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桜色の大岡山

桜が散ったあとに

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 櫻井ガラス工房から帰った薫は、しばらくぼんやりとしていた。ガラスペンの妖しいまでの輝きとインクの滲み、そして大輝の横顔が脳裏から離れない。
 その夜、食卓を囲みながら儀式のことを話すと、雅は羨ましそうな顔をした。

「まあ、儀式を見たの? いいわね。私も見てみたいわ」

「でも、大輝さんは辛いときもあるって言ってたよ」

「それはそうでしょうけど、色の多い世界って素敵だと思わない?」

「ねえ、おばあちゃん。大輝さんがね、想いがどこにあるか確かめたいって言ってたの。なんのことかわかる?」

「さあねぇ」

 雅は天井に視線を泳がせる。その様子をじっと見ていた薫が、にやりとした。

「おばあちゃん、何か隠してるでしょ?」

「知らないわよ。どうして?」

「鼻の穴が膨らんでる。お母さんが嘘つくときの癖と同じ」

「いやあね、この子ったら」

 サッと雅の頬が染まってばつの悪そうな顔になる。しかし、すぐに口許が引き締まった。

「そうね、心当たりはあるの。でも、それを私の口から言えないでしょう?」

「うん、まあ、そうだね」

「薫、焦らないでね」

「うん?」

「知るときが来たら、きっと知ることよ。これからゆっくり、私たちと心を寄せていってちょうだい」

「そうか。そうだね」

「将来のこともね、じっくり自分の心と向き合って、ちゃんと自分で決めなさい」

「……ありがとう」

 そう言いながら、彼女はぎこちなく笑った。思えば、母からもいつも『自分で決めろ』と言われてきた。それなのに、気がつけば先生や友人、両親の顔色を窺い、周囲に合わせてきた。それはつまり、本当の意味で自分の選択ではなかった。薫は大輝と展望台で交わした会話で、そのことに気づいてしまった。

「自由にしていいって言われた今、こうして放り出されたような気分になるのってさ、私が今までちゃんと自分の責任で選択してきたことってなかったってことだと思うの」

 思わずうつむいた薫に、祖母は優しく頷いた。

「自分で選ぶと、うまくいかなかったとき誰のせいにもできないし、怖いかもしれないわね。けどね、悪くないものよ」

「本当?」

「うん。うまくいったら達成感がすごいし、うまくいかなくても、あなたを育てる土になる」

「うん、そうだといいな」

 食卓の味噌汁に目を落とし、彼女はふっと呟いた。

「ねぇ、おばあちゃん」

「なあに?」

「私のこと、扱いにくくない?」

「えっ?」

「今までずっと会わなかったのって、お母さんとうまくいってなかったんじゃないの? 私といるとお母さんを思い出さない?」

「まあ、そんなことを気にしていたの?」

 雅の顔つきが曇った。

「ごめんなさいね、気づけなくて。でもそうねぇ、当たらずとも遠からずでね、私は克己かつみさんと清良の結婚に反対だったの」

 父の名を耳にし、薫は「ああ」と腑に落ちた声を上げた。

「おばあちゃんのほうが男を見る目があったのね」

「だってねぇ、克己さんの女癖の悪さは有名だったし、それになんだか言うことも薄っぺらくてね。詠ちゃんも清良のことを気に入ってくれていたらしいのに、どうして克己さんなんかを選んだのかしら」

 娘としては『なんか』呼ばわりされた父を庇いたいような気もしたが、フォローできそうにもない。もう何年も母を堂々と裏切り続けてきたことは、薫にとっても許せるものではなかった。

「まあ、あなたという孫を生んでくれたことは二人に感謝してるけどね、清良ったら家を出たときに連絡先も全部変えて北海道に移住しちゃってね、離婚の報告が来るまで、こちらから連絡しようがなかったの」

