燕の軌跡

猫絵師

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抱擁の天使

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「おねぇちゃん」

フワフワとした意識の中でクレメルの声が響いた。

夢を見ているような心地で、ぬるいお湯に全身を浸しているような感覚だ。

それでも耳だけはクレメルの声をはっきりと捉えていた。

「ぼく、変わったよ、おねぇちゃん。

お母様がぼくに力を分けてくれたの。だからおねぇちゃんにこの力あげる」

何の事?

よく分からないが、クレメルは一生懸命あたしに話しかけている。

お母さんに会いに行くって言ってたけど、ちゃんと会えたんだ…いいなぁ…

重い瞼を押し上げると、眩むような光の中に四枚の鳥の翼のようなものが見えた。翼の中心からクレメルの声がする。

「ぼくね、精霊の名前もらえたんだ。

取るに足らない者クレメル》って名前はもうぼくじゃないよ。

ぼくは《プシケー》。春の女神の眷属、《生命の天使》としておねぇちゃんを《祝福》するよ」

四枚の大きな翼は包み込むように目の前に迫り、あたしに触れると溶け込むように消えた。

「…クレメル?」

翼が消えて、靄のかかったような意識ははっきりとした。

もうクレメルの声はしなかった。あの灰色の毛玉の姿もない。

夢だったのだろうかと思ったけど、それにしてはクレメルの声は鮮明だったような気がする。

そういえば、あたし、昨日はユリアと寝て…

ハッとして慌てて窓に視線を移した。

「うそ!やだ!」

カーテンを開けると、朝寝坊を笑うお日様は、既に高い位置にあった。

ユリアも起こしてくれなかったの?今何時?!

慌てて着替えをして、寝癖の残る髪を結んで部屋を飛び出した。

朝の仕事はもう終わってるだろうけど、何かしら残ってるはずだ。

「あ!ライナ!」

階段の手摺に手をかけようと手を伸ばした時に、廊下からあたしを呼ぶ声がした。

女の子の声に振り返ると、そこには驚いた顔のユリアが立っていた。手には小さな花束を握っている。

ユリアは表情を変えると、泣きそうな顔であたし目掛けて走ってきて飛びついた。

「ライナぁ!良かったぁ!」

泣きながら抱き着くユリアは鬼気迫るものがある。あたしが寝てる間に何があったの?

「え?何?どうしたの!」

「だって、全然起きなくて…ライナ丸二日も眠ってたんだよ」

「…え?」二日?じゃあ、今って…

「私がライナの部屋に寝に行った日から、丸二日と半日経ってるんだよ。みんな心配してたんだから…

身体は大丈夫?どこも変なところない?」

心配してくれるユリアは嘘を吐いている様子はない。むしろユリアにはそんな嘘を吐く理由がない。

「あ、あたし…どうしよう…シュミット様たちに謝らなきゃ…」

「そう?お父さん心配してたよ。お母さんもお兄ちゃんも心配してたし、旦那様たちもみんな心配してたよ。

私も一緒に行ってあげようか?」涙を拭いながらユリアがそう言って、手にしてた花束を差し出した。

「お見舞い。もういらないかもだけど」

照れくさそうな笑顔の友人から花束を受け取って、空いてる手で彼女と手を繋いだ。柔らかい温もりが手のひらに伝わって、少し安心を覚えた。

「行こう」と手を引く彼女と一緒にみんなに《ごめんなさい》と《ありがとう》を伝えに向かった。

✩.*˚

控えめにドアを叩く音がして、シュミットが読み上げていた書類から視線を外した。

急ぎの用かと思って「なんだ?」と返事をすると、書斎のドアの隙間からユリアが顔を覗かせた。

「…ごめんなさい。お話中だった?」とユリアは隙間から父親に訊ねた。

「そうだ。遠慮してくれると助かるが、何か急ぎの用かな?」

父親の質問に、ユリアは少し後ろを気にしてから、「ライナが目を覚ましたの」と朗報を伝えてドアの隙間を広げた。

ユリアの隣には恐縮したようなライナの姿があった。

「旦那様、シュミット様、ご迷惑をおかけして、すみませんでした…」と彼女は頭を下げた。

まっすぐに立っているし、顔色も悪くない。彼女が意外と元気そうで安心した。

「調子は?なんか変わったこととかないか?」

「何も…ずっと寝ててごめんなさい」

「気にすんな。多分あれだ、クレメルのせいだろ?あいつはどうしたんだ?」

「え?あの子…帰ってないの?」

驚いた顔でライナが訊ねた。

あいつが帰ってきたから目を覚ましたんじゃないのか?

