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第一部 緋色の瞬間
第3話 心に眠るひと
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うまくやっていけるだろうか。『エル ドミンゴ』で働き始めてすぐ、そんな不安が吹っ飛んだ。
本当にあの店の皆は仲がいい。私も大事にされているのがすぐ伝わった。
ただ、仕事はキツかった。もう、パニックを起こしそう。常に店内は大賑わいでせわしない。メニューも値段もカクテルも覚えなきゃならない。
「うちは簡単なカクテルしかないけど」
暁さんは私につきっきりでカクテルを教え込んでいる。
「こうしてライムを搾ってグラスに入れる。そんで、うちで使うジンはタンカレーなんだけど冷凍庫にあるから」
耳元で響く声になんだか体中の神経が耳に集合した気分だ。
そのとき、テーブル席からこんな声が聞こえた。
「ねぇ、あの子......誰? 新人?」
「暁目当てじゃないの?」
ふと見ると、若い女の子二人がこちらを刺々しい目で見ている。......暁さんってモテるんだなぁ。
「志帆ちゃん、俺が持って行こうか?」
彼女たちのオーダーであるジン・トニックを目で指し示し、暁さんが苦笑する。どうやら、さっきの会話は暁さんにも聞こえていたらしい。
「彼女たち、常連さんですか?」
「ん? そう。女子大生だったかな。確か真奈美さんと香奈さん」
「......暁さん、一つ答えてください」
「なに?」
「世の女性は皆、優しくて素敵ですよね」
「へ?」
「ね?」
「......うん」
きょとんとする暁さんに私はニッと笑って、ジン・トニックを手にした。先ほどから嫉妬まみれの視線を発しているテーブルに向かう。
「お待たせ致しました。ジン・トニックでございます」
値踏みするような視線に、私はにっこり答える。
「真奈美さんと香奈さんですよね? 暁さんからとっても優しくて素敵な方々だって伺ってて、お会いするのを楽しみにしてたんです。よろしくお願いします」
呆気にとられる彼女たちは、すぐに「暁が?」とまんざらでもない顔になった。
「......そう。慣れるまで大変だけど、頑張ってね」
「はい。ありがとうございます!」
カウンターに戻ると、暁さんが笑いを堪えている。
「俺、やっぱりとんでもない子をスカウトしちゃったな」
私はにんまりした。暁さんといると、こんなズルい自分まで好きになれそうな気がして。
しばらくの間はぐったりする毎日が続いた。家に帰って、やっとお風呂に入って死んだように眠る日々。キスだの笑顔だの考えている余裕が全くなかった。
でも、それが幸いした。信吾はあのメールの後、何度か私に『話がある』って視線を送ってた。だけど、私は忙しさをもってそれを避けたんだ。
確かにレンタルショップに行くと落ち着いた。慣れた古巣って感じでさ。信吾とも普段はいつも通り、居心地のいい友人の会話ができた。
だけど、ふとしたときに感じる視線は心苦しい。私を女として見る目を感じるたびに、なんだか辛かった。
だって、もう暁さんを知ってしまったから。店に行って、あの広い背中を見るたびに胸が躍った。私がカクテルを作るのを見ていると思うと、手が震える。信吾を好きだったとき、こんな風に胸が苦しくなったり、意識しなかった。
そう思ったとき、気づいたんだ。私は穏やかな信吾との居心地の良さに浸かっていたかっただけ。
もしかしたら。もっと早く信吾が気持ちに気づいていたら、私たちは付き合っていたと思う。それはそれで、お互いに安らげる関係になっていた気がした。
......でも、もう遅かった。暁さんと一緒にいればいるほど、心が染まっていったから。
そんなある日、先輩の吉田さんと駐車場まで一緒に帰ることがあった。
「今日は疲れたね」なんて世間話をしていたのに、不意に吉田さんがニヤニヤした顔になる。
「ねぇ、志帆ちゃんって暁さんのこと好きでしょ」
「はい?」
不意打ちされて、顔が赤くなってしまった。
「いや、好きというか、あの......やっぱりわかっちゃいましたか?」
吉田さんが「あはは」と声に出して笑った。
「大丈夫だよ。皆は気づいてないから。ほら、俺はカウンターを行き来すること多いからさ。なんとなく、そうかなって」
「......はい。すみません」
