今夜も琥珀亭で

深水千世

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第2話 ライク・ア・メーカーズマーク 前編

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 なんとなく入った大学での生活は単調なものだった。親元を離れて一人暮らししていた俺は、アルバイトで小遣いを稼ぎながら、単位を落とさない程度に大学に通った。そして、なんとなく就職活動もしないまま、なんとなく卒業したというわけだ。

 よく友人や先生から「尊って何事にも無関心だよな」と言われてきた。思えば小学生の頃からずっとだ。

 別に無関心ってわけじゃないさ。ただ、熱中できないんだ。我を忘れて夢中になれることがない。それだけのこと。
 趣味もそう、恋愛もそう。最初に覚えた情熱はすぐに燃え尽きる。同じ道をずっと歩き続けるには、情熱だけじゃ駄目なのだろうか。他に何か足りないものがあるのだろうか。それすらわからない。

 やってみたい仕事もわからないまま、とりあえず就職活動はしようとは思ったけれど、履歴書に志望動機を書く段階であっけなく挫けた。

 志望動機? そんなもん、金が欲しいからに決まってるじゃないか。明日の飯を得るため。来月の家賃を払うため。みんな、そうじゃないの?
 そんな風にしか思えない俺が就職活動なんかしたって、どのみち採用される訳がないと思った。

 でも、本当のことを言えば、やりたい事がみつからない俺は、就職活動の厳しさから逃げたんだ。
 いや、実際は『やりたい事がみつからない』という言い訳をして、会社に吟味され、そして選ばれない恐怖から逃げたと言ったほうがしっくりくる。
 俺が人事のお偉いさんなら、こんなへなちょこなんて、絶対採用しない。

 母親はことあるごとに「逃げてばっかりいないで、面接行きなさい!」と、怒鳴っていた。

「この先、どうするの? 働きもせずどうやって生きていくのよ。お父さんもお母さんもいつまでもあんたの面倒を見れるわけじゃないんだから」

 わかってるよ。でもさ、母さん。グレーのリクルートスーツを着て、慣れない革靴を履いた俺は、どこに向かえばいいのかすらわからなくて途方にくれていたんだよ。

 大学を卒業しても、在学中と同じような生活が待っていた。変わったのは、大学に行く代わりにアルバイトのシフトを増やしたくらいだ。
 就職をしなかったことに腹を立てた両親は、卒業を期に仕送りをストップしてきた。これからは小遣いのためではなく、食べていくためにアルバイトをしなくちゃいけなかった。
 両親は金に困れば、それなりの収入の仕事を探すだろうと目論んだらしいが、俺は職探しに本腰を入れる気になれずにいた。

 たまにハローワークにも行ってみたけれど、どんな仕事につきたいかもわからないんだから、何を見ても自信が持てないままだった。俺にこの仕事が務まるのか? 俺が本当にやりたいことはこれなのか? そんな自問自答がもたらす戸惑いはいつしか、すっかり俺を臆病者にしていた。

 アルバイト生活は、収入は少なかったけれど、時間だけは自由に使えた。友人と遊ぶこともできたし、シフトの合間に自動車の運転免許や調理師の資格もとれた。

 でもやっぱり、どんどん減っていく貯金通帳の残高を見ると、アルバイトだけじゃ暮らしていけないと痛感していた。ボーナスも失業手当もないし、若いうちはいいけれど、体が動かなくなったら終わりだ。たとえ結婚したって、とてもじゃないけれど子どもを育てあげることは無理だろう。

 なんとかしないと。そんな焦りは常にあった。十年先の自分も思い描くことができず、不安で寝苦しい夜もあった。
 でも、悩むばかりで、求人情報を見てもどんな仕事を探すべきかもわからない自分がもどかしくて、言いようのない苛立ちしか残らなかった。

 そんな俺に転機が訪れた。

 二十四の夏、横浜に住む友人からこんな連絡が入った。

「思い切って横浜に来ないか? うちの親戚がやってる会社で空きがあるから働かない?」

 契約社員の枠だったけれど、保険のないアルバイトよりは断然いい。
 俺は「ありがとう。頼むよ」と即答した。会社員になれるなら、横浜でもどこでも飛んでいくさ。

 早速、バイト先に辞めると伝え、大学時代からずっと住んでいたアパートを引き払う準備にとりかかった。
 違う市に住む両親に電話で報告すると、ものすごく喜んでくれた。ちょっと照れくさかったけれど、少しは仕送りも出来るかなと、誇らしく思ったよ。

