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桜色の大岡山

好きになれません

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「ちょっと待ってください! 『自殺の名所』ってなんですか?」

 薫が詰め寄ると、詠人がきょとんとした。

「あれ、知らなかった?」

「知らないです!」

「この大岡山にはダムがあるんだ。その人工湖の底には村が沈んでいてね。あんまり良くないものを引き寄せるそうだよ」

「どうりで!」

 半分泣きそうな顔で頭を抱えた。昔からいわくつきの場所に近寄ると、奇妙な音を聞くのだ。そう、昨日の不協和音のように。

「あの軽自動車、絶対『自殺の名所』に引き寄せられてきたクチでしょ! 面倒臭いところに来ちゃったよ!」

 取り乱す薫に、詠人が同情の眼差しを向ける。

「ああ、君ってだもんね」

「そっち側?」

「だから、視えるタイプでしょ? 霊感持ちっていうのかな。大変だよねぇ。ただでさえ世知辛い世の中なのにさ、もっとたくさんの人が視えるんだもんね」

「いや、視えたり視えなかったりです。『視える』より『聞こえる』んですよね」

「はあ、じゃあ大輝とはちょっと違うのかな。彼が感じるのは『音』じゃなくて『色』なんだ」

 昨夜の大輝の様子を思い出し、薫はひとり納得する。怯える薫を不審がることのなかった彼もまた、あの軽自動車に何か感じていたのだろう。

「あの、もしかしておばあちゃんも視える?」

「ううん、あの人は。つまり俺と一緒で全然視えない」

「ええ? だって昨日、おにぎりを大輝さんに持たせてましたよね。まるでお客さんが普通じゃないことをわかっていたみたいだったけど」

「ああ、昨日駐車場に停まってたお客さんね。たまにああいうお客さんが来るんだよね。雅さんのそういうところは経験の積み重ねなんだよね。それをしれっとやっているところが彼女のすごいところなんだけどさ」

 いかにも薫の反応が面白くてたまらないというように、詠人がくくっと肩を震わせた。

「ほら、あとは大輝にきけばいいよ。俺はそっちの話は全然わからないからね」

 呵呵と笑う詠人の背後にある扉が開き、店から大輝が出てきた。

「ああ、おはようございます。今日は僕がこの辺りを案内することになったんですけど、もう聞きました? ダム湖に用事があるんで、お連れしますよ」

「おはようございます。あの……」

 案内はありがたいが、ダム湖にはあまり寄り付かないほうがいい気がする。口ごもっていると、大輝が車の鍵を掲げて言った。

「行きましょう。話なら車で」

「えっ、あの……」

 駐車場に向かう大輝のあとを慌てて追うと、「いってらっしゃい」という詠人の陽気な声が背中越しに聞こえた。
 車に乗り込むやいなや、大輝がかすかに眉尻を下げた。

「……すごくモヤモヤしてるみたいですね。父から何か聞きました?」

「あの、この山に自殺の名所があるって聞いてびっくりしちゃって。大輝さんも霊感があるんですか?」

「まぁ、霊感みたいなものはあるんでしょうね。僕は特に、物や人に帯びる色が視えるんですよ」

 そう言うと、静かにアクセルを踏んだ。車は駐車場を出ると、山奥へと進んでいった。

「もっとも除霊ができるわけじゃないんです。どちらかといえば人より物のほうが視えやすいし、たとえ色が視えたって、ほとばしる想いを感じ取るくらいしかできないんです」

「そうなんですか。私は音なんです。あまり良くないものって不協和音がするんですよ。昨日、駐車場までずっと前を走っていた車からも不協和音がしていたんです。大輝さんも何か感じてましたか?」

「ええ。いろんな色が混ざって、淀んでいました。今のあなたみたいにね」

「へっ?」

「いくつもの想いがへばりついて、悩んで、先が見通せなくなっている色でした」

 両親や進路のことを言い当てられたようで、思わずぎくりとした。大輝は丁寧にハンドルを操りながら、言葉を続けた。

「こういう色の人は、視野が狭くなっていて、出口のないトンネルの中で動けなくなっていることが多いんですよね。それに自分にできることが見えなくなり、見えたとしても動き方を忘れているような、非常に鬱陶しい状態です」

