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若苗色の親子
幼い悪意
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「薫さん、もしお時間があれば工房に来てくれますか?」
大輝からそんな電話が来たのは、時計の針が夜の八時を過ぎた頃だった。
「うん。いいけど、何かあった?」
そう尋ねながらも脳裏によつばポストが浮かぶ。ひょっとしたらまたインクを飛ばせるような手紙が入っていたかもしれない。胸踊る高揚と警戒が声ににじみ出てしまったらしく、大輝は電話の向こうでくすりと笑ったようだった。
「まあ、多分、薫さんが考えている通りですよ」
「よつばポストね?」
「ええ。しかも、あのお客様です」
「どのお客様よ?」
「ほら、シルバーの軽自動車ですよ」
群馬に来た日、駐車場まで一緒に走行した車を思い出し、薫は咄嗟に「今行く!」と電話を切る。
「おばあちゃん! これから工房行ってくる。よつばポストのお客さんが来たみたいでお呼びがかかった」
「あら、じゃあ、ついでに大輝ちゃんにおにぎりを持って行ってくれる?」
雅が言った。
「そろそろ店じまいをして工房に閉じこもっていたけれど『お腹すいてきたな』なんて考えているタイミングなんじゃないかと思うのよね」
薫がガラス工房に行くと、店の窓にはロールカーテンが降りていたが、入り口はまだ施錠されていなかった。
「不用心だなぁ」
呆れた顔で入ると、店の中は間接照明の光だけでほの暗かった。奥へと続く扉から煌々とした明かりが漏れている。
「お邪魔します」
そう声をかけてから入ると、思わず「わあ」と惚けてしまった。
煌々とした光が炉の巻き取り口から丸く輝いている。少しオレンジがかって澄んだ色だった。大きな窓と搬送口を開けたままにして扇風機を回しているが、むっと籠る熱が彼女を包み込む。ぶうんと何かの音が地を這うように低く聞こえるのは、炉の音なのか、扇風機の音なのか。
工房内には種類の違う炉が何基かある他に、作業台とベンチが見えた。隅っこの作業台に座る大輝は手元から視線を薫に移し、「ああ」と小さく呻いて苦笑した。
「早かったですね」
「うん。これ、おばあちゃんからおにぎりの差し入れ」
「ありがたい。いただきます」
「ねえ、何やってるの?」
大輝の右手にはルーペとガラスペン。作業台の上には紙やすりが置いてある。
「ペン先の研磨と調整です。試し書きして納得いくまで研磨して、ルーペで確認しての繰り返しですよ」
「へえ」
作業台の上に目を走らせた。作りかけのガラスペンが何本も入っている筒状の容器が並んでいる。壁には材料と思しき棒状のガラスが整然と立てかけられていた。そばにはバーナーや工具が並んでいる。
「ガラスペンってどうやって作るの?」
「バーナーが主流ですかね。パーツをそれぞれ作って、合体して調整。吹きガラス技法で作る人もいますよ」
「へえ、すごいね」
「ガラスペンって日本生まれの筆記具だって知ってました?」
「えっ、そうなの?」
「奥深いですよ。材料の違いもあれば軸やペン先のパーツそれぞれに個性が出ますから」
「ふうん。詠人さんも作るの?」
「いいえ、父は作りません。彼はグラスとか香水瓶のほうが好きみたいですね」
「へえ」
「それより、よつばポストなんですけどね」
「あ、そうだ! あのお客さんが来たんだね」
「ええ、でもね、今回は一人じゃなかったんです」
大輝がよつばポストの前に行き、中から二通の手紙を出した。
「これ、読んでみてください」
戸惑いながら目を通し、薫は眉をひそめた。片方には男性のものと思しき四角い筆跡で『親子三人、仲良くいられますように』とある。
癖字ではあるが、筆圧は強くもなく弱くもなく、どこもおかしなところが見当たらない。だが、問題はもう一枚のほうだった。
『お父さんがお母さんとりこんしますように』
明らかに子どもの筆跡だった。
「何、これ? 見事にすれ違ってるね」
「ですよねぇ」
「ガラスペンで飛ばせそう?」
