三つの色の恋愛譚

深水千世

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第三部 琥珀色の明日

第5話 澪つくしのままに

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 日曜日、俺は朝早くから部屋でバーテンダーの服に身を包んでいた。親父が貸してくれたのは、彼の予備だった。

「返すのはいつでもいいよ」と、親父は本当に何も訊かずに、蝶ネクタイやサロンまで貸してくれたっけ。さすがにサロンを着けはしなかったけど、俺は白いワイシャツと黒いベストとパンツを身につけた。服に着られているようでしっくりこないが、仕方ない。
 鞄に蝶ネクタイをねじこみ、玄関を出る。向かった先はもちろん、凛々子さんの家だった。まだ冷えた朝の空気が身も心も引き締めてくれる。歩くスピードが加速していく。革靴の音がスタッカートを刻んだ。彼女はどんな顔をするだろう。そう思うと、俺は知らず知らずのうちに拳を握りしめていた。

 大地君と千里さんはもう仕事に行っていた。出迎えてくれた文音が目を丸くする。

「凛、どうしたの、その格好」

「変かな?」

 ぎこちなく笑う。さすがに板についてるとは自分でも思えないからね。だが、文音はふっと目を細めて微笑んでくれた。

「とっても似合ってる。かっこいいよ」

「ありがとう。これでスフィンクスなんて呼び名をつけた罪はチャラにしてやる」

「炯人に聞いたのね?」

 無邪気に笑う彼女が、家の中に促しながら言う。

「だって、澪ってじっと石みたいに黙って待ってるだけなんだもの」

 ちょっとドキリとした。文音は何故俺があの問答を繰り返すか知らないはずだけど。そんな俺を見て、彼女は少し口の端をつり上げた。

「何を待ってるか知らないけど、そんなことしてたらあっという間にお爺ちゃんになっちゃうんだから」

「だとしても、いいよ」

 俺は心の底から呟いた。

「俺が欲しい答えをくれないなら、それでもいい」

 文音は肩をすくめて見せる。

「今日こそは勉強教えてね。数学嫌いはひいばあちゃんに似たのよ」

 思わず笑い、俺は凛々子さんの部屋に向かった。扉を開けると、彼女はベッドの上でぼうっとしていた。こういうとき、いつもギクリとする。彼女の心がどこか俺の手の届かないところへ行きかけてる気がして。

「凛々子さん」

 俺がおずおずと呼ぶと、彼女はゆっくりと俺を見た。その目がハッと見開かれる。彼女の乾いた唇が、こう呟いた。

「......蓮さん?」

 俺のひいじいちゃんの名前だ。

「凛々子さん、俺だよ」

 俺はゆっくり歩み寄り、ベッドの脇にある椅子に腰掛けた。彼女の膝の上にある手をそっと握りながら。

「澪だよ」

「......あぁ、あぁ」

 みるみるうちに、彼女の瞳に涙が溢れた。深い皺の間を、涙が伝う。まるで渓谷を削る小川のように。

「澪なのかい?」

「うん。俺だよ」

「その格好はどうしたの」

「凛々子さん。俺はね、バーテンダーになるんだよ」

 凛々子さんは、感極まったように何度も頷いた。声にならない声で「そうか、そうか」と繰り返すようだった。俺は目を細めて、なるべくゆっくり話しかける。

「俺ね、本当はこうなりたかったんだ。だけど、このまま安易にレールに乗っていいのかなって意地になってた。だけどね、昨日琥珀亭で親父たちがお客さんと過ごしてるのを見てさ。俺はああいう姿に憧れたんだって思い出した。それに、凛々子さんの席を見てね、本当に思うんだよ。あの席が寂しそうだって。俺は、凛々子さんに美味しいお酒を飲ませたいって願ってた。それで凛々子さんが笑顔になってくれれば嬉しいのにって。またあの席に座ってくれるなら、俺は何でもする」

 彼女は俺の話を聞きながら、もう片方の手を俺のそれに重ねた。何度も撫でる手が、俺に「良い子だね」って言ってる。昔、よくそう言ってくれたように。

「俺、素直になってみるよ。だからさ、凛々子さん。カウンターに立つ俺を見てよ。それまで元気でいてよ」

 凛々子さんの口から嗚咽が漏れた。彼女がいつ逝くかわからないから言ったんじゃない。俺はこの澪つくしに従おうって決めたんだ。大事な大事な澪つくしに。

 だってさ、彼女は嘘をついたことがないんだ。彼女が俺のバーテンダー姿を思い描けるなら、俺のトンネルの先にもその姿があるはずさ。

 俺は自分で決めたんだ。そのレールを走ることを。他の誰でもない、自分自身でレールに乗ることを決めた。簡単な話だったんだよな。

 凛々子さんは泣き止んだ後、ぽつりとこう言った。

「澪や、お願いがあるんだけどね」

「うん?」

「スモーキーとピーティーの写真を、くれないかい?」

 それはお袋が飼っていた黒猫と白猫の名前だった。なんでも親父と知り合う前に拾ってきたらしく、琥珀亭のあるビルを自由に駆け回っていたっけ。残念ながら大分前に、二匹とも大往生で死んでしまった。その後は、ピーティーの忘れ形見とスモーキーの忘れ形見がそれぞれ住んでいた。でも、今ではもうスモーキーの孫にあたる猫が一匹いるだけだ。

「わかったよ」

「頼んだよ」

 凛々子さんは糸のように目を細めていた。明日にでも写真を持ってくる約束をして部屋を出ると、文音が待ち構えていた。

「凛、今日こそお願い。勉強、教えてよ」

「わかったよ。教材を持っておいで」

 俺は文音の頭をくしゃっと鷲掴みにしてやった。

「もう、すぐ子ども扱いするんだから」

 唇を尖らせるが、彼女はすぐに俺を気遣うような目になった。

「ねぇ、澪。大丈夫?」

「うん? 何が?」

「なんだか......泣きそうな顔してるよ」

 俺はふっと眉を下げた。昔から何故か文音は俺のことを見透かしてしまう。

「大丈夫だよ。ほら、おいで」

「うん」

 文音がほっとした顔になって、参考書を取りに部屋へ走って行った。俺はリビングのソファに腰を下ろし、軽くため息を漏らす。いついなくなるかも知れない大事な人と会った後は、いつもこうだ。言いようのない不安を隠して、笑顔を見せることがこんなに辛いなんて、今まで知らなかった。時々、俺は声を上げて泣きたい気持ちになる。行かないでよ。そう叫びたい気持ちになる。だけど、あまりに子どもじゃないか。俺は男だし、凛々子さんには強がっていたいんだよ。

 そのせいか、文音に「泣きそうな顔をしてる」と言われたとき、ちょっと驚いたんだ。どうして、文音にはわかっちまうんだろうな?

 俺は彼女の勉強を見て、家に戻った。真っ先に部屋でバーテンダーの服を脱ぎ、親父に返す。

「ありがとな」

「もう用は済んだのか?」

「あぁ」

 すると、親父は俺の顔を見つめ、ふっと笑った。

「......うん、良い顔になった」

 俺がきょとんとしている間に、親父は背を向けてしまった。......俺ってなんでも顔に出るのかな? 思わずそう思ってしまった。
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