精霊綺譚

深水千世

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精霊の吟遊詩人

脱走の果てに

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 月明かりの中、施設を囲む森の中を無我夢中で走り続けるナディアの姿があった。こうして脱走するのは何度目か、数える気にもなれなかった。
 施設に入って三年の月日が流れていたが、抜け出すたびに街で見つかったりして連れ戻された。
 そして痣だらけになるまで殴られるのだ。金髪をハサミでざっくばらんに切られたこともある。そのたびに、容赦ない罵声が浴びせられた。

「親にも見捨てられた不気味なお前を、誰が面倒みてやってる!」

 施設長にとってナディアはタダでこき使える都合のいい使用人だった。
 施設長のしゃがれた声を思い出して身震いすると、ナディアは疲れて鈍り始めた足を懸命に動かした。
 苔で滑った足がもつれ、木々や茂みが行く手を拒む。木の枝が頬をかすって、血が一筋流れた。

 その日の朝、ナディアは太陽の光の精が小さな声で言っているのを耳にしたのだ。

「今日ならできるよ」

 ナディアは青空を見上げ、拳を握りしめた。半ば諦めていたはずなのに、今日こそは脱走に成功するような気がしてきた。何故かはわからない。ただ、彼女の心がそう言ったのだ。
 ゆっくりと、もう一度噛み締めるように口にした。まるで祈るような声で。

「今度こそ、できる」

 施設長は今夜、仲間と賭け事をする予定だった。施設長が風呂を浴びている隙を見計らい、裏口の鍵がしまわれた金庫へ忍び寄る。金庫を開ける番号は、暖炉にうずくまる火の精が教えてくれた。この精霊は施設長の食べ残しを火にくべられて、嫌々ながら湿った魚を燃やさなければならなかったことに腹が立っていたらしい。
 夜になると、施設長と仲間は酒を飲み上機嫌になっていた。ナディアは賑わう客間の様子をうかがったあとで、裏口へそっと近づき、震える手で鍵を開けた。
 扉の向こうに、闇に染まる世界が広がっていた。
 夜風の精が、彼女にこう叫ぶ。

「走れ! 風のように森を走るんだ。街道を行けばまた見つかってしまう」

 彼女は駆け出した。木戸を押し開け、ただやみくもに森の中へ飛び込む。
 息があがってきた頃、木々の間に鍵を投げ捨てた。

「自由だ!」

 彼女は叫んだ。心に羽が生えたようだった。頬を伝う涙を拭い、走り続けた。
 だが、これからが問題だ。うまく逃げたら、そのとき泣けばいい。そう自分に言い聞かせ、どこへ向かっているのかもわからないまま走り続けたのである。

 息が苦しくなり、あまりの脇腹の痛みに耐えかね、足を止めて振り返った。施設の灯りは森の木々に邪魔されて見えなかった。
 自分はどこまで走ったのだろうと考えた彼女は、乱れた呼吸に思わずむせた。喉が渇いて引き攣っている。

 そのときだった。
 どこからか音楽が聞こえてきた。なにやら弦をつま弾くような音が、闇の向こうから確かに流れてくる。
 ナディアの顔が凍りついた。こんな暗い森の中で音楽を奏でる物好きなどいるだろうか。彼女は警戒しながらも、音のするほうへ向かった。
 次第に音が大きくはっきりしてくると、女の歌声が弦の響きと共に風にのって聞こえてきた。
 彼女は流れる汗もそのままに、ぼんやりと歌声に耳をすませていた。何故か、この声を聞いていると胸に安堵が押し寄せる。その声の主が何者なのかもわからないというのに、無性に吸い寄せられるのだった。
 恐る恐る近づいて行くと、木々の隙間からたき火の明かりが見えた。様子を窺ったナディアは戸惑い、思わず足を止める。
 踊るような橙色のたき火の前であぐらをかいているのは、一人の女だった。長い髪を後ろに束ね、分厚い外套を羽織っている。白い髪をしているが、老人ではない。肌の様子から見て三十過ぎくらいだろう。
 ふと、歌が止み、彼女は楽器を膝の上に置いた。

「出てきなさい」

 見つかった。ナディアはビクリと体を震わせた。
 女の声は抑揚のないものだった。脅すわけでもなく、怒っているわけでもない、ただ静かな声だ。それに誘われるように、ナディアはおずおずとたき火の前に進み出た。

