燕の軌跡

猫絵師

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銀貨とハンカチ

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「行ってらっしゃいませ」

いつも通り玄関までリュディガー様をお見送りした。

昨夜の事があったから心配だったけど、朝起きてみるとリュディガー様の様子はいつもと変わらなかった。

顔を洗って着替えを済ませると、朝食を召し上がって新聞を確認していた。

そうしているうちに迎えが来て、リュディガー様はいつも通りに仕事に向かった。

いつもの私たちの朝…

変わった様子がないからこそ心配なのだ…

昨日のあれは、私の見た悪い夢だったのだろうか?

あんなに弱った夫の姿を見るのは初めてで、今までずっと無理をしていたのではないのかと不安に駆られた。

私が頼りにならないから、ずっと一人で抱え込んでいたのかもしれない…

寝室の水差しを片付けて、洗濯物を纏めているといつの間にか時間が過ぎて、通いのお手伝いさんが来てくれた。

「おはようございます。奥様」と、マイヤー夫人はいつも通り明るい声で挨拶してくれた。彼女は私たちの近所に住んでいて、子育てのひと段落した主婦だ。何かあるとすぐに駆け付けてくれるし、こうやって毎日通ってくれるからとても頼りにしている。

「おはようございます、マイヤー夫人。今日もよろしくお願いします」

彼女の存在はとても心強かった。

この生活になるまでは全く知らない事ばかりだった…

自分がとても恵まれていたのだと知ったのはごく最近のことだった。

水仕事をすると手が荒れる事も、指にできた小さなささくれが思いのほか痛い事も、寒い日の水の冷たさも、何もかも知らない事ばかりだった。

ある日突然、リュディガー様はヴェルフェル家を離れた。その時は詳しくは教えられなかったが、後日お義母様が侯爵様のお怒りを買ったのだという事をリュディガー様からお聞きした。

シュタインシュタットにはいられなくなり、ヴェルフェル侯爵様の御命令でラーチシュタットのこの家に引っ越したのだ。

住み込みの使用人もなく、何をするにも初めてでどうしたらいいのか分からない。引っ越してすぐはいつも泣いていた。

暗くなっても自分で灯りを点けることも出来ずに、ただただ夫が帰ってくるのを暗い部屋でビクビクしながら待っていた。

リュディガー様はそんな何も出来ない女に愛想を尽かすことは無かった。

自分のいない時を心配して、お手伝いさんを雇ってくれた。それからは少しずつ生活も落ち着いて、私にもできることが増えていった。

「奥様。今日は何からいたしましょうか?」と、マイヤー夫人が私に確認した。

「昨日はお掃除して頂いたので、今日はお洗濯お願いします。あと、水汲みをして、お買い物にも行かなきゃ」

「はいはい。すぐにやっちゃいますね。お買い物もお供しますよ」と彼女は軽い感じで応じて、すぐに仕事にとりかかった。

共同の井戸に水を汲みに行き、運ぶのは重労働だ。しかもそれを何度も往復しなくてはならない。

そんな大変な仕事をマイヤー夫人は鼻歌を歌いながらこなすのだからすごい。

マイヤー夫人が水を汲みに行っている間、私も何かしなくてはと簡単な仕事に手をつけた。

残っていた水でお皿を洗って片付けて、使った水を裏庭の隅で作っている畑に撒いた。

他は枯れてしまったけど、玉ねぎとニンニクは元気そうだ。上手にできたら料理に使うつもりでいた。

上手く育てて食べれるようになったらリュディガー様は喜んでくださるだろうか?

