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第3部 古都アーセンバリ篇
8 死霊と同じ
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嵐のような1日がようやく終わった。期限つきであれば残りの日数を指折り数えて心の支えにすることもできるだろうが、こんな日が毎日毎日、終わりが見えない状態で繰り返されることは、並の人間に耐えられることではない。僧侶たちとて例外ではなかった。
診療所は、日没の時刻に閉じられる。それは、ハンターたちへの牽制でもあった。もし、夜間に狩りを行うのであれば、その全責任を自分で負え、という。夜間に活性化する魔物は、強力なものが多い。それを狙って狩場に入るのは構わないが、誰も手助けはしない。夜は、引き際を弁えた熟練のハンターだけの時間だった。
「セスト導師、お疲れさまでした。驚いたでしょう」
入り口が閉じられ、治癒が終わった者が病院あるいは療養所に送られて行く中、診療所の僧侶をまとめる、初老の僧侶がセストに声をかけてきた。その雰囲気は、なんとなくルブラの院長を思わせる。
「想像以上でした」
セストは答える。
「そうでしょう。いえ、廃坑に魔物が出現し始めた当初は、このような状況ではなかったのです。それが、だんだんと、経験の浅い者でも簡単に入れる場所にまで強力な魔物が出現するようになってきて」
「やっぱり、そうなんだ…」
セストの傍らに立っていたナナカが呟く。所長はナナカの方をちらりとも見なかった。まるで気がついていない、と言った方がいいかもしれない。
「それで、この状況になっているわけですね」
「本来であれば、廃坑の中で行き詰まっている者も救出できるといいのですが。それを請け負ってくれるような熟練のハンターもおらず、我々ができることといえば、自力で地上に戻ってこられた者の治癒くらいです。あの中で、どれほどの者が助けを求めながら息絶えたのかと思うと、いたたまれません」
「なるほど…」
確かに、精神的肉体的疲労に加え、無力感は荒んだ空気となって診療所を支配していた。
「あ、いや、申し訳ない。つい愚痴をこぼしてしまいました。なにぶん先の見えない状況で。…セスト導師は帝都から来られたということでしたね?」
「ええ、はい」
「そのような方がここの手伝いを申し出てくださるとは。いやはや、ありがたいことです。これからもどうぞよろしくお願いします」
「いえ、別にそういう…」
セストの言葉を謙遜と受け取った所長は、微笑むと去っていった。
違うんだ、何かそういう尊い志で助力を申し出たわけじゃなくて、単に身体を動かしている方が自分の性に合っているだけで…と心の中では思っているのだが、うまく言葉にできないうちに皆何かを悟り、微笑んで去っていってしまう。セストはため息をついた。
「セストは、偉い僧侶様なの?」
ナナカがセストを見上げる。女性としては長身のナナカよりも、セストはまた頭ひとつ背が高かった。さらには鋼のような筋肉の鎧を纏っているせいで、黙っているとその威圧感はただ事ではない。しかし、人と話しているときの彼は、優しげな、年相応の青年だった。
「いや、違う。違うんだ。ここを手伝ってるのは、俺は机に向かってるよりは、身体を動かしてる方が気が楽だからで…みんなが思ってるようなことじゃないんだ」
「セスト導師」昼間、取り乱す男性ハンターを身体を張って止めていた若い僧侶が声をかけてくる。「…大丈夫ですか? 1人で喋ってましたけど。そろそろ『飛ばし屋』が来る時間ですよ」
「1人じゃない。ここに…」
言いかけた言葉をナナカが遮る。
「この人にとっては、あたしは『いない』の。なぜかはわからないけど、みんなあたしが見えない。気づかない」
セストははっと息を飲んでナナカを見る。
「どうしたんですか? 何かいます? 死霊の類ですか?」
若い僧侶は、セストが目をやったあたり、ナナカの顔を真っ直ぐ見たまま、言う。
「そう。この人にとっては、あたしは死霊と同じ」
ナナカは真っ直ぐ若い僧侶の目を見て言う。
「わかってくれた? あたしにとってあなたが、どれだけ得難い存在か」
「とにかく、いつでも出られるようにしておいた方がいいですよ。でないと、どんどん順番が後になっちゃいますからね」
答えないセストの様子を不審がりながらも、彼は人懐こい笑顔でそう言い置いて帰り支度を始めた。
「セストは…いずれ、帝都に帰っちゃうの?」
ナナカの声には不安が滲んでいる。
「具体的な日付けはわからないけど、いつかは。ああ、もともとの俺の所属は帝都じゃなくて、ルブラっていう小さい町なんだけど、いつかはそこに帰るつもりでいる」
「あたしも、連れていってほしい」
ナナカは再びその願いを口にする。
「ごめん、すぐには返事ができない」
「そう…そう、だよね」
ナナカは一瞬気落ちした様子を見せるが、すぐに笑って言う。
「セストは明日もここに来る?」
「うん。多分」
「じゃあ、あたしも来るね。それじゃ、また明日」
ナナカは僧侶やハンター協会職員の間をすり抜けて診療所を出ていった。相変わらず、患者でも関係者でもない彼女のことを不審げに見る者はなかった。誰も、彼女を振り返らない。そこにいるのに。
***
さらり、と衣ずれの音がして、彼がやってきた。
上半身を起こしたナナカの肩から、上掛けが滑り落ちる。
ーーねえ、聞いて。
ナナカは昼間にあった奇跡を彼に報告したくて、笑顔で彼の首に腕を回した。
ーーあたしのことを見てくれる人が、ついに現れたの。あたしは、1人ぼっちじゃなくなるかもしれないの。
しかし彼の反応は、ナナカが期待したものではなかった。彼はピクリと肩を跳ねあげると、身体を強張らせる。そして、ナナカの腕を掴んで引き離した。その紫の瞳には、今までに見たことがない感情が浮かんでいた。
ーーえ…なに…。
サッと血の気が引く感覚。
ーーそれで?