「子どもか? こんな夜更けに何用だ」

 ナディアはその問いに答えず、ただ呟いた。

「あなた、目が……?」

 女の目は閉じたまま、開こうとしない。彼女は盲目だったのだ。

「目が見えないのに、何故私がいるとわかったの? どうして子どもだと思うの?」

「問うているのは私だというのに」

 盲目の女が小さく笑う。

「それくらいわかるさ。気配もあるし、お前の足音は軽いから」

 そして、最後にこう言ったのだ。

「目に見えるものが全てではあるまい」

 その言葉を聞いた途端、ナディアの中で何かが音をたてて崩れた。目に見えぬ声を信じてもらえないまま苦しんだ日々が、走馬灯のように心を駆け巡る。

「あぁっ……!」

 彼女は短く叫び、その場にうずくまって泣きわめいた。
 一度火がついたように泣いてしまうと、なかなか止めることができなかった。だが、盲目の女はナディアが泣きやむまで、ずっと黙っていた。
 少し落ち着いてきた頃、女は見計らったように「こちらへおいで」とだけ言った。ナディアは鼻水をすすりながらたき火の傍へ寄り、おずおずと盲目の女から少し離れたところに座った。

「お前の名は?」

「……ナディア」

「そうか」

 彼女は呟き、腰袋から干し肉を取り出した。

「食え。たき火で炙るといい」

 躊躇して手を伸ばせずにいるナディアに、彼女は笑う。

「毒じゃない」

 ナディアは礼をし、そっと干し肉を受け取る。たき火で炙っているうちに脂が沁み出し、いい匂いがし始めた。胃袋を刺激され、唾液がしみ出したとき、初めて自分が空腹だったことに気づく。

「私はセシリアという」

 盲目の女が名乗りながら、水筒をナディアの前に置いた。

「見ての通り、吟遊詩人だ。この楽器を道端で弾いて歌い、金をもらう流れ者だよ」

 彼女の傍には四弦の楽器があった。弓を使わず、爪で弾いて音を出すものらしい。たき火の光を浴びて、艶やかに輝いていた。
 ナディアは彼女の話に返事もせず、干し肉を犬のように貪った。女は「よく噛め」と忠告したが、夢中で頬張るナディアの耳には入らなかった。
 水筒の水を飲んで喉が潤うと同時に、ほっと全身から緊張がほどける。指についた脂まで舐めながら、ふとナディアは違和感に気づいた。
 精霊の声がしない。
 精霊はどこにでもいるはずだ。彼らの声がまったく聞こえないのは珍しいことだった。お喋りで、人の神経を逆撫でするのが好きな月の光の精でさえ押し黙っている。

「あなたは何者?」

 ナディアが訝しげに問う。

「セシリアと名乗ったはずだ」

 盲目の女は笑うが、ナディアは真面目な顔で言った。

「精霊の誰もがあなたを知らないみたい。いいえ、むしろ避けているみたいだわ」

「おかしなことを言う子だ」

 セシリアはその言葉に興味をひかれたようだった。

「話してごらん。お前が何者で、何故ここに来たか」

 ナディアは自分の力のこと、親に捨てられた過去、施設での暮らしぶりを話し始めた。セシリアは相槌も打たず黙って聞いていたが、話が終わると「ふむ」と短く唸った。

「……なるほど。面白い子だ」

 虐げられた人生の何が面白いんだと腹が立ったが、ナディアはぐっと堪える。癇癪を起こすよりも、黙ってこのたき火の傍に座っているほうが賢明だと咄嗟に判断したのだ。

「それで、お前は施設を抜け出してどうするつもりだったんだ? 街に出ても連れ戻されるだろう」

「今度は違うわ」

 ナディアは服の下に隠した袋の重みを感じながら言った。その中身は施設長の金庫から持ち出した金貨だった。それを謝礼にして行商人や旅人の馬車に匿ってもらい、遠くの街に逃げるつもりだった。

「ふむ、何か考えがあったんだね」

 セシリアは深く追求せず、頷いた。

「私は明日の朝一番に隣の都市へ向かう。お前も一緒に来るかい? 娘ということにすれば私の通行手形で都市に入れるはずだ。私の手形は吟遊詩人ギルド発行だから期限はないし、肉親を連れて行けるんだよ」

 ナディアの目に光が射した。
 都市を出入りするには通行手形が必要だ。通常は金で買うものだが、通り抜ける人数と手形の期限で値が違う。手形なしに都市を行き来することは許されていなかった。
 手形を持たないナディアは罪に問われることを覚悟でいたのだが、この申し出は魅力的だった。だが、彼女は咄嗟に身構えた。