「それがね、微妙なんですよね。どちらも想いは十分強いんですけど、あちらを立てればこちらが立たないでしょう?」
「そりゃ、この内容だもんね。親のこと嫌いなのかな?」
「どうでしょうね」
大輝が肩をすくめる。
「今度来たときにわかるといいんですけど」
「また来るの?」
「ええ。そう言っていましたよ」
大輝がその日の様子を話し出した。父親らしき男と小学生くらいの男の子が店にやってきたのは、薫たちが日帰り温泉に行っている時間帯のことだ。
「いらっしゃいませ」
そう声をかけながら、大輝はすぐに父親が例の男だと悟った。あの日は車中にいたところを話しかけたため、このとき初めて思ったより背が低いことに気づいた。相変わらず小さな目が優しげで、おにぎりを差し入れた日よりは、その背後に滲む不穏な色が減っていた。
『少し気持ちが安定したのかな』
そう察したものの、今度は彼が連れてきた男の子のほうが気になった。悪い気配とは言い切れないが、何か胸騒ぎがする空気を背負っている。
「うわあ、誠、見てみなよ。綺麗だねぇ」
「……うん」
父親はガラス工房の中を見回し、マコトと呼んだ男の子の背中をぽんと叩いた。
「ほら、お母さんへのプレゼント、一緒に選ぼう」
「お母さん、喜んでくれるかな?」
「きっと、喜ぶさ」
大輝がすっと進み出て、もう一度「いらっしゃいませ」と小さく会釈した。
「贈り物ですか?」
「ええ、誕生日なんです。その……妻の」
彼はためらいがちに『妻』と口にし、ぽっと耳まで赤くなった。
「へえ、素敵ですね。ご希望があれば色々お持ちしますよ」
「えっと、具体的にはまだ決めてなくて。しっかり者だから、記念にもなるけど、普段使いできるものがいいかなって思ってはいるんですけど」
ふと父親は男の子に声をかけた。
「誠は何がいいと思う?」
「なんでもいいよ」
「そう言うなよ。ほら、見てみよう」
二人で店内を見てまわる姿を、大輝はじっと見つめていた。男の子は思春期なのか、父親に「これは?」と品物を指差されても「わかんない」としか答えない。
ぐるっと一周してきた父親が、大輝に話しかけた。
「あの、贈り物で人気があるのってどういうものなんでしょう? みなさん、どんなプレゼントを?」
「そうですねぇ。奥様は何かご趣味はお持ちですか? 暮らしの中でこだわっていることやお好きな嗜好品などあれば」
「これといって趣味はないと思うけれど、化粧品と服は好きかなぁ。あ、あと煙草は吸うね」
「それでしたら灰皿はいかがでしょう? 毎日ご使用いただけますよ」
「ああ、それいいかもな。誠、どう思う?」
「いや」
「どうして?」
「……僕、煙草って嫌いだもん」
「そうか、そうだよなぁ」
父親はふっと眉尻を下げ、誠の小さな肩にそっと手を置いた。
「お前は何か気に入ったものがあったかい?」
誠がすっと指差したのは、よつばポストのそばにあるガラスペンだった。
「ねえ、お兄さん。ガラスペンで書けば想いが届くかもって本当?」
「そうですねぇ、強い想いなら届くかもしれませんねぇ」
「どれどれ、へぇ、綺麗だね」
父親が感心した様子で、ガラスペンにしげしげと見入る。
「よくもまぁ、こんなに細かいものを作れるもんだ。すごいなぁ」
「お父さん、これ、お母さんにいいと思う」
「ええ? ガラスペン?」
「うん」
「お母さん、ペンなんか使うかな?」
「でも、お母さんはキラキラ光る綺麗なものが好きだから、書かなくても喜ぶと思う」
「そうか、誠がそう言うなら、そうかな」
父親がふふっと微笑み、何本も並んだペンを見比べる。
「ううん、どれがいいかなぁ。こっちの青いのも綺麗だけど、赤もいいね」
それから延々と悩み続ける父親に、誠が呆れたように言った。
「お父さん、お母さんの好きな色で選べば?」
「おおう、そうか! で、何色が好きなんだろう?」
「僕も知らないよ」
「ええ、それは困ったな」
父親は力ないため息を漏らし、大輝に向き直った。
「あの、妻の好きな色を聞き出してきますんで、出直してもいいですか?」
「もちろんですよ」
「すみません。それじゃ誠、行こうか」
「待って、僕、ガラスペンで字を書いてみたい!」