彼が氷のような冷たい声音で言う。その表情が何を表しているかは明らかだった。怒り、あるいは憎しみ。もしくはその両方。
誰にも気づいてもらえない代わりに、このような怒りを真正面からぶつけられたこともなかったナナカは、どうしていいかわからず、引き剥がされた腕を自分の胸の方へ寄せた。
ーー貴女はそれを私に報告してどうしようというの?
ーーどう…って。あたしは、ただ…。嬉しくて、聞いてほしくて…。
彼は怒りに瞳を燃えたぎらせたまま、ナナカの肩を掴むと乱暴にベッドに押し倒した。
ーー…っ!
これまでとは全く違う彼の雰囲気に、ナナカは漏れそうになった悲鳴を飲み込む。
ーー貴女は、私から離れることはできないんだ。私から離れることは、許さない。その者にもう一度会うことも。貴女は私のものだ。貴女には私しかいないんだ。
ーー…。
ナナカは彼の怒りの激しさに慄いて、目を見ひらいたまま、浅い呼吸を繰り返した。
ーーごめん…なさい…。
なんとかそれだけを言う。
ーー私から離れないで。約束して。
彼の長い金髪がナナカの顔の両側に落ちている。さながら、金の檻のようだ。
ーー約束、する…。
彼は満足そうに頷くと、唇を重ねた。甘い甘いくちづけだった。
診療所は、日没の時刻に閉じられる。それは、ハンターたちへの牽制でもあった。もし、夜間に狩りを行うのであれば、その全責任を自分で負え、という。夜間に活性化する魔物は、強力なものが多い。それを狙って狩場に入るのは構わないが、誰も手助けはしない。夜は、引き際を弁えた熟練のハンターだけの時間だった。
「セスト導師、お疲れさまでした。驚いたでしょう」
入り口が閉じられ、治癒が終わった者が病院あるいは療養所に送られて行く中、診療所の僧侶をまとめる、初老の僧侶がセストに声をかけてきた。その雰囲気は、なんとなくルブラの院長を思わせる。
「想像以上でした」
セストは答える。
「そうでしょう。いえ、廃坑に魔物が出現し始めた当初は、このような状況ではなかったのです。それが、だんだんと、経験の浅い者でも簡単に入れる場所にまで強力な魔物が出現するようになってきて」
「やっぱり、そうなんだ…」
セストの傍らに立っていたナナカが呟く。所長はナナカの方をちらりとも見なかった。まるで気がついていない、と言った方がいいかもしれない。
「それで、この状況になっているわけですね」
「本来であれば、廃坑の中で行き詰まっている者も救出できるといいのですが。それを請け負ってくれるような熟練のハンターもおらず、我々ができることといえば、自力で地上に戻ってこられた者の治癒くらいです。あの中で、どれほどの者が助けを求めながら息絶えたのかと思うと、いたたまれません」
「なるほど…」
確かに、精神的肉体的疲労に加え、無力感は荒んだ空気となって診療所を支配していた。
「あ、いや、申し訳ない。つい愚痴をこぼしてしまいました。なにぶん先の見えない状況で。…セスト導師は帝都から来られたということでしたね?」
「ええ、はい」
「そのような方がここの手伝いを申し出てくださるとは。いやはや、ありがたいことです。これからもどうぞよろしくお願いします」
「いえ、別にそういう…」
セストの言葉を謙遜と受け取った所長は、微笑むと去っていった。
違うんだ、何かそういう尊い志で助力を申し出たわけじゃなくて、単に身体を動かしている方が自分の性に合っているだけで…と心の中では思っているのだが、うまく言葉にできないうちに皆何かを悟り、微笑んで去っていってしまう。セストはため息をついた。
「セストは、偉い僧侶様なの?」
ナナカがセストを見上げる。女性としては長身のナナカよりも、セストはまた頭ひとつ背が高かった。さらには鋼のような筋肉の鎧を纏っているせいで、黙っているとその威圧感はただ事ではない。しかし、人と話しているときの彼は、優しげな、年相応の青年だった。