そんな事を考えながら裏口から家に戻ると、水を汲みに行っていたはずのマイヤー夫人がもう戻って来ていた。

でも不思議な事に、水を汲んできたはずなのに備え付けの水瓶は空だった。それにマイヤー夫人はどこか落ち着かない様子で、私の姿を見ると慌てて駆け寄って来た。

「お、奥様、お客様で…すぐに来て下さい」

慌てた様子の彼女は私の手を引いて玄関に向かった。

私を訪ねてくる人など多くない。

恐らくリュディガー様のお客様だろうと思って、夫人に手を引かれて玄関に向かうと、扉の前には身なりの良い見覚えのある紳士の姿があった。

「バルテル卿?」

ヴェルフェル侯爵様の近侍長で、常に侯爵様のお傍に控えていたから覚えている。

優しく爽やかに笑う侯爵様に比べると表情が乏しく、時々睨んでいるようにも見えて少し怖い印象を持っていた。

「ローゼンハイム夫人。急な訪問で申し訳ありません」

混乱する私に詫びて、バルテル卿は場所を譲るように扉から半歩下がった。

その動作に他にも誰かいるのだと察して身構えると、バルテル卿の後ろから現れたのはなんとなく予測していたお顔だった。

「久しいな、ミリヤム」

実の娘に向けられるように、親しげに私の名前を呼ぶ声は最後にお会いした時と変わらないものだった。

「…侯爵様…」

「うむ。元気だったか?ここの生活は慣れたかね?」

そう言って、約一年半ぶりに顔を合わせた義父は爽やかに笑って見せた。

突然の義父の訪問に、何用か分からなくて戸惑った。

「も、申し訳ありません。主人は仕事に行っておりまして…」

「構わん。むしろ今なら居ないと思って夫人に会いに来たのだ。少し話ができるかな?」

「は、はい…あの…狭いですがどうぞ…」

義父を家の中に通すと、まだ後ろに人がいたようで、もう一人男の人が入ってきた。

誰だろう?なんかちょっと怖い感じの人…

私の視線に気付いて、お義父様は後ろに控えている殿方を紹介してくれた。

「すまない。彼と会うのは初めてだったな。

彼が《英雄》ロンメル男爵だ。私の娘の婿で、君たちの義弟に当たる。卿は私の護衛として同行している。

ロンメル男爵、少しくらい愛想良くしたまえ。義姉を怖がらせるな」

「だから黙ってるんですよ。育ちが悪い粗野な人間なんでね」

相手は侯爵様でしかも義理の父だというのに、ロンメル男爵と呼ばれた男の人は侯爵様相手に失礼な口の利き方をしていた。でも侯爵様は肩を竦めて「こういう男なんだ」と苦く笑うのみで諫めようとしなかった。

侯爵様は怒っていないようだが、不敬なロンメル男爵の姿に私の中の忘れかけていた貴族としての感情にさざ波を立てた。

「男爵様。そのような物言いは侯爵様に失礼です。改められることをお勧めします」

怖いと思ったけどどうしても黙っていられなかった。貴族ではなくなったが、心まで落ちたつもりはない。

私に行儀を指摘されると思っていなかったのか、ロンメル男爵は少し驚いた顔で私を見返していた。

何で怒られているのか分からない子供みたいな顔をして、自分の立場を分かっていないのかしら?