「じゃあ、もしかして孫がいることも知らなかったの?」

「そうよ。いるんだろうなとは思ったけど、名前も性別もわからないんだもの。あの二人のせいで孫の成長を全然見られなかったんだから」

「そうだったんだ」

「私だって、赤ちゃんの頃のあなたを抱っこしてオムツ替えて一緒にお風呂入りたかったわ」

 拗ねるような雅を見て、薫はどこかくすぐったい気持ちになる。苦手だと思っていた祖母が、一気に可愛らしく見えた。

「ねえ、おばあちゃん。詠人さんの初恋の人がお母さんって本当だったんだ」

「みたいね。でも、詠ちゃんはとっても素敵な奥様と一緒になってね。幸せそうだったわ」

「でも今は大輝さんと二人なんだよね?」

「そうなの。ご病気で亡くなったのよ」

「そうかぁ」

 人には何かしら抱えているものがあるのだ。そう思うと、詠人の陽気な笑みがもの悲しく映る。

「本当は誰だって、ガラスペンで届けたい想いがあるのかもね」

 そのとき、脳裏に浮かんでいたのは大輝の姿だった。あんな力が目の前にあるのなら、彼自身の想いを飛ばしたこともあるかもしれない。『想いがどこにあるか、確かめたい』と言ったとき不協和音が聞こえてきたのは、彼にも何かしらの闇があるということなのだ。

「ねぇ、薫。あなたは届けたい想い、あるの?」

 そう問われた薫は、何も答えることができなかった。彼女には自分の音はなにひとつ聞こえた試しがなかったのだから。

 それから三日間があっという間に過ぎていった。雅の捻挫した右足首も、車を運転できるまで回復していた。
 雅と薫の間にも少しずつルールと慣れが生まれている。食事を用意するのは雅で、掃除洗濯は薫が担当することになっていた。
 あれからよつばポストの儀式には声はかからないままだ。ガラスペンで飛ばせる想いというのは、そんなにしょっちゅうあるものではないらしい。

 そして四日目の昼、札幌から山のような荷物が届いた。靴、衣類、お気に入りの本とノートパソコンといった、薫の私物だった。
 荷ほどきをしていると、キッチンにいる雅が名前を呼ぶ声がする。

「薫! ちょっと手伝ってくれる?」

「どうしたの?」

「これ、見て」

 彼女が満面の笑みで見せてくれたのは、二十日大根がたくさん入った袋だった。

「うわあ、いっぱいだね!」

「聡子ちゃんの畑で採れたのよ。おすそわけしてくれたの」

 今まで二十日大根といえばビー玉のような赤い根が可愛らしいイメージだったが、聡子の作ったものは、生命力に溢れて力強い。瑞々しいたくさんの葉がついていて、根はピンポン球ほどの大きさがあった。

「甘酢漬けにするから手伝って。根と葉を切り分けてちょうだい」

「うん」

 雅に言われた通り、葉がバラバラにならないように切りわけ、よく洗う。

「けっこう虫食いあるね」

「虫も食べるほど美味しいってことよ」

 雅は得意げに言うと、鍋に酢と砂糖、塩を入れて火にかける。

「おばあちゃん、葉っぱはどうするの?」

「軽く茹でて刻んで塩もみするの。納豆に入れると美味しいんだから」

「へえ、楽しみ」

 二十日大根の赤い根は半分にカットされ、さっとお湯で茹で、ザルにあげる。耐熱容器に移し、甘酢がかけられた。

「わあ!」

 思わず薫が歓声を上げる。甘酢は二十日大根を漬けた途端、まるで手品のように鮮やかな赤に染まった。

「クランベリージュースみたいな色ね」

「可愛いでしょ。明日には食べられるわね」

 二十日大根の白い断面はもううっすらと桜色に染まっていた。
 ふと、薫は窓の外に目をやる。いつの間にか桜の花は消えていた。その代わり、駐車場の端にある木が白い花をつけているのが見えた。