「いや、違う。違うんだ。ここを手伝ってるのは、俺は机に向かってるよりは、身体を動かしてる方が気が楽だからで…みんなが思ってるようなことじゃないんだ」
「セスト導師」昼間、取り乱す男性ハンターを身体を張って止めていた若い僧侶が声をかけてくる。「…大丈夫ですか? 1人で喋ってましたけど。そろそろ『飛ばし屋』が来る時間ですよ」
「1人じゃない。ここに…」
言いかけた言葉をナナカが遮る。
「この人にとっては、あたしは『いない』の。なぜかはわからないけど、みんなあたしが見えない。気づかない」
セストははっと息を飲んでナナカを見る。
「どうしたんですか? 何かいます? 死霊の類ですか?」
若い僧侶は、セストが目をやったあたり、ナナカの顔を真っ直ぐ見たまま、言う。
「そう。この人にとっては、あたしは死霊と同じ」
ナナカは真っ直ぐ若い僧侶の目を見て言う。
「わかってくれた? あたしにとってあなたが、どれだけ得難い存在か」
「とにかく、いつでも出られるようにしておいた方がいいですよ。でないと、どんどん順番が後になっちゃいますからね」
答えないセストの様子を不審がりながらも、彼は人懐こい笑顔でそう言い置いて帰り支度を始めた。
「セストは…いずれ、帝都に帰っちゃうの?」
ナナカの声には不安が滲んでいる。
「具体的な日付けはわからないけど、いつかは。ああ、もともとの俺の所属は帝都じゃなくて、ルブラっていう小さい町なんだけど、いつかはそこに帰るつもりでいる」
「あたしも、連れていってほしい」
ナナカは再びその願いを口にする。
「ごめん、すぐには返事ができない」
「そう…そう、だよね」
ナナカは一瞬気落ちした様子を見せるが、すぐに笑って言う。
「セストは明日もここに来る?」
「うん。多分」
「じゃあ、あたしも来るね。それじゃ、また明日」
ナナカは僧侶やハンター協会職員の間をすり抜けて診療所を出ていった。相変わらず、患者でも関係者でもない彼女のことを不審げに見る者はなかった。誰も、彼女を振り返らない。そこにいるのに。
***
さらり、と衣ずれの音がして、彼がやってきた。
上半身を起こしたナナカの肩から、上掛けが滑り落ちる。
ーーねえ、聞いて。
ナナカは昼間にあった奇跡を彼に報告したくて、笑顔で彼の首に腕を回した。
ーーあたしのことを見てくれる人が、ついに現れたの。あたしは、1人ぼっちじゃなくなるかもしれないの。
しかし彼の反応は、ナナカが期待したものではなかった。彼はピクリと肩を跳ねあげると、身体を強張らせる。そして、ナナカの腕を掴んで引き離した。その紫の瞳には、今までに見たことがない感情が浮かんでいた。
ーーえ…なに…。
サッと血の気が引く感覚。
ーーそれで?
彼が氷のような冷たい声音で言う。その表情が何を表しているかは明らかだった。怒り、あるいは憎しみ。もしくはその両方。
誰にも気づいてもらえない代わりに、このような怒りを真正面からぶつけられたこともなかったナナカは、どうしていいかわからず、引き剥がされた腕を自分の胸の方へ寄せた。
ーー貴女はそれを私に報告してどうしようというの?
ーーどう…って。あたしは、ただ…。嬉しくて、聞いてほしくて…。
彼は怒りに瞳を燃えたぎらせたまま、ナナカの肩を掴むと乱暴にベッドに押し倒した。
ーー…っ!
これまでとは全く違う彼の雰囲気に、ナナカは漏れそうになった悲鳴を飲み込む。
ーー貴女は、私から離れることはできないんだ。私から離れることは、許さない。その者にもう一度会うことも。貴女は私のものだ。貴女には私しかいないんだ。
ーー…。
ナナカは彼の怒りの激しさに慄いて、目を見ひらいたまま、浅い呼吸を繰り返した。
ーーごめん…なさい…。
なんとかそれだけを言う。
ーー私から離れないで。約束して。
彼の長い金髪がナナカの顔の両側に落ちている。さながら、金の檻のようだ。
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