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第一部 緋色の瞬間
第1話 出逢いはカウンターで
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駅前通りのバル『エル ドミンゴ』のカウンターで、私は同僚の信吾と飲んでいた。
「そういや、俺が気に入ってた子いただろ? あの子に男ができてさぁ」
信吾がいきなりこんな話を切り出し、苦笑いしている。
「志帆、俺って馬鹿だわ。マジで死にたいわ。男できたのも知らずに告白したら『あんたって何を考えてるかわかんない』って言われてさ......」
そう言って、彼はテキーラを煽った。
「言っておくけど」
呆れた私がため息まじりに言ってやる。
「あんたみたいに『死にたい』なんて言う奴ほど実は『生きたい』のよ。腹を据えれば?」
「何を?」
きょとんとする彼に、私が笑う。
「彼女を想い続けて取り返すか、他の恋を探すか。それしかないでしょ。死んだらお終いなんだからさ。それ飲んだらゆっくり考えなよ」
そのとき、カウンターの向こうにいた男がふっと笑った。
「......君、面白いね」
彼は身を乗り出し、私の顔をしげしげと見つめた。
「うちで働かない?」
新手のナンパかな? 正直、そう思った。
彼は精悍な顔つきと浅黒い肌をしていて、白いシャツが鍛えた体を艶っぽく見せている。柔らかな口調が色気たっぷりで、女に不自由してなさそうだった。
「私、職に困ってませんよ」
肩をすくめると、彼は私を見透かすように目を細めた。
「そうかな。なんだかツマラナイって顔してるよ」
きょとんとすると、彼がニッと笑う。
「考えておいてね」
そう言い残して、他の客のところへ遠ざかる。私は呆気にとられて彼の横顔を見ていた。
それが私とバーテンダーの世界との出逢い。そして、彼との出逢い。狂おしい恋との出逢いだった。
「ねぇ」
店を出た後、信吾は私をアパートまで送ってくれた。静かな住宅街に私たちの足音が木霊している。
「私ってツマラナイ顔してる?」
「あぁ、さっきのバーテンダーが言ったこと気にしてるの?」
信吾が優しく笑う。本当、こいつはどこまでも穏やかに笑うんだ。毒気が抜かれる感じ。そこが気に入ってるんだけど。
「たまにね、そう見えるよ。そんなに気になるなら、あそこで働いてみれば? バイト増やしたいって言ってたでしょ。店の雰囲気も悪くないし」
私はちょっと考え込んだ。まぁ、職に困ってないってのは半分嘘で、半分本当。
四年制の大学を卒業したけど、困ったことに就職する気が起きない。
バイト先はレンタルショップのチェーン店だけど、その仕事より好きなものが見つからないんだもの。
私は書籍担当で、信吾はレンタル担当。部門は違うけど、信吾とは同い年で波長が合う。だから、今回も「飲みに行こう」って誘いを受けたら、ずっと好きだった子に男が出来たっていう愚痴だった。
ツマラナイ顔してたのは、多分そのせい。だって、私は信吾が好きだった時期があるから。こいつに「好きな子できたんだ」って惚気られたときに諦めたけどさ。昔好きだった男のフラレ話も案外しんどい。
私は眉を下げて笑った。
「行ってみようかな。今のバイト週に四回しか入れないから家計も苦しいし」
「ほどほどにな。無理すんなよ。まぁ、倒れたら看病くらいはしてやるよ」
あんたね、そんな誰にでも優しいから彼女に「何を考えてるのかわかんない」なんてフラれるのよ。
私のアパートの前で、彼はちょっと照れたように頭をかいた。
「あのさ、今日はありがとな。久々に一緒に飲めて良かったよ」
「少しは元気出た? 送ってくれてありがと。気をつけて帰ってね」
私がふっと笑って背を向けた途端、腕を掴まれた。ぐいっと体を寄せられて、唇に信吾のそれが押しつけられる。
「......へ?」
そっと離れる唇を見ながら間抜けな声を上げた私に、信吾が笑った。
「お前さ、勘違いしてる」
「はい?」
「俺が落ち込んでたのは失恋のせいじゃなくて、『時間を無駄にした』ってことにだよ」
「どういう意味よ」
顔が熱くなっていくのがわかる。頭が真っ白だった。
「確かに俺、あの子のこと好きだったけど、男といるのを見てわかったことがあるんだ」
「何よ?」
「俺、もうとっくにあの子に魅かれてなかったってこと。そんで、無性にお前に会いたくなったってこと」
......はぁ?
