燕の軌跡

猫絵師

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唐変木

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ヴィクターを引き取って早くも二年半が過ぎた。

未だに稚拙な言動は目立つが、彼は着実に《英雄》に近づいていた。

カナルに戻ったら、どれほどの活躍を見せるだろうか?

私の育てた《英雄》が、《冬将軍》を敗る日も近いだろう。その想像に胸の奥がじわりと熱を帯びる。

未だにカナルの戦線は膠着状態だが、オークランドもただ無為に時間を費やしている訳では無い。

オークランド陣営はカナルを越える手段を模索している最中だ。あの大河を越えることさえ出来れば、あとは圧倒的な兵士の数で押し切れば良い。

あの河を挟んでの戦いに、ヴィクターの《祝福》は都合が良い。《鷹の目》が完成すれば、対岸を奪うことも可能だろう。

そうなれば、ヴィクターは《英雄》として認められる。

私の夢は達せられるのだ…

「団長。到着致しました」という他人の声で、妄想に別れを告げ、目の前の現実に戻った。

馬車で訪ねたのは自分の屋敷からほど近い、ルフトゥ神の教会だった。

「これは、シュライク卿」

顔見知りの初老の神官が私を出迎えた。彼は私の訪問の理由が分かっていたようだ。

「ご子息なら中でお祈り中です」と告げて、教会の中に私を招いた。

やはり、またここに来てたか…

「ヴィクターが邪魔してすまないね」と、詫びると、教会を預かるジャクソン殿はヴィクターの信心を褒めた。

「そのような事はございません。ご子息は純粋で美しい心をお持ちです。

自らのためでなく、行方不明のお兄様や亡くなられた恋人のために祈りをささげる姿は非常に心を動かされます。

今では祈りを捧げる姿も、板についてきましたよ」

ジャクソン殿は聖職者らしくヴィクターを褒めた。

集中力や一般教養を身に着けさせるために、ジャクソン殿にヴィクターの指導をお願いしたのが始まりだった。

初めは、ジャクソン殿もヴィクターの幼い言動や不作法に戸惑っていたが、丁寧な指導で、ようやく表に出せるくらいの教養を身に着けることができた。

ヴィクターもジャクソン殿に懐いて、ことあるごとに教会に出かけていた。

一般の祈りの間に通されると、大きな丸十字をあしらったステンドグラスとルフトゥの像の前に、跪いて祈りを捧げるヴィクターの姿があった。

彼が祈りを終えるまで近くのベンチに座って待った。

しばらくして、ヴィクターは傍らに置いていた白い弓を拾った。

どうやら、ニコラスとミラの為の祈りが終わったらしい。

「父さん、来ていたの?」私の姿を見つけて、ヴィクターは少し驚いた顔をしていた。

「ここに来ているだろうと思ってね。君の祈りが終わるまで、待っていたのだよ」

「終わったら戻るよ。今日も訓練でしょ?」と応えて、ヴィクターは《鷹の目》で私を映していた。

人と異なる、猛禽を思わせる鋭い視線も、《祝福》に魅せられて狂った私には心地よく感じられた。

「今日は訓練ではないよ」とヴィクターに今朝届いたばかりの用事を伝えた。

「実践だ。《金百舌鳥の団》に依頼が届いた。

オークランド国王に敵対する賊の退治だ。君は部下を連れて、私の代わりに依頼を片付けてきて欲しい。必要なものは全て私が用意する」

「俺一人の方が良くない?足手纏いなら要らないよ」と、ヴィクターは自信を覗かせた。

自信があるのは良い事だが、私がこの仕事を持ってきたのは、ヴィクターを増長させるためではなく、成長させるためだ。

「そういうわけにはいかないよ。君も今後隊長としての経験を積まなければ、君を安心してカナルに送り出すことはできないからね」

私の言葉に、ヴィクターは眉を寄せた。

「俺は、兄ちゃんを助けに行かなきゃなんないんだ」

「分かっているよ。そのためにも、君がカナルに戻っても役に立てると証明されなければならないのさ」

いつも通りに彼を言いくるめて、馬車に乗せると《金百舌鳥の団》の拠点に向かった。任務に送り出す前に、彼と引き合わせたい人物がいた。

「君の相棒だ」と、アンドリュー・ピアースという男を紹介した。

傭兵としてはそこそこの経験がある。彼は何人か隊長を変えながら、《金百舌鳥の団》で働いていた。

《祝福》のような目立った能力はないが、彼は補佐役として重要な能力がある。

傭兵同士の争いごとを収めたり、上手い具合に上との折り合いをつける事ができる。

隊長を任せるには光るものがないが、補佐役に回れば非常に心強い。隊長としての経験の無いヴィクターの補佐役として、私が直々に引き抜いた男だ。

人見知りで警戒しているヴィクターに、ピアースは人の良さそうな笑みを浮かべて声をかけた。