隠してたつもりなんだけどなぁ。恥ずかしくて、思わず下を向いてしまった。
「なんで謝るの? いいじゃん。そろそろ暁さんにも明るい話題があってもいいと思うし」
「そろそろって......暁さんって独身主義ですか?」
すると吉田さんが「まさか」と笑う。
「彼女いたときもあるけど、長続きしなかったみたいだよ。ここんとこずっと独り身だね」
それはなんとなく気づいてた。携帯電話が鳴っても甘い声で出ることもないし、店が終わっても足早にどこかに消える訳でもないから。
「だけど、暁さんってずっと忘れられない人がいるんだよね」
体中の神経が凍り付いた気がした。吉田さんがすまなさそうに私を見る。
「ごめんね。早めに知っておいたほうがいいかと思ったんだ。酷なようだけど、俺なりの優しさだから。知りたくないなら、もう話さないけど」
「......そこまで口にしたなら、最後まで教えてください」
初めて、吉田さんを睨むように見た。彼は肩をすくめて「O.K.」とジェスチャーする。
「琥珀亭って知ってる? 暁さんが昔修行してたバーなんだけどさ。そこのオーナーの真輝さんって人を高校時代から好きだったんだって」
「なんで吉田さんが知ってるんですか?」
「一度だけ、ぐでんぐでんの暁さんが話してくれた。あの頃、真輝さんが再婚したばかりだったから荒れてたんじゃないかな」
「再婚? 結婚じゃなくて?」
「そう。いろいろあったみたいで、今は年下の人と再婚してるよ」
彼はにやりと口の端をつり上げる。
「だから、望みあるんじゃない?」
「......逆だと思いますけど」
視界が真っ暗になった気がした。高校時代から好きで、再婚しても忘れられないってことは、最初の結婚のときも忘れられず、再婚してもなお好きな訳でしょ。それって、心底好きってことじゃない。
その後、吉田さんが琥珀亭の場所を教えてくれた。真輝さんの旦那さんが、うちの常連だってことも。だけど、詳しいことは右から左にすり抜けて行った。女に不自由してないことよりも、遥かに厄介だ。思ってたより、ハードルの高い恋を背負い込んだんだなぁ。
歩くたび、足に鉛をつけたように感じてた。胸が痛い。私の心は胸にあるんだなってぼんやり思った。
その話を聞いてから、二つ気づいたことがある。一つは暁さんの女を見る目つきだ。彼が話し込む女性客には、皆どこか共通点があった。おっとりしているようで、芯の強い人。儚げに微笑む人。そういう女性客を彼は気に入っていた。だけど、その目が切ない光を宿している。彼はその目に女を映すとき、その向こうに『真輝さん』をかざすんだって気づいた。
それ以来、暁さんと目が合うのが怖くなった。
だって、自分の向こうに彼女を想い描かれて、比べられてるなんて思ったら、居ても立ってもいられないじゃない。......惨めじゃない。
そしてもう一つ。私は自分が思ってるよりヤキモチやきってこと。気が狂うと何度思っただろう。まだ見た事もない知らない女性なのに。
......いや、逆だよね。知らないから、怖かった。頭の中で暁さんの理想の女性が生まれていく。わからないからこそ、想像しちゃうんだ。
店の女性客と話してるのを見てヤキモチやかないなんて嘘になる。だけど、もっと辛いのは......そう、あの切ない光の目を見たとき。その奥にある彼女の影に、私は嫉妬した。
こんな自分なんて嫌い。らしくない。そう思い始めたときだった。私は尊さんに出逢ったんだ。
あれは私が『エル ドミンゴ』で働き始めて半年くらい経った頃だった。確か、日曜日だったと思う。私が出勤すると、吉田さんが手招きをしてる。
「どうしたんですか?」
きょとんとすると、彼がそっとカウンターに目配せした。
「ほら、例の人が来てるよ」
「例の人?」
「真輝さんの旦那さん。尊さんだよ」
吉田さんの視線の先では、既にカウンターに入っている暁さんが、男の人と親しげに会話していた。
「いつもは開店時間にご飯を食べに来てすぐ帰っちゃうから、志帆ちゃんのシフトだと会えなかったでしょ? だけど、今日はゆっくりしてるみたいだね」
尊さんは女みたいに綺麗な顔をした優しい面持ちの人だった。伸びた髪をワックスで無造作に散らしてるけど、清潔感がある。
真輝さんは、この人を選んだんだ。......暁さんではなく。
戸惑いと好奇心が私を襲っていた。この人にあって、暁さんになかったものってなんだろう?
