精霊綺譚

深水千世

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精霊の吟遊詩人

声を聞く少女

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 ナディアは孤独な少女だった。

「なんて薄気味悪い。盗み聞きが趣味なのよ」

「こっちを見ないで! お前なんか私の娘じゃない!」

 彼女の母親は容赦ない言葉を浴びせて娘を疎ましがった。父親は何も言わず、氷のような目つきで見下すだけだった。
 ナディアが八歳になると、とうとう両親は幼い彼女を施設へ送り出した。そこは親を失った子が行き着くところだった。

「私は……捨てられたんだ」

 施設の門で立ち尽くす彼女は、自分を乗せてきた馬車が小さくなるのを見送りながら、きつく唇を噛んでいた。そこに両親は乗っていなかった。屋敷の使用人がナディアを施設に送り届け、両親は最後の別れすら拒んだのだった。
 涙など、とうに枯れたはずだと思っていた。それでも頬を一筋の涙がつたう。その小さな胸に悲しみはなかった。むしろ罵倒と冷遇から解き放たれると思うと、ほっとしてもいた。
 だが、同時に言い知れぬ虚無と絶望を知ったのだ。
 彼女はもう一度だけでも母の胸に抱かれ、口づけされることを心のどこかで願い、父の膝に乗って頬を寄せ合うことを夢見ていた。少女の涙は、その希望の亡骸だった。

 施設にやってきたナディアを待っていたのは、施設長という肩書きの男だった。年は四十を過ぎた頃だが、脂ぎった顔と薄い頭髪をし、みみずのような血色の悪い唇だった。猫背とだらしなく突き出た腹のせいで、老けて見える。高級そうな生地の服で身を包んでいたが、趣味がいいとは言えなかった。
 施設長は自分の机に座り、部屋に連れてこられたナディアを一瞥した。まるで汚らしいものを見るような目つきで、少なくとも人に向けるべき視線ではなかった。

「お前がナディアか」

 その声は父親のものより冷たく、そしてしゃがれていた。普通の少女なら怯えるであろう冷酷な空気をまとっていたが、ナディアは動じることはなかった。

「はい」

 無表情な声で返事する。気に入られようと笑顔を作れば作るほど疎まれることを、彼女はとっくに知っていたのだ。それを教えてくれたのは、他ならぬ実の母と過ごした年月だった。

「ふん、可愛げのない」

 施設長は太った体に似合わない小さな足を机の上に投げ出し、頭のてっぺんからつま先までナディアに視線を走らせた。彼に見つめられると、まるで肌の上をなめくじが這いずり回っているような錯覚がした。

「お前の両親からあれだけの謝礼をもらわなきゃ、お前のような辛気くさい小娘なんぞ無駄に増やしたくないところだ」

 少女は何も言わず俯いた。これからの生活は今までとはまた違う地獄になるだろうという予感が、小さな胸に重くのしかかっていた。

 彼女にあてがわれた部屋は六人部屋だった。日当りの悪い北向きの部屋で、相部屋の子どもたちは誰もが、不健康そうな痩せぎすだった。
 彼女が施設に着いた初日の夜から、奇妙な出来事が起こった。布団の中でうずくまっていたナディアが突然叫び出したのだ。

「うるさい! 黙れ!」

 相部屋の子どもたちは、はじめのうちは両親から浴びせられた罵声を思い出したのだろうと考えた。この部屋には、そんな体験をしたことのある子どもも少なくなかった。
 だが、ナディアの叫びは毎夜続く。

「お前たちのせいだ! お前たちがうるさいせいで!」

 相部屋の子どもたちは次第に怖くなった。彼女は『お前たち』と言うが、誰のことか見当もつかなかった。第一、誰もが黙って寝床で横になっているというのに、何がうるさいのかわからない。
 朝になってナディアを問いつめても、彼女は気まずそうに俯くばかりで何も言わなかった。
 相部屋の子どもたちは施設長へ毎日のように訴え続けた。

