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若苗色の親子

本当の父親

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 誠の父親が死んだのは三年前のことだった。
 金曜日の仕事帰り、車で信号待ちをしていたところを運転操作を誤ったバンに突っ込まれたという。

 小学二年生だった彼には、葬儀がまるで他人事のように感じられた。これは一体なんの集まりだろうか。なぜ、自分はここにいるのか。そんな気さえした。考える力が麻痺したようで、お仕着せの黒いズボンの膝に拳を乗せてぼんやりするばかりだった。
 あまりに突然だったせいもあったし、外で嫌なことがあると家で暴れる父親を憎んでいただけに、ずいぶん呆気なく思えたのかもしれない。

 焼香や挨拶が粛々と進められていく。遺影にはモノクロの父親。人々は俯き、いかにも悲壮な顔をしている。けれど身内で泣いている者はいなかった。涙脆いはずの叔母も、父とよく釣りに行っていた伯父もただただ固い表情でいる。

 ひそひそと囁き合う声が耳に入ってくるうち、おかしなことに気づいた。事故現場が帰り道とは逆方向にある交差点だったのだ。どんどん母親も親族も何かを隠しているような気がしてきた。大人たちは誠をちらちら見やっては、「子どもが可哀想だわ」という言葉を何度も口にするのだ。

「ねえ、お父さんはどこに行こうとしていたの?」

 だが、誰もそれを教えてくれることはなかった。母親は「お父さんしか知らないことよ」としか言わなかったし、葬儀が終わると誠もそれどころではなくなった。
 死んだ父親は借金を残していたのだ。保険金で返済できたものの、手元に残されたものは心細いものだった。
 母の美冴はパートを増やし、夜はスナックで働くようになった。

「お母さん、お父さんより働き者だからさ、かえってうまくいくよ」

 葬儀の夜に言い出した言葉は、そのまま彼女の口癖になった。
 だが、誠は知っていた。癇癪持ちで決していい夫ではなかったが、それでも母は父を愛していたし、スナックから帰ると酒臭いまま冷蔵庫からビールを取り出し、しょっちゅう飲みながら泣いていた。

 父親の稼ぎがないぶん、収入は減った。貧乏といってもいい。けれどそのせいで誠に惨めな思いをさせたくない。母はその一心で、細い体に鞭打って働いていた。
 その姿は酸素のない水槽で口をぱくぱくさせる金魚のように見えた。スナックで働きだしてから真っ赤な口紅を塗るようになったせいかもしれない。派手な服に身をつつみ、長い髪を尾鰭のように揺らして仕事に行く母の背中に、誠は早く大人になりたいと願っていた。

 そんな母の様子が少し変わっていったのは、春先のことだ。
 いつも疲れて固い表情をしていたのに、まるで雪解けが来たかのように柔らかく笑うようになった。なにげない受け答えも穏やかだ。
 なにが母に起こったのかは、すぐにわかった。

「誠、こちらは陽平さん。お母さんのスナックのお客さんなの」

 ある日曜の朝、人の良さそうな男がアパートにやってきたのだ。小学生の誠にも、彼が母親の恋人であり、変化の原因であることはすぐにわかった。

「あ、あの、誠君って呼んでいいかな? その、加山陽平といいます。よろしく、ね。美冴さんにはいつもお世話になっているんだ」

 しごろもどろの声は優しくて、耳に心地いい。母を『美冴さん』と口にしたとき、ぽぽっと丸い頬が赤くなった。一方の母も珍しく顔を赤らめ、どぎまぎしながら誠を見つめている。

『僕が、お母さんを笑わせたかったのにな』

 一瞬、嫉妬のようなものが湧き出る。けれど、母の笑顔を柔らかくできたのはこの男で、自分ではなかった。人柄の良さだけが取り柄のような男だったが、八つ当たりで殴ってくる父親よりずっとマシだった。

 この人が僕の新しいお父さんになるのかな。それならそれで、別にいいか。そう思えたし、なにより母の顔つきが明るくなったのは嬉しかった。

 ところが、ある日、お風呂を出た誠は母親が誰かと電話しているのを立ち聞きして青ざめた。

「そうなの、今度の人はすっごいお人好し。ちゃんと働いてるし、浮気もしないだろうから安全よ。うん? 前の旦那がね、ひどかったからさ。今思い出しても腹が立つのよ。殺しても殺したりないわ」

 衝撃だった。『殺しても殺したりない』という言葉がこびりつき、昼も夜もそのことを考えるようになった。
 そんなバカなことあるわけがない。ドラマや映画じゃあるまいし。そう思っても、母のすべてが怪しく見えてくる。
 そこまで話すと、誠の目にはらはらと涙があふれ出た。