「ちょっと待ってよ、鬱陶しいは言い過ぎでしょう?」

 カッとなって睨み付ける。

「誰だって悩むことくらいあるでしょ。でも答えを見つけようともがいて苦しんでいるのを『鬱陶しい』は言い過ぎじゃない?」

 大輝は怯むどころか、ニヤニヤとしている。その余裕の表情を見ているうちに、薫の腹の中が煮えたつように熱くなる。

「別にあなただけのことを言っているんじゃありませんよ。色合いとしては昨日の軽自動車に乗っていた人のほうが濃かったですし」

「いや、でも含まれてるじゃない!」

 大輝は白い歯を見せて、短く笑った。

「おや、やっと普段の口調が出ましたね。借りてきた猫みたいに繕った声より、そのほうがずっと良いですよ」

「余計な御世話!」

 ぷうっと顔を膨らませ、薫はだんまりを決める。いくら顔が良くても物越しが柔らかでも、口にしていることには配慮が欠けている。それが許せなかった。
 だが、大輝はしれっとした顔で、車を走らせ続ける。その余裕の表情も薫の高ぶった神経を逆なでした。

 会話は途切れ、気分は重苦しい。だが、案内してもらっている身で『引き返して』と言い出す勇気もなかった。
 むすっとした顔で車窓の景色に目をやる。ガードレールの向こうにある岩場を流れる清水が白い飛沫をたてている。山深い中、ちらほらと民家や畑もあった。見慣れない瓦葺の屋根が新鮮に映る。

『失礼かもしれないけど、よくこんな山奥に住もうと思ったものね。携帯の電波も届かなさそう』などとぼんやりしていると、ふと吐き気がこみ上げてきた。

『あ、なんか酔ったかな』

 車幅が広くまっすぐな北海道の道に慣れている身には、蛇行する山道は辛かった。大輝の運転は丁寧だったが、それでも急な勾配の道はまるでジェットコースターだ。

「すみません、少し窓を……」

「あ、酔いました?」

 大輝がすかさず窓を開ける。どっと入り込んできた澄んだ空気に髪がなびいた。

「もう少しで着きますから」

「……すみません」

「雅さんの言う通りですね」

「はい?」

「あなたは生き方が下手ですね。どうしてすぐに『すみません』なんて謝るんです?」

「……さあ」

 吐き捨てるように言い、彼女は車のシートにずるずるともたれかかった。
 答える気にもなれなかったし、たとえ正直に答えても、きっと大輝には理解できないだろう。卑屈でマイナス思考の塊だということは自分が嫌というほど知っている。
 彼女がそっとため息を漏らしたときだった。思いがけない光景が目に飛び込んできた。

「うわあ!」

 思わず歓声が上がった。
 鬱蒼と生い茂っていた杉林がふっと開け、遠くに大きな水面が姿を現したのだ。

「あれが、ダム湖?」

「はい。高楯湖といいます」

「自殺の名所だなんて思えないくらい綺麗ね」

「正確には、村と一緒に沈んでしまった『青柳《あおやぎ》の滝』という滝が名所だったんです。それがダムの底で水と一緒に悪いものも溜め込んじゃって、いろんなものを呼び寄せるようになったんですよね」

「うえぇ」

「なので、湖畔には行きません。展望台にしましょう。あなたも変な音が聞こえてしまうかもしれないし、僕だって呑気に『わぁ、綺麗!』なんてはしゃぎながらボートに乗る度胸はありませんからね」

「……大輝さんって、丁寧なのは口調だけよね」

 彼は無言の微笑みで肯定し、ウインカーを点灯させた。車は山道から小さな駐車場に入っていく。その向こうは切り立った崖になっていて、柵の手前に望遠鏡とベンチ、それにダムの説明文の書かれた看板が設置されていた。