「気味が悪いんです。あの子を別の部屋に追いやってください」

「駄目だ。これ以上部屋はないんだ」

 そう言って疎ましげに施設長があしらう。だが、それでも子どもたちの訴えは続いた。施設長を恐れる子どもたちが何度も直訴するなど、今までに例がないことだった。

「あのナディアという小娘、一体なんなんだ」

 ある夜、施設長は部屋で葡萄酒を片手に呟く。彼の心にはナディアの母親が残した言葉がひっかかっていた。

「何故、子を手放す?」

 彼は子どもを手放す親にいつも、そう訊ねる。返ってくる答えは『金がない』だの『再婚した相手と折り合いが悪い』だの様々だ。そして彼らは、僅かばかりの金で子どもに関する一切の権利を施設に売り渡すのだ。
 だが、ナディアの母親は違った。金を受け取るどころか謝礼金まで携えてどうしてもナディアを引き取ってくれと懇願したのだ。
 彼女は施設長のいつもの質問に、こう答えた。

「あの子が不気味で仕方ないのですよ。何も聞こえないのに耳をすませたり、一人で誰かと会話しているようなのです。そして、誰も知らないようなことまで言い当ててしまうのです」

 確かにナディアは風変わりだった。子どもたちがおしゃべりをしていても、その輪に入ろうとしない。部屋の隅にひっそりと佇み、どこか遠くを見ているのだ。その姿はまるで耳をすませて何かを聞いているようだった。
 最初は子どもたちの会話を遠巻きに聞いているのだろうと思っていたが、施設長には母親の言葉がどうにも気になった。

「誰も知らないようなことを言い当てる? そんなことがあるものだろうか」

 思わず、そう独り言を漏らす。うさんくさい話だとは思ったが、あの相部屋の子どもたちの様子が解せない。
 彼は手にしていた葡萄酒を置き、部屋を出た。
 その夜は満月だった。施設長は灯りを手に階段を昇り、軋む廊下をゆく。北側の一番端にナディアの部屋があった。
 その扉の前に施設長が立った途端、中から怒鳴り声が聞こえた。

「どうしてお前たちは黙っていられないの?」

 ナディアの声だ。寝言ではないようで、しきりに一人で誰かを罵倒している。
 その不気味さに施設長が思わず眉をひそめる。だが、次の言葉で彼の心臓がまるで鷲づかみにされたようにぎくりとした。

「施設長が来てるですって? だったらどうしたの? また捨てられる? どうせ私は金貨五百枚出してでも施設に押しつけられるような子なのよ」

 このときほど薄気味悪い思いをしたことがないと、施設長はのちに語ることになる。
 自分が部屋の前に立っていたことを当てられただけではない。彼女の両親から子どもを引き受ける謝礼として受け取った額を、ぴったりナディアに言い当てられたのだ。恐怖と嫌悪がみるみるうちに施設長の醜い唇を歪ませた。

 翌日、ナディアは一人部屋に移された。
 蜘蛛の巣と埃だらけの屋根裏部屋が、新しい居場所だった。さらに、他の子どもたちには課せられないような重労働を強いられた。

「お前のような気味の悪い子どもがいると知れたら、この施設の評判ががた落ちだ。お前はもう施設の子どもじゃない。使用人として生きろ」

 施設長がナディアに言い渡す。だが、同情するような子どもは誰一人としていなかった。彼女は既に、子どもたちの間からも疎まれていたのである。
 他の子どもたちも掃除や洗濯などの仕事をさせられていたが、その夜以来ナディアの仕事は急激に増えた。
 施設長は確実にナディアを差別し始めた。もちろん、他の子どもたちにも優しいことなどなかったが、とりわけナディアには忌み嫌う態度を隠さずに辛くあたった。
 ナディアの奇妙な行動は止まなかったのだ。誰も知らないことを言い当てたり、ときにはこれから起こることを予言したこともあった。

「あぁ、そう。明日は嵐なのね」

 彼女が誰に言うでもなく呟くと、必ず嵐が来た。

「彼のなくした本は戸棚の下にあるの? あぁ、あの意地悪な子が隠したの」

 そう言うと、子どもの一人がなくした本が戸棚の下から出てきた。
 子どもたちはまるで物の怪を見るような目でナディアを見た。なにより不気味だったのは、ナディアの言葉がただの独り言ではなかったことだった。いつも一人でいるというのに、誰かと話しているような口ぶりなのだ。