誠は少し上を向いた鼻の穴を膨らませ、大輝に詰め寄った。
「ねえ、いいでしょう?」
「もちろんです。使い方をお教えしますよ。お父様もご一緒にどうぞ」
「やや、すみませんね」
大輝は二人がガラスペンを走らせる背中を見て、唇を引き締めた。二人とも、よつばポストに入れる手紙を書き始めた途端、濁った色をまとったからだ。父親のほうはあの日と同じ、淀みのある色。だが、少しばかり和らいでいる。
問題は誠という少年のほうだった。ぐっと力をこめたガラスペンの先から、淀んだ色がほとばしる。その濃さは父親のものとは比べものにならなかった。
その話を聞き、薫が手紙をじっと見つめる。
「その男の子が書いたのが、これなのね」
「ええ。まぁ、世の中には両親の離婚を願う子どもがいても不思議じゃないんですけどね、この文はちょっと気になるんですよね」
「さすがにこれは飛ばしていい想いなのか迷うよね。でもさ、ちょっとわかるな」
「何がです?」
「離婚すればいいのに、なんてさ、誰にも言えないもんね」
薫の脳裏に両親の姿がよぎる。思い浮かぶのは、いつも後姿だ。
すると、大輝が小さく呟いた。
「自分の親でも違う人間ですからね、思うようにはいかないこともありますよね」
「詠人さん、いいお父さんじゃない」
そう何気なく言った薫は、ハッとする。大輝の目元にかすかな影が帯びた。
「あの人はね、父であって、父ではないんです」
「え、それってどういう意味?」
「そのままの意味ですよ。ああ、おにぎりご馳走さまでした。雅さんによろしく」
「ちょっと、答えになってないよ」
「それではおやすみなさい」
ぐいぐいと押し出され、薫の眼の前で扉は閉められた。
「ちょっと! 気になるじゃないよ! 教えてくれるまで、もう二度と差し入れしないんだからね!」
薫が怒鳴った途端、店の間接照明が消された。夏の匂いが漂う夜気に取り残され、薫はぷうっと膨れっ面になる。
秘密にされることがこんなに寂しいことだとは知らなかった。知りたい。けれど『父ではない』と言った伏し目を思い出すと、胸の奥にチクリとした痛みが走った。
「そんな顔、しないでよ」
キッと店を睨みつけ、薫は雅のもとに戻っていたのだった。
大輝からそんな電話が来たのは、時計の針が夜の八時を過ぎた頃だった。
「うん。いいけど、何かあった?」
そう尋ねながらも脳裏によつばポストが浮かぶ。ひょっとしたらまたインクを飛ばせるような手紙が入っていたかもしれない。胸踊る高揚と警戒が声ににじみ出てしまったらしく、大輝は電話の向こうでくすりと笑ったようだった。
「まあ、多分、薫さんが考えている通りですよ」
「よつばポストね?」
「ええ。しかも、あのお客様です」
「どのお客様よ?」
「ほら、シルバーの軽自動車ですよ」
群馬に来た日、駐車場まで一緒に走行した車を思い出し、薫は咄嗟に「今行く!」と電話を切る。
「おばあちゃん! これから工房行ってくる。よつばポストのお客さんが来たみたいでお呼びがかかった」
「あら、じゃあ、ついでに大輝ちゃんにおにぎりを持って行ってくれる?」
雅が言った。
「そろそろ店じまいをして工房に閉じこもっていたけれど『お腹すいてきたな』なんて考えているタイミングなんじゃないかと思うのよね」
薫がガラス工房に行くと、店の窓にはロールカーテンが降りていたが、入り口はまだ施錠されていなかった。
「不用心だなぁ」
呆れた顔で入ると、店の中は間接照明の光だけでほの暗かった。奥へと続く扉から煌々とした明かりが漏れている。
「お邪魔します」
そう声をかけてから入ると、思わず「わあ」と惚けてしまった。
煌々とした光が炉の巻き取り口から丸く輝いている。少しオレンジがかって澄んだ色だった。大きな窓と搬送口を開けたままにして扇風機を回しているが、むっと籠る熱が彼女を包み込む。ぶうんと何かの音が地を這うように低く聞こえるのは、炉の音なのか、扇風機の音なのか。
工房内には種類の違う炉が何基かある他に、作業台とベンチが見えた。隅っこの作業台に座る大輝は手元から視線を薫に移し、「ああ」と小さく呻いて苦笑した。
「早かったですね」
「うん。これ、おばあちゃんからおにぎりの差し入れ」