そう思ったとき、尊さんが私に気づいて目が合った。彼が暁さんに何か言うのが見え、振り向いた暁さんが私を手招きする。
「ほら、お呼びだ」
私の背中を押す吉田さんが「面白そう」って顔をしてた。軽く睨んで、私は営業スマイルでカウンターへ歩み寄る。
「いらっしゃいませ」
「君が志帆ちゃん?」
「はい。よろしくお願いします」
暁さんが彼を紹介してくれた。
「こいつは尊。琥珀亭のマスターだよ」
そう言って、尊さんに白い歯を見せる。
「尊、この子なかなか筋がいいんだぞ」
顔が赤らんだのは、褒められたからか、暁さんの手が肩に置かれたからか......。尊さんはにこやかに微笑んでいた。ちょっと信吾の笑顔に似ている。
「よろしくね。暁さんの弟子ってことは琥珀亭の孫弟子だね。俺と同じだ」
「孫弟子?」
思わず問い返す私に、彼はそっと頷く。
「俺は真輝の弟子だから。志帆ちゃんは妹分かな」
「尊、お前、早くも兄貴面か」
からかうような暁さんに、尊さんが眉を下げた。
「暁さんだって、俺と初めて会ったときそうだったじゃないですか」
あまりに気心知れたやりとりに、私は呆気にとられた。尊さんって、暁さんがずっと好きだった人と結婚したんだよね? 思わず、自分で自分に再確認する。
この二人には一切のわだかまりがないようだった。いや、もしかしたらお互い胸に秘めているだけかもしれないけど。
尊さんは不思議な人だった。なんていうのかな。寒い夜に温かい湯船に沈まったときに似た気持ちになる。周囲にいる人を包み込んでしまうような、そんな温かい人だった。
だけど、何故かドキリとさせるんだよね。彼がまっすぐ射るように目を見て話すからかな。暁さんは子どもみたいにやんちゃだけど、尊さんはどちらかというと父性を持っていた。そう、暁さんが太陽なら、彼は月みたいな。
「尊、今日は店に出ないの?」
「はい。最近、日曜は真輝と交代で休んでるんですよ。この曜日は暇なもんで」
「琥珀亭が暇だなんて言ったら、死んだ師匠が化けて出るぞ」
「構いませんよ。ついでにご挨拶できますから」
......結構、減らず口。私は思わずくすっと笑う。尊さんが私に穏やかに微笑んで、こう言った。
「志帆ちゃん、良かったら今度、琥珀亭に来てよ」
「え?」
ドキリとする。琥珀亭に行くということは、つまり真輝さんに会うってことだから。
「そうしとけ。勉強になるぞ」
何も知らない暁さんが恨めしい気がした。
「わかりました。是非、お伺いさせていただきます」
半ばヤケクソだ。見てやろうじゃないの。暁さんが忘れられないって人を。
尊さんが名刺を取り出して、暁さんにペンをねだる。胸ポケットから取り出されたペンで、彼は名刺の裏に携帯番号を書いた。
「道がわからなかったら、電話してね。迎えに行くから」
受け取った真っ白い名刺には、彼の名前と店舗情報があった。私はじっとそれを見つめる。心のどこかで『早い方がいいと思って』という吉田さんの言葉が渦巻いていた。どうせ叶わぬ恋なら、早いうちがいいのかな。真輝さんがどんな人か知れば、諦める気にもなるかもしれない。嫉妬も消えるかもしれない。我ながら、自虐的だと思うけど。
いつから私、こんなに弱気になったんだろう?