そう思っていると、どこからか「ぼくいるよ」という間抜けな声が聞こえてきた。

クレメルの声だ。

どこからか聞こえた声に続いて、締め切った部屋の中で緑の香りを含んだ旋風つむじかぜが発生した。

「きゃぁ!なになに?!」

驚いたユリアがライナに飛びついたが、ユリアはまたすぐに悲鳴を上げて、ライナから父親の方に逃げた。

俺もシュミットも空いた口が塞がらない…

ライナの背中から二対の鳥の翼のようなものが生えていた。翼はゆっくりと動いて、ライナを抱くように添えられた。

「おねぇちゃんの《祝福》だよ」と、また何処からかクレメルの声がした。

「ほう…化けたのだな」と、部屋にいるはずのない声が聞こえて、《冬の王》が姿を現した。

「《取るに足らない者クレメル》が随分立派になったでは無いか?」

「この翼があのチビだってのか?」

俺の質問に《冬の王》は満足げに頷いて「左様」と答えた。

「兄弟の《四風》には及ばぬが見れる程度には立派になった。春の眷属を名乗るに足る力を得たようだ。

いつまでもフラフラして恥を晒していたが、どうやらその娘を通じて成長するきっかけがあったようだな…」

「お前がそう言う事ばかり言うからチビが委縮してたんじゃないのか?」

「ふん。脆弱な精霊は自然に溶け込んで消える宿命だ。それで多くの精霊が世界の魔素となって消えて行った。我が眷属とて例外ではない」

偉そうに答えた《冬の王》は、俺の前に出るとライナの前で足を止めた。

「娘よ。其方は原始に近い精霊の《祝福》に耐えられるほど強くはない。

身の丈に合わぬ精霊を宿せば命が危ない。今の其方は危険な状態だ」

「え?でも…」

「今までも危うい時はあっただろう?

その過剰な《休眠》は魂が悲鳴を上げているという事なのだ。

《クレメル》であれば耐えられたとしても、《プシケー》には耐えられまい。今後も同じような事が起こるはずだ」

「また今回みたいなことがあるのか?」

「うむ。このままでは頻繁にその状態に陥るだろうな」

俺の問いかけに《冬の王》はしれっと答えて、藍色の目で不安そうなライナを見下ろした。

「本来、其方に力を分け与えるのは我の役目ではない。

しかし、我と誓約を交わすなら、その対価として我は其方が生きるに困らない程度の力を分けてやろう」

ライナに話しかける《冬の王》の口調は幾分柔らかい。エマといい、テレーゼといい、こいつは割と女に対しては紳士だ…

「あたし、何をしたらいいの?」と、ビビりながらライナが訊ねると、《冬の王》は気分を良くしたように軽快に答えた。

「うむ。良い心がけだ、娘。我が望むのは、其方の忠誠心だ。

春の女神の眷属は《癒し》の力を持っている。その力でこの男の役に立つことだ。難しい事ではあるまいよ」

「それだけ?」

「うむ。《治癒》の能力は人間にとっては貴重であろう?