「こ、侯爵様はお許しになるでしょうが、周りからどのように見られるかをお考え下さい。

男爵様の不作法は侯爵様の名折れになることをお忘れないようにお願いします」

「だ、そうだ。しっかりした娘だろう?」

侯爵様は嬉しそうに私を自慢した。バルテル卿もロンメル男爵に呆れたような冷たい視線を送っている。

「すまんな、ミリヤム。この男はいつもこうなので失念していた。確かに君の言う事は正しい。義姉として私の代わりに叱ってくれてありがとう」

侯爵様はそう言って、私の発言を肯定してお褒めの言葉をくださった。

ロンメル男爵は少し居心地悪そうにしていたが、侯爵様の手前ということもあり無礼を謝罪してくれた。

随分年上の義弟は、見た目が怖そうで言葉は粗野だが悪い人ではなさそうだ。それに少しだけ安心した。

居間にお通してソファを勧めると、侯爵様は部屋を眺めて、バルテル様に食卓から椅子を持って来させた。

「身重なのだろう?ソファには君が座るべきだ。話が済んだらすぐに失礼する。もてなしは不要だ」

「何故それを…」

「アレイスター子爵を通して、ローゼンハイム卿から報告を受けている。

あと三月程か?秋頃に産まれるのだろう?」

侯爵様は優しく語りかけながら、私をソファにエスコートして座らせた。それは流れるような自然なエスコートで、固辞することは出来なかった。

侯爵様は私を座らせると自分も椅子に腰掛けて話を始めた。

「急な訪問になって驚かせたな、すまない。

しかし、このような時でなければ来れなかった」

どうやら義父は、シュタインシュタットから離れた後も私たちのことを気にしてくれていたらしい。

それでも立場上、関わることが出来ずにいた事を気に病んでいたと話してくれた。

「ご両親から大切に育てられた君に辛い生活を強いてしまった…

成り行き上、仕方ないことではあるが、君に非はない。これはローゼンハイム卿とその母親の問題だ。それに君を巻き込んでしまったことを本当に申し訳なく思っている」

そう話して、侯爵様自ら私に頭を下げてくださった。

侯爵様の話を聞いて少し胸が痛んだ。

確かに大変な思いをしたけど、私がリュディガー様の妻として一緒にいることを望んだのだ。

私にとってリュディガー様は敬愛する夫で、私は彼の妻だったのだから当然だ。

 「侯爵様。私は既にリュディガー様に嫁いだ身です。無関係として扱われるのは心外です」

「そうだったな…

だが、私は君に感謝している。あの時、君にはローゼンハイム卿から離れて、実家に戻ることもできた。

息子を選んでくれたこと。今でも良い妻としてローゼンハイム卿を支えてくれていることは評価されるべきだ」

侯爵様は私のささやかな貢献を褒めて、控えていたバルテル卿に「あれを頼む」と声を掛けた。

バルテル卿は懐から革の巾着を取り出すと、目の前の机にそれを置いた。

机に置く時に革の袋越しに硬貨の擦れる音が聞こえた。中身は確認するまでもないだろう…

「侯爵閣下より、ローゼンハイム夫人への懐妊祝いです。大銀貨10枚と小銀貨100枚ご用意致しました。どうぞお納めください」

「そんな…お祝いとはいえ、こんなに受け取れません」

買い物などを自分でするようになって、お金の大切さを学んだ私にとってこれは大金だ。簡単に受け取ることはできない。夫にもこのお金の出処を伝えるのは気が引けた。

なかなか受け取ろうとしない私に、侯爵様は困ったように微笑んでお金を受け取るように勧めた。

「気にしないでくれ。これは君とお腹の子供への私から個人的な祝い金だ。

本当なら新居の世話をしたいくらいだが周りの目があるのでな…

しかし、用意した手前、持ち帰るようなことがあれば私が恥ずかしい思いをする。どうか受け取ってくれ」

そうまで言われてしまっては固辞することはできない。お忍びで訪問してくれた侯爵様の優しさを突き返すなどできない。

リュディガー様がいない時を見計らって来たのは、私にこれを渡すためだろう。

「…侯爵様の御厚意に感謝いたします。こちらはお預かりいたします」

義父の優しい言葉と気遣いに目頭が熱くなって涙が溢れた。今まで二人だけで頑張るしかないと思っていただけに、義父からの気遣いは心に沁みた。

「うむ。ありがとう、ミリヤム。

無事に生まれるのを楽しみにしている。生まれたら私にも抱かせてくれ」

涙を拭うためのハンカチを差し出した侯爵様は、そんなささやかな願いを残して席を立った。言っていた通り、話が終わったから帰るのだろう。

「大事にしたまえ。困ったことがあれば私を頼ってくれたら嬉しい。手紙も直接は受け取れないが、ロンメル男爵を通してなら受け取れる。時間はかかるかもしれないが、必ず手を貸すつもりだ」

