燕の軌跡

猫絵師

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「全く!あのバカ!最後の最後にやらかしやがって…」

寝室に来たワルター様はご機嫌が悪いようだった。

その文句を言う姿は拗ねた子供みたいで、ちょっと笑ってしまった。

私がこっそり笑ったのを見咎めて、ワルター様は「笑い事じゃねぇよ」と不満を募らせた。

「よりによって、《アレ》をルドに預けるか?!

ユリアもライナも見てたし、ケヴィンにも『それ何?』って訊かれるし散々だ!」

「うふふ。シュミット様も怖い顔で見てましたよ」

「『そういうものは子供たちの見えないところでやり取りしてください』って!俺のせいじゃねぇだろ?!

スーの馬鹿たれ!」

ワルター様に八つ当たりされた枕が可哀想な音を立てて凹んだ。

「全く…なんのためにあいつにお使いに行かせたのか分かってねぇんだ…」

ブツブツと文句を言いながら、ワルター様はポケットからオレンジ色の液体が入った小瓶を取り出した。

「私が求めたことにしてもよろしいですよ」と、彼に言い訳を与えたが、ワルター様はその言い訳も気に入らなかったみたいだ。

「馬鹿言え、使うのは俺だ」

「あら?半分は私の為ですもの。これで私の待ちわびている《雲雀ラーチが訪れる》のですから」

ベッドに歩み寄って、瓶を握るワルター様の手に自分の手を添えた。

どうしても男の子を諦めることが出来なかった…

ワルター様は『十分だ』と言って下さるけど、男の子が授からないのは私の負い目になっていた。

あの子だって、私がワルター様を追い詰めてしまったから失うことになったのだ。

私の身体を心配してくれる彼に、『もう一人だけ』とお願いした。

結局、私の我儘にワルター様が折れる形で納得してもらった。

ワルター様も、口には出さないが、男の子は欲しかったのだろう。

「…無理するのは無しだぞ」と、彼は私に釘を刺した。

私に注がれる深い藍の視線は、優しく私を心配していた。

「俺はお前が大事なんだ…

具合が悪かったらちゃんと言えよ?お前の代わりは無いんだからよ…」

「ありがとうございます、ワルター様」

優しい彼の言葉に頷いて腕を伸ばした。彼は私の腕に応えて広い胸に私を迎え入れてくれた。堅い男の人の身体は私を包んで、力強い腕は安心をくれた。

「お前の気持ちは嬉しいんだ…

俺だって子供が増えるのは嬉しいし、男の子だってお前と同じぐらい楽しみにしてる。

でも、フィーやミリーを産んだ時みたいに、お前だけに辛い思いをさせるのは俺も辛い。俺は何もできないからな…

だから、まぁ…無理だけはするな」

「分かりました。夫に従います」

「それ久しぶりに聞いたな。ちょっと懐かしいな」

私の返事に、彼は小さく笑って身体を離した。

《夫に従う》は、結婚式での誓いの言葉だ。

新郎の長い台詞と対照的に、私の覚える言葉はたった一言だけだった。それでも、この言葉は新郎の長い台詞より長く使えるのだ。

照れくさそうに笑う顔はあの頃より歳をとっていた。

当然だ…私も歳をとったのだから…

「綺麗になったよな…良い女になった」

堅く大きな手のひらが、そっと頬に添えられた。頬を撫でた手のひらは、輪郭をなぞるように動いて唇に触れた。

「愛している、テレーゼ。俺にとって女はお前だけだ…」

彼の口からあふれた愛の言葉から年月を感じた。結婚した頃はそんな風に愛を囁くような人じゃなかったのに…

手紙のやり取りですらぎこちなくて、手を触れる事すらためらっていたのに…

それが、少しずつ変わって、私たちは時間をかけて夫婦になれたと思う。

どちらともなく、示し合わせたように唇を重ねた。吐息が重なり、求めあう接吻はお互いの熱を上げていく。

満たされる夜を求めて、彼に身体を任せた。

重なり合いながら溶け合う身体は、新しい幸せを宿す用意ができていた。

✩.*˚

寝ようとしていると、ドアをノックする音が聞こえた気がした。

クレメルが帰って来たのかと思ったけど、あの子はドアなんて関係ないもんね…