其方が《治癒》を引き受けるなら、我が眷属の妻の負担も減るし、同時に我が妻の負担も減るのだ。

どうだ?引き受けてはくれまいか?」

「そういう事なら…」

「うむ。良いな、プシケー?」

「うん。おじい様、ありがとう」

どっかからクレメルの声がして、ライナの翼が嬉しそうに揺れた。

《冬の王》が冠のような角を揺すると、角を離れた小さな小鳥がふわりとライナの頭に舞い降りた。

小鳥はそのまま溶けるように彼女に馴染んで消えた。

「当面はそれで良かろう。我は用が済んだので帰る」と、用事が済んだとばかりに、《冬の王》は精霊の世界に帰ろうとした。

「あ、あの!待って!待ってください!」

ライナが慌てて半分透けたような身体の《冬の王》を呼び止めた。

「何かね?」

「あの、使い方…《祝福》の使い方教えて下さい!」

「なんだ、そんなことか…

胸の中で治癒を願いながら《抱擁》することだ。若い娘には多少抵抗があるやもしれんが、難しいことでも無かろう」

しれっととんでもないことを言い残して、《冬の王》の半透明になった身体が消え失せる。

そしていつの間にかライナの背から生えていた翼も消えていた。

「…ほ、抱擁って…」

「ハグするってこと?」顔を真っ赤にしているライナに、ユリアがとどめを刺した。ライナが顔を真っ赤にして固まってしまった。

おいおい…若い女の子にそれはきついだろ…

テレーゼがそれじゃなくてよかったとも思うが、ライナだったらそれでいいというのも薄情な話だ。

シュミットも絶句して、彼の持っていた書類がひしゃげて悲鳴を上げた。

錆びたような動きで俺を見る目はめちゃくちゃ恨みがましく、俺を責めていた。

でもこれって俺のせいじゃないだろ?

「まさか…お認めになりませんよね?」

「いや…でも、まぁ、何かしら使いどころがあるかもしれないし…」

「ライナは女子ですよ!手を翳すだけとか間接的にみたいにできないのですか?!」

「俺が知るか!《祝福》なんだからどうしようもねぇだろ!!」

「だからって!抱きしめてだなんて…そんな破廉恥な!」

「お前!思ったとしてもライナの前でそんなこと言うなよ!」

「旦那様も思ってるじゃないですか?!」

ああ!もう!最悪だ!

シュミットの気持ちも分からなくはない。息子の婚約者がこんな《祝福》の代償を持っていては心配でしかないだろう。

でもそれしかないなら、そうするしかない…

それでも使うかを決めるのは本人だ…

全く面倒な《祝福》をくれたもんだ…

✩.*˚

「いったぁ!」

寝室まで聞こえる悲鳴に、またか、とため息を吐いた。

俺が起き上がれるようになるまでに、ティナの指が何本残ってるか心配だ…

看病してくれようと一生懸命なのはありがたいが、さすがに嫁さんの指の浮いた粥だけは勘弁して欲しい。

キィ、と音を立てて開いたドアから申し訳なさそうな顔の彼女が顔を出した。

「ごめん。汚いけど…」と、差し出された皿には形の悪い林檎が乗っていた。

赤いのは剥きそこなった皮だけじゃないだろう…

偉そうに《食わせてやる》って言ったのに、情けねぇな…

右足の感覚は一向に戻らなかった。

形としては繋がっているが、もう自分の足とは思えない。包帯を代えるときに見た足の指は黒く変色を始めていた。

知識のない俺だって傭兵をしてるから分かる。怠さと熱が下がらないのはこれのせいだ。

スーが一生懸命繋いでくれたが、早いところ身体から切り離した方がいいだろう…

「あたし、今日も仕事行ってくるけど…大丈夫?」

「悪いな…」

俺の不甲斐なさを謝ったが、彼女は首を横に振って青い目で俺を見下ろした。青い瞳は潤んで、少し歪んで見えた。

「…食べて」と口元に差し出された林檎は湿っていて、怠い熱を冷ますのにちょうどよかった。少しだけ気分がよくなった。

「ありがとな…」

働けなくなった亭主に早々見切りをつけて出ていくこともできたのに、ティナはそれを選ばなかった。

良い女なんだ…他を探すなんてわけないのによ…

皿の上から形の悪い林檎が無くなると、彼女は家を出る支度をしてもう一度寝室に来た。

彼女は「行ってくるね」と言って、唇を重ねると家を出て行った。

寝てる以外にできることは無い。寝返りを打つのも一苦労だ。

足って動かないと結構重いんだな…

熱にうなされた頭でそんなつまらない事を考えていた。

足がなくなったとして、そのあとどうすりゃいいんだ?

ティナの稼ぎを当てにして、彼女にぶら下がって生きるのは男として不甲斐無い。だからと言って、今の俺にできる仕事なんて無いだろう…

あいつだって今はこうしてるけど、いつかは愛想が尽きる。

それが早いか遅いかだけの違いだ…

ため息を吐き捨てて目を閉じた。

彼女と一緒になってできた目標も、足と一緒に無くなった…

もう俺にできることは、眠って夢でも見ることくらいだ。

勝手な悪い想像に拗ねて夢の中に逃げた。

逃げた先もあまりいいもんじゃなかったが、物音で目を覚ました時には忘れてしまっていた。

バタバタとあわただしい音に混ざって、聞こえてきたは慌てたティナの声と別の男の声だ。

何やらやたらと謝っているティナが心配になった。

厄介ごとか?