「ありがたい。いただきます」
「ねえ、何やってるの?」
大輝の右手にはルーペとガラスペン。作業台の上には紙やすりが置いてある。
「ペン先の研磨と調整です。試し書きして納得いくまで研磨して、ルーペで確認しての繰り返しですよ」
「へえ」
作業台の上に目を走らせた。作りかけのガラスペンが何本も入っている筒状の容器が並んでいる。壁には材料と思しき棒状のガラスが整然と立てかけられていた。そばにはバーナーや工具が並んでいる。
「ガラスペンってどうやって作るの?」
「バーナーが主流ですかね。パーツをそれぞれ作って、合体して調整。吹きガラス技法で作る人もいますよ」
「へえ、すごいね」
「ガラスペンって日本生まれの筆記具だって知ってました?」
「えっ、そうなの?」
「奥深いですよ。材料の違いもあれば軸やペン先のパーツそれぞれに個性が出ますから」
「ふうん。詠人さんも作るの?」
「いいえ、父は作りません。彼はグラスとか香水瓶のほうが好きみたいですね」
「へえ」
「それより、よつばポストなんですけどね」
「あ、そうだ! あのお客さんが来たんだね」
「ええ、でもね、今回は一人じゃなかったんです」
大輝がよつばポストの前に行き、中から二通の手紙を出した。
「これ、読んでみてください」
戸惑いながら目を通し、薫は眉をひそめた。片方には男性のものと思しき四角い筆跡で『親子三人、仲良くいられますように』とある。
癖字ではあるが、筆圧は強くもなく弱くもなく、どこもおかしなところが見当たらない。だが、問題はもう一枚のほうだった。
『お父さんがお母さんとりこんしますように』
明らかに子どもの筆跡だった。
「何、これ? 見事にすれ違ってるね」
「ですよねぇ」
「ガラスペンで飛ばせそう?」
「それがね、微妙なんですよね。どちらも想いは十分強いんですけど、あちらを立てればこちらが立たないでしょう?」
「そりゃ、この内容だもんね。親のこと嫌いなのかな?」
「どうでしょうね」
大輝が肩をすくめる。
「今度来たときにわかるといいんですけど」
「また来るの?」
「ええ。そう言っていましたよ」
大輝がその日の様子を話し出した。父親らしき男と小学生くらいの男の子が店にやってきたのは、薫たちが日帰り温泉に行っている時間帯のことだ。
「いらっしゃいませ」
そう声をかけながら、大輝はすぐに父親が例の男だと悟った。あの日は車中にいたところを話しかけたため、このとき初めて思ったより背が低いことに気づいた。相変わらず小さな目が優しげで、おにぎりを差し入れた日よりは、その背後に滲む不穏な色が減っていた。
『少し気持ちが安定したのかな』
そう察したものの、今度は彼が連れてきた男の子のほうが気になった。悪い気配とは言い切れないが、何か胸騒ぎがする空気を背負っている。
「うわあ、誠、見てみなよ。綺麗だねぇ」
「……うん」
父親はガラス工房の中を見回し、マコトと呼んだ男の子の背中をぽんと叩いた。
「ほら、お母さんへのプレゼント、一緒に選ぼう」
「お母さん、喜んでくれるかな?」
「きっと、喜ぶさ」
大輝がすっと進み出て、もう一度「いらっしゃいませ」と小さく会釈した。
「贈り物ですか?」
「ええ、誕生日なんです。その……妻の」
彼はためらいがちに『妻』と口にし、ぽっと耳まで赤くなった。
「へえ、素敵ですね。ご希望があれば色々お持ちしますよ」
「えっと、具体的にはまだ決めてなくて。しっかり者だから、記念にもなるけど、普段使いできるものがいいかなって思ってはいるんですけど」
ふと父親は男の子に声をかけた。
「誠は何がいいと思う?」
「なんでもいいよ」
「そう言うなよ。ほら、見てみよう」
二人で店内を見てまわる姿を、大輝はじっと見つめていた。男の子は思春期なのか、父親に「これは?」と品物を指差されても「わかんない」としか答えない。
ぐるっと一周してきた父親が、大輝に話しかけた。
「あの、贈り物で人気があるのってどういうものなんでしょう? みなさん、どんなプレゼントを?」
「そうですねぇ。奥様は何かご趣味はお持ちですか? 暮らしの中でこだわっていることやお好きな嗜好品などあれば」