ゆっくりと開いたドアの向こうから、ユリアが顔を覗かせた。自分の枕を持参した彼女は、ベッドの上にあたしを見つけて懐っこく笑って見せた。

「ねぇ。ライナ、今日は一緒に寝よう」

「良いよ」と答えて場所を空けた。ユリアは嬉しそうに笑うと、ドアを閉めてベッドにやって来た。

ユリアは時々『一緒に寝よう』と訪ねてくる。

おしゃべりなユリアはひとしきり喋り続けると、満足したように眠りにつくのだ。

「クレメルは?まだ帰ってこないの?」と、ユリアがクレメルについて訊ねた。

「『《お母さん》に会いに行く』って言って、それっきり…どこまで行ったのかな?」

「会えたのかな?クレメルのお母さんって、クレメルにそっくりなのかな?」

そう言いながら、ユリアは人差し指でまなじり引っ張って、残った指で唇の端をつまんで引っ張った。

「これクレメルのマネ」

「ぶっ!!」その顔に思わず吹き出してしまった。だってなんか似てるんだもん…

二人で笑いながらベッドの上を転げ回った。

「はぁ…おかしい…」

「うふふ。ライナ元気そうで良かった」と、ユリアは枕を抱いたまま笑った。

彼女はあたしの事を心配して来てくれたみたいだ。

「ありがとう、ユリア」

「だって、ライナはユリアの大事なお友達だもん」と、ユリアはラウラ様にそっくりな顔で笑った。

ユリアはラウラ様そっくりだ。やっぱり親子だなって思う。

ユリアが寝る用意を整えたのを確認して、ベッドの傍らに残していた最後の明かりを消した。

部屋がすぅっと暗闇に包まれて、窓辺から差し込む月と星の明かりが強くなった。

「ねぇねぇ、今日旦那様とお出かけしたでしょ?」

同じ毛布の中でユリアが大好きなお喋りを開始した。

「一緒にどこ行ってたの?お父さんは『旦那様と出かけてるだけ』としか言わないし、お母さんも教えてくれないんだもん」

「《燕の団》に行ってただけだよ」と言うあたしの答えにユリアは納得してないようだ。

「…帰っちゃうの?」

「え?」

「ライナ、《燕の団》に帰りたいってずっと言ってたから…」

あたしの曖昧な返事が彼女を不安にさせたらしい。毛布の中で、ユリアがあたしの手を握った。

あたしより少し小さい手のひらは温かくて、柔らかく、しっとりしてた。

「ライナ、ごめんね。私、ライナにはこのお屋敷に残って欲しいの」

「ユリア?」

「だって…ユリアはずっとここにはいられないから…

遠くに行くわけじゃないけど、いつかはアダルウィン様のお家に入らないといけないから、ライナにはロンメル家に残って欲しいの」

薄暗い部屋だからそういう風に聞こえるのだろうか?ユリアの声はとても寂しそうに聞こえた…

確かにユリアはもう婚約者がいる。相手は騎士の家だ。嫁いだら、その家をしっかり支えて、責任ある立場になるだろう。育った家だとしても、しょっちゅう他所の家に顔を出している場合じゃない。

黙り込んでしまったあたしに、ユリアは誤魔化すような明るい声で別の質問を繰り出した。

「ライナ。好きな人いる?」

「…好きな人?」また唐突な質問だ。なんて答えたらいいのか分からずにオウム返しになってしまった。

「ユリアにだけ教えてよ。誰にも言わないから」と彼女はあたしの秘密をねだった。

「…本当に?」

「うん。ユリアお喋りだけど、ライナが言わないで欲しいなら誰にも言わない。ライナ、好きな人いるでしょ?

ユリア分かってるよ。ユリアも恋したことあるから…」

「アダルウィン様じゃなくて?」

「そうだよ。とっても優しくて素敵で無口な大人の人…

旦那様のお友達。自分の国に帰っちゃったけど、その人が帰るときに約束したの。《彼の代わりに旦那様たちを支える》って…

ユリアはその時まだ子供だったけど、その約束は忘れてないよ。好きな人との約束だから…」

ふふっと笑う声は少し寂しそうに暗い部屋に響いた。

「ユリア、お屋敷を離れても、約束はずっと守るつもり。だから、ライナ。ユリアが約束守れるように手伝ってほしいの。ユリアにできないことはライナにお願いしたいの」

ユリアはまだその人に未練があるのだろうか?