 ......あの電話さえこなけりゃ。

 引越しの手続きももう少しで終わるという頃、横浜の友人から電話がきた。

「......もしもし。尊?」

 彼の声を聞いてすぐ、何かあったのかなとは思ったよ。この世の終わりみたいな声だったから。

「どうしたんだよ、そんな暗い声して。具合でも悪いのか?」

「......なぁ、お前さ、引越しの準備とか済んだ?」

 俺は段ボールでいっぱいの部屋を見回し、「おう、大体な」と張り切って答える。
 段ボールに貼り付けた伝票には友人の住所が書いてあった。次の住居は横浜に行ってから探すことになっていたから、しばらく友人と同居する手筈になっていたんだ。

「バイトは辞めたし、アパートは今月一杯で引き払うことになってる。お前のアパートに荷物を送って、大家とガスの立会いすれば終わり。飛行機の予約もしてあるよ」

 それを聞いた友人は黙り込み、深いため息をついた。

「ごめん。本当ごめん、尊。俺、お前に本当に悪いことをした」

「なんだよ、なんかあったのか? 言えよ」

 言えよと言いながら、聞くのが怖い。友人は消え入りそうな声でこう言った。

「実は......うちの会社、駄目になった」

 その言葉を聞いた瞬間、どすんと重いものが胸の真ん中に落ちたようで、思わず呼吸が止まった。

 呆気にとられるとはこのことだ。しばらくの間、俺はぽかんと口を開けたまま突っ立っていた。

「尊、ごめんな。本当にすまない」

 友人は電話の向こうで何度も「ごめん」を繰り返している。

「おい、待てって。どういうことだよ?」

 我にかえって問いただすと、友人はぼそぼそと消え入るような声で弁解し始めた。

「実は会社の幹部が金を持ち逃げして、うちの会社が今、大変なことになってるんだ」

「マジかよ......お前は大丈夫なのか?」

「わかんないんだ。だけど、尊の採用どころじゃなくなったのは確かだから......あの話はなかったことにしてくれ」

 そんなこと言われても困る。収入は? 家は? この荷物はどうすりゃいいんだよ。段ボールだらけの部屋の真ん中で、そう喚きたいのを必死で堪えた。
 結局、たった一言、「そうか......」としか答えることができなかった。

「本当にすまん......」

「言うなよ、馬鹿。お前のほうが大変じゃん」

 慌てて平然を装ったものの、その後は何を話したかまるで覚えていない。友人を気遣って「連絡ありがとな」と言って携帯電話を切ったものの、その顔は強張っていた。

「......どうしよう」

 口に出した途端、背中に冷たいものが走った。一瞬にして、俺は仕事も住むところも失ったわけだ。

「そうだ、まだ間に合うかも」

 急いでアパートの大家に連絡をとった。幸い、大家はアパートの隣に住んでいて、見かければ世間話をする程度には顔見知りだ。なんとかお願いしてみようと思い立ったのだ。
 ところが、事情を話すと同情はしてくれたものの、「実はもう次の契約者が決まっている」と言われてしまった。予定通り、今月中には出て行ってくれってことだ。

 バイトも辞めてしまった。盛大に送別会をしてもらったばかりだ。今更、やっぱり店に残りますなんて、どのツラ下げて言えっていうんだ。

 親にはもっと言えなかった。就職を喜んでくれた顔を思い出すと、あまりの情けなさに泣けてきた。それに、助けを求めようにも、兄夫婦が両親と同居し始めたばかりで、実家に俺の居場所なんてなかった。

「マジでどうすんだよ、俺?」

 絶望というものを、初めて知った。明日の生活すら保証されない焦燥感と惨めさがこんなに重いものだったなんて。

「やばい、やばい、やばいよ、俺......」

 そう呻くように呟いた俺は、気がつくと無我夢中でコンビニへ走っていた。店頭に並んでいた賃貸情報誌と就職情報誌をありったけ集め、レジに持って行く。

 高校生くらいのバイトの女の子が、悩みのなさそうな声で「いらっしゃいませ」と言い、手際良くレジを打つのをぼんやり見つめた。
 雑誌のバーコードをレジが読み込む機械音を聞きながら、ふっと肩を落とした。航空会社と引越業者にも連絡をいれなきゃいけないことに気づいたのだ。

