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桜色の大岡山

もつれる音

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 話しかけられても一言だって返すものかと意気込んでいたが、大輝から口を開くこともなく、車中は沈黙のまま櫻井ガラス工房に戻ってきた。
 停車するやいなや、薫はキッと大輝に鋭い目を向け、「案内ありがとうございました!」と、乱暴に言い放つ。勢いよく外に出て、思いっきりドアを閉めた。

「喜怒哀楽のはっきりした子ですね」

 肩をいからせて家に戻る後ろ姿に、大輝は小さく呟く。十代の少女が見せる刺々しいほどむき出しの感情は、幼くて微笑ましいとともに眩いものがある。

「僕も高校卒業した頃はあれこれ悩みましたけどねぇ。それにしても、あの子はもったいないなぁ」

 彼は車を降りて駐車場を見回し、「ふうん」と小さく唸った。昨日の軽自動車は見つからない。ガラス工房の前にあるベンチでは、ウメとタイコの二匹が寄り添って日向ぼっこをしていた。

「ただいま。お客様は帰ったみたいだね」

 大輝が話しかけると、猫たちは前脚をぴんと張り、伸びをした。そして扉の前にぞろぞろ歩いていく。

「わかったよ、今開けるから」

 大輝はふと薫のほうを見やる。ちょうど、雅の野菜直売所に入っていくところだ。

「ううん、あの子にもよつばポストを見せたほうがいいんでしょうけれど、すっかり怒らせちゃったからなぁ。来てくれるでしょうかね」

 すると、足元でタイコが「んなぁ」と鳴きながら尻尾を大きく振った。まるで「知らんわ、そんなん」とでも言いたげな顔だ。

「……なるようにしかならない、ですね」

 少し苦笑いを浮かべ、大輝は猫とともに扉の向こうに消えた。

 一方、大輝が車を降りた頃、ドスドスと荒い足取りで家に向かっていた薫は、一階の野菜直売所が開いているのに気づいて足を止めた。

『ちょっと寄ってみようかな』

 野菜直売所の話をする祖母のいきいきした顔を思い出し、彼女の好奇心がむくむくと湧き出した。おっとりしていそうな祖母を熱中させる直売所とはどんなものか、見てみたくなったのだ。
 ガラス張りの扉の向こうに、一人の老婦人と話している雅の姿があった。おずおずと中に入ると、ずらっと並んだ棚に色鮮やかな野菜や惣菜が並んでいた。
 店内の様子に見入っている薫を見つけた雅がにこやかに声をかけた。

「あら、おかえり! ちょうどよかったわ。ねね、聡子ちゃん、この子が孫の薫よ」

 一緒に話していた老婦人が振り向き、パッと顔を輝かせた。

「あっらぁ、可愛い! さすが雅ちゃんの孫ねぇ、いい顔してるわ」

「薫、紹介するわね。こちらは武嶋聡子さん。私の幼馴染でね、野菜直売所を始めるときに一番最初に協力してくれた農家さんなのよ」

 聡子は着古した作業服に土のついた長靴、そして手ぬぐいのほっかむりという、絵に描いたような農家らしい格好をしていた。化粧のない顔は日に焼けて丸みがあり、愛嬌のある顔立ちだ。

「あの、はじめまして」

 とっさにお辞儀をすると、聡子が目を線のようにして笑う。

「今ね、売り切れた分を補充しに来たの。薫ちゃん、早く来ないかなって話していたところよ。会えて良かったわぁ」

 聡子は『来ない』を『こない』ではなく『きない』と口にした。群馬の方言なのだろう。
 ふと、雅がカウンターいっぱいに乗せられた野菜を「ほら、あれが根三つ葉よ」と、指差した。

「ああ、昨日の?」

「そう、綺麗でしょ」

 すっと伸びた白い茎は先にいくほど鮮やかな緑となり、よくお吸い物などで見かける葉がついていた。

「うん、綺麗」

「なに、薫ちゃんは根三つ葉が好きなん?」

「好きもなにも、昨日初めて食べたのよ」

「あらぁ、根三つ葉もわかんないで野菜直売所の仕事するん? 大丈夫なん?」

 聡子は仰々しく眉をしかめて見せる。その仕草がバカにしているようで、ムッとした。

「まだやるとは決まってないわよ。聡子ちゃんはせっかちねぇ」

「まぁ、若い人が手伝ってくれるんなら、ありがたいよねぇ。薫ちゃん、今度は二十日大根持ってくるから、たっくさん食べてな」

「二十日大根?」

「あれ、知らない? 小さくて赤い大根さ」

 そっと雅が「ラディッシュのことよ」と囁く。

「ああ、ラディッシュね」

「そうそう、それだ。さっすが都会育ちはお洒落だこと。甘酢漬けにすると美味しいんだから。楽しみにしててな。じゃあ、雅ちゃん、またね」

 聡子はのそのそと店を出て、目の前に止めてあった軽トラックに乗り込んでいった。帰り際の笑顔から察するに、都会育ちというのは皮肉でも侮蔑でもなく大真面目に言ったものらしい。
 雅が薫に向き合い、微笑む。