口をあんぐり開けた私を見て、信吾が笑う。
「彼女に言われた言葉にはさ、続きがあるんだ。『あんたって何を考えてるかわかんない。志帆のこと目で追っておきながら、私を好きだなんて言えるの?』って」
呆然とした。
「お前が言ったんだぜ。新しい恋でも探せって。じゃあな」
言うだけ言って去る信吾の背中に靴を投げたい気分だった。あんたへの恋を諦めるとき、どんだけ泣いたと思ってるのよ!
でも、何故か追いかける気力はなかった。ただただ、背中が小さくなるのを見送っていた。
翌日、私はバイトが終わってから真っ先に『エル ドミンゴ』へ向かった。昨日書いた履歴書を入れたバッグをぎゅっと押しつけながら歩く。
信吾と一緒のシフトだったけど、あいつはいつもと変わらなかった。何事もなかったかのように接してくる。
昨日のキスが夢みたい。そう思っていたのに、帰り際になって皆が見ていない隙にキスをされた。
冗談じゃないわよ。私がどんな思いであんたを諦めたと思ってるのよ。やっぱり好きでしたなんて言われて、一度醒めた気持ちがすぐ戻るほど器用じゃないのよ。
私が『エル ドミンゴ』で働こうと決意したのは、信吾と顔を合わせにくいから。欲を言えば、もう少し生活費が欲しい。
私は店の扉を押し開ける。
「いらっしゃいませ」
元気のいい声が響いた。ちょっと物怖じするけど、負けるもんかと足を踏み入れる。私は一番近くにいた店員に声をかけた。
「すみません。責任者の方はいらっしゃいますか?」
「あぁ、君、昨日来てた......」
毛先にパーマをかけた茶髪の店員が思い出したように私を見つめた。
「オーナーなら、今日はここに来ないんですよ」
「え?」
「オーナーはアイリッシュ・パブも経営してるんで、今日はそっちに行く日なんです」
「......じゃあ、後日改めてお伺いします」
なんだ、気が抜けちゃった。そんな顔をした私を見て、彼は店の電話の子機を取る。
「まだ飯食ってるかも。連絡してみますよ」
人なつこい笑顔をしながら、彼は私に「待ってて」とジェスチャーをする。
「......あ、オーナー、お疲れ様です。昨日の子、来てるんですけど。......そうそう、オーナーが声かけた子ですよ。はい」
なんだかドキドキしながら様子を見守っていると、彼がにっこり私に微笑んだ。
「はい、わかりました。それじゃ」
電話を切りながら、彼は私に頷いている。
「オーナーが今から来るそうですよ。座って待っててください」
なんだか、面白がってる顔をしている。私は言われるがまま、大人しく座っていた。
しばらくして、店員たちが一斉に「お疲れ様です」と声を上げるのが聞こえた。扉のほうを見ると、昨日の男が笑顔で近づいて来るところだった。
『ツマラナイって顔してるよ』
私の気持ちを見抜いた、あの男が。
「いやぁ、ごめんね。まさか昨日の今日で来てくれると思わなかった」
彼は薄手のコートを羽織っている。その隙間からバーテンダーの服がのぞいていた。
「うちで働く気になってくれた?」
「お願いします。履歴書も持ってきました」
「まぁ、ここじゃなんだから、奥に座ろうか」
私は促されるまま、一番奥のテーブルに落ち着いた。彼は私に白い歯を見せて、こう自己紹介した。
「この店のオーナーで上杉暁といいます。アイリッシュ・パブも経営してるんで、行ったり来たりですけど」
にこやかな笑顔。本当、女が放っておかない感じ。
「神谷志帆です。よろしくお願いします」
私が頭を垂れ、履歴書を差し出した。彼は「どうも」と受け取り、それに目を走らせる。給与面や勤務時間を説明してくれた後、彼はこう訊ねてきた。
「今のバイト先では何を?」
「書籍担当です。人手が足りないときはレンタルDVDもこなします」
「ふぅん。それで本と映画に詳しかったんだ」
「え?」
「昨日、一緒に来てた人と話してたでしょ」
彼が目を細めて私を見た。
「趣味がピアノってあるね」
「アマチュアですが人並みには弾けます」
暁さんは口の端をつり上げた。
「たまにピアノ演奏頼むけど、いい?」
「え?」
「うちの店、音楽の生演奏にも力入れてるから」
「はい。弾きこなせる程度でしたら」