 買い物袋を受け取ると、思わず大きなため息が漏れ出た。去り際に、レジの女の子が同情の目つきで俺を見ていた気がした。

 コンビニを出た俺の足取りは鉛より重かった。足を引きずるようにして歩く俺の、レジ袋を持つ左手はもっと重い。

 見慣れたはずの街が、急によそよそしく見えてきた。
 なんだろう、この惨めさ。住むところも定期収入もない、この心もとなさ。今まで感じたことのない閉塞感だ。
 大学入学のときに移り住んで以来、第二の故郷みたいに感じていた街が、全力で俺を否定している気がした。

 すれ違う通行人が全員妬ましく思えた。いいよな、みんな仕事もあって、帰る家もあるんだ。
 飼い主に散歩してもらっている犬でさえ、羨ましく思えるなんて情けないったらありゃしない。

「金がなけりゃ、なんにも出来ない世の中なんだもんなぁ」

 思わず、独り言が漏れ出た。
 手元の袋を見下ろし、帰ったら履歴書を書かなきゃと考え、また更に気分が重くなる。
 かつて挫けた志望動機の欄にまた向き合わないといけないんだから。

 夕闇が染めゆく街を歩きながら、携帯電話を取り出し、すべての連絡先をスクロールで見ていく。すがるような気持ちで、登録された名前を目で追った。

 ちょっとの間でいい。部屋が決まるまで、もしくは仕事がみつかるまで、世話になれないか?

「......こいつは駄目だ、実家暮らしだもんな。こいつは......顔合わせるくらいだったしなぁ」

 連絡を試みる前から、誰にも頼れない気がして途方に暮れた。
 そいつぁそうだ。誰がこんな面倒な話を聞きたがる? 意気揚々と「横浜に行きます!」と張り切っていた男が、電話一本で宿なしの職なしになったなんて。

「はぁ......まったく、情けないよなぁ。あいつも大丈夫だといいけど、まずは自分だよなぁ」

 両親には少なくとも次の仕事見つけてからじゃないと話せない。特に俺のことをずっと心配してくれていた母親をがっかりさせたくなかった。

 大きなため息がまた一つ漏れる。ため息が出るのは、これで何度目だろう。

 そのときだった。ふと、目の前に琥珀色の明かりを見つけて足を止めた。そのライトが照らすのは見覚えのある重厚な木目の扉と、真鍮の小さな看板。そう、あの『赤い月のひと』がいた店だった。おずおずと歩み寄って看板を見ると、『Bar 琥珀亭』とある。

「営業再開したのか」

 俺が大学を卒業する前に閉店したはずなのに、あのバーがライトを灯している。数年ぶりに見た扉に、どっと懐かしさがこみあげた。同時に、あの赤い月のひとを思い出し、胸にじんとぬくもりがしみた。

 立ち止まって、店の扉をしげしげと見つめた。数年前と何も変わっていない。あの夜は真鍮の看板に気づかなかったけど、温かみのあるライトの色はそのままだ。おまけに赤い月のひとが出していた黒板までもが、あのときと同じようにイーゼルに立てかけてある。

 ただ違うのは、黒板に書いてあるのが本日のおすすめでなかった点だ。白いコピー用紙がテープで貼ってあり、そこには達筆な筆文字でこう書いてあった。

『バーテンダー見習い急募! 経験不問(料理できる方優先)、住み込み可。給与は相談に応じます。やる気のある方は店内へどうぞ』

「......マジかよ」

 琥珀色のライトが希望の光に見えた。もしかしたら、渡りに船ってやつかもしれない。バーテンダーやお酒にはまったく興味ないけど、カフェで調理補助のバイトをしていたから調理師免許は取得している。なにより、住み込み可だ!

