にゃむらい菊千代

深水千世

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にゃむらい誕生

初めての対峙

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 猫たちは鳴り続けているベルの音に、耳を立てる。ロッキーがぼそりと囁いた。
「いつもより耳がよくなった気がする。これは店のほうから聞こえるぞ」
 そう言い終わらぬうちに、時雨が駆け出す。
「あ!」
 菊千代が短く叫んだ。時雨が壁にぶつかると思い肝を冷やしたが、彼は壁を突き抜け、姿を消してしまった。
「霊体と生身は違うのだ。お前たちもついてこい」
 秋野が言うと、マリアの耳が垂れた。
「本当に壁にぶつからない?」
「怖ければ、我の背に乗るといい」
 三匹が秋野の背に乗ると、彼女は力強く床を蹴った。壁にぶつかる寸前、彼らは咄嗟に目を閉じたが、痛くもなんともない。
 すうっと夜気が頬を撫でるのを感じて、ゆっくり目を開くと、彼らは母屋と店の間にある小道にいた。
「これはひどい音だ」
 秋野が顔をしかめる。店の中から聞こえるベルの音はけたたましく、耳障りだった。
「これ、ご近所迷惑じゃない?」
 首を傾げたマリアだったが、秋野が鼻で笑った。
「これは霊の仕業だからね、人間には聞こえないよ」
 そして、母屋に向かって走り出す。
「また壁だ!」
 ロッキーが思わず叫んだ瞬間、彼らは壁を突き抜け、店の中に躍り出た。
「遅いぞ」
 中では時雨が既に待っていて、しかめ面をしていた。
「あれが音の出所だ」
 彼が顎で指し示すほうを見て、菊千代はヒゲがぴりぴりするのを感じた。
 ベルの正体は黒電話だった。最近ではなかなか見かけないダイヤル式で、いかにも昭和の遺産といった代物だった。小上がりの奥に年季の入った茶箪笥があり、その上に店の飾りとして置いてあるらしかった。
 電話線は繋がれておらず、鳴るはずのない電話がこうして鳴り続けている。しかも、更に気味の悪いことには、その電話を取り巻くように黒いねっとりとした影がぶよぶよと蠢いている。
「なぁ、マリア。だんだんベルの音が人間の声に聞こえてきたんだが気のせいかな」
 吐き出すように言うロッキーに、マリアは何度も頷いた。
「確かにあんたはご老体だけど、耳はまだまだ大丈夫みたいよ」
 ジリリリリと繰り返すベルの音の合間に、低い男の声が微かに混ざっているのだ。
「……どこへ行った」
「おいで……ここへおいで」
 まるですすり泣くような囁きに、菊千代の被毛が知らず知らずのうちに逆立った。
 時雨が鋭く影を一瞥した。
「これが『物憑きの霊』だ。もっとも、こいつは力のない霊だが」
「物憑きの霊?」
 訝しげな菊千代に、秋野が頷く。
「物というのは百年経てば霊が宿る。もしくは強い願いや意志、呪いといった情念をこめられると、百年を待たずして物を依り代にして霊が宿ることもある。そういう奴らを『物憑きの霊』と呼ぶのだ」
 マリアが首を傾げる。
「それって、つまり『つくも神』でしょ?」
「実際は少し違う。『つくも神』というのは『物憑きの霊』の中でも銘品を依り代にしていて、しかも百年を経た者だけがなれるものだ。その地域の『物憑きの霊』のまとめ役といえる」
 そして、時雨がこう付け加えた。
「百年を経た者は、依り代の姿を留めた姿になる。だが、情念で生まれた霊は、その情念を発した者の姿を留めるのだ」
「こいつはどっちだ?」
 影に向かって目をこらす菊千代に、時雨が答える。
「これは無論、後者であろうよ」