身体を起こそうとした時に、寝室のドアを叩く音と俺を呼ぶティナの声が重なった。

「アルノー!アルノー!大変なの、起きてる!?」

返事をする前にドアが勢いよく開いた。

「大変だよ!えっと…大変!!あっ椅子!」

まくしたてるようにそう言って、彼女はベッドの横に置いてた椅子を抱えて隣の部屋に戻って行った。

何をそんなに慌ててんだ?俺も馬鹿だけど、あいつも大概だな…

呆れかえっていると、また隣の部屋から声がして、開け放たれたドアに背の高い男の影がかかった。

カイでもスーでもない影は、親し気に「よお」と挨拶して部屋に入って来た。

逆光で見えてなかった顔が誰か分かった瞬間、ティナの慌てようが理解できた。

慌てて起き上がろうとした俺を制して、ロンメル男爵はベッドの傍に来た。

「あぁ、いい。まだ辛いだろ?楽にしな」

「だ、旦那が来るなんて…」

「俺は今日は付き添いなんでな、気にするな」

ロンメル男爵はそう言ってドアを振り返った。その視線を追った先に、ティナより小さな人影が立っていた。

「爺には内緒だぜ」と、いたずらっぽく笑った男爵は寝室に彼女を呼んだ。

「アルノー、大丈夫?」

具合を訊ねる女の子の声には覚えがあった。

「ライナ?何しに…」

「見舞いだって言ったろ?」とライナの代わりに答えて、男爵はライナの背を押してベッドの隣に立たせた。

しばらく見ない間にお嬢さんになったもんだ…

行儀よく揃えた手と伸びた背筋は、俺の知ってる《ルカ》とは全く違うものだ。元も悪くなかったが、顔も女の子らしい面構えになって、なかなか別嬪さんになっていた。

そうかよ…最近なんか調子が狂ってたのはそういう事か?

勝手に一人で納得していると、ライナがモジモジしながら口を開いた。

「あ、あのね!あたし…《祝福》使えるようになったから…」

「はぁ?」俺の反応は至極真っ当だったはずだ。

そんな話聞いてないし、だからといってなんで俺のところにわざわざ来たのか分からなかった。

俺の反応に、ライナは顔を真っ赤にしながら言葉を続けた。

「だっ…だから、その…治しに来たの!アルノーのこと!」

「スーの治癒魔法でも治すのは無理だったんだ…気持ちは嬉しいけどさ、無理すんなよ…」

「治す!」と、ライナはムキになっていた。そういうところは変わらないんだな…

「分かった分かった…俺はどうすりゃいいんだ?」

ガキの気の済むようにしてやればいいと、適当に答えた。はなから期待などしていなかった…

「少し身体起こせるか?」と男爵促されて重い身体を起こした。二日酔いのような熱の怠さと頭痛が鮮明になる。

支えきれずに傾いた上体を、男の腕が支えてくれなかったらベッドから落ちていた。

「ライナ、できるか?」俺の肩を支えながら、ロンメル男爵がライナに訊ねた。

頷いた彼女はベッドに片足を乗せると、身を乗り出して両手でしっかりと俺を抱きしめた。

「お、おい…」

困惑していると、ライナは「うるさい」と俺を黙らせた。金髪の隙間に見えた耳は彼女の心境を反映するように真っ赤になっていた。

「こうしないとできないから…別に好きでしてないんだから」と拗ねたように答える姿は何かまだあの頃のようだ…

肩から支えていた腕が離れて、男爵が身を引くと、目の前で信じられない事が起きた。

ライナの背に鳥みたいな翼が現れて、そっと包むように俺の身体に添えらえた。

密着した少女の身体から、爽やかな若葉の匂いを含んだような香りが立ち上る。熱のせいでどこかボーっとしていた頭が少しずつ鮮明になるにつれ、身体が軽くなるのを感じた。

あれほど感覚の無かった右足に、痛みが戻って、その後に虫が這うような気持ち悪い感覚を覚えた。

どうなってんだ?これがライナの能力なのか?