ユリアの言いたいことはなんとなく分かる気がした。あたしにこのお屋敷に残って、彼女にできないことを任せたいのだろう。

自分はできないから、あたしにここに残って欲しいのだ…

「ユリア…あたし、ね…好きな人いる」

「うん」

「髪、結んでくれた…カイって分かる?」

「うん。すごいよね。お母さんより上手だった」

「うん。振られちゃったけど、あの人が好き…カイのこと大好きなの…」

「そっか…」と応じたユリアは少し残念そうだった。

「お兄ちゃんじゃだめ?」と、ユリアは唐突にケヴィンについて訊ねた。

何でケヴィン?と思ったが、あたしがここに残るならその選択がベストなのだろう。

「今は考えられないかな…」と正直に答えると、ユリアは「残念」とクスクス笑った。

「ライナが私のお義姉さんになったら、それはそれでいいと思ったのに」

「ユリアが妹?」

「そうだよ。シュミットの家族じゃ嫌?お父さんにお母さん、妹も弟もついてくるよ」と彼女は家族を勧めた。

あぁ、いいなぁ…

シュミット様がお父さんで、ラウラ様がお母さんか…

いつもどこか羨ましく思ってたのも事実だ。

あたしには無いものだから、ユリアたちの温かい家族に憧れていた…

あたしがカイに恋してなかったら、ケヴィンの気持ちもほったらかしで、即答で「いいよ」と言っていたかもしれない。

「いいね…そういう未来も…」という曖昧な返事をしながら、心はそれを受け入れられずにいた。

だって、まだ好きなんだ…

今日だって、彼の姿を見て、やっぱり好きなんだって…

彼の役に立ちたいんだって…そんな風に思っていたんだから…

「ユリア、あたしね、今日|《燕の団》を見て思ったの…

治癒魔法使えるようになりたいって…

あたし、クレメルに《祝福》もらって、魔力あるって知ったから、なんとかなると思って…

役に立てるなら、みんなあたしに『戻って来て欲しい』って言ってくれるんじゃないかって…」

「へぇ、すごいね。それはユリアには無理っぽいなぁ…」

「でも、旦那様はいい顔してくれなかった…

旦那様は私が《燕の団》に戻るの反対みたい。あたし、どうしたらいいのかな?」

我儘を言う勇気は無い。それで居場所が無くなってしまったら、と思うと怖い…

でも、このまま自分を殺して生きるのは辛い…

繋いでいた手が解けて、毛布から出てきた手があたしの顔を撫でた。

ユリアは暗がりの中、あたしが泣いてないか確認してるようだった。

「ユリア、ライナのお友達だよ」と、暗がりで優しい声が聞こえた。それは一筋の光のように、あたしの心に届いた。

「ユリア、ライナの味方だからね。ユリアも旦那様にお願いしてあげようか?一人より二人だよ」

「ありがとう、ユリア」

心強い友達の言葉が嬉しかった。

あたしの返事を聞いて、ユリアは手のひらであたしの表情を確認した。涙が無いのを確認して、ユリアはラウラ様みたいに「うふふ」と笑った。

色々あったけど、今日は一人じゃないから良い夢が見れそうな気がした。

✩.*˚

「何だ?相談って?」

私の数少ない友人は、単刀直入に自分を呼び出した理由を訊ねた。

所帯を持っている友人をこんな時間に呼び出すなど迷惑だったろう。それでもアーサーは嫌な顔一つせずに応じてくれた。

裏庭のベンチに二人で腰かけて、月の光の降り注ぐ庭木を眺めながら口を開いた。

「私には答えが出せそうにないから、君の意見を聞きたいと思ってね…」

「ほぉ…そりゃ一体どんな難問だ、アダム?」

「私が今まで直面した中で一番の難題だよ…」

「まったく、何事だ?随分大げさじゃないか?天変地異の前触れじゃあるまいな?」と、アーサーはいぶかしがったが、あながちその表現は間違っていない。

「ははっ…そうだね。君にとっては大した問題じゃないかもしれないが、私にとっては天変地異と同じレベルの問題さ」

「元|《英雄》で《ルフトゥの御子》を悩ますとは一体どんな難題だ?」と、アーサーは私に話の続きを促した。

「実は…ある女性から『結婚してほしい』と請われたんだ…」

「…なんだ?めでたい話じゃないか?」とアーサーは拍子抜けしたような顔で私を見た。

苦笑いで彼の祝福を受け取ったが、私にとってそれが《めでたい》と言えるかどうかは微妙なところだ…

「ありがとう。でも、彼女は私が好きでそう言ってるわけじゃないみたいなんだ…

まぁ…その…彼女は結婚を勧められるのが苦で、私と名義上の夫婦になることを望んでいるそうだ」

「…ちょっと待て…なんだそれ?アダム、お前はそれに返事をしたのか?」