「ほらよ、ナディア! お前の仕事だ!」

 そばかすだらけの男の子が、ナディアに馬糞まみれの靴を投げつけた。

「くっせぇな! 明日までに洗っておけよ!」

 どっと周囲の子どもたちが笑い出す。
 ナディアは地面に落ちた靴を睨めつけた。それは他でもない、彼女の靴だった。悔しさのあまり、痛いほど唇を噛みしめる。
 施設長のナディアへの態度に気づいた途端、子どもたちまでもが、こうしてナディアに辛く当たるようになっていた。
 靴を洗っていると、突然空から水が降ってきた。
 びしょ濡れになった彼女は冷たさと臭気に顔をしかめた。花瓶の濁った水の臭いが鼻をつき、足元には枯れた花が散った。子どもたちの笑い声が響く二階の窓を咄嗟に睨む。

「おっかねぇ! 化け物ナディアに呪われる!」

 男の子が窓から身を乗り出してふざけると、そばで女の子の笑い声がした。子どもたちはある意味では施設長より残酷だった。
 ナディアは拳を握りしめる。髪を伝う水が涙を隠してくれた。

「どうして?」

 ナディアが人知れず呟く。

「どうしてみんなには聞こえないんだろう」

 ナディアは倒れ込むように屋根裏部屋に戻る日々を送った。朝から晩まで仕事の山だったが、守銭奴の施設長から給金など出るはずもなかった。
 執拗に浴びせられる施設長の罵声と、子どもたちからのいじめに心は冷え切っていた。口に出来る物は子どもたちの食事の残りだけで、それすらもない日だってある。
 石のように堅い、薄い寝床に横たわると、ひびの入った窓から眩しいほどの月明かりが差し込んでいた。
 ふと、彼女の耳に細い声が飛び込んできた。

「あらあら、ずいぶんとお疲れね。あの男の子が投げつけてきた林檎の芯でも食べればよかったのに」

 そう言い終わらないうちに、複数の鈴を鳴らすような笑い声が響き渡る。
 ナディアがそれを遮るように、叫んだ。

「うるさい! お前たちは私を見て楽しいのか?」

 すると、どこからともなく聞こえる声があざ笑う。

「あなたがどこまでやるか見物よ」

「消えろ、野次馬な月光め」

 憎々しげにナディアが言うと、不思議な声が悲鳴を上げた。

「あぁ! あなたがそんなことを言うから!」

 月が黒い雲に隠れ、すっと部屋が暗くなった。深いため息を漏らし、彼女は顔に手を当てた。

「これが夢ならいいのに」

 ナディアには不思議な力があった。彼女は姿のない声を聞くことができるのだ。それは、たった今消えた月の光の精のような者……そう、万物に宿る精霊の声だった。

 その力が自分だけのものだと気づいたときが、母親の心がナディアから離れたときだった。
 最初は知らず知らず、数多くの声を聞いていた。彼らは自分たちを精霊だと名乗った。ある者は風の精であり、またある者は光の精だと。
 ナディアが四歳のある日、母親にこう言ったのだ。

「お母様、もうすぐお父様ね、帰って来るよ。お馬さんが道の端っこに落ちて遅くなったんだって。精霊さんがね、教えてくれたよ」

「精霊なんているわけがないじゃないの。あなたは誰と喋っているの?」

 母親は怪訝そうな顔で娘を見た。ナディアは母親と二人きりでずっと部屋にいたのである。
 父親が帰宅するなり、げんなりした声を上げた。

「ひどい目にあったよ。馬車が大通りの溝に落ちてね。ずいぶん手間取ってしまった」

 そのとき、母親は小さな悲鳴とともに、持っていた刺繍を床に落としたのである。その日から、二人の態度は次第に、施設長や施設の子どもたちのようなものに変わっていった。

 気の強い子どもたちから向けられる陰湿な仕打ちは、一向に止まなかった。ナディアは屈辱に歯を食いしばる日々を過ごす。
 おとなしい者は哀れみを浮かべた目をしていたが、助けようともせず遠巻きに見ているだけだった。ナディアにはその同情に満ちた目すら敵意の対象だった。助けてくれなければ、同じことだった。ナディアには誰一人として、味方などいなかった。

