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飴色の嫉妬

置き去りにされた者たち

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「すみません。実は……お願いがありまして」

 ガラス工房に入ってきた女性は両手で小さな水筒を抱えていた。どこかそわそわしているようだった。しかし大輝が気になったのは彼女の落ち窪んだ目とその下にあるクマだ。かなり疲れがたまっているらしい。

「あつかましいとは思いますが、粉ミルクのためのお湯をわけていただけませんか?」

「粉ミルク?」

「蓋が緩くなっているのに気づかずに、漏れてしまったんです」

「でも、お子さんはどこに?」

「ここに来るまでに寝付いたので、車の中にいます。抱っこして店に入りたかったんですけど、途中で起こされるとぐずるものですから……」

 ひどく気まずそうな顔で彼女は答えた。なるほど、落ち着かない様子に見えたのはそのせいかと納得する。

「すぐに用意しましょう。でも、まずはお子さんのところへ行きましょう。目の届くところにいないと不安でしょう? 大丈夫、心強い助っ人を呼びますから」

 女性はホッとした顔になり、大輝と連れだって店を出た。すぐ目の前にエンジンをかけたままの車が停まっている。後部座席には男の子がすやすやと寝息を立てていた。一歳か二歳ほどだろうか、まだまだ赤ん坊っぽい顔つきをしている。

「少々お待ちくださいね」

 大輝はそう言うと携帯電話を取りだし、雅を呼び出す。事情を説明しながら、車を見ていると、助手席にもチャイルドシートがあるのに気づいた。通話を切ってから、女性に優しく声をかけた。

「今、そこの野菜直売所のスタッフがお湯を持ってきますから、待っていてください。車の中にいても大丈夫ですよ」

 女性はばつの悪そうな顔で深々とお辞儀をした。

「本当にあつかましくてすみません。出かける直前に離乳食とミルクを済ませてきたので当分は大丈夫だと思うんですが、ないと心配で」

「お気になさらずに。お子さんは二人いらっしゃるんですか?」

「えっ、どうしてそれを?」

「助手席にもチャイルドシートがあるので」

「ああ、そうですよね。はい、上の子は三歳なんです」

「今は保育園にでも?」

「いえ、保育園にはまだ。姑の家でお昼寝してます。この子がずっとぐずるので、眠るまで私がドライブに連れ出したんですよ。車に乗ると落ち着くことが多いので」

 大輝は「大変ですね」と頷きながら、少しだけ胸の奥が締めつけられるのを感じていた。もし、亡き妻との間に子どもがいたら自分も同じようにドライブに連れ出したり、ミルクのためのお湯を沸かしていたのかもしれない。そう思うと、手に入ったかもしれないのにすり抜けていった違う人生を感じ、切なくなる。
 そのとき、「お待たせ!」と、雅がお湯の入った電気ポットを片手に駆けつけた。

「こんにちは。野菜直売所の者です。これ、沸かし立てなんだけど、ミルクには熱すぎますよね。少し冷ましましょうか?」

「ありがとうございます! いえ、湯冷ましはありますから、温度は大丈夫です。本当にすみません」

 恐縮して何度も頭を下げる女性を見て、雅がはたと気づく。

「あら、あなた!」

「えっ」

「ほら、いつだったかな。定休日にいらしてくださったでしょう? あのときは野菜がなくてごめんなさいね」

「あ……あのときの!」

 女性はハッとした顔になり、深々とお辞儀をした。

「おにぎり、ありがとうございました。美味しかったです」

「それなら良かった! せっかくだから今日こそ見ていって欲しいところだけど、定休日でごめんなさいね」

 大輝がそっと口を挟む。

「今日はお子さんが落ち着くまでドライブだったそうですよ」

「ああ、子どもは車に揺られると寝ちゃうよね。うちの娘もそうだったわ」

 雅が懐かしそうに目を細める。

「夜泣きがひどくて、ひどい寝不足になったものよ」と、いたわるような眼差しで言った。

「あなたは眠れている?」

 一瞬、女性の目が見開き、唇の隙間から「あ……ああ」と小さな声が漏れた。

「私は……だいじょう……」

 最後は言葉にならなかった。女性は堰を切ったように泣き出したのだ。顔をくしゃくしゃにし、声を上げ、まるで子どものように。

「大丈夫じゃないみたいね」

 雅が肩をすくめると、チャイルドシートの子どもが目を覚まし、ぐずり始めた。

「……すみません」

 慌てて涙で濡れた頬を拭い、女性がドアを開けて子どもを抱き上げた。鼻水をすすりながら、優しく背中を撫でてあやしている。子どもはすぐに落ち着き、また眠りに落ちた。
 雅はその様子を見て、女性に申し出る。