「ありがとうございます…お義父様…」

侯爵様の心強い言葉に頷いてお礼を伝えた。

お帰りをお見送りに出ると、侯爵様たちは家の前に停まっていた質素な馬車に乗り込んで帰って行った。

お忍びとは言っていたが、侯爵様の乗るような馬車じゃない。それを見て、ありがたくも申し訳ない複雑な感情で胸の中が熱くなった。

これだけの事をしていただいたのだ。

大きくなったお腹を撫でた。

リュディガー様を支えて、この子をしっかり育てよう。侯爵様はちゃんと見てくれている。きっとリュディガー様の働きも認めてくれるはずだ。

全ての事が良い方向に向かう事を信じて、涙を拭ったハンカチを抱きしめた。

✩.*˚

「良い娘だったろう?」と、パウル様は俺に義理の娘を自慢した。

確かに、控えめでそれでいて芯の強そうな女性だった。少しだけテレーゼに似ているような気がした。パウル様も彼女のそういうところを気に入っているのだろう。

「随分お気に入りのようですね」

「うむ。彼女の父はハンナヴァルトという子爵の家柄でな。分家ではあるが、一人娘とあって大切に育てられたそうだ。

ローゼンハイム卿の母が彼女を見つけてきてな。行儀も完璧で、彼女の柔らかなおっとりとした性格は生真面目なローゼンハイム卿に合うと思った。

是非と申し出て家族に迎えたのに、このようなことになって残念だ…」と、パウル様は胸の内を明かした。

パウル様は根っからの女誑しだから彼女を放ってはおけなかったのだろう。

「しかし、コンラートから聞いてはいたが、あのままではあまりにも不憫だ。せっかく子供も授かったのに…」

「ローゼンハイム夫妻のお子様は他には無いのですか?」

「うむ。結婚して4年ほどになるが、二人ともなかなか授からなくてな…

ローゼンハイム卿は積極的に私の名代を引き受けて外に出ていることも多かったから、夫婦の時間が少なかったのが原因だろう。それでも二人とも夫婦仲は良かったし、特に心配もしていなかった。

一年半ほど前にラーチシュタットに預けたのだが、この結果に少し複雑な気分だ」

まぁそうだろうな…

でも順序が逆になるよりはよかっただろう。子供がいたら話はもっと悲惨だったはずだ。それでも息子夫婦が子供を授かって、パウル様も思うところがあったのだろう。

「ラーチシュタットに預けて一年半ほど経つが、今の仕事も真面目に務めているようだ。

ローゼンハイム卿の悪い噂は聞かないし、少し待遇を改めても良いかもしれない。

私の一存では決められないが、リュディガーがアレクシスを次期後継者として認めるのなら、彼らの処遇についてガブリエラと話し合おうと思う」

パウル様の前向きな発言を聞きながら、さっき顔を合わせたばかりの若い義姉を思い出していた。

柔らかな印象の女性で、とびぬけて美人というわけではないが、貴族らしい所作は綺麗で、行儀のなっていない俺を叱るぐらいの度量もある。

ローゼンハイム卿がどんな人物かは知らないが、パウル様と話す夫人の様子から、夫を立てる良妻のイメージが容易に想像できた。

「まぁ、そう言う事だから、彼女からの手紙が来たら私に回してくれ。直で受け取るとさすがに外聞が悪い」

「バルテル卿に届けてもらえばいいじゃないですか?」

「バルテルに宛てて手紙を書く理由など知れているだろう?

途中で察した者に止められても厄介だ。卿の所なら大して問題なかろう?」

「だからって女性からの手紙は困りますよ。

シュミットやテレーゼが見つけたら問い詰められますって」

「それは上手くやりまたえ」などと面倒ごとは俺に押付けて、パウル様は機嫌良さそうに笑っていたが、俺としてはその手の問題はごめんこうむりたい。

「無理ですよ。俺はテレーゼに疑われるなんて嫌ですからね。

テレーゼには本当のこと言います。そのくらい良いでしょう?」

「全く、相変わらずの愛妻家振りだな…

良かろう。確かにテレーゼに心労をかけるのは私の望むところでは無い。

ただ、話していいのはテレーゼだけだ。他には漏らさないでくれ。どこでどう話が漏れるか分からないからな」

パウル様は面倒を押し付けたことを多少は後ろめたく思っているようで、テレーゼに話すことだけは妥協してくれた。

年齢も近そうだし、似たような雰囲気だったから、夫人はテレーゼと良い友人になりそうな気がする。

ローゼンハイム卿の子供も生まれてくるなら俺にとっても甥っ子か姪っ子になる。フィーたちとは従兄弟だ。できる事なら助けになりたい。手紙を仲介する役目ぐらいでいいのなら引き受けてもいい気がした。