「これといって趣味はないと思うけれど、化粧品と服は好きかなぁ。あ、あと煙草は吸うね」
「それでしたら灰皿はいかがでしょう? 毎日ご使用いただけますよ」
「ああ、それいいかもな。誠、どう思う?」
「いや」
「どうして?」
「……僕、煙草って嫌いだもん」
「そうか、そうだよなぁ」
父親はふっと眉尻を下げ、誠の小さな肩にそっと手を置いた。
「お前は何か気に入ったものがあったかい?」
誠がすっと指差したのは、よつばポストのそばにあるガラスペンだった。
「ねえ、お兄さん。ガラスペンで書けば想いが届くかもって本当?」
「そうですねぇ、強い想いなら届くかもしれませんねぇ」
「どれどれ、へぇ、綺麗だね」
父親が感心した様子で、ガラスペンにしげしげと見入る。
「よくもまぁ、こんなに細かいものを作れるもんだ。すごいなぁ」
「お父さん、これ、お母さんにいいと思う」
「ええ? ガラスペン?」
「うん」
「お母さん、ペンなんか使うかな?」
「でも、お母さんはキラキラ光る綺麗なものが好きだから、書かなくても喜ぶと思う」
「そうか、誠がそう言うなら、そうかな」
父親がふふっと微笑み、何本も並んだペンを見比べる。
「ううん、どれがいいかなぁ。こっちの青いのも綺麗だけど、赤もいいね」
それから延々と悩み続ける父親に、誠が呆れたように言った。
「お父さん、お母さんの好きな色で選べば?」
「おおう、そうか! で、何色が好きなんだろう?」
「僕も知らないよ」
「ええ、それは困ったな」
父親は力ないため息を漏らし、大輝に向き直った。
「あの、妻の好きな色を聞き出してきますんで、出直してもいいですか?」
「もちろんですよ」
「すみません。それじゃ誠、行こうか」
「待って、僕、ガラスペンで字を書いてみたい!」
誠は少し上を向いた鼻の穴を膨らませ、大輝に詰め寄った。
「ねえ、いいでしょう?」
「もちろんです。使い方をお教えしますよ。お父様もご一緒にどうぞ」
「やや、すみませんね」
大輝は二人がガラスペンを走らせる背中を見て、唇を引き締めた。二人とも、よつばポストに入れる手紙を書き始めた途端、濁った色をまとったからだ。父親のほうはあの日と同じ、淀みのある色。だが、少しばかり和らいでいる。
問題は誠という少年のほうだった。ぐっと力をこめたガラスペンの先から、淀んだ色がほとばしる。その濃さは父親のものとは比べものにならなかった。
その話を聞き、薫が手紙をじっと見つめる。
「その男の子が書いたのが、これなのね」
「ええ。まぁ、世の中には両親の離婚を願う子どもがいても不思議じゃないんですけどね、この文はちょっと気になるんですよね」
「さすがにこれは飛ばしていい想いなのか迷うよね。でもさ、ちょっとわかるな」
「何がです?」
「離婚すればいいのに、なんてさ、誰にも言えないもんね」
薫の脳裏に両親の姿がよぎる。思い浮かぶのは、いつも後姿だ。
すると、大輝が小さく呟いた。
「自分の親でも違う人間ですからね、思うようにはいかないこともありますよね」
「詠人さん、いいお父さんじゃない」
そう何気なく言った薫は、ハッとする。大輝の目元にかすかな影が帯びた。
「あの人はね、父であって、父ではないんです」
「え、それってどういう意味?」
「そのままの意味ですよ。ああ、おにぎりご馳走さまでした。雅さんによろしく」
「ちょっと、答えになってないよ」
「それではおやすみなさい」
ぐいぐいと押し出され、薫の眼の前で扉は閉められた。
「ちょっと! 気になるじゃないよ! 教えてくれるまで、もう二度と差し入れしないんだからね!」
薫が怒鳴った途端、店の間接照明が消された。夏の匂いが漂う夜気に取り残され、薫はぷうっと膨れっ面になる。
秘密にされることがこんなに寂しいことだとは知らなかった。知りたい。けれど『父ではない』と言った伏し目を思い出すと、胸の奥にチクリとした痛みが走った。
「そんな顔、しないでよ」
キッと店を睨みつけ、薫は雅のもとに戻っていたのだった。
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