「アンドリューっす。よろしく」と、ピアース軽い感じで挨拶して、ヴィクターに手を差し出した。

「彼は君の補佐役だ。困ったことなどがあれば彼に相談するといい」

「…父さんは?」と不服そうなヴィクターが訊ねた。それでも私はこの件に手を貸すつもりはない。

「私は君の任務完了の知らせをルフトゥキャピタルで待っている。

失敗したとしてもそれも経験だ。私は一切手を出さない。君とピアースだけで乗り越えたまえ」

突き放すことも大切だ。

ヴィクターは兄の庇護下で生活してきたせいか、対人関係にやや難がある。隊長になるならそれは乗り越えねばならない問題だ。

ヴィクターは私の手前、渋々ピアースを受け入れて、その手を握った。

「ヴィクターを頼んだよ」と、後の事はピアースに任せた。

彼も傭兵だ。高い依頼料を受け取っているからには、そう簡単に投げ出したりしないだろう。それに、ヴィクターが育ってくれなければ私も困る。

彼に二年も費やしたのだ。

私の夢のために、二人には頑張ってもらわねばな…

✩.*˚

「ねぇ、お母さん。これでいい?」と彼女は母親に自分の身なりを確認した。

淡い桃色のドレスは肌の白い彼女によく似合っていた。彼女の深みのある色合いの長い金髪も、綺麗に結って纏めてある。

その姿が、いつもの幼い印象の彼女とはかけ離れていて、大人びて見えた。

「そうね。日差しが気になるから、ちゃんのお帽子被って行きなさいな」

「えー?だってせっかく可愛くしたのに髪の毛崩れちゃう…」

彼女は年頃の女の子らしく、自分の容姿を気にしていた。

その姿が愛らしくて、不躾ながらも、無邪気な少女から目が離せなくなっていた。

「もう、そんなこと言って…

バルテル夫人にご挨拶する前に、日焼けでお肌が赤くなっても知りませんよ?」

「うぅ…それはいや…」

「それならちゃんとお帽子被っていらっしゃい、ハルツハイム夫人」と義母は娘をやり込めて、今度は私に視線を向けた。

「アダルウィン様、娘が我儘で申し訳ありません。ユリアがご実家で無作法するようでしたらご指導下さい」

「いえ。こちらこそ、母の我儘に付き合って頂きありがとうございます。ユリア嬢は責任もってお預かり致します」

実母であるバルテル夫人が別荘に行くから、ユリアを連れてくるようにと言ったのが始まりだった。

母は仕事ばかりの父とは対象的で、自由で奔放な女性だった。母は、仕事で留守にしがちな父を気にすることなく、悠々自適に自分の時間を謳歌していた。

バルテル家の子供は男ばかりだったから、母はユリアを大層気に入っていた。

母は長兄の婚約者も可愛がっていたが、それ以上に、愛らしいユリアが娘になって嬉しかったのだろう。

ユリアも母に圧倒されながらも、マイペースな彼女らしく、上手くやっているようだった。

ユリアの両親に見送られながら、彼女を連れて、母の寄越した迎えの馬車に乗り込んだ。

「じゃぁ、道中気をつけてな」と、ロンメル男爵まで見送りに出てきてくださった。

男爵は指先で私の気を引いた。

何かと思って馬車から身を乗り出すと、男爵は意地悪い笑みを浮かべて、私にこっそりと耳打ちした。

「お前、ユリアが可愛いからって変な真似するなよ?」

「なっ!何をおっしゃいますか?!」

からかわれて、主人を相手に大声を出してしまった…

すぐ後ろでユリアの「なぁに?」と間延びする声に、男爵は「なんでもねぇよ」と誤魔化した。

「たまには親父の目の届かないところで楽しんで来いよ」

「旦那様、アダルウィン様は紳士だよ。意地悪しないの」とユリアは意地悪くからかう男爵に言い返して、私に「ねぇ?」と同意を求めた。

馬車の窓は小さい。その窓を覗くために、ユリアの身体の一部が私の身体に重なった。

重なった柔い感触が、私の心臓を刺激して、鼓動は早鐘を打った。耳まで帯びた熱で変な汗が出る。慣れた汗臭い男の臭いとは真逆の、柔らかい少女の香りが鼻腔に流れ込む。

女性慣れしていない私にはこの状況は辛すぎる…

「そうだな。まあ…うん、大丈夫そうだな…」

ふがいない私の姿を苦く笑って、男爵は馬車から離れた。

ユリアの両親や、ロンメル男爵に見送られて、馬車はゆっくりと動き出した。

隣に座ったユリアはしばらく外を眺めたりしながら時間をつぶしていたが、それもすぐに飽きたようだ。

「ねぇ、アダルウィン様」とお喋りな小鳥のように、彼女は愛らしい声で囀り始めた。

時々相槌を打つものの、私に女性の好くような話題なんてない。話し相手が私しかないから話しているだけだろう。

彼女に気を使わせてしまっているような気がして、何だか申し訳ない気持ちが湧いた。

いたたまれなくて、「…すみません」と言葉が口からこぼれた。

「え?何?」とユリアがお喋りを引っ込めて私に訊ねた。

「あ、ごめんなさい。もしかして、ユリアうるさかった?」

「いえ、お話は楽しいのですが…ユリアにばかり話をさせてすみません…

