に乗るのが好きだったマリアによくしてくれたものだった。
「どこかで会ったことがあったかしら? お前の毛色を見ていると、なにかこう、懐かしい気がして、嬉しくてたまらないわ」
マリアの尻尾が歓喜に踊る。自分を忘れてしまっても、やはり奥様は奥様だ。そう思ったとき、老婦人がぽつりと、こう言った。
「お前にはきっと、赤い首輪が似合うでしょうね」
かつて同じ言葉を聞いたことがあった。同じ微笑みを向けられながら、赤い首輪をつけられた。嫌がって首輪を蹴るのを、彼女は鈴が鳴るように笑って見ていたことが思い出された。
あのときのように優しく撫でられたなら、どんなに幸せだろう。だが、霊体でしかここに来ることはかなわない。そして自分は既に滝沢家の一員であり、彼女に寄り添う道はとっくに閉ざされている。
猫という生き物は感情に突き動かされて泣くことはないと思っていた。なのに目頭が熱いのは、二足歩行の人間に近い霊体になっているせいだろうか。もしそうなら、人間とはなんと厄介な生き物だろう。こんなに疲れる感情を持って生きているなんて、面倒なものだ。
マリアは懐かしい匂いを胸一杯吸い込み、老婦人の腕の中で丸くなった。
初めての涙はぬるく、そして嬉しい分だけ苦しかった。
マリアが老婦人と対面する、その少し前のこと。
桐生天満宮に琵琶の音が鳴り響き、神々しい光が舞い降りた。
出迎えた時雨が光の主に恭しく頭を垂れた。
「時雨、ご苦労でした」
そう労うのは、弁財天だ。
「あの者は相変わらずのようですね。このたびは大人しく引き下がってくれたようで、ほっとしました」
「しかし、つかみ所がないところは変わっておりませぬ」
「それがあの者の性質ですからね。あの者は思うままに振る舞うだけ。そしてそれを無理に止める権利は誰にもない。菊千代たちには少し苦労をかけてしまいますね」
弁財天の美しい弓なりの眉が微かに歪み、憐憫の情を滲ませる。
「祓われる者も辛いでしょうが、祓う者も同様に辛い想いをすることがあるでしょう。マリアのように、己の目を背けていたものに直面しなくてはならないこともあります」
小さなため息を漏らし、弁財天が呟く。
「ままならぬものですね、想いというものは」
時雨は黙っていたが、不意にぴくりと耳を立てた。ちょうどそのとき、再会したマリアと老婦人の声が届いたのだ。
マリアの切ない鳴き声を聞きながら、時雨が目を細めた。
「私にはよくわかりませぬが」
そう前置きしてから、彼は言う。
「しかし、だからこそ現世を生きる者は脆くも強いのかもしれませぬ。一歩でも足を踏み出す勇気さえあれば、彷徨った想いも然るべきところへ流れ着くようですから」
弁財天が言葉なしに、柔らかく微笑む。それはまるで新しい一日を告げる朝日のように眩しかった。
群馬県にそびえる赤城山から吹き下ろす強風を『赤城おろし』と呼ぶが、実はその正体は秋野ではないかと思われるほどだ。
「ねぇ、秋野! 気になっていることがあるんだけど」
「なんだ?」
「私、どうしてミサヲが自分に会いに来たような気がしたのかしら」
「お前がではない。そのギターがそう感じたのだ」
「ギターが?」
「祓う瞬間というのは、似ている記憶を共有する。あの霊に、お前の中にある悔いや弱さに似たものを見出したのだ。祓うということは、同化し、分かち合い、許し、そして見届けることなのだよ」
「あぁ、それでミサヲも私の過去を覗いたのね」
「そうだ。弁財天様がお前たちにくださったのは、霊を駆除するものではなく、寄り添って見送る力なのだよ」
「弁財天様はどうしてそんな力を私たちにくださったの?」
「言っただろう。赤ん坊を守るためだ」
「私が訊きたいのは、どうして弁財天様がそこまでしてくださるのかってことよ」
以前、狛犬はこう語った。
『元々は我らがお仕えする菅原道真公がお望みになられたことだ。だが、この家の赤ん坊が関わっていると知れたので、弁財天様にお力を貸していただいたわけだ』
その言葉を思い出しながら、マリアは問う。