「あの白い花、なんていうの?」

「ああ、ハナミズキよ」

「ふうん」

 ハナミズキの花は北海道では滅多に咲かない。名前は知っていても、実物を見るのは初めてだった。
 薫は青空に映える花びらから祖母に目を移す。

「ねえ、おばあちゃん」

「なに?」

「私ね、野菜直売所の手伝いしていいかな?」

「えっ、もちろんよ。でも、あなたはそれでいいの? 予備校に行くこともできるのよ」

「私、変わりたいの」

 大根の葉が茹で上がる匂いを嗅ぎながら、薫が言う。

「ここに来て良かったって思いたい。そのためにもっと色んなことを知りたいの。みんなのことも、それから群馬のことも。ここではどんな花が咲いて、どんな野菜がいつ頃、旬なのか。だって、私そういうこと何も知らないんだもの」

 雅は返事の代わりに、孫の背中を優しく撫でたのだった。

 一方その頃、市街地にあるアパートの一室で、一人の女性がテーブルに置かれた絵はがきと睨めっこをしていた。その右手にはガラスペンがある。
 隣県に住む両親に送ろうと思ったものの、いざペンを手にすると何から書いていいものか考えあぐねていた。

 ガラスペンを見ると、窓からの光が透けて青い螺旋を描く軸が輝いている。それは大岡山のガラス工房で衝動買いしたものだった。
 書き味に感動したせいもあるが、十八年一緒に過ごした愛猫のソラを亡くして寂しい思いをしていたところに店員から優しい言葉をかけられたこともあり、つい財布の紐を緩めてしまったのだ。

 彼女はガラス工房の若い男性店員を思い出す。涼しげな目許と穏やかな口ぶりが魅力的だった。彼にすすめられるままに『よつばポスト』にソラへの手紙を書いて投函したら、不思議と気持ちが軽くなったのだ。喪失感はそのままなのに、あれ以来、涙が止まらなくなることはなくなった。

『ガラスペンは想いを届けてくれることがありますよ』

 あの店員の言葉が本当だとしても、天国まで届くものだろうか。そう考えて、彼女はふっと笑う。

「ばかばかしい」

 気休めに過ぎない。あれは彼のセールストークであり、同情だ。

『あなたが泣くと天国のソラが安心できないよ』

『いつか、生まれ変わって戻ってくるよ』

 そんな言葉を友人や同僚からたくさんもらった。けれど、どれも心に響かない。だって、ただひたすらソラの背中に顔をうずめ、匂いを嗅ぎ、温もりを感じたい。どんな言葉でも喪失感を埋めることは難しいのだ。

 それなのに、あの店員の言葉だけは確かに気持ちを楽にしてくれたのが不思議だった。
 彼女はガラスペンを置き、ベッドに横になる。じわりと涙腺が緩んで慌てて深呼吸する。

 そのときだった。
 ふわり。何か柔らかいものが頬を撫でたような気がした。それはかつて毎日当たり前のように感じていた、愛おしい小さな命の形。

「ソラ?」

 慌てて起き上がる。今度は膝の上に懐かしい重み。

「ここにいるの?」

 ぼたぼたと涙をこぼし、彼女が呟いた。

「私がいつまでも泣いているから、天国に行けないの? そうなの?」

 すると二の腕に軽く甘噛みの痛みが走る。
 姿はない。けれど、それは愛猫が甘える仕草そのものとなって、目に浮かぶ。

「にゃあん」

 微かに愛おしい声を聞いた気がした。

「待って、もう少しここにいて。お願い」

 そう願った途端、膝の上にうっすらともやのような影が見えた。カワセミのような青い色で、その形は紛れもなく愛猫のものだった。
 座っていた影が立ち上がり、ぴんと尻尾を張った。そして彼女の膝に額を擦りつけると、また小さく鳴いて消えた。その響きはベッドで『おやすみ』と声をかけたときに返す鳴き声と同じだった。

「……ソラ、私、待ってるね」

 彼女は涙と鼻水で顔をぐしょぐしょにさせて呟く。

「私、強く生きるから。だから、安心して毛皮を着替えてきて。待ってるからね」

 窓の外では葉桜が風にそよぎ、空を駆けていく猫を見送っていた。
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