「うん、じゃあ合格」
彼はあっさりそう言うと、懐から煙草を取り出した。その手の『アメリカン・スピリット』に、私の胸が苦しくなる。信吾と同じ煙草だった。
「じゃあ、明日から来てもらおうかな」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
また頭を下げた私を、彼はにこやかに見ていた。
「こちらこそ、よろしくね。志帆ちゃん」
私の目が丸くなった。彼の笑顔がさっきまでのものと違っていたからだ。それはお客に向けられるサービス用の笑顔とは違い、親しげだった。多分、仲間への笑顔なんだろう。胸が踊り狂うように鳴っていた。
暁さんは水曜と金曜、そして日曜日に『エル ドミンゴ』にいるらしかった。それ以外の曜日はアイリッシュ・パブにいるんだそうだ。
私が『エル ドミンゴ』の面々に紹介されると、皆が拍手で迎えてくれた。見る限り、男性しかいない。紅一点の私は、暁さんがいるときにシフトに入ることになった。暁さんがにこやかに言う。
「志帆ちゃんは俺について、バーテンダー見習いしてもらうね。手がすいたらウェイターもしてもらうことになるよ」
私は「わかりました」と頷く。暁さんが満足げに頷くと、私にこう言った。
「じゃあ、歓迎のしるしに夕飯でもごちそうするよ」
「え?」
目を丸くすると、彼が子どものように口を尖らせる。
「俺、君が来たせいで晩飯まだなんだよね。一人で食うのも味気ないし」
それって自分の都合ですよね。呆れていると、さっき私が声をかけた店員の吉田さんが笑った。
「志帆ちゃん、行っておいで。暁さんは皆でご飯食べるの好きだから、諦めて」
「吉田、諦めてとは何だ」
むくれる暁さんに、皆が一斉に笑う。
仲いいんだなぁ。なんだか、いいかも。このほんわかした輪に私も入るんだ。
私が惚けていると、暁さんが私に目配せして歩き出す。
「ほら、行くぞ。一足早く歓迎会してやるよ」
「あ、はい!」
私はすっかり暁さんのペースに乗せられて後を追った。
「そういや、俺が気に入ってた子いただろ? あの子に男ができてさぁ」
信吾がいきなりこんな話を切り出し、苦笑いしている。
「志帆、俺って馬鹿だわ。マジで死にたいわ。男できたのも知らずに告白したら『あんたって何を考えてるかわかんない』って言われてさ......」
そう言って、彼はテキーラを煽った。
「言っておくけど」
呆れた私がため息まじりに言ってやる。
「あんたみたいに『死にたい』なんて言う奴ほど実は『生きたい』のよ。腹を据えれば?」
「何を?」
きょとんとする彼に、私が笑う。
「彼女を想い続けて取り返すか、他の恋を探すか。それしかないでしょ。死んだらお終いなんだからさ。それ飲んだらゆっくり考えなよ」
そのとき、カウンターの向こうにいた男がふっと笑った。
「......君、面白いね」
彼は身を乗り出し、私の顔をしげしげと見つめた。
「うちで働かない?」
新手のナンパかな? 正直、そう思った。
彼は精悍な顔つきと浅黒い肌をしていて、白いシャツが鍛えた体を艶っぽく見せている。柔らかな口調が色気たっぷりで、女に不自由してなさそうだった。
「私、職に困ってませんよ」
肩をすくめると、彼は私を見透かすように目を細めた。
「そうかな。なんだかツマラナイって顔してるよ」
きょとんとすると、彼がニッと笑う。
「考えておいてね」
そう言い残して、他の客のところへ遠ざかる。私は呆気にとられて彼の横顔を見ていた。
それが私とバーテンダーの世界との出逢い。そして、彼との出逢い。狂おしい恋との出逢いだった。
「ねぇ」
店を出た後、信吾は私をアパートまで送ってくれた。静かな住宅街に私たちの足音が木霊している。
「私ってツマラナイ顔してる?」
「あぁ、さっきのバーテンダーが言ったこと気にしてるの?」
信吾が優しく笑う。本当、こいつはどこまでも穏やかに笑うんだ。毒気が抜かれる感じ。そこが気に入ってるんだけど。
「たまにね、そう見えるよ。そんなに気になるなら、あそこで働いてみれば? バイト増やしたいって言ってたでしょ。店の雰囲気も悪くないし」