足がどうなってるのか気になった。それでもライナの翼が邪魔でどうなっているのか見えない。

「ライナ、そろそろ良いんじゃないか?」と男爵の声がして、ライナの腕から力が抜けた。包み込むように添えられた翼も空気に溶けるようにいつの間にか消えた。

右足の感覚はわずかな痺れを残して元に戻っていた。あれほど鬱陶しかった熱も、俺を悩ませていた頭痛も消え失せた。多少の怠さは残っているが、他人の腕を借りなければならないほどではない。

「もう…大丈夫?」心配そうに顔を覗き込む少女の顔は自信なさげだが、彼女の《祝福》を疑う気はとうに消え失せていた。

「ティナ!ハサミ持って来てくれ!」

「え?え?何事?」俺の大声に驚いた様子で、ティナが慌てて戻ってきた。

置いてくりゃいいのに、彼女はまだ椅子を持っていた。

「椅子はいいから!ハサミだって!」

「は?ハサミ?え?ハサミ?」

また椅子を抱えたまま、ティナはバタバタとハサミを取りに戻った。

持ってきたなら置いてけよ!

「面白いカミさんだな」と、男爵は面白がっていたが、とんでもない恥晒しだ…

「あぁ!もう!」

邪魔な毛布をはね上げて、自分でハサミを取りに行こうとした。

考えるのは苦手だ…動いてから、しまったと思ったが遅い。

痺れの残っていた右足では踏ん張れずに、転びそうになった身体を二人分の腕が支えた。

「バカ!なにやってんのさ?!」

「おいおい、危ねぇだろ?」

二人に叱られてベッドに押し戻された。ベッドに腰かけて、改めて包帯で覆われた右足に視線を落とした。痺れと痒さは覚えたが、痛みは感じない。

「何?アルノー、どうしたの?」

騒ぎを聞いて、ハサミを持ったティナが戻って来た。

俺が寝床から出て、ベッドに腰かけているのを見て、彼女は物騒なものを手にして駆け寄って来た。

殺す気か?!