本当にあの店の皆は仲がいい。私も大事にされているのがすぐ伝わった。
ただ、仕事はキツかった。もう、パニックを起こしそう。常に店内は大賑わいでせわしない。メニューも値段もカクテルも覚えなきゃならない。
「うちは簡単なカクテルしかないけど」
暁さんは私につきっきりでカクテルを教え込んでいる。
「こうしてライムを搾ってグラスに入れる。そんで、うちで使うジンはタンカレーなんだけど冷凍庫にあるから」
耳元で響く声になんだか体中の神経が耳に集合した気分だ。
そのとき、テーブル席からこんな声が聞こえた。
「ねぇ、あの子......誰? 新人?」
「暁目当てじゃないの?」
ふと見ると、若い女の子二人がこちらを刺々しい目で見ている。......暁さんってモテるんだなぁ。
「志帆ちゃん、俺が持って行こうか?」
彼女たちのオーダーであるジン・トニックを目で指し示し、暁さんが苦笑する。どうやら、さっきの会話は暁さんにも聞こえていたらしい。
「彼女たち、常連さんですか?」
「ん? そう。女子大生だったかな。確か真奈美さんと香奈さん」
「......暁さん、一つ答えてください」
「なに?」
「世の女性は皆、優しくて素敵ですよね」
「へ?」
「ね?」
「......うん」
きょとんとする暁さんに私はニッと笑って、ジン・トニックを手にした。先ほどから嫉妬まみれの視線を発しているテーブルに向かう。
「お待たせ致しました。ジン・トニックでございます」
値踏みするような視線に、私はにっこり答える。
「真奈美さんと香奈さんですよね? 暁さんからとっても優しくて素敵な方々だって伺ってて、お会いするのを楽しみにしてたんです。よろしくお願いします」
呆気にとられる彼女たちは、すぐに「暁が?」とまんざらでもない顔になった。
「......そう。慣れるまで大変だけど、頑張ってね」
「はい。ありがとうございます!」
カウンターに戻ると、暁さんが笑いを堪えている。
「俺、やっぱりとんでもない子をスカウトしちゃったな」
私はにんまりした。暁さんといると、こんなズルい自分まで好きになれそうな気がして。
しばらくの間はぐったりする毎日が続いた。家に帰って、やっとお風呂に入って死んだように眠る日々。キスだの笑顔だの考えている余裕が全くなかった。
でも、それが幸いした。信吾はあのメールの後、何度か私に『話がある』って視線を送ってた。だけど、私は忙しさをもってそれを避けたんだ。
確かにレンタルショップに行くと落ち着いた。慣れた古巣って感じでさ。信吾とも普段はいつも通り、居心地のいい友人の会話ができた。
だけど、ふとしたときに感じる視線は心苦しい。私を女として見る目を感じるたびに、なんだか辛かった。
だって、もう暁さんを知ってしまったから。店に行って、あの広い背中を見るたびに胸が躍った。私がカクテルを作るのを見ていると思うと、手が震える。信吾を好きだったとき、こんな風に胸が苦しくなったり、意識しなかった。
そう思ったとき、気づいたんだ。私は穏やかな信吾との居心地の良さに浸かっていたかっただけ。
もしかしたら。もっと早く信吾が気持ちに気づいていたら、私たちは付き合っていたと思う。それはそれで、お互いに安らげる関係になっていた気がした。
......でも、もう遅かった。暁さんと一緒にいればいるほど、心が染まっていったから。
そんなある日、先輩の吉田さんと駐車場まで一緒に帰ることがあった。
「今日は疲れたね」なんて世間話をしていたのに、不意に吉田さんがニヤニヤした顔になる。
「ねぇ、志帆ちゃんって暁さんのこと好きでしょ」
「はい?」
不意打ちされて、顔が赤くなってしまった。
「いや、好きというか、あの......やっぱりわかっちゃいましたか?」
吉田さんが「あはは」と声に出して笑った。
「大丈夫だよ。皆は気づいてないから。ほら、俺はカウンターを行き来すること多いからさ。なんとなく、そうかなって」
「......はい。すみません」
隠してたつもりなんだけどなぁ。恥ずかしくて、思わず下を向いてしまった。
「なんで謝るの? いいじゃん。そろそろ暁さんにも明るい話題があってもいいと思うし」