私はちょっと考え込んだ。まぁ、職に困ってないってのは半分嘘で、半分本当。
四年制の大学を卒業したけど、困ったことに就職する気が起きない。
バイト先はレンタルショップのチェーン店だけど、その仕事より好きなものが見つからないんだもの。
私は書籍担当で、信吾はレンタル担当。部門は違うけど、信吾とは同い年で波長が合う。だから、今回も「飲みに行こう」って誘いを受けたら、ずっと好きだった子に男が出来たっていう愚痴だった。
ツマラナイ顔してたのは、多分そのせい。だって、私は信吾が好きだった時期があるから。こいつに「好きな子できたんだ」って惚気られたときに諦めたけどさ。昔好きだった男のフラレ話も案外しんどい。
私は眉を下げて笑った。
「行ってみようかな。今のバイト週に四回しか入れないから家計も苦しいし」
「ほどほどにな。無理すんなよ。まぁ、倒れたら看病くらいはしてやるよ」
あんたね、そんな誰にでも優しいから彼女に「何を考えてるのかわかんない」なんてフラれるのよ。
私のアパートの前で、彼はちょっと照れたように頭をかいた。
「あのさ、今日はありがとな。久々に一緒に飲めて良かったよ」
「少しは元気出た? 送ってくれてありがと。気をつけて帰ってね」
私がふっと笑って背を向けた途端、腕を掴まれた。ぐいっと体を寄せられて、唇に信吾のそれが押しつけられる。
「......へ?」
そっと離れる唇を見ながら間抜けな声を上げた私に、信吾が笑った。
「お前さ、勘違いしてる」
「はい?」
「俺が落ち込んでたのは失恋のせいじゃなくて、『時間を無駄にした』ってことにだよ」
「どういう意味よ」
顔が熱くなっていくのがわかる。頭が真っ白だった。
「確かに俺、あの子のこと好きだったけど、男といるのを見てわかったことがあるんだ」
「何よ?」
「俺、もうとっくにあの子に魅かれてなかったってこと。そんで、無性にお前に会いたくなったってこと」
......はぁ?
口をあんぐり開けた私を見て、信吾が笑う。
「彼女に言われた言葉にはさ、続きがあるんだ。『あんたって何を考えてるかわかんない。志帆のこと目で追っておきながら、私を好きだなんて言えるの?』って」
呆然とした。
「お前が言ったんだぜ。新しい恋でも探せって。じゃあな」
言うだけ言って去る信吾の背中に靴を投げたい気分だった。あんたへの恋を諦めるとき、どんだけ泣いたと思ってるのよ!
でも、何故か追いかける気力はなかった。ただただ、背中が小さくなるのを見送っていた。
翌日、私はバイトが終わってから真っ先に『エル ドミンゴ』へ向かった。昨日書いた履歴書を入れたバッグをぎゅっと押しつけながら歩く。
信吾と一緒のシフトだったけど、あいつはいつもと変わらなかった。何事もなかったかのように接してくる。
昨日のキスが夢みたい。そう思っていたのに、帰り際になって皆が見ていない隙にキスをされた。
冗談じゃないわよ。私がどんな思いであんたを諦めたと思ってるのよ。やっぱり好きでしたなんて言われて、一度醒めた気持ちがすぐ戻るほど器用じゃないのよ。
私が『エル ドミンゴ』で働こうと決意したのは、信吾と顔を合わせにくいから。欲を言えば、もう少し生活費が欲しい。
私は店の扉を押し開ける。
「いらっしゃいませ」
元気のいい声が響いた。ちょっと物怖じするけど、負けるもんかと足を踏み入れる。私は一番近くにいた店員に声をかけた。
「すみません。責任者の方はいらっしゃいますか?」
「あぁ、君、昨日来てた......」
毛先にパーマをかけた茶髪の店員が思い出したように私を見つめた。
「オーナーなら、今日はここに来ないんですよ」
「え?」
「オーナーはアイリッシュ・パブも経営してるんで、今日はそっちに行く日なんです」
「......じゃあ、後日改めてお伺いします」
なんだ、気が抜けちゃった。そんな顔をした私を見て、彼は店の電話の子機を取る。
「まだ飯食ってるかも。連絡してみますよ」
人なつこい笑顔をしながら、彼は私に「待ってて」とジェスチャーをする。
「......あ、オーナー、お疲れ様です。昨日の子、来てるんですけど。......そうそう、オーナーが声かけた子ですよ。はい」