「いや、まだだよ。私は別にそれでもいいんだ。私は今更誰かと一緒になるつもりもないからね…

利用されるとしても、彼女が困っているなら助けてあげたい気持ちはある。

でも、本当にそれが彼女のためになるのか分からなくて…」

「待て待て!お前、まさか受け入れる気なのか?!」

「やっぱり良くないかな?」

「はぁ…ったく…」

呆れたようにため息を吐いて、アーサーは嘆くように両手で顔を覆った。

女性慣れした彼ならいい考えを教えてくれるものだと思っていたが、これは思っていた以上に難題だったようだ。

彼を巻き込んでしまった事を申し訳なく思っていると、アーサーはまた大きめのため息を吐いて顔を上げた。

「で?誰だ?そんな無茶苦茶な事を言う女は…

お前のお人好しな性格をよく知っている奴だ…屋敷を出入りしてる人間だろ?」

「まぁ、そうだな…」と頷いた。

私が黙っていても、聡明なアーサーは正解に辿り着くような気がした。その予想は的中した。

「…アンネ様か?」

「君は本当に賢い人だね」

「馬鹿言え。そんなのあの鈍い旦那様にだって分かる話だ」と言って、アーサーは苦い顔を私に向けた。

「アンネ様は何を考えているのかよく分からないところがあるからな…

もういい歳だし、旦那様も奥様も心配している。縁談だって何度も持ち込まれているはずだし、そろそろ結婚しないと本当に独身で過ごすことになるだろうな…

ある意味お前とお似合いだ…」

「耳が痛いね…」と、苦く笑った私の反応が気に入らなかったようで、アーサーは片目で私を睨んだ。

「他人事か?お前の問題だぞ」

「うん…まぁ、そうだね…」

曖昧な返事をして月を見上げた。どうしたらいいものか、やはり分からない。

降り注ぐ柔らかな光に乗って、妙案が与えられることを期待したが、そればかりは神に祈ったところで与えられそうになかった。

こういう時、どうするのが正しいのだろう?

困っている彼女に救いの手を差し伸べて、偽物の夫婦になることか?

それともその手を取るのは私ではないと断るべきだろうか?

そうなれば、彼女はどうするのだろうか?

そのまま私を諦めて、他の誰かに当たりをつけて、同じお願いをするのだろうか?

黙り込んだ私に、苛立った様子のアーサーが口を開いた。

「お前は人が良すぎる!それは普通、男として怒るところだろうが?

『結婚するのが嫌だから夫婦のふりをしてくれ』と他人に頼むなんて正気の沙汰じゃないぞ!」

「しかし、彼女だって困っていたんだろう?」

「だからって、お前の人生まで巻き込むことじゃないだろう?

彼女はお前を利用しようとしてるんだぞ?結婚ってのはお前が考えているより重要な事だ。お前の人生を左右するような問題なんだぞ!

結婚はお人好しで決められるような内容じゃない。夫婦と名乗るなら、他人から見てどう思うかも考えろ!そんなんじゃ仮面夫婦ってすぐにばれるぞ!そんなの意味無いだろう!」

なるほど…それは確かにそうだ…

アーサーは私が思っていた以上に真剣に心配してくれていた。

彼は結婚に関しては随分堅い考え方だ。確かに、付き合うのと結婚するのとは全く違うだろう。

アーサーの結婚に対する考え方は厳格な貴族のそれで、今まで向き合おうとすらしていなかった私の考えの浅さを思い知らされた。

「まったく…お前がそんなに馬鹿だと思ってなかった…」と呆れる彼は手厳しい。だが、そう言われても仕方ないと理解している自分もいる。

言いたいことを言って、友人はため息を吐いて沈黙した。

私も返す言葉がない。申し訳ない気持ちのまま、また助けを求めるように月を見上げた。

都合よく答えは降ってきそうにない…

「…で?お前はどうなんだ?」

「私かい?」

「お前も神職だったろうが…婚前の誓いが分からんとは言わさんぞ…」

「…あぁ」あれか…

確かに結婚するならそれを神に誓うのが最低限の習わしだ。

相手がアンネ様なら、その誓いをロンメル男爵夫妻の前で宣誓するくらいはするだろう。

私は神という尊い存在に嘘を吐けるほど器用ではなかった…

「考えてなかった…」

「だろうな…」と呟いてアーサーはまた頭を抱えた。

彼の頭を悩みで重くしたのは私だ。彼ならもっとスマートに答えてくれると思っていたのに、私の悩みは彼にとって非常に重かったみたいだ…

「お前がアンネ様を好いているなら話は別だ。それなら俺も考え直せとは言わない。

しかし、アンネ様もお前に下心が無いのを知って選んでいるのは明白だ。どうせ妻としての役割なんてする気は無いんだろう?