「もしかしたら、本当にお母さんはお父さんを殺したのかもしれないって思ったら、怖くて。でも、誰にも言えなくて」

 薫が呆れ顔で腕を組む。

「どうやって殺すのよ? だって、お父さんは交通事故だったんでしょ?」

「そんなの、なんとでも言えるよ。それにもし毒だったら、あとから効くかもしれないじゃないか」

「毒って? そんなものどこで手にいれるのよ」

「お母さん、お父さんが死んだ年にいきなり園芸を始めたんだ。殺虫剤とか農薬とか肥料をたくさん揃えてさ」

 そこで大輝が「ああ」と手を打った。

「それで君は農薬で人が殺せるかもしれないと思ったんですね」

「うん、だってご飯とかお酒に混ぜることだってできるんでしょう? 僕のお父さん、お酒ばっかり飲んでたから。それにさ前のお父さんが死んでから園芸なんてほったらかしだったのに、最近ずっと土いじりしているんだ。肥料も買い足してるし、もしかしたらまたやるかもしれない」

「どうして?」

「だって、あんまりお父さんのお給料よくないみたいだから。その、うちのお母さん、贅沢だし、わがままなんだ」

 パソコンの検索履歴の謎が解け、大輝はすっきりした顔で「なるほど。保険金目当てだと思ったんだね」と頷いている。

「そりゃあね、口にしたらいけませんけどね、もしお父さんが農薬を盛られたんだったら、とっくにお母さんは捕まってますよ。日本の警察はバカじゃありません」

「本当に? じゃあ、どうしてみんなお父さんの死んだ話を詳しくしてくれないの?」

 薫が「ううん」と唸る。

「わからないけどさ、事情があるんでしょ。うちのお父さんもろくでなしだったからさ、お母さんは『お父さんの話なんてしたくない』ってずっと言ってるよ」

 浮気性の父親を思い出していた薫が、はたと気づく。

「でもさ、だからってなんで『お父さんがお母さんとりこんしますように』なんて書いたの?」

「だって、新しいお父さんはいい人だから、死なせたくなかったんだ」

「へっ?」

「もしお父さんがお母さんと離婚して逃げてくれたら、死ななくて済むでしょう?」

「ああ、だからなんだ。なぁんだ」

 ふっと誠は大輝に顔を向けた。

「友達が前、言っていたんだ。ここのガラスペンを使ったら想いが届くって噂なんだって。だから僕、この店に来たくて、ちょうどお母さんの誕生日が近いから、それでここで買おうって提案したの」

 大輝がゆっくり頷いた。

「なるほどね。でも、どうしてお父さんの手紙を見たかったんです?」

「なんだかお父さんの様子が変なんだ。こっちをじっと見てるかと思うと、慌てて目をそらしたり」

「ああ、それはきっと、隠し事が下手だからですよ」

 笑いをこらえ、大輝は目を細める。

「わかりました。お父さんの手紙の内容をお見せしましょう」

「本当?」

 パッと顔を輝かせた誠に、「ただし」と大輝が人差し指を突きつける。

「帰ったら、陽平さんに全部話すんです」

「えっ? 何を? ここに来たこと?」

「全部です。この店に内緒で来たこと、あなたが疑っていたこと、どんな手紙を書いたかということ、そして何を守りたかったということ」

 誠はぐっと押し黙っていたが、やがて深く頷いた。それを見た大輝はポケットから陽平の手紙を取り出し、小さな手に握らせる。
 おそるおそる手紙を開き、目を落とした誠は、文面を一目見るなり「へへっ」と泣き笑う。

「本当に、いい人なんだ。いつも俺たちに気遣ってばっかりでさ」

「陽平さんは優しい人なんですよ」

「そうかもしれないけどさ」

 ティッシュを持ってきた薫が、誠に差し出す。

「ねぇ、あんたさ、あの手紙は書き直したら?」

「えっ?」

「あんたの本当の願いを書かなきゃ、ガラスペンは想いを届けないと思うよ」

 ニッと笑う薫に、誠がやっと涙を止め、バツの悪そうな顔になった。

「うん、本当はね、それをお願いに来たんだ」

 その日、誠はガラスペンを握り、何度も書き直しながら手紙をしたためた。
 四つ折りにした手紙をポストに入れたとき、彼の不協和音は少しばかり小さくなったのだった。
 帰り際、誠は大輝にこうたずねた。

「ねえ、さっきの猫缶おじさんってお兄さんのお父さん?」

「ああ、そうですね」

「いいなぁ、僕、あんなかっこいいお父さんが欲しかったな」

「陽平さんだっていいお父さんでしょう」

「でも、お母さんに遠慮ばかりして、なんだかもうちょっとビシッとしてほしいんだよね」

「それは贅沢な悩みですね」

 大輝が少し間を置いて、静かに続ける。

「僕とあの人はね、君と陽平さんのように血のつながりはありません」

 きょとんとした誠の後ろで、薫の目が見開かれていた。

「えっ! 詠人さんって、お父さんじゃないの?」

 慌てる薫をなだめ、彼は言う。

「義理の父ですよ」

 そしてひざまずき、誠の顔を正面から見つめてこう続けた。

「ねえ、誠君。本当の父親ってね、血では決まらないんです。君が決めるものです。そして陽平さんも君を本当の息子と思えば、それはもう立派な親子です。いつかわかると信じています。だからね、変な心配はもういりませんし、今度は内緒ではなく、堂々とお父さんと誕生日プレゼントを買いに来てくださいね」

 誠は「うん!」と朗らかな声で返事をし、店を出て行く。
 残された薫はただただ呆然としていたのだった。
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