 よく見ると、影の向こうに血眼になって這いつくばる男の姿があった。頬はこけ、髪はぼさぼさに乱れている。そして異様なほど唇だけが赤く、その顔つきから無念の情が見て取れた。
 秋野がその目に憐れみを浮かべる。
「物憑きの霊というのはね、よくも悪くも自分に正直だ。だから無害なこともあれば、危険なこともある。それで、お前たちに必要があれば祓ってもらいたいのだよ」
「どうやって?」
 短く問う菊千代に、彼女はゆっくりとこう言った。
「物憑きの霊と対峙したときは『罪という罪は在らじと、祓え給い清め給う』と唱えてごらん。もし、祓うべき者だとしたら、お前たちの手にしている得物が応えてくれる」
 菊千代は刀を鞘から抜いて構えてみた。その刀には刃がなく、輝きもない。マリアのギターも、ロッキー両手のボクシンググローブも、ありふれた代物に見えた。
 彼らは顔を見合わせて頷き合う。
「罪という罪は在らじと、祓え給い清め給う」
 そう三匹が唱えたとき、菊千代の刀に波紋が浮かび、まるで月のように淡く輝きだした。マリアのギターはさっきまで弛んでいた弦がピンと張り、ロッキーのグローブが深紅の光をまとう。
「祓ったほうがいいと判断したらしいね」
 秋野が小さく頷いた。
「こういう執念がこめられて物憑きの霊になったものは、知らず知らずのうちに周囲の人間の心を引きずり込むことがあるのだ」
 菊千代はしげしげと刀身に見入っていたが、それを聞いて耳を立てた。
「それは困る。エミさんたちがこんな怨念に捕まっては一大事だ」
「お前が祓うといい」
 時雨が大きな尾を揺らした。
「祓うには、『祓え給え清め給え、守り給え幸え給え』と唱えて刀を振り下ろせばいい。安心しなさい。その刀は切るための物ではなく、清めの力を相手にたたきつける道具だ」
 こくりと頷き、菊千代が影にじりじりと歩み寄る。間合いをとっている間に、影が呻く。
「どこにいるんだ。ここに来れば見つかるって聞いたんだ。どこにいるんだ」
 影の言葉に、菊千代は首を傾げた。一体『誰に』聞いたのだろう。
 だが、影と対峙しているうちに、その疑問も吹き飛んでしまった。本能が『戦え』と言っている。被毛が逆立ち、ヒゲが上がり気味に張った。
「お前……そうか、お前が隠したのか」
 影の奥に見える目がぎらりと見開かれた。かと思うと、周囲にどこからともなく闇が吸い寄せられ、みるみるうちに影と交わり、その姿が大きく膨れていく。
「返せ……娘を返せ!」
 影の中から巨大な手が伸び、菊千代を襲った。
「おっと!」
 すんでのところで避け、右手に着地する。後方から時雨の声がした。
「影にとらわれると自我をなくす。気をつけるがよい」
「簡単に言ってくれるなぁ」
 また影の手が勢いよく襲いかかってきた。思わずのけぞると、影の向こうに見える唇がつり上がった気がした。
「祓え給え清め給え……」
 そう呟くと、思いっきり地を蹴り、高く宙を舞う。彼は影の男に向かって飛びながら刀を振りかざし、力の限り叫んだ。
「……守り給え幸え給え!」
 刀身から一斉に白い光が放たれ、辺りを包む。
 その光の中、菊千代はまるで時間が止まったような錯覚にとらわれる。刀を突きつける自分の動きがスローモーションのようになり、目の前には光で露わになった影の姿があった。
 影の奥にいたのは、血色の悪い痩せた男だった。年の頃は五十ほどだろうか。だが、こめかみにある白髪やこけた頬と猫背のせいで、みすぼらしく老け込んでいた。
 怯える男の顔を見つけた瞬間、菊千代の中に見知らぬ光景がなだれ込んできた。まるで彼は空気になったかのように、景色に溶け込んでいった。
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