モーニンググローリー(仮)

66号線

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第2部 日本・東京

第21話

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 俺が日本に来た理由は自分でも忘れていた。ヨリコと出会って、一緒に過ごす日々を重ねるうちに、きっとそんなことどうでもよくなってしまったのだろう。
 俺にとって、ヨリコは、思っていた以上に心のよりどころとなってしまった。彼女といて、恋愛特有の心が激しく揺さぶられることはない。相手の気持ちがわからなくて、もやもやと一人思い悩むこともない。まったく情熱には程遠いが、こんな穏やかで安定した「世界」を、俺は生まれてから初めて彼女に教えてもらったのだ。
 ヨリコを作るパーツが好きだ。
太陽の光に透き通る、色素の薄い髪の毛。
白くて、薄い肌。
すっと伸びた鼻筋。
 絶世の美女とは言い難いけど、俺は、この世で一番美しい「かたち」だと思う。誰が何と言おうと、俺にとって完成された「美」をヨリコは独り占めしているのだ。
「あなたが探していたお母さん」
 俺の身体は、ヨリコの小さな口から発せられた一言で硬直した。
「私の親戚が居場所を教えてくれたわ」
 俺は甘い夢から覚めた気持ちになった。寝ぼけた俺の横に、どうしようもない現実が気味の悪い笑い声をあげて横たわった。


 思うようにうまくいかないな。
 俺は自分にそう言い聞かせて生きてきた。人生は望むとおりにはならない。そう思うことで安心する自分がいた。たとえどれほど情けないことだと理解していても、自分にそう言い聞かせることで、どこか救われる気持ちになれた。
「母親の居場所を知っている」
 ヨリコが突然、俺に告げた言葉が俺に突き刺さった。硬直した俺は、しばらく呆然として彼女の言葉を反芻した。横顔に冷や水をぴしゃりと浴びせられた気分だった。
「安曇野でサナトリウムを経営するおばさんとね、たまによく話すの。……たいていはうちの母親のことなんだけどね。なんとなくふっと思いついて、あなたのことを話したの」
 立川の築四十年は経とうとしている狭いアパートに、俺とヨリコはひざを寄せ合ってうずくまっていた。ここだけが俺たちが心穏やかに過ごせる「世界」に思えた。晴天の霹靂みたいに、耳障りの悪い言葉が安穏とした「世界」を変えた。どんよりと暗い空気がじわりじわりと俺を包みこむ。隣で転がっている丸っこいウサギのぬいぐるみを、ヨリコは細く長い指で弄ぶ。彼女がつぶやく言葉に耳を傾けながら、俺はぼんやりとその儚げなしぐさを眺めていた。
「そこにね、あなたによく似た女性がいるの。名字も、たぶん同じ人」
 視界に入っていたウサギのぬいぐるみが、だんだんと霞み始めるのを俺は感じていた。
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