 ところが、ある日の夜、ぐったりと屋根裏部屋で横たわるナディアの元に、一人の少年が訪れてきた。

「ごめんね、ナディア」

 黒髪に青空のような瞳の少年が懐から一つの小さなスモモを取り出した。
 それが夕食の残りと気づき、ナディアは警戒しながらも差し出されたスモモを受け取る。

「食べて。今日はご飯なかったでしょ?」

 怪しむように彼を見やったが、すぐにナディアは夢中でスモモを貪った。甘酸っぱい果汁が頬を締め付けるようだった。それを見ていた少年が呟く。

「それじゃ、僕は行くよ。もう戻らなきゃ」

「待って! あんた、どうしてこんなことを?」

 この少年はリンという名だった。遠巻きに見ていた子どもたちの中の一人だ。
 彼は扉に向かっていたが、振り返ってこう言った。

「僕もナディアと同じだったから」

 毎日ではなかったが、リンは夕食を隠し持ってくるようになった。最初は訝しがっていたナディアも、この少年の来訪を心待ちにするようになった。
 だが彼は、ナディアへの仕打ちを真っ向からかばうことはせず、黙って見ていることしかできなかった。

「ごめん。でも、怖いんだ」

 ナディアが黙って頷いた。もし、こうしてナディアを助けていることがわかれば、彼もいじめられるのだろう。

「あんた、そこまでしなくてもいいのに」

 膝を抱いたままナディアが言うと、彼は呟いた。

「僕、母さんの連れ子だったんだ。新しい父さんと馴染めなくて、ナディアみたいな目にあってたんだ。だから、ここに来た」

 リンは手に持っていたパンの欠片をそっと置いて、背を向けた。

「本当は助けたいんだよ。でも、ごめん。僕には勇気がないんだ」

「そんなことないよ」

 ナディアがリンを横目で見ながら囁くように言った。

「ここに来てくれるだけで、充分」

 そう、充分にナディアの救いだった。
 リンは何も言わずに去って行く。足音が遠ざかるのを聞きながら、ナディアは膝に顔を埋めた。

「……充分だよ」

 涙が温かった。

 ある朝のことだ。子どもたちの輪にいるリンを見て、ナディアは目を見開いた。リンの唇が切れていたのだ。
 誰かに殴られた跡だと咄嗟に気づき、ナディアは胸が痛んだ。施設長に知れてしまったのだろうと察し、彼女の拳は知らず知らずのうちに固く握られていた。
 ナディアはその夜に現れたリンにこう言い放つ。

「もう来なくていいよ、リン」

「どうして?」

 リンがぎくりとしてナディアを見た。まだ赤い口の端が痛々しい。

「その口の傷、施設長にぶたれた跡でしょう?」

 リンはおどおどした目で俯いた。

「あんたまで使用人になりたいの?」

 リンは黙ったまま、手にしていた林檎を置いて出て行く。
 ナディアの視界が滲み、毛布を口に当てて嗚咽を押し殺した。本当はほんの少しでもいいから会っていたかった。人として接してくれるのはリンだけだったのだから。

 別れは突然やってきた。
 それから三日間、リンは屋根裏部屋に現れなかった。そして四日目の朝、一組の老夫婦が彼の里親として現れた。
 施設長は両手をすり合せ、老夫婦に媚びへつらいながらリンを紹介していた。子どもたちは羨望と嫉妬の眼差しをリンに送っている。誰もが、こうして里親に迎えられて施設から抜け出すことを夢見ているのだから。
 リンは気まずそうに辺りを見ていたが、ふとナディアと目が合った。彼はその青空のような瞳をナディアから逸らすことができずにいるようだった。
 すると、老婦人がこう言ったのだ。

「リン、あの子はお前の友達かい? 一緒に連れて行こうか?」

 ナディアの顔にさっと期待の光がよぎる。だが、施設長が「とんでもない」と大声を上げた。

「こちらはうちの使用人ですから、ご勘弁ください。リン君ならきっと、あなた方のご希望通りの子ですよ」

 そしてナディアを振り返り、老夫婦には見えないように口の端をつり上げた。

「……なにせ、使用人にも分け隔てなく優しい子ですから」

 ナディアは俯く。施設長はナディアから遠ざけるために急いでリンの里親を探したのだろう。リンもそれを察したのか、気まずそうに足元を見つめるだけだった。

「さぁ、それでは行こう」

 老夫婦に促されるまま、リンは馬車に乗り込んだ。彼が振り返ることはなかった。ナディアは遠ざかる馬車を見つめ、唇を噛んだ。それは束の間の初恋があっけなく終わったときだった。
 そして誓う。いつか、ここからリンのように出て行くんだと。
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