「もし良かったら、私が赤ちゃんを見ていますから、気分転換にガラス工房でもご覧になったら?」

「えっ、でも……」

「店の中で抱っこしているわ。目が届くし安心でしょう。お子さんは大丈夫。でも、気に障ったならごめんなさいね。あなたには気晴らしとか休養が必要だと思って」

 女性は眉を下げ、小さく頷いた。

「ありがとうございます。実はこの工房に来てみたかったんで、嬉しいです」

 それを聞き、大輝が顔を綻ばせた。

「そう言ってもらえると僕も嬉しいですね。さあ、どうぞ」

 女性は子どもを雅に預け、車内からマザーズバッグを取り出して肩にかけた。バッグが大きく膨らんでいるのは、中にオムツやミルクが入っているからだろう。

「僕が持ちましょう。カウンターに置いておきますから」

「すみません」

 女性は店内に入り、目を輝かせた。気になるものを見つけては立ち止まり、「わあ」と小さな感嘆の声を漏らす。やがて、彼女はガラスペンの前で大輝にこう問いかけた。

「この店には願いが叶うガラスペンがあるって噂を聞いたんですけど、これのことですか?」

「へえ、噂になっているんですか?」

「はい。夫の職場の同僚が以前、ここでガラスペンを買ったって話していて」

「……その方の願いが叶ったと?」

「ええ。飼っていた猫への手紙を書いたら、返事が来たんだって嬉しそうに言っていました」

 大輝が目を見開き、少しの沈黙のあとで「ああ、あの人だ」と呟いた。

「今年の春だったと思いますが、確かにそういうお客様がいらっしゃいました。そうですか、彼女には返事が来たんですね。……どんな返事でした?」

「それが詳しくは教えてくれませんでした。でも、とても感謝してましたよ」

「そうですか……それは良かった」

 大輝の微笑みがどこかぎこちないのに気づき、雅は目を伏せた。笑みを浮かべているはずの彼が、どこか泣きそうな顔に見えたからだ。
 しかし大輝はすぐに気を取り直し、女性によつばポストの説明を始めた。何本かガラスペンの乗ったトレイを差しだし、試し書きを勧める。

「書き味を試してみますか?」

 女性は躊躇いながらも、ガラスペンを手に取った。インク壺にペン先を浸してから、くるくると螺旋状に線を書く。

「わあ、書きやすい。それにインクの色が映えて綺麗」

「もし誰かに届けたい想いがあるなら、どうぞ手紙を書いてポストへ投函してみてください」

 促されると、女性はじっと白い便せんと睨めっこを始めた。すぐに大輝は眉をしかめる。女性を覆っていた鉛色の気配が濃くなっていったからだ。女性がゆっくりガラスペンを走らせるごとに、鉛色は重く鈍い色合いになっていく。やがてそれは驚くほどの勢いで大きく膨れあがった。女性の顔つきが険しくなっていく。眉間に深い皺を寄せ、目が潤み、唇をきつく噛んでいた。
 禍々しさすら感じ、大輝が思わず後ずさりした瞬間だった。女性が震える声で「駄目だわ。やっぱり、駄目」とガラスペンを置いた。涙がこぼれ落ち、便せんに染みを作る。

「私なんかが母親になるべきじゃなかった」

 絞り出すような呟きが聞こえた。嗚咽が走り、彼女は髪をかきむしる。
 大輝が「大丈夫ですか」と声をかける。すると、女性はわなわなと震えながら答えた。

「本当にすみません! 頭を冷やしてきます。このまま帰ったら、私、この子に何をするかわからない。少しの間、この子をお願いします。すみません。すみません!」

 取り乱した顔つきと、何かに怯えるような声だった。彼女は店を飛び出した。

「ちょっと待って!」

 大輝が慌てて追いかけるも、彼女の車は勢いよく走り出す。そしてあっという間に駐車場を出て、見えなくなった。
 あとにはぽかんと口を開ける大輝と雅、そして寝入る子どもが残される。

「……嘘でしょ」

 雅の呟きが、ぽつんと店に響いて消えた。
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