「そろそろって......暁さんって独身主義ですか?」
すると吉田さんが「まさか」と笑う。
「彼女いたときもあるけど、長続きしなかったみたいだよ。ここんとこずっと独り身だね」
それはなんとなく気づいてた。携帯電話が鳴っても甘い声で出ることもないし、店が終わっても足早にどこかに消える訳でもないから。
「だけど、暁さんってずっと忘れられない人がいるんだよね」
体中の神経が凍り付いた気がした。吉田さんがすまなさそうに私を見る。
「ごめんね。早めに知っておいたほうがいいかと思ったんだ。酷なようだけど、俺なりの優しさだから。知りたくないなら、もう話さないけど」
「......そこまで口にしたなら、最後まで教えてください」
初めて、吉田さんを睨むように見た。彼は肩をすくめて「O.K.」とジェスチャーする。
「琥珀亭って知ってる? 暁さんが昔修行してたバーなんだけどさ。そこのオーナーの真輝さんって人を高校時代から好きだったんだって」
「なんで吉田さんが知ってるんですか?」
「一度だけ、ぐでんぐでんの暁さんが話してくれた。あの頃、真輝さんが再婚したばかりだったから荒れてたんじゃないかな」
「再婚? 結婚じゃなくて?」
「そう。いろいろあったみたいで、今は年下の人と再婚してるよ」
彼はにやりと口の端をつり上げる。
「だから、望みあるんじゃない?」
「......逆だと思いますけど」
視界が真っ暗になった気がした。高校時代から好きで、再婚しても忘れられないってことは、最初の結婚のときも忘れられず、再婚してもなお好きな訳でしょ。それって、心底好きってことじゃない。
その後、吉田さんが琥珀亭の場所を教えてくれた。真輝さんの旦那さんが、うちの常連だってことも。だけど、詳しいことは右から左にすり抜けて行った。女に不自由してないことよりも、遥かに厄介だ。思ってたより、ハードルの高い恋を背負い込んだんだなぁ。
歩くたび、足に鉛をつけたように感じてた。胸が痛い。私の心は胸にあるんだなってぼんやり思った。
その話を聞いてから、二つ気づいたことがある。一つは暁さんの女を見る目つきだ。彼が話し込む女性客には、皆どこか共通点があった。おっとりしているようで、芯の強い人。儚げに微笑む人。そういう女性客を彼は気に入っていた。だけど、その目が切ない光を宿している。彼はその目に女を映すとき、その向こうに『真輝さん』をかざすんだって気づいた。
それ以来、暁さんと目が合うのが怖くなった。
だって、自分の向こうに彼女を想い描かれて、比べられてるなんて思ったら、居ても立ってもいられないじゃない。......惨めじゃない。
そしてもう一つ。私は自分が思ってるよりヤキモチやきってこと。気が狂うと何度思っただろう。まだ見た事もない知らない女性なのに。
......いや、逆だよね。知らないから、怖かった。頭の中で暁さんの理想の女性が生まれていく。わからないからこそ、想像しちゃうんだ。
店の女性客と話してるのを見てヤキモチやかないなんて嘘になる。だけど、もっと辛いのは......そう、あの切ない光の目を見たとき。その奥にある彼女の影に、私は嫉妬した。
こんな自分なんて嫌い。らしくない。そう思い始めたときだった。私は尊さんに出逢ったんだ。
あれは私が『エル ドミンゴ』で働き始めて半年くらい経った頃だった。確か、日曜日だったと思う。私が出勤すると、吉田さんが手招きをしてる。
「どうしたんですか?」
きょとんとすると、彼がそっとカウンターに目配せした。
「ほら、例の人が来てるよ」
「例の人?」
「真輝さんの旦那さん。尊さんだよ」
吉田さんの視線の先では、既にカウンターに入っている暁さんが、男の人と親しげに会話していた。
「いつもは開店時間にご飯を食べに来てすぐ帰っちゃうから、志帆ちゃんのシフトだと会えなかったでしょ? だけど、今日はゆっくりしてるみたいだね」
尊さんは女みたいに綺麗な顔をした優しい面持ちの人だった。伸びた髪をワックスで無造作に散らしてるけど、清潔感がある。
真輝さんは、この人を選んだんだ。......暁さんではなく。
戸惑いと好奇心が私を襲っていた。この人にあって、暁さんになかったものってなんだろう?