帰ったらテレーゼにも話をしよう。

そんな事を考えながら、馬車の窓を覆うカーテンを少しずらして外の景色を眺めた。豊かでも貧しくもないありきたりな街の風景がそこにあった。

✩.*˚

まっすぐに家に戻る気にならず、ふらっと立ち寄った雑貨屋で私の用事とミリヤムへの土産を用意した。

今思えば、久しく贈り物もしていなかった。

昨日は酷い醜態を晒してしまったから、それを誤魔化すためという狡い動機があったのは否めない。

今朝の彼女は、昨晩の事を指摘するでもなく、本当にいつもの様子で送り出してくれた。

自分の必要なものを手に取って、女性の雑貨が置かれた場所を眺めていると店主に声を掛けられた。

「旦那、何をお探しで?」

「…妻に…何か贈りたい」という私の返事に、雑貨屋の主人は破顔して「そうかい」と呟いた。

「うちは雑貨屋だから大したもん無いけどよ、ご婦人にならこの辺がお勧めだよ。奥さん別嬪さんかね?」

店主はそう言って髪留めや髪を整える櫛を勧めた。

髪留めは少し重く感じるが、造りのしっかりした良い品だ。彼女の長い髪を纏めるのにちょうど良いだろう。豚の毛のブラシはシンプルな物だが店主の自慢の品らしい。

「痛んだ髪でも、これを使うとあら不思議!魔法みたいに綺麗になるよ。喧嘩した嫁さんの機嫌を取るならこれがお勧めだ」

勝手に夫婦喧嘩の仲直りと決めつけた店の主人は、気前よく整髪用の油まで付けて「まいどあり」と勝手に買うものを決めてしまった。

その勝手なお節介に、文句の一つでも言おうとしたが、飄々とした様子の店主は更にお節介な台詞を私に寄越した。

「女って臍曲げたら男より面倒なんだ。俺もカミさんに何度も愛想尽かされそうになったけどよ、そのたびにさっさと謝っちまった。

嫁さんが大事なら早めに仲直りしな。女って怖いからな。あんた男前だけど大事にしないと嫁さんに逃げられちまうぞ」

店主のその何気ない言葉に言い返そうとした言葉を飲み込んだ。

彼女に愛想を尽かされるのだけは困る…

店主から買った物を詰め込んだ袋を受け取って、ミリヤムの待つ家に帰った。

家の明かりは点いていて、屋根に突き出した煙突からは煙が昇っていた。

それを見て、ラーチシュタットに住み始めた日の事を思い出していた。

初めて帰りが遅くなった日。帰ると家の中は真っ暗で、彼女が私を置いて出て行ったのかと思った。

愛想を尽かされたのだと、そう思って真っ暗な家に足を踏み入れると、誰も居ないように思えた家の中から物音がした。

布ずれの音がして、頭から毛布を被った彼女が居間のソファに身体を丸めて座っていた。

暗い部屋で縮こまっているその姿は、まるで一人で留守番をしていた子供みたいだった。

『申し訳ありません…明かりの点け方が分からなくて…私では上手くできなくて…』

彼女は子供みたいにべそをかきながらそう言っていた。

机の上にはランプや蝋燭があって、明かりをつけようと奮闘した跡があった。でも分からなかったのだろう。

当然だ。彼女は今までそんなことをした事も、する必要が無かったのだから…

今まで何もしたことのない彼女にこの生活は酷だった。それは私が一番よく分かっていた。

越してきたばかりで、頼れる人間もいない。真っ暗な寒い家でどうしたらいいか分からずに、毛布にくるまって心細く震えていたのだろう。

抱きしめた彼女の身体は冷えていて、私が出かけてからずっとこうしていたのかと思うと申し訳なさで胸が痛んだ。