「危なっかしいな。ハサミは刃の方持てよ」

男爵が苦言を呈して、すぐに周りが見えなくなる危なっかしい女からハサミを取り上げてくれた。彼はそのまま慣れた様子で包帯にハサミを入れた。

堅く巻かれた包帯の下から醜い傷跡が出てくるものだと思っていた…

傷んだ林檎のように黒ずんでいた足は柔らかい肌の色を取り戻していた。

激しい裂傷の痕も、よく見れば分かる程度の傷を残して元通りになっている。

「な、治ったの?」

ティナは目を丸くして俺の顔と右足を交互に見た。彼女の青い瞳が涙でみるみる歪んで、形を保てなくなった涙が溢れるのに時間はかからなかった。

忙しい奴…

でも、嫌いじゃない。俺は彼女のそういう分かりやすいところが好きなんだ。

「良かった…だって、もうダメだって…足、治んないって…」

今まで言わないようにしていたのだろう。ボロボロと零れ落ちる涙と一緒に、彼女は弱音を口にした。

この傷に怯えていたのは彼女も同じだ…

子供みたいに泣きじゃくる彼女の頭を撫でて、傷を癒してくれた天使に視線を向けた。

「ライナ、ありがとう」

「…いいよ」と応えた声はぶっきらぼうだけど、照れ隠しみたいだ…

ライナはティナの背中を撫でて、「良かったね」と優しい声を掛けた。

涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げたティナは、今度はライナに抱き着いた。

「ありがとう…ありがとう」

いきなり抱き着かれたライナは戸惑っていたが、ティナの感謝を聞いて、面食らっていた顔もすぐに笑顔に変わった。

自分の事のように嬉しそうな姿は俺の知ってる《ルカ》のままだ。

苦労して尖ってたけど、やっぱ心の綺麗な良い子なんだよな…

神様だって、こういう子に《祝福》やりたくなるだろうよ。

ライナは涙でぐちゃぐちゃになっているティナを宥めて、彼女の手の傷に気付くと、俺と同じように抱きしめて傷を癒した。

「こうしないとできないの」と言っていた。

ちょっと使い勝手の悪い《祝福》だ…

誰にでも使う事は無いだろうが、あいつは良い顔しないかもしれないな…

ライナと男爵は何も求めずに、俺たちに口止めだけして帰って行った。

あの能力は面倒に巻き込まれそうだから、極力隠しておいた方がいいだろう。

「アルノー…足、もう大丈夫なの?」

二人を見送った後、俺の肩を貸していたティナが心配そうに恐る恐る足の具合を訊ねた。

右足には少し痺れが残っているが、支えがあれば倒れることはなさそうだ。慣れたら問題無いだろう。

「飯ぐらいなら作れるよ」と答えると、俺を見上げる彼女の表情がやっと明るくなった。

彼女の肩に置いた手に、傷の無い女の手が温かく重なった。

✩.*˚

「何しに来た?」

目の前にガキ共のツラが並んだ。

その様子はまるで誰かの葬式だ。

分かってる…俺の傭兵としての《葬式》だ…

「大事な話がある」と切り出したスーは、俺の前にザラリと音を立てる革袋を置いた。中身は確認しなくてもいいだろう…

「厄介払いか?」

金という分かりやすい方法を意地悪く笑った。俺から二つ名を貰った青年は潔く、「そうだよ」と頷いた。

「ゲルト、あんたには世話になったし感謝してる。一度は引退したあんたを《燕の団》に呼んだのは俺たちだ。

あんたの事は最後まで面倒みる気でいるが、傭兵としてはもう良いだろ?

あんたももういい歳だ」

「ふん…歳か…」

そんなの誰にも言われなくても、俺が一番分かっていた。

年寄りと呼ばれるのはムカつくが、それが間違いでないことも認めている。

俺は無駄に歳を取りすぎた…

血風と喧騒の中で、息子たちと一緒に死ぬつもりでいたのによ…

俺の望みは最後まで叶わなかった。

「まったく…死に損なった…」

「親父さん…」

「こんな手切れ金で追い払えると思われるなんてな…

全く、悪いガキだけが残ったもんだぜ」

しおらしく頷いて立ち去るのは俺には似合わない。口の悪い、往生際の悪いクソジジイを演じて、俺を追い出そうとする若者を睨んだ。

全く、あの日見たガキは偉くなったもんだ。

身の丈より大きなワルターの剣を抱いたガキは小綺麗ななりで、泥臭い傭兵には向いてないように思えた。少し小突いたら泣いて逃げ出しそうな可愛い顔をしていた。

幼い面影のある若者が、屍の山に加わる前に追い払うつもりだったのに、このガキはああ言えばこう言うし、殴られれば睨み返して吠える反抗的なクソガキだった。

今じゃ俺に似合いの馬鹿な息子だ…

「この俺を追い出せるほど偉くなったつもりか、クソガキ?」

「そうだよ、クソジジイ。あんたが何て言おうとも、俺はあんたをここに置いておく気は無い。あんたの息子たちはみんな同じ考えだ。

《燕の団》にあんたの居場所はもうないんだよ」

「ここには親父を追い出す親不孝者しかいねぇのか…」

「《孝行者》の間違いだろ?あんたの穴を埋めるのは結構大変なんだぜ?」

俺のぼやきに苦笑いで応えた男の決心は堅いようだ。

ガキのくせに偉そうにしやがって。まったく偉そうになったもんだ…

「俺の名前はもう要らねぇってのか?」

「そうだよ。《燕の団》には《黒い妖精》が居るからね」

「後で泣いて詫びても戻ってやらねぇぞ」

「そうだろうね。あんたは意地の悪いクソジジイだからさ」

「言ったな、クソガキ」

「言ったよ、クソジジイ。男に二言は無しだ」

偉そうに胸を張って男を語るガキは、随分デカくなったもんだ。

この若駒は俺が居なくなったら、さぞかし自由を満喫するのだろう。

誰も追いつけないほどの駿足で、力強く駆けるはずだ。

この老いぼれがいつまでも手綱を握っていては、せっかくの若い駿馬が台無しになる。

『もう良いだろう?』と言った親友の言葉を思い出していた。

そうだな、グスタフ…

俺たちの時代はとっくに終わってたんだ…

俺が未練がましく居残って、若いのに譲るのを拒んでただけの話だ。

「仕方ねぇな…これで勘弁してやらぁ」と、最後まで悪態吐いて、袋いっぱいの金と引き換えに、若者に場所を譲った。
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