「どうして私を助けるの?」

 懐の金貨に気づいたのだろうか? そう危ぶむナディアをよそに、吟遊詩人は涼しい顔をしていた。

「なに、少し働いてくれればいい」

「何をすれば?」

「私は生まれつき盲目だ。慣れてはいるが、ときには苦労もする。私は目の代わりが欲しい」

 ナディアはしばらく考え込んだが、他にいい手立てもなさそうだと短く呟く。

「……わかったわ」

 セシリアを完全に信用できる訳ではないが、なにより、あの施設に戻るのは死んでも御免だった。

 その翌日、陽も昇らぬうちから二人はたき火の後始末をした。

「施設長が深酒をして眠りこけているうちに、この都市を出たほうがいい」

 セシリアはまだ寝ぼけ眼のナディアにそう言った。
 街へ出たセシリアは杖をつきながら、とある路地裏のみすぼらしい家にナディアを連れて行った。

「ここで待て」

 彼女はそう言い残し、家に入って行く。言われるままに扉の前でしゃがんでいると、出て来たセシリアが小さな羊皮紙を差し出した。

「これはお前が私の娘だという証明書だ。街を出入りするときに門番に見せるんだよ」

「こんなところで証明書を発行してくれるの?」

 そう言うと、セシリアは口角をつり上げる。

「どうやって手に入れたかは訊くんじゃない。どこの街にも裏稼業をする奴らがいるもんだ」

 それから分厚い外套と腰袋、小刀、そして丈夫な靴をナディアに買い与えた。

「これくらいの装備がなければ、旅などできまい」

 出発前、広場の噴水で布を濡らし、ナディアの顔を綺麗にしてくれた。頬を拭うとき、思わずナディアが「痛い」と小さく呻く。木の枝で切った傷に触れたのだ。

「木の枝で切ったって? 女の子なんだから顔の傷は残すもんじゃない。薬を塗ってやろう」

 そう言ったセシリアの声は、言葉遣いこそ違うものの、遠い記憶にある母のようだった。まだ自分の力を知る前の、優しかった頃の母の声色だ。

「……セシリア」

 その言葉に『お母様』という響きを乗せて、初めて彼女の名を呼んだ。

「これ、使って」

 ナディアは服の下から重い袋を取り出した。訝しげなセシリアが指で中身を確かめ、ぎょっとした。しかし、すぐに中から数枚の金貨を抜き取ると、残りをナディアに返す。

「これだけ借り受けよう」

 その金でセシリアは二頭の馬と小さな幌馬車を買い、食料を積み込んだ。
 セシリアは厚手の毛布を馬車の奥に畳んで、ナディアにこう告げた。

「お前の居場所はここだ」

 ナディアの顔が綻ぶ。新しい居場所は石畳のような粗末な寝床でもなく、冷たい視線の中でもない、幌で囲まれた温かい毛布の上だ。ずっと、この温もりが欲しかったのだ。

「乗りなさい」

「はい!」

 ナディアがセシリアの手を取って、一緒に馬車に乗り込んだ。

「方向を指示しなさい。私が馬を走らせよう。そのうち、馬の扱いを教えてやるから」

 こうして、二人の生活が始まった。
 彼女たちが都市の門を出たのは、施設長が脱走に気づいた直後のことだった。

 セシリアの生業は至極単純だった。カゴを目の前にして座り、楽器をつま弾きながら各地に伝わる伝承を歌い上げるだけだった。それを聴いた人々は演奏が終わると、カゴに小銭を投げ入れる。
 最初の頃は座って見ていただけのナディアだったが、しばらくすると呼び込みをするようになった。自分も何かしなくてはと子どもながらに感じたのだ。
 優しい風の精霊が「あの通行人の探し物を当ててあげよう」などと面白がるときは、占いをして臨時収入を得た。だが、精霊など気まぐれだ。いつも助言をくれるとは限らない。それに、精霊だって見聞きしてきたものしかわからないのだから。
 いつしかナディアはセシリアの歌に合わせて踊るようになった。一年も経つとすっかり歌を覚え、歌詞にあった動きで踊りをするようになった。
 最初の頃は『可愛い子どもの踊り』と喜ばれたが、次第に『魅惑的な踊り』と評されるようになった。ナディアは美しかったのだ。今まで誰もそう言ってくれる人がいなかったし、おまけにゆっくり鏡を見るような暮らしをしていなかったせいか、彼女自身そのことに気づいていなかったが。

 自由と居場所を得たナディアは、今や施設にいた頃の彼女ではなかった。
 食べ物に困ることがあるのは以前と同じだったが、成長とともにすらりと美しく手足が伸び、青白かった頬に健康的な赤みがさしていた。あの頃は灰色の表情を浮かべて押し黙っていた彼女は、今では声を上げて笑うのだ。金髪に櫛を入れることもセシリアが教えてくれた。自分の矢車菊の色をした瞳が美しいのだと知ったのは、観客が褒めてくれたからだった。

 幼かった少女は十四歳を迎えていた。
 セシリアはぶっきらぼうではあったが、ナディアの面倒をよくみた。それが自分の目の代わりだったからか、それとも家族のような情があったからかは定かではない。だが、ナディアには確かに嬉しかった。
 彼女は初めて、生きていることに感謝しつつあったのだ。セシリアとの出逢いと生活に、心から幸せを感じていた。
 だが、始まりがあるものには必ず終わりがあることを、そのときの彼女は知らなかった。
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