いっそ愛想を尽かせて出て行ってくれたらとも思ったが、彼女は私を捨てて実家に帰ることは無かった。

彼女は健気に暗い家でも私を待っていてくれた。手伝いをしてくれる家政婦を雇うと、家政婦から少しずつ家事を教わって、彼女も一人でできることが増えていった。

そのうち、帰ると家の明かりが点いていて、煙突からゆるゆると立ち昇る煙を確認できるようになった。

それが私のささやかな楽しみになっていたのは彼女には伝えていない。

そして、今日も窓辺から漏れる明かりに安堵を覚えた。

「ただいま」と家の中に声を掛けると、「お帰りなさいませ」と彼女の声がやまびこのように返って来た。

声に遅れて出迎えに来た彼女の様子はいつもと変わらない。

私を見上げて微笑むと、ミリヤムは再び「お帰りなさいませ」と言った。

「変わりないか?」と訊ねると彼女は微笑んで「はい」と答える。これもいつものやり取りだ。彼女に特に変わった様子もないし、機嫌もよさそうだ。

夕食を机に並べる彼女の手付きは随分慣れたものになっていた。

二人で小さな食卓を囲んで食事を始めようとしたときに、小さな違和感を感じた。今日の食卓は少し贅沢に感じられた。

「今日は贅沢だな」

「あ、あの、リュディガー様がお疲れのようでしたので、少し精の付くものをと…お気に召しませんでしたでしょうか?」

なるほど…

確かに最近色々と疲れる事が重なっていて、精神的にも堪えていた。

この料理は彼女なりに気を遣ってくれた結果らしい。腸詰などの肉の多めのメインの料理と付け合わせのスープはいつもより具が多かった。一緒に出された少し焦げたパンは彼女らしい。

彼女の気遣いに感謝して、食事を済ますと煙草を吸いに外に出た。

今夜は良い風が吹いていて心地良い。虫が入ってくるのが鬱陶しいが、窓を少し開けていれば涼しいだろう。

そう思って寝室の窓を少し開けておいた。思った通り、窓からは涼しい風が流れ込んでいた。

少し早く寝支度を整えて寝室で待っていると、家の事を済ませた彼女が寝室に来た。

起きていた私の姿を見て、ミリヤムはあの気の抜けるようなきょとんとした顔をしていた。

「まあ?てっきりもうお休みになられたのかと…」

「いや、伝え忘れていることがあった。

葬儀の参加者が予定通り到着したから、明日は予定通りレプシウス卿の葬儀がある。規模が規模だから明日は早く出て行く。明日明後日は帰れない」

「かしこまりました」

「何かあったらマイヤー夫人を頼るといい」

「分かりました。お仕事が無事に終わるように、お祈りしてお待ちしております」

貞淑に答える妻の姿に満足して、枕の下に隠していた彼女への贈り物を取り出して彼女に渡した。

突然の贈り物に、彼女は驚いたようだった。差し出した贈り物を受け取らずに、キョトンとした顔で私の顔を見つめていた。

「いつもの、君の働きへの感謝の印だ」

口から出たのは誤魔化すような淡白な言葉だ。

もっと「ありがとう」とか「愛してる」と言うべきなのに、どうしても事務的な言葉で片付けてしまう。

櫛と髪飾りを差し出す手にそっと彼女の手が重なった。微笑む彼女の瞳は熱を帯びたように潤んでいた。

「嬉しい。素敵な贈り物をありがとうございます。リュディガー様と思って大切に致します」

安っぽい髪留めとどこにでもありそうな櫛だ。こんなものでそんなに喜ぶのか?

受け取った贈り物を赤ん坊でも抱くように大事そうに胸に抱いて、彼女は幸せそうに見えた。こんな事ならもっと良いものを求めるべきだったろうか?

