千津の道

深水千世

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終わりを間違えた男

正臣の過去

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 千津が入っても、正臣は出迎える気配はなかった。ただ、リビングから明かりが漏れている。
 そっと入っていくと、ソファに正臣が腰掛け、その右隣にセルジュが寝そべっていた。正臣の手には便箋があり、テーブルの上にエアメールの封筒が置いてある。

「先生?」

 おそるおそる声をかける。すると、正臣は顔を上げずに口を開いた。

「驚いているんです」

 千津は彼の隣に腰をおろし、そっと尋ねた。

「何に?」

「僕にもまだ執着心があったんだなぁって」

「先生、妬いてくれたんですね?」

「子どもみたいでしょ?」

 眉を下げる正臣の顔は、赤く染まっている。

「嬉しいです」

 千津がしんみりと言った。

「先生、いつから私のこと好きでした?」

「ある意味、最初から好きでしたよ」

「ある意味?」

「そう、ある意味」

 正臣が便箋を封筒にしまい、そっと置いた。

「朝食を一緒にと提案したとき、あなたはどうしてそこまでしてくれるのかと聞きましたね。あのとき、僕は自己満足で君を利用しているから、そのほうが僕の気が楽だ。そう答えたと思うんですけど」

「そうですね。納得する答えではありませんでしたけど」

「やっぱり?」

 正臣が笑った。

「あのね、最初、君が倒れているのを助けたのは、他にどうしようもなかったからです。でも、なんとなく好きだなと思ったんです。けれど、すぐにそれはどこか『あの人』に似ているからだって気づいた。だから住む場所を提供したんです」

 千津の胸が塞がれた。

「あの人って、グノシエンヌの彼女ですね」

「そう、名前は香澄といってね、素晴らしいピアニストでした。僕は彼女が音大時代からずっと好きだったんです」

 覚悟はしていた答えのはずだった。けれど、それでも嫉妬が胸の奥でうねり出す。

「僕の本当の自己満足は、あの人に似ている君に優しくすることで、あの人に尽くしているような気になるからというものでした。同時に君にそうすることで君は香澄ではないと、彼女がもういないんだと自分に思い知らせるためでもありました。未練から脱却したかったんです」

 次いで出た正臣の言葉で千津は目を丸くした。

「香澄は僕の義理の姉です」

「えっと、つまり、お兄さんと結婚したってことですか」

「そうです。この平屋も元は兄夫婦の新居でした。僕の気持ちを知らない兄は、隣に住むように何度も提案してきましたけど、好きな女と兄が一緒に暮らすところなんて見たくなくて、僕は別に住んでいました」

「そうなんですか」

 ほっとするような、哀れみを感じるような、複雑な顔つきの千津を見て、正臣が静かに言った。

「けれど、兄は事故で死にました」

 驚きのあまり絶句する千津の手に、正臣の大きな手が重ねられた。まるで話す勇気をねだるように、おずおずと。

「香澄と結婚して、わずか二年後のことでした。香澄は流産したばかりでした」

 正臣の言葉は淡々としていて、それが余計に痛々しかった。

「あの人は夫と子どもを一気になくしました。僕は悲嘆にくれて泣きじゃくる彼女を支えようと躍起になった」

 彼はポケットからくしゃくしゃになった煙草を取り出し、火をつけた。いつもは昼食後にしか吸わない煙草だ。

「いつか、僕は君に『始まりを間違えても終わりを間違えなければいい』と偉そうに言いましたよね」

 こくりと頷くと、正臣は唇の端を釣り上げた。

「あれはね、自分に言い聞かせたんです。だって僕は兄の恋人を好きになってしまうという間違えた『始まり』を選んだ上に、『終わり』まで間違えてしまった男なんですからね」

 紫煙を吐き出し、彼はどこか遠くを見るような目で言った。

「いつしか香澄は僕を好きになってくれたんです。姉としてだけではなく、女として、母として、いろんな愛情をくれました。嬉しかったはずなのに僕にはどうしても彼女を抱けなかった。キスをする勇気すら、僕にはありませんでした」

「どうしてですか?」

「だって、彼女にとって僕は兄の影であり、子どもの代わりだったんです。そんな香澄にどうにも触れられなくて、兄が自分の命と引き換えに、彼女に結界を張ったような気さえしました」

「じゃあ、香澄さんはそれからどうしたんですか?」

「僕のもとを去りました。それからしばらくして、あるバイオリニストと再婚し、ドイツに移住したんです。僕がドイツワインを飲みたがらない理由、わかりました?」

 正臣がオーディオを目で指した。

「あのグノシエンヌは香澄が演奏したものです。僕はCDで聴くことで、もうここに演奏者がいないということを意識していたんです。彼女のいない一日がまた始まる。彼女のことを思い描いていた夜をリセットして、まっさらな一日を過ごそうと誓う。そんな儀式のつもりでした。でも、ふとした瞬間に思い出さずにはいられなくて、結局毎朝、その儀式をしなければならなくなっていたんです」

「じゃあ、今でも好きなんですか?」

「好きは好きです」

 正臣はそっとエアメールを千津の前に引き寄せた。

「香澄から届いたエアメールです。夫の公演で伴奏をするため日本に行くから、会おうというものでした」

 胸に刺すような痛みが走る。けれど、正臣は静かに首を振った。

「公演のチケットが同封されてましたけど、断らなきゃいけません」

「どうしてです? だって、久しぶりに会えるのに」

 会って欲しくない。なのに心とは裏腹な言葉が出る。

「先生は終わりを間違えたって言ったけど、まだ終わってないんじゃないですか? だったら、きちんと終わらせてほしいです。でないと、私まで辛いです」

 はらはらと頬を涙が伝った。正臣はそっと指の腹で涙をすくい、唇で舐めとった。

「だってね、チケットが一枚しか同封されてなかったんですよ。義姉は昔からどこか気の利かないところがありまして。それとも、僕がいまだに独り身だから吹っ切れていないと思っていたのかな」

「はい?」

 思わず聞き返すと、煙草をもみ消した正臣がくしゃっと笑った。

「だからね、千津さんの分がないから、行けないでしょう?」

「へっ」

 間抜けな声を上げた千津の肩を、正臣がそっと抱き寄せた。

「手紙を読んだとき、真っ先に思ったのが『千津さんの分がない』だったんですよね。思ったより、君は僕の暮らしに深く馴染んでいて、一緒にいることが自然になってたんだなぁって思って、驚きました」

 言葉を失っていると、正臣がにんまりする。

「香澄は大事な家族でした。でも今思えば、僕は愛されたとわかれば満足だったのかもしれない。だって、去っていく香澄が最後のキスをしてくれても、心の声は聞こえなかった。でも、千津さんは違った」

 しんみりと、染み入るような声だった。

「僕はもう四十半ばです。だから君の若さは眩しすぎると思いました。自分の老いを照らされるようで、痛いほどでした。若さは美しくて、同時に醜い。あなたはまさにそうでした」

 正臣が千津をまっすぐ見つめて言う。

「年をとればとるほど、視点が増えていくにつれて胸を痛めることが増えていく。千津さんにはまだわからないかもしれないですね。でもね、だからこそ、あなたを放っておけなかった」

「私に同情したってことですか?」

「はい。僕も正しい『始まり』なんて知らないけれど、あなたにはせめて『終わり』を間違えて欲しくないと思ったんです」

 千津の手を引き寄せ、そっと唇を押し当てた。柔らかい感触に顔を染める彼女を上目遣いで見つめ、正臣は笑った。
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