「菅原道真公はどうして守ろうとしてくださったの? それに、ダイキだとわかったら弁財天様に委ねる理由がわからないわ。弁財天様は滝沢家と何か関係があるの?」
「エミさんは弁財天様の加護を受けている家柄の出なのだよ」
「えぇ? どういう意味?」
「言葉通りの意味だ。道真公については、いずれ語るべき御方が語るであろう。我ら神の使いが、主について語ることはよしとされないのだ。神使の世界にも、しきたりがあってね」
そう言うと、体にかかっていた風圧が和らいで、秋野がゆったりと走るのをやめた。
「さぁ、着いたぞ」
「えっ、もう?」
マリアが驚いて目を丸くする。
秋野が走ったのはほんの僅かな時間だったが、それでも桐生市の外れにある山間の地区にまで移動していた。
秋野たちが立っているのは小高い山の頂上にそびえるスギの木のてっぺんだ。そこから見下ろすと、ふもとに民家が並んでいる。その中にひときわ大きな施設があった。秋野はそこを顎で指し示した。
「あの施設だ。二階にカーテンが開いている部屋があるだろう? そこに彼女はいる。我はここで待つが、ゆっくりしてくるといい」
「帰りも送ってくれるの?」
「我の足なら、数分で戻れる。そうすれば、少しでも長くご婦人といられるだろう? 明日の朝までゆっくりしてこい」
「どうしてそこまでしてくれるの?」
きょとんとしたマリアに、秋野は「なに、お前のためではないよ」と、美しい宝石のような目を細めた。
「あのご婦人がもう一度お前と会うことを願っていたからだ。彼女は、亡くなったご主人とよく骨董市に来ていた。そのたびに我ら狛犬にまで挨拶してくれたものだ。私も時雨も、彼女が好きだったのだ。だからこそ、時雨もお前を送っていくことに何も言わなかったのだよ」
「そうだったの」
「とても優しい人だね、お前の大切な人は」
秋野のしみいるような声に、マリアが目を潤ませて力一杯頷いた。
「えぇ。そうよ。知ってるわ」
マリアがニッと笑い、秋野の背から飛び降りた。施設めがけて山を駆け下りながら、自然と胸が高鳴るのを感じていた。
会うのが怖かったはずだった。自分を保健所に送ったのが本当は彼女の意志だったらどうしよう。そう考えては、会いたい気持ちと天秤にかけていた。ゴキ爺が『まだ足取りがわからない』と申し訳なさそうに言うのを、どこかほっとした気持ちで聞いていた自分がいるのを知っている。
だが、どうだろう。間違いなく、今の彼女の胸に溢れているのは歓喜でしかなかった。懐かしさと愛おしさで口元が緩み、気が急いた。
やはり自分は彼女が好きだったのだ。素直にそう思えることが嬉しくもあり、同時にそう言えるのはカンさんの愛情が自分をいやしてくれたからだと知っていた。
マリアは施設にそびえる木に飛び移ると、勢いよくカーテンが開いている部屋に飛び込む。霊体の彼女が壁をすり抜けた先には、ベッドに横になる老婦人がいた。
マリアはその姿を一目見て、まるで金縛りにあったように動けなくなった。
老婦人は確かに元の飼い主だった。だが、そこにいるのは記憶の中の彼女そのものではなかった。髪に白いものが増え、痩せた頬の肉がたるんでいた。肌の艶は失われているのに、目だけはやたらとぎらついている。皺だらけの顔に浮かぶ表情はぼんやりとしていて、無気力だ。
「珠緒奥様」
霊体では声も届かないと知りつつも、掠れた声でそう呼んでみる。ずっと口にしたくてもできなかった名前に、多くの想いが一気に溢れ出した。
マリアはベッドに飛び移って膝の上に乗った。そこにある老婦人の手の甲には、残酷なまでに老いの影が刻まれていた。
こんな顔だっただろうか。老婦人と別れて、二年ほどしか経っていない。それなのに、彼女はその短い間に一気に生気を失い、枯れかけている。時間の流れは平等でも、命はそうではないという真理が、浮き彫りになっていた。
「奥様、私です。サビオです」
昔の自分の名前を口にすると、胸がじんと熱くなった。それは老婦人が『珠緒』という自分の名前にちなんでつけてくれた名前だ。
幼いマリアを初めて見たとき、彼女はそっと抱き上げて、こう言った。
『珠緒のサビ猫だから名前は『サビオ』にしましょう。私の生まれた北海道では絆創膏をサビオって呼ぶ人が多いの。薬局の猫の名前にぴったりだわ』