お前も無理に求めるような男じゃないし、なんなら今のままでいいって思ってそうだしな…」

「君は人の心が見えるのかい?」

まるで私やアンネ様の心を見透かしているようなアーサーの言葉に驚いた。

「馬鹿言え。そんなの見えてたら俺だってもっと楽に生きられたさ…」

苦い表情で私の考えを否定した男は、また呆れたようにため息を吐いた。彼も悩みの多い過去を持つ人だ。

「とにかく、その話をするのは俺だけにしておけよ。

アンネ様の名誉にもかかわるし、旦那様や奥様が気に負うといけないからな…」

「あぁ、分かってるよ。ありがとう、アーサー」

「お前は人が良すぎる。嫌な事は嫌と言うべきだ。そんなんじゃいいように使われて利用されるだけの人生になるぞ」

「私はロンメルのために人の役に立てるならそれでいいんだ」

「滅私奉公も大概にしておけ。そんなのお前の人生じゃない。

せっかくブルームバルトで生きてるんだ。奴隷根性とはさっさとお別れしろ」

アーサーの皮肉っぽい助言は耳に痛い。それでも彼は私の心配をしてくれているのだと理解していた。

良い友人を持ったと思う。

今までの人生、悪い事もあったが、私は人に恵まれた方だろう。

苦笑いで応えて、自分の足元に視線を落とした。

良い歳になっても私はまだ一人で歩けないままだ…自由に生きるのは存外難しいのだな…

未だに導き手を求めているのは、私が甘えているからなのだろうか?

アンネ様への答えは出ないまま、自分の未熟さを噛みしめる夜となった。

✩.*˚

奥様たちが寝所に入ったのを確認して、今日の仕事を終えた。

アダムはまだ起きてるはずだ。

彼を探して屋敷の中を歩き回った。

返事は急がないと言っていたが、本当は早く結論を欲しかった。

無理なら次を探さなければならない。

でも一番に彼に話を持っていったのは、彼が私にとって一番都合の良い相手だったからだ。

身よりもなく、煩く子供を欲しがる舅や姑もない。それに何より、彼は女性を必要としてないと分かっていた。

それでいて人当たりもよく、旦那様や奥様のために無私で働いてくれる。

これ以上ない適任な相手だ…

厨房に面した裏庭で彼の姿を見つけたが、一人でないのを見て、声を掛けるのを諦めた。

話をしている相手はアーサーだ。彼の前でアダムに声を掛けて変に感づかれるのは少し面倒だ…

仕方ない…また一人の時に声を掛けよう…

誰かに気付かれる前に踵を返して自分の部屋に戻った。

薄暗い廊下の少し先に奥様達の寝所がある。

二人は今…正しい夫婦としての務めを果たしているのだろう…

今更、彼に対して罪悪感を抱くのはおかしな話だろう…

部屋に戻って、クローゼットから宝物をしまった箱を取り出した。

蓋を開けると、そこにはいつもと変わらない、柔らかな毛並みの黒貂の襟巻があった。

大ビッテンフェルト卿から頂戴した襟巻…

手に取って毛皮に顔を埋めた。柔らかな黒い毛皮は私を包むように受け入れてくれた。

分かってる…私が好きになったのは叶わない相手だ…

年齢も、生き方も、住む場所も全く違う。私の気持ちは失礼だろう。

『親父も心配してる』と旦那様に言われて、少しだけ辛かった。

大ビッテンフェルト卿は私の無礼を覚えているのだろう。

あの身の程知らずの告白を笑って許してくれたとはいえ、この想いを持ち続けていることを快く思っていないのかも知れない…

でも、叶わないから余計に諦めることができないのだ…

せめて叶わぬ恋ならば、そのまま美しいまま残しておきたい…

別の男に、私の美しい思い出を台無しにされるのは耐えられない。

他人から見たら、なんて我儘で酷い女だろう…

アダムには本心を伝えるべきだろうか?

彼ならこの醜い自分勝手な感情を受け止めてくれるだろうか?

それとも私を軽蔑するだろうか?

私はどうなることを望んでいるのだろう?

黒貂の毛皮に埋めた顔は無様な表情を浮かべているように思えた。

泣きそうな顔を上げることができない。

今、鏡を見れば、この世で一番醜い女が映ると分かっている。

救われたいと願ってる、救いようのない馬鹿な女だ…

この世で一番美しい女性の傍らを埋めるには、私は役不足に感じられた…
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