いい靴をあなたへ

深水千世

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第1話

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 レオナルド・オコナーが仕上げたばかりの靴を包装し終わったとき、ロンドンは夜気に包まれていた。靴店のショーウィンドウ越しに、濡れた石畳をゆく通行人が見える。春先の雨はやみかけていた。

「今夜は冷えるな」

 端正な顔を歪め、仕事道具を片づける。レオナルドが田舎からロンドンへ出てきて八年。修行の末に自分の店を持ち三年になる。他に店員を雇うまでもない小さな店だが、二階は居住スペースになっていて居心地はよかった。

「明日はラフィール夫人に連絡しないと」

 彼はぶつぶつと独り言を漏らしながら、デスクの上の伝票をまとめる。ラフィール夫人は二年前からレオナルドの靴を贔屓にしてくれる。今日仕上がった靴は、彼女のパーティー用のものだった。大の犬好きで、毎度、靴を渡すだけなのに一時間は愛犬の自慢話に付き合わなくてはならない。

「そのうち、うちのわんちゃんにも靴を作ってくれなんて言い出しかねないな」

 やれやれと首を振り、朝のうちに買っておいた新聞を手にする。1938年の世界情勢は不穏な動きを見せていた。しかし彼の関心はそこにはなかった。目を留めたのは、新進気鋭の女優エルザ・カーライルが新作映画のヒロインに抜擢されたという記事だ。

「へえ、相手役はジョン・ミラー? 大御所俳優じゃないか。素晴らしい!」

 まるで自分の靴を褒められたような無邪気な笑みがこぼれた。酒も賭け事もしない彼の唯一の楽しみが、エルザ・カーライルの舞台や映画だった。

 彼は新聞を丁寧に折りたたみ、デスクの引き出しから便せんと封筒を取り出した。彼女の記事を目にするたび、ファンレターを送るのを慰みにしていたのだ。故郷を出て独り、仕事場に缶詰で夜は人恋しくなる。そんな孤独を昇華する手段だった。

 そしてなによりエルザは彼のミューズだった。陶器のような白い肌、柔らかくウェーブしたブルネット、鼻も唇も彫刻のような造形で、おまけにしなやかな手足と指先をしている。すべてが理想的だった。少し陰のある美貌と確かな演技力の持ち主であり、神々しくさえある。新しい靴のイメージは常に彼女の姿と共に脳裏に浮かんでくる。

 ファンレターの最後には必ずこんな文を添えた。

『いい靴は相応しい道へあなたを連れていってくれるでしょう。そして僕はいい靴を作ることができます。あなたに相応しい、あなたのための靴を作らせてください』

 そして『オコナー靴店』の連絡先と自分の名前を書き、封をする。何度送ったかわからない。彼女が本当に来店するとは思えなかった。エルザ・カーライルほどの実力派女優ならもっと老舗の名店へ行くだろうし、彼女のために靴を作りたい職人はごまんといる。それでも書かずにはいられない。彼は紛れもなく、手の届かない恋をしていた。

 ところが、予期せぬ出来事が起こった。エルザ・カーライルが付き人を連れ、オコナー靴店を訪れてきたのだ。

「信じられない!」

 頬を紅潮させ、レオナルドは店内に入ってきたエルザとその付き人に歩み寄った。

「ようこそ、カーライルさん。あなたがここにいらっしゃるなんて夢のようです」

 深紅の唇に笑みを浮かべ、エルザは「あなたがレオナルド・オコナーさん?」と歩み寄る。夢にまで見た青い瞳が、レオナルドを品定めするように舐め回した。

「いつもファンレターをくださってありがとう」

「僕を覚えてくださったんですか」

「そりゃあ、デビューして以来ずっとお手紙をいただいていますもの。私のために靴を作らせてくださいなんて、なかなか他の殿方には仰っていただけませんわ」

「感激です。まさか本当にご来店いただけるなんて。ありがとうございます」

「お礼なら、こちらのマチルダへ」

 エルザは後方に控えていた付き人の女にちらりと目をやった。

「マチルダが是非、あなたの店で靴を作るべきだと言い張ったんですの」

「あなたが?」

 付き人はヴェールのついたつばの広い帽子をかぶり、俯き加減だった。そっと静かにヴェールを外した付き人を見て、レオナルドは「あ!」と短く声を上げた。エルザが愉快そうに笑う。

「驚きまして? そっくりでしょう?」

 マチルダと呼ばれた付き人はエルザ・カーライルとまったく同じ顔をしていた。髪や瞳の色、そして化粧の仕方まで瓜二つ。

「初めまして。私、エルザの姉のマチルダと申します」

 レイモンドはあんぐりと口を開けてしまった。見た目だけではなく、声までもそっくりだったのだ。エルザが愉快そうに言った。

「私たち、双子なんです」

「ああ、失礼しました。あまりに驚いてしまって」

「そうでしょうとも。それでいつも姉はヴェールで顔を隠すことにしていますの。どんなに慣れたスタッフでも混乱しますもの」

「なるほど」

「私の身の回りの物は姉が見立ててくれることが多いんですけれど、何年も応援してくださるオコナーさんのお店に行こうと言い出して」

「どうして急に」

 嬉しいながらも戸惑いを隠せないレオナルドに、今度はマチルダが口を開いた。

「あなたの『いい靴は相応しい道へあなたを連れていってくれる』という言葉がとても気に入ったんですの。それに妹に相応しい靴というのがどういうものか興味もありましたから」

 落ち着いた、柔らかい声だった。マチルダは店内を見渡して微かに微笑んだようだった。

「でも、来てよかった。なんて素敵なお店でしょう」

 すると、エルザがくすりと笑う。

「それに、オコナーさんがこんなに素敵な殿方だったなんてね」

 レオナルドがかあっと頬を染めた。美の象徴と崇めた顔が二つ、左右から自分を見つめている。夢のような気分だった。

「あ、あの、では立ち話もなんですから、採寸を始めさせていただいてもよろしいですか。マチルダさんは隣の待合室の長椅子でおくつろぎください」

「私も見ていてはいけませんか?」

「申し訳ありません。靴を作るときは持ち主の方と二人だけにさせてください」

 これはレオナルドのこだわりの一つだった。足への悩みや欲しい靴の希望は、持ち主となる客と向き合うことで探ることにしていた。第三者がそばにいると、持ち主も本音を隠すことがあったし、なによりレオナルド本人が集中できない質なのだった。
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