あの頃と同じ調子で「にゃあ」と甘えてみた。すると、どこか遠くを見ていた老婦人が「おや」と、マリアに気がついた。その目が驚いて見開かれ、口元に笑みが広がった。
「お前、どこから入ってきたの? おいで、おいで」
体を起こした老婦人に手招きをされ、マリアは素直に従った。
「可愛い子ね。どうして修道女の格好をしているの? 近頃の飼い主は犬だけでなく猫にも服を着せるのかね。そのギターはおもちゃ?」
そう笑う声は掠れ、弱々しかった。
たまらずマリアは自分の体を老婦人の胸元にこすりつけようとした。霊体になっている今、温もりは感じられない。それでも、そうせずにはいられなかった。こうして霊体の自分が見えるということは、やはり彼女の時間は残り少ないのだ。そう思うと、胸が張り裂けそうだった。
老婦人はマリアの背を撫でようとしたが、感触がないことに気がつくと、笑みをこぼした。
「なんだ、これはきっと夢ね。そうよね。こんな格好の猫がいるはずないもの」
彼女は、そっとマリアを抱き包むように両手をまわし、優しげに目を細めた。その仕草は、膝の上に乗るのが好きだったマリアによくしてくれたものだった。
「どこかで会ったことがあったかしら? お前の毛色を見ていると、なにかこう、懐かしい気がして、嬉しくてたまらないわ」
マリアの尻尾が歓喜に踊る。自分を忘れてしまっても、やはり奥様は奥様だ。そう思ったとき、老婦人がぽつりと、こう言った。
「お前にはきっと、赤い首輪が似合うでしょうね」
かつて同じ言葉を聞いたことがあった。同じ微笑みを向けられながら、赤い首輪をつけられた。嫌がって首輪を蹴るのを、彼女は鈴が鳴るように笑って見ていたことが思い出された。
あのときのように優しく撫でられたなら、どんなに幸せだろう。だが、霊体でしかここに来ることはかなわない。そして自分は既に滝沢家の一員であり、彼女に寄り添う道はとっくに閉ざされている。
猫という生き物は感情に突き動かされて泣くことはないと思っていた。なのに目頭が熱いのは、二足歩行の人間に近い霊体になっているせいだろうか。もしそうなら、人間とはなんと厄介な生き物だろう。こんなに疲れる感情を持って生きているなんて、面倒なものだ。
マリアは懐かしい匂いを胸一杯吸い込み、老婦人の腕の中で丸くなった。
初めての涙はぬるく、そして嬉しい分だけ苦しかった。
マリアが老婦人と対面する、その少し前のこと。
桐生天満宮に琵琶の音が鳴り響き、神々しい光が舞い降りた。
出迎えた時雨が光の主に恭しく頭を垂れた。
「時雨、ご苦労でした」
そう労うのは、弁財天だ。
「あの者は相変わらずのようですね。このたびは大人しく引き下がってくれたようで、ほっとしました」
「しかし、つかみ所がないところは変わっておりませぬ」
「それがあの者の性質ですからね。あの者は思うままに振る舞うだけ。そしてそれを無理に止める権利は誰にもない。菊千代たちには少し苦労をかけてしまいますね」
弁財天の美しい弓なりの眉が微かに歪み、憐憫の情を滲ませる。
「祓われる者も辛いでしょうが、祓う者も同様に辛い想いをすることがあるでしょう。マリアのように、己の目を背けていたものに直面しなくてはならないこともあります」
小さなため息を漏らし、弁財天が呟く。
「ままならぬものですね、想いというものは」
時雨は黙っていたが、不意にぴくりと耳を立てた。ちょうどそのとき、再会したマリアと老婦人の声が届いたのだ。
マリアの切ない鳴き声を聞きながら、時雨が目を細めた。
「私にはよくわかりませぬが」
そう前置きしてから、彼は言う。
「しかし、だからこそ現世を生きる者は脆くも強いのかもしれませぬ。一歩でも足を踏み出す勇気さえあれば、彷徨った想いも然るべきところへ流れ着くようですから」
弁財天が言葉なしに、柔らかく微笑む。それはまるで新しい一日を告げる朝日のように眩しかった。
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