安物を渡したことを後ろめたく思っていると、彼女はブラシを手に、「今試していいですか?」と私に確認した。そんなの確認するようなことではない。

何か試されているような感じがして、キラキラした少女のような目をした妻の手から櫛を取り上げた。

「後ろを向いて。私がしよう」

「え?」

「嫌だったか?」何か変な事を言ったろうか?彼女の反応に要らない事を言ったような気がしたが、彼女は気恥ずかしそうな表情でもじもじしていた。

「い、いえ。何か、その…お、お願いします」

少し濡れた髪の隙間から真っ赤になった耳や首筋が覗いている。初心な乙女のようなその姿に彼女への愛おしさが増した。

すぐにでも抱きしめたくなる衝動を抑えながら、背を向けた彼女の髪に優しくブラシを当てた。髪を梳く時に少しだけ彼女の身体が反応した。

櫛が毛先を通る時に柔らかく絡まっているところがあって、そこは痛くないように丁寧に解いて櫛を通した。毛先は少しだけ荒れていた。

以前はこんなものなかったはずなのに…

私との生活でできた傷だ。大きな怪我でもなければ痛みを伴うものでもない。それでも彼女のこの変化が私には痛かった。こんな気付かないような小さな事がたくさんあるのかもしれない…

そういえば、と思い出して、贈り物を隠していた枕の下を探って、雑貨屋の店主が渡してきた整髪油を出して彼女の髪に馴染ませた。

毛先が揃って艶も良くなったことに一人で満足していると、ミリヤムが恥ずかしそうに小さな声で訊ねた。

「あの…どうでしょうか?」

私が黙っているから不安にさせてしまったのだろうか?

「鏡がいるな」とベッドを離れて鏡台に手鏡を取りに行った。

手鏡を探そうと適当に引き出しに手をかけると、彼女が「あっ!」と声を上げた。彼女が大きな声を出すのが珍しく、引き出しから手を放して視線をミリヤムに向けた。

「す、すみません。手鏡は一番上の引き出しです」

「あぁ、そうか」

何か見られたくないものでもあるのだろうか?

少しだけ引っ掛かったが、一番上の引き出しから鏡を出して彼女に渡した。

「どうだ?」と声を掛けると、手鏡を覗き込んでいたミリヤムが少女のように嬉しそうな歓声を上げた。

「すごい!ツヤツヤになりました!指通りもほら!」

子供のようにはしゃぐ彼女の姿は珍しく、ミリヤムは嬉しそうに何度も髪に指を通していた。頬を薔薇色に染めた彼女の姿は愛らしい。

あの店主の言う事は間違いではなかったようだ。

彼女は髪留めも付けて見せてくれた。悪くないらしい。

寝る前なのにそんなに興奮していたら寝られないのではないか?

「これで寂しくないです。ありがとうございます、リュディガー様」

「安物ですまない」

「お金じゃありません。リュディガー様から頂戴したのです。これは宝物です」

彼女の口から出る言葉は本心で、本当に喜んでくれたみたいだ。

もういっそこのままでも良いのではないか?と、思ってしまう向上心のない自分がいた。

でもこの生活では、彼女を苦労させてしまう…

産まれてくる子供も…

「明日は早い。もう、寝よう」

「は、はい。そうでした」

はっと我に返った様子で、彼女は髪留めを外すとブラシと一緒にベッドの脇の机に置いていた。

「明日着けます」などと照れたような笑顔で可愛いことを言って、ベッドに横になる。彼女の隣に寝転がったが、気恥ずかしくて背中を向けた。

しばらく背中でソワソワしている彼女の様子を感じていたが、背中に柔らかい感触が触れた。

甘えるように背中に張り付いたミリヤムが私を呼んだ。

「大好きです。愛してます、リュディガー様」

在り来りな甘い愛の言葉でも彼女の言葉なら私にとって特別だ。

背中に当たる彼女のお腹の辺りが少し動いた気がした。子供も母親の気持ちに反応して喜んでいるのだろうか?

ちょっかいを出すような小さな衝撃が伝わって、背中でミリヤムがくすぐったそうに笑う。

「この子もお父様が大好きなんですって」と気の早い事だ…

金のかからない安っぽい幸せだ…でも悪くない…

私はずっとこういう物を求めていたのかもしれない。
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