そう思ったとき、尊さんが私に気づいて目が合った。彼が暁さんに何か言うのが見え、振り向いた暁さんが私を手招きする。
「ほら、お呼びだ」
私の背中を押す吉田さんが「面白そう」って顔をしてた。軽く睨んで、私は営業スマイルでカウンターへ歩み寄る。
「いらっしゃいませ」
「君が志帆ちゃん?」
「はい。よろしくお願いします」
暁さんが彼を紹介してくれた。
「こいつは尊。琥珀亭のマスターだよ」
そう言って、尊さんに白い歯を見せる。
「尊、この子なかなか筋がいいんだぞ」
顔が赤らんだのは、褒められたからか、暁さんの手が肩に置かれたからか......。尊さんはにこやかに微笑んでいた。ちょっと信吾の笑顔に似ている。
「よろしくね。暁さんの弟子ってことは琥珀亭の孫弟子だね。俺と同じだ」
「孫弟子?」
思わず問い返す私に、彼はそっと頷く。
「俺は真輝の弟子だから。志帆ちゃんは妹分かな」
「尊、お前、早くも兄貴面か」
からかうような暁さんに、尊さんが眉を下げた。
「暁さんだって、俺と初めて会ったときそうだったじゃないですか」
あまりに気心知れたやりとりに、私は呆気にとられた。尊さんって、暁さんがずっと好きだった人と結婚したんだよね? 思わず、自分で自分に再確認する。
この二人には一切のわだかまりがないようだった。いや、もしかしたらお互い胸に秘めているだけかもしれないけど。
尊さんは不思議な人だった。なんていうのかな。寒い夜に温かい湯船に沈まったときに似た気持ちになる。周囲にいる人を包み込んでしまうような、そんな温かい人だった。
だけど、何故かドキリとさせるんだよね。彼がまっすぐ射るように目を見て話すからかな。暁さんは子どもみたいにやんちゃだけど、尊さんはどちらかというと父性を持っていた。そう、暁さんが太陽なら、彼は月みたいな。
「尊、今日は店に出ないの?」
「はい。最近、日曜は真輝と交代で休んでるんですよ。この曜日は暇なもんで」
「琥珀亭が暇だなんて言ったら、死んだ師匠が化けて出るぞ」
「構いませんよ。ついでにご挨拶できますから」
......結構、減らず口。私は思わずくすっと笑う。尊さんが私に穏やかに微笑んで、こう言った。
「志帆ちゃん、良かったら今度、琥珀亭に来てよ」
「え?」
ドキリとする。琥珀亭に行くということは、つまり真輝さんに会うってことだから。
「そうしとけ。勉強になるぞ」
何も知らない暁さんが恨めしい気がした。
「わかりました。是非、お伺いさせていただきます」
半ばヤケクソだ。見てやろうじゃないの。暁さんが忘れられないって人を。
尊さんが名刺を取り出して、暁さんにペンをねだる。胸ポケットから取り出されたペンで、彼は名刺の裏に携帯番号を書いた。
「道がわからなかったら、電話してね。迎えに行くから」
受け取った真っ白い名刺には、彼の名前と店舗情報があった。私はじっとそれを見つめる。心のどこかで『早い方がいいと思って』という吉田さんの言葉が渦巻いていた。どうせ叶わぬ恋なら、早いうちがいいのかな。真輝さんがどんな人か知れば、諦める気にもなるかもしれない。嫉妬も消えるかもしれない。我ながら、自虐的だと思うけど。
いつから私、こんなに弱気になったんだろう?
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