 胸が躍るのを感じた。と、同時に怖くもあった。

「俺にバーテンダーって務まるのか?」

 経験もない、知識もない、バーに行ったのは一度きり、おまけに酒もろくに飲めないのに。
 そう、張り紙をじっと見つめながら自問自答した。

 筆文字は流れるような線で、高齢の人が書いたもののように見えた。ハネや点は力強く、どこか挑発的だ。その勢いのいい文字に、気圧された。

 ふと、それがいつか見た閉店の挨拶と同じ筆跡だと気づく。
 ここのオーナーはこういう字を書く人なんだなと思うと、どうしても怯んでしまう。

「......俺、ここでうまくやっていけるかな」

 レジ袋を持った左手にぎゅっと力をこめる。

「いいや、当たって砕けてナンボだ!」

 砕けたら、そのときはそのときだ。そんな自棄に近い感覚で琥珀亭の扉を引いた。あの日、耳にしたレトロな呼び鈴が、藁にもすがる思いの俺を迎えてくれた。

「いらっしゃいませ」

 凛とした声がした。俺はおずおずと店内に足を踏み入れる。心臓の音がバクバクと響いてうるさかった。

 店内は薄暗く、木目調で統一されていた。まず目に入ったのは、分厚いバーカウンターの向こうに並ぶ膨大な量の酒瓶だった。控えめなライトを浴びて輝いている。シーリングファンのある天井は吹き抜けになっていて、思ったより広く感じた。

 カウンターの中に、一人の女性バーテンダーが、にこやかに立っていた。客は一人。カウンターの端から二番目の席で、年配の女性客がグラスを傾けている。

 客がいると問い合わせするのも、なんだか商売の邪魔をしているようで気がひける。そう思って客を見ると、目があった。だが、客は俺にはなんの注意も払わず、すぐに自分のグラスに視線を戻す。
 意志の強そうな目だった。パーマをかけた長い髪で、きっちり派手な化粧を施した顔は、恐らく数十年前は美人と呼ばれただろうと思わせる。

 たじろいでいると、バーテンダーの優しい声がした。

「空いているお席へどうぞ」

 俺はハッとした。バーカウンターの中で微笑んでいたのは紛れもなく、赤い月のひとだった。

 間違いない。あれから多少大人びた顔になってはいるけど、彼女だ。すぐに気づかなかったのは、長かった髪がばっさり切り揃えられ、肩の辺りまで短くなっていたからだろう。

「あ、あの......あの」

 俺は再会の歓びと緊張とで情けないほどどもっていた。

「表の張り紙見たんですけど......」

「あら、そうなんですか!」

 顔を輝かせた彼女が、カウンターに座っている年配の女性に向かってこう言った。

「お凛さん、面接ですって。お願いします!」

 俺は目を見開く。このニヒルに飲んでいるお婆さんがオーナーなのか?

「お凛さんなんて呼ぶんじゃないよ。せっかくの面接官がカッコつかないじゃないか」

 苦々しげに言った年配の女性は、手にしていたロック・グラスをカウンターに戻してぼやくように言った。

「せめて人前じゃ凛々子さんって呼んで欲しいもんだね」

「何を言ってるんですか。自分からいつも『お凛さんって呼んでおくれ』なんて言うくせに」

 軽妙なやりとりだ。肩肘張った俺の気持ちをほぐそうとしているのかもしれない。あいにく、顔が強張って愛想笑いもできなかったけれど。

「まぁ、座って」

 お凛さんと呼ばれた女性がカウンターの椅子を指し示した。愛想はないが、親しみのある声だ。

 その瞬間、『しまった』と顔をしかめた。面接をお願いしに来たというのに履歴書を持参していないことに気づいたのだ。みるみるうちに血の気が引いていった。

「あの......すみません。実はまだ履歴書、書いてないんですけど」

 消え入りそうな声で言うと、お凛さんは顔をしかめた。ただし、それは『何しにきたんだ、お前』という非難ではなく、『面倒くさい奴だね』という意味のジェスチャーのようだった。

「そんなもん、後からでいいんだよ。やる気があるから入ってきたんだろ?」

「はぁ......」

「煮え切らない男は嫌いだよ。早く座りな!」

「は、はい!」

 ぴしゃりと言い放たれた声に、慌てて腰を下ろす。
 じっと俺を見つめる彼女の強い目に、絶対、張り紙の筆文字はこの人のものだろうと確信した。いつの間にか、俺の手のひらは汗ばんでいた。
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