なんだかドキドキしながら様子を見守っていると、彼がにっこり私に微笑んだ。
「はい、わかりました。それじゃ」
電話を切りながら、彼は私に頷いている。
「オーナーが今から来るそうですよ。座って待っててください」
なんだか、面白がってる顔をしている。私は言われるがまま、大人しく座っていた。
しばらくして、店員たちが一斉に「お疲れ様です」と声を上げるのが聞こえた。扉のほうを見ると、昨日の男が笑顔で近づいて来るところだった。
『ツマラナイって顔してるよ』
私の気持ちを見抜いた、あの男が。
「いやぁ、ごめんね。まさか昨日の今日で来てくれると思わなかった」
彼は薄手のコートを羽織っている。その隙間からバーテンダーの服がのぞいていた。
「うちで働く気になってくれた?」
「お願いします。履歴書も持ってきました」
「まぁ、ここじゃなんだから、奥に座ろうか」
私は促されるまま、一番奥のテーブルに落ち着いた。彼は私に白い歯を見せて、こう自己紹介した。
「この店のオーナーで上杉暁といいます。アイリッシュ・パブも経営してるんで、行ったり来たりですけど」
にこやかな笑顔。本当、女が放っておかない感じ。
「神谷志帆です。よろしくお願いします」
私が頭を垂れ、履歴書を差し出した。彼は「どうも」と受け取り、それに目を走らせる。給与面や勤務時間を説明してくれた後、彼はこう訊ねてきた。
「今のバイト先では何を?」
「書籍担当です。人手が足りないときはレンタルDVDもこなします」
「ふぅん。それで本と映画に詳しかったんだ」
「え?」
「昨日、一緒に来てた人と話してたでしょ」
彼が目を細めて私を見た。
「趣味がピアノってあるね」
「アマチュアですが人並みには弾けます」
暁さんは口の端をつり上げた。
「たまにピアノ演奏頼むけど、いい?」
「え?」
「うちの店、音楽の生演奏にも力入れてるから」
「はい。弾きこなせる程度でしたら」
「うん、じゃあ合格」
彼はあっさりそう言うと、懐から煙草を取り出した。その手の『アメリカン・スピリット』に、私の胸が苦しくなる。信吾と同じ煙草だった。
「じゃあ、明日から来てもらおうかな」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
また頭を下げた私を、彼はにこやかに見ていた。
「こちらこそ、よろしくね。志帆ちゃん」
私の目が丸くなった。彼の笑顔がさっきまでのものと違っていたからだ。それはお客に向けられるサービス用の笑顔とは違い、親しげだった。多分、仲間への笑顔なんだろう。胸が踊り狂うように鳴っていた。
暁さんは水曜と金曜、そして日曜日に『エル ドミンゴ』にいるらしかった。それ以外の曜日はアイリッシュ・パブにいるんだそうだ。
私が『エル ドミンゴ』の面々に紹介されると、皆が拍手で迎えてくれた。見る限り、男性しかいない。紅一点の私は、暁さんがいるときにシフトに入ることになった。暁さんがにこやかに言う。
「志帆ちゃんは俺について、バーテンダー見習いしてもらうね。手がすいたらウェイターもしてもらうことになるよ」
私は「わかりました」と頷く。暁さんが満足げに頷くと、私にこう言った。
「じゃあ、歓迎のしるしに夕飯でもごちそうするよ」
「え?」
目を丸くすると、彼が子どものように口を尖らせる。
「俺、君が来たせいで晩飯まだなんだよね。一人で食うのも味気ないし」
それって自分の都合ですよね。呆れていると、さっき私が声をかけた店員の吉田さんが笑った。
「志帆ちゃん、行っておいで。暁さんは皆でご飯食べるの好きだから、諦めて」
「吉田、諦めてとは何だ」
むくれる暁さんに、皆が一斉に笑う。
仲いいんだなぁ。なんだか、いいかも。このほんわかした輪に私も入るんだ。
私が惚けていると、暁さんが私に目配せして歩き出す。
「ほら、行くぞ。一足早く歓迎会してやるよ」
「あ、はい!」
私はすっかり暁さんのペースに乗せられて後を追った。
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