「ここなら大丈夫ですか?」

「うん。遠いから怖くはないかな」

「そうかぁ。僕はここからでも色が視えるからやっぱり近づきたくないなぁ」

 いやに爽やかな笑顔で言うと、彼は車のトランクからスケッチブックを取り出した。

「すみません、十五分だけ待ってもらえますか?」

「用事ってそれ? スケッチするのに十五分で足りるの?」

「下書きをしたら家で仕上げるので大丈夫ですよ。それに長居はしたくないんですよね」

「そこは同感だけど。で、あなたは画家なの?」

「……いいえ、ご存知の通りガラス職人です」

 ベンチに腰を下ろし、彼はいそいそと目の前の光景を描き始めた。そっと隣に座り、薫は話を続けた。

「きいてもいいですか?」

「どうぞ」

「どうしてガラス職人になろうと思ったんですか?」

「そんなことを知ってどうするんです?」

「私、この先どうしていいか迷っているんです。だから、参考までにと思って」

「迷っているのに、どうしてここに来ようと思ったんです?」

「自殺の名所のそばだなんて知ってたら、来ませんでした」

「ここに来るまで知らなかったんですか?」

「知りません。うちの母は自分が話したいことしか話さない性格なの」

「へえ」

 大輝は手を動かしながら、さほど興味のなさそうな顔で話を聞いている。

「じゃあ、札幌に帰るんですか?」

「帰れるものなら帰りたいけど」

「けど?」

「帰る場所がないの」
 
 大輝の返事はなかった。彼はただ、ぴくりと眉を上げただけで、その目は高楯湖に向けたままだった。
 不意に訪れた沈黙の中、薫がぽつり、ぽつりと漏らす。

「あなたにはわからないでしょうけど、どこにいていいのか、何をすればいいのか本当にわからないの」

「札幌でもそうだったんですか?」

 再び大輝の口が開いたことに少しほっとしつつ、首を横に振った。

「向こうでは学校とか家事とか、やらなきゃいけないことがあったから。やることがあるうちには、必要とされている気がしたの。だけど、受験に落ちて何もしなくていい毎日になったら、自分には何もないことに気づいたの」

 薫はベンチにもたれ、肩を落とす。

「おばあちゃんのところに来たのも、穀潰しはお断りだって母親に言われたから来ただけ。ここにいる理由がない。けれど、どこに行けばいいのかわからない」

 ぱたりと、スケッチブックが閉じた音がした。大輝のほうを見ると、彼の涼しげな目と視線がかちあった。

「薫さんは今まで、自分の大事な選択を人任せにしてきたんですか?」

 薫は戸惑いながらも、記憶をたぐる。この世に生まれて十八年。大事な選択を迫られる局面など、そうそうない。しかしそう言われてみれば、高校も担任のすすめるまま無難なところを選んでいる。バイトも部活も、周囲に流されて始めた。
 しかし、薫はゆっくりを首を横に振った。

「一度だけ、自分で決めたわ。もうバイオリンを弾かないって、お母さんにきっぱり言った。けれど、そのせいで私は自分を押し通すのが怖くなった。だから、私は、私は……」

 薫は唇を噛み締める。
 母親との距離を感じ始めたのは、バイオリンを弾かなくなってからだ。楽器を投げつけた娘に母親が何を思ったかはわからなかったものの、あの日を境に何かが変わったことだけは幼心にも気づいていた。
 それ以来、薫は自分の感情を無防備に晒すと、何かが壊れるのだと信じて生きて来た。その日々は彼女を素直に『ありがとう』と言えず、『すみません』と詫びてしまう卑屈な少女に育ててしまったのだ。

 言葉を失った薫をじっと見つめ、大輝が立ち上がる。そしてしれっとした顔でこう言いのけた。

「前言撤回します。あなたの色は鬱陶しいのではなく、歯痒いですね。僕は自分で自分の目を塞いで愚図っているのは好きになれません」

「……なっ!」

 薫がカッとなった瞬間、大輝の携帯電話が鳴った。

「もしもし。はい、展望台に来ています。ああ……いらっしゃいましたか。すぐに戻ります」

 怒るタイミングを失って口を開けたままの薫に、大輝が微笑む。

「いったん戻りましょうか。昨日のお客様がご来店くださったようですよ。お昼を食べてから、今度は街のほうをご案内しますね」

「結構です!」

 怒気のこもった声で言い放ち、薫がつかつかと車に戻っていく。大輝はその後ろ姿に「ああ、しまった」と頭をかいた。

「言葉って難しいですね。みんな色で視えたら伝わりやすいのに」

 彼はそうひとりごち、肩をすくめたのだった。
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