「気を悪くしないでね。群馬の言葉はちょっと荒いの」

 瞬時に大輝のことを思い出し、一気に膨れっ面になる。

「土地柄なんて、そんなの言い訳でしょ。要はその人が気遣いできないのを県民性のせいにしているだけじゃない。根三つ葉を知らなかっただけであんなバカにしたような口をきくことないし。聡子さんだけじゃないよ。あの大輝って人もなんであんなに遠慮なく物を言うの?」

 むくれる薫に、雅はふふっと笑う。

「まぁ、口は悪くても気は悪くないのよ。きっと大輝ちゃんともすぐ仲良くなれるわ。喧嘩するほど仲が良いっていうものね」

「仲良くない!」

「ふうん。その割には緊張が解けているみたいだけどね。すっかり、よそ行きの声じゃなくなってるわ」

「もう! おばあちゃんまで……」

「あら、お客さんだわ。薫、お昼ご飯は冷蔵庫に入ってるからね」

 そう言うと、雅はいそいそとレジに向かう。女性客がかごいっぱいの野菜を持って会計に来たようだ。
 薫はふと入り口付近の棚に目を留めた。惣菜や赤飯、おこわ、それにおにぎりが並んでいる。

 彼女は玄関に向かい、ためらいながらドアノブに手を置いた。
 がちゃりと蝶番の音を聞きながら入ると、がらんとしたリビングに出る。冷蔵庫に向かう足音がやたら響く。
 雅はオムライスを作ってくれたらしい。冷蔵庫の中に『お昼ご飯です』とだけ書かれたメモと一緒に入っていた。

「やっぱり、似てる」

 母のメモも、こんな風にいつも素っ気なかった。帰って来た自分に『どうだった?』『どこに行ってきたの?』などと一言もきかないところも似ている。清良も雅も、自分よりもっと他のことに関心があって、ほったらかしなのだ。

 スプーンを取り出して、オムライスを一口食べてみる。美味しいはずだ。色も香りも良いし、祖母が料理上手なのは昨日のご馳走で証明されている。それなのにすんなり喉を通らない。つつっと温い涙が頬を滴り落ちた。胸の奥が締め付けられ、思わず背を丸めて縮まる。それが『淋しい』という感情であり、すっかりそれをこじらせているのだと、彼女は嫌という程知っていた。

「帰りたい」

 帰る場所もないのに? 自嘲する声が頭の中に響く。まるで大海原を彷徨う漂流者のような狂おしい気分だった。

 午後になると、薫は敷地そばのバス停から市街地に一人で出かけなければならなかった。携帯電話で時刻表や地図を調べながら向かったのは市役所だ。転入の手続きを終えたときには、不慣れな書類と押印の連続に疲れ果てていた。

 帰りのバスは一時間に一本。いつ廃線になってもおかしくはないほど、客の乗り降りが少ない。
 一番後ろの座席を陣取って車内をよく見通せていた彼女は、前の方に女性の後ろ姿を見つけて眉をひそめた。

『ううん、ちょっと嫌だな』

 彼女がいつから乗っていたのか、思い出せないのだ。最初からいたように感じるし、いなかった気もする。こんな調子で何かが曖昧に引っかかるときは、大抵ろくなことがない。

 バスが市街地を抜け、杉で囲まれた山道に差し掛かる頃、薫はため息を漏らしそうになった。足元から沸き起こるような不協和音がかすかに聞こえてきたのだ。音の出所はやはり前の先にいる女性だった。

『昨日の軽自動車よりは音が小さいけれど、やっぱり良くないものが引き寄せられるんだな』

 そう思った瞬間、薫はびくっと飛び上がる。前に座っている女性がすうっと振り返り、薫をちらっと見てからまた前を向いたのだ。
 偶然かもしれない。視線を感じただけかもしれない。けれど、その目には生気がなくぞっとするものだった。

 いてもたってもいられず、降車ボタンを押す。逃げるようにバスを降りようと女性の脇を早歩きで通る瞬間、鳥肌がたった。バスが走り去ると、どっと冷や汗が伝う。
 目的のバス停まであと三つある。歩道もない急勾配の坂、しかも山奥である。けれど、あの女性とバスに乗り続けるよりずっと気が楽だ。幸い日が沈む前で辺りも明るい。

「ここに来て良かったなんて、どう考えても思えないんだけど!」

 薫の叫びが虚しく杉山に消える。スニーカーで良かったと思いつつ、二十分ほど歩くと、家が見えてきた。ほっと胸を撫でおろした瞬間だった。

「これは……」

 思わず辺りを見回す。そして彼女の目は櫻井ガラス工房に釘付けになった。今まで聞いたことのない音が聞こえたのだ。
 不協和音がもつれ、戸惑いながらも徐々に協和音に変わっていく。

「こんなの初めて聞いた」

 新しく生まれた協和音はたどたどしく、音も小さい。けれど、確かに聞こえてくる。
 薫は音に誘われ、櫻井ガラス工房の窓を覗き見たのだった。
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