猫になりたい2009

ピンク式部

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 僕の恋人が失踪して、今日で一年目。
 季節はあの時と同じ春にまた戻った。僕は花粉で鼻の奥がむずむずする。そして失踪と同時に謎の三毛猫と、大家さんに秘密の共同生活を始めて一年が経過したことにもなる。
 この一年間僕は雨のなかを爆走したり、深夜の街を爆走したりと走ってばかりいたような気がする。ミケはミケで男のケツに噛り付いたり、食あたりを起こして倒れたりと、やはり僕といることでろくでもない経験ばかりが募ったように思える。
 大学のゼミ連中も、はじめは何の相談も無く恋人に去られた僕を同情し、ありとあらゆる遊びを教えようとした。でもどれも無残な失敗に終わった。そして一年が経った今は、彼女を話題に挙げる人間はもうほとんどいなくなっていた。事務的には家庭の事情による休学になっているので、それまで闇雲に心配していた連中も安心したのかもしれない。
 長い試験期間が終わり、さらに長い春休みへと突入していった。バイトをしてこつこつ貯めた金もあるから、ミケと一緒にどこかへ旅行しに行こうと閃いた。あの部屋で長い間彼女の帰りをじっと待っているだけの生活に、耐えられなくなったというのもある。もうひとつは、春休みになってまで動物厳禁のこのマンションに日がな一日中閉じ込めておくのは、ミケが可哀相に思えるからだ。
 どうせ行くのなら、海の見えるところがいい。原付の免許を持っているので、後部座席にミケ専用スペースを作って、それでどこまでも行ってみようと思いついた。だけど肝心のバイクが無い。そこで実家に帰っているゼミのある友人御用達のバイクを、良く言えば少しのあいだ拝借、悪く言えばその、まぁ、パクったわけである。
 こうして、一人と一匹の不思議なバイクの旅が始まった。

 まずは東京を出て神奈川は横浜まで行く。そしてそれから鎌倉あたりまで走り、由比ガ浜に到着した。この辺りは本来なら夏に来るべきところであるが、春の由比ガ浜もなかなか粋なものだ。海が春の日に照らされて優しく輝いている。流れるさざなみはきっと、見知らぬ国の人たちが見ているものと同じだろう。
ミケも外に出してやると、辺りをきょろきょろと見回して嬉しそうにしているようだった。潮の香りが僕をざわざわさせる。いや、本当は潮の香りが原因ではないことは、とっくに知っている。

 せっかくなので、ここでペンションを借りて一泊することにした。シーズンオフということもあって、客は僕以外誰もいなかった。リュックサックにミケを隠して、部屋まで連れて行く。不思議とこの猫は室内では鳴かないので、隠れて飼うにはもってこいだった。
 夕食は海の幸を存分にいただき、部屋のバスルームで温まってから僕とミケは一緒のベッドで寝ることにした。僕の顔の傍で布団からちょこんと手を出して寝ているミケを、とてもいとおしく思えた。気づくと僕はミケに語りかけていた。
「なぁミケ、これからもずっと俺の傍にいてくれよ。お前となら、どんなことでも乗り越えられる気がする。不思議だよな、猫なのに」
 ミケは変わらずに眠り続けている。僕は軽く抱き締めながら、まぶたを閉じて今までのことを思い出した。遠くから海の波打つ音が聞こえてくる。僕はいつの間にか深い眠りに落ちていた。
 次に気がついたときは、ミケの姿は無くなっていた。


 大の男がほぼ半泣きになって探し回り、近くの交番や保健所まで行ってみた。それでも結局ミケらしい猫はとうとう見つからなかった。ミケがいなければこんな旅を続けていても意味が無い。このまま僕は東京へ帰ることにした。一度冷静になってカナさんに相談すればまたいい知恵を貸してくれるかもしれない。僕は一目散にバイクを走らせて自宅を目指した。一日中探し回っていたのでその頃にはもう日が暮れかけていた。
 
 マンションには夜中の十時を回った頃にやっと着いた。途中でミケに似た猫を見るたびに、立ち止まって追いかけていってしまうから帰宅に時間がかかった。くたくたに疲れた僕は一旦マンションの駐車場にバイクを停め、リュックサックをぶら下げて部屋に向かおうとした。その時だ。ある違和感を覚えた。
僕の部屋のドアにもたれて髪の長い女性が座っている。
 まさか。そんなはずは……。
 その女性が顔をあげて僕に気づいた。そして一言おかえり、と言って微笑んだ。
 それは去年消えた時のままの、彼女だった。
「バカ、おかえりじゃねぇよ。それは俺のセリフだ」
気づくと僕はまた泣いていた。


 彼女は僕が何を質問しても、良く分からない、覚えてないのという返事しかしなかった。僕は半ば諦め、彼女の好きなローズヒップティーをカップに淹れて出してやった。一年ぶりの彼女が目の前にいた。恐ろしいくらい、何も変わっていない。そして僕の心の中では彼女といままでずっと一緒にいたような気さえしてくる。不思議な感覚だ。
「変わらないね」
彼女が言った。
「君がそれ、言うかな」
僕は苦笑した。
「なんかね、今まで離れていたんじゃなくて、むしろずっと一緒にいた気がしてくるんだ。変だよね」
彼女の言葉に、僕も頷く。
 キャットフードの缶詰を見て、猫、飼ってるんだね、と僕に聞いてきた。思い出したら急に悲しくなって少し涙目になりながら
「いや、昨日まではいたんだけど、消えたんだ。ずっと一緒にいてくれると思っていたのに」
と答えるのが精一杯だった。
 僕の心は彼女にやっと逢えた喜びと、ミケが消えてしまった悲しみが同居してぐちゃぐちゃになった。顔も頭のなかもぐちゃぐちゃだ。こんな女々しい僕を見ないでくれ。
「大丈夫。猫はね、気まぐれですぐいなくなっちゃうけど、待ってくれている人のところに最後はちゃんと帰ってくるものだから」
 彼女が言った。まるで、君みたいだねと言うと二人して同時に笑った。
「ねぇ、久し振りだから、どっか行こうよ、バイクで」
海が見たいな。そう言った彼女の瞳が少し潤んでいるような気がした。
ヘルメットをもう一つ失敬して彼女に被せ、二人乗りのバイクは夜の東京を走りだした。遠くにうっすらと東京タワーが見える。だけど僕らが目指すのは鎌倉、由比ガ浜。
「ねぇ、尾崎豊の『十五の夜』って知ってる?」彼女が後部座席から聞いてきた。
「何、聞こえない」
「尾崎豊」
「スガシカオはもう飽きたのか」
「違うわよ。“盗んだバイクで走り出す”って歌詞にあるじゃない? まるで今の私達みたいだよね」
 僕達は腹の底から笑いあった。そういえば、初めて出会ったときも、僕は彼女を自転車の後ろに乗せて大学まで連れて行った。初回のゼミに遅れそうになった君は慌てて転んで怪我をした。あの時たまたま僕があの道を通ったから、今がこうしてあるのかもしれない。君は覚えているだろうか。
 君が帰ってきてくれたから、いま、僕たちはバイクに乗って海を目指している。
 気まぐれな恋人と、気まぐれな飼い猫。彼女達のお陰で大変なこともしばしばあるけれど、退屈するよりは楽しい方がいい。最後には笑えるから、僕は先に進める。
 僕達は、いつまでも“盗んだバイクで走り出す”の部分だけを熱唱した。いつまでも、いつまでも、歌っていた。由比ガ浜で静かに遠くからのさざなみを迎える海を目指して、二人を乗せたバイクは夜のネオンにまみれた東京を駆け抜けていった。
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