その…気の利かない男で申し訳ありません」

「そんなことないよ。ユリア、アダルウィン様がお話聞いてくれてうれしいよ」とユリアは様子を伺うウサギのように首を傾げた。

彼女は本当にかわいい女の子だ。

初めて会った時もかわいいと思ったが、三年経った今では、さらに女性らしさが加わってどうしても意識してしまう。それが私の言動をぎこちなくさせていた。

それが彼女の目にどう映っているのか、そればかり気になってしまう…

ユリアの目から見て、頼りの無いように見えているなら不甲斐ない。

面白味がないと思われても仕方ないが、それで彼女が不満を抱くようなら申し訳ない…

私の心配を他所に、ユリアはふんわりとした柔らかい笑顔を見せた。

「アダルウィン様、優しいよね。ユリアお喋り過ぎるから、いつもお兄ちゃんに呆れられちゃうのに、アダルウィン様はずっと聞いてくれるもん。

それに、ちゃんとお返事してくれてるから、聞いてくれてるって分かるよ」

彼女はそう言って、私の足りない部分に目をつむってくれた。

ユリアは話ができれば誰でもいいのかもしれない。そうであるなら、口下手な私としては助かるが、同時に寂しい気持ちになった。

親の決めた許嫁だ。彼女にとって、私はその程度なのかもしれない。

そんないじけた気持ちを抱えて俯くと、隣から伸びた手が私の手の甲に重なった。

「ユリアね。子供の頃に好きになった人と約束したの」

「…その人は…」その口ぶりから、彼女の憧れのような感情が伝わってきた。

「旦那様のお友達。外国から来てた格好いい大人の人。ソーリューっていうの…

無口で、いつもつまらなそうに怖い顔してたけど、いつも見守ってくれてたんだよ。私のお話も、つまらなそうだけどちゃんと聞いてくれてたの」と語る彼女の言葉の中に住む人物に嫉妬のような感情を抱いた。

その人と比べられているような劣等感で、ユリアの話に相槌を打つこともできなかった。

「ソーリューはもう国に帰っちゃったけど、その人とお別れするときに約束したんだ。《好きな人と幸せになる》って…」

隣で照れたように笑ったユリアは、小さな柔い手で、指を絡めて私の手を握った。

「アダルウィン様となら、ユリア幸せになれるかな?」

「…それは」《できる》と即答できない自信のない自分が恨めしい。

「できる限り…努力します」などと、何の捻りもない、気の利かない台詞しか出てこない。

「アダルウィン様らしいね」と私に理解を示して、ユリアは「がんばって」と応援をくれた。

ユリアは未来の夫として、私に期待してくれているのだろう。

私は、気の利いた言葉も、歯の浮くような甘い言葉も返すことはできない朴念仁だ。女性に喜ぶこともよく分からない。

だからこそ、《努力》という私にできる唯一の方法で彼女を幸せにすると、揺れる馬車の中で心に刻んだ。

✩.*˚

「行ったな」

アダルウィンとユリアを乗せた馬車を見送って、一息吐いた。

それにしても、アダルウィンはユリアの尻に敷かれる未来しか見えんな…

そんなことを思いながら、振り返ると、怖い顔のシュミットと、対照的に微笑むラウラに姿があった。

「なんだよ?お前、まだ拗ねてんのか?」

「嫁入り前に娘を心配して悪いですか?」と、どことなく尖った声が返ってくる。

そんな不機嫌を絵にかいたような男の脇腹に、笑顔のラウラの肘が刺さった。

「ハンス。旦那様にその口の利き方は感心しませんよ」と、ラウラは笑顔で旦那を黙らせた。

さすがユリアの母親だ。こっちの旦那もしっかり尻に敷かれている。

「私たちの前ではハルツハイム様も遠慮されるでしょう?

たまにはこういう機会も大切ではありませんか?

それに、バルテル家の皆様もユリアを可愛がってくださっているのですから、お断りするのも失礼ですわ」

「ケヴィンを付ければよかっただろう?」

「あら?そしたら、ケヴィンが寂しい思いをするじゃありませんか?

それとも、なんですか?ライナも付けますか?ロンメルのお屋敷が随分寂しくなりますけど、その分あなたが頑張ってくれるのかしら?」

あのシュミットがぐうの音も出ない。

ラウラにやり込められて、沈黙したシュミットよりも、ラウラの言ったことの方が気になった。

「なんだ?ケヴィンの奴、ライナに惚れてんのか?」

「ふふっ、女の勘というやつですわ」とラウラは楽しそうに笑った。

「ライナは良い子ですよ。仕事もできますし、ケヴィンとは年齢的にも丁度いいですしね。まあ、ケヴィンの片思いのようですけど」

「女って怖えな…」

「男が単純なんですよ。

あら、失礼しました、旦那様。殿方は純粋なのですよね?」

しれっとそう言いなおしたラウラは、ケヴィンの秘密をそのままにして、旦那の背中を押しながら屋敷に戻って行った。

あのケヴィンがねぇ…

子供の成長を感じて、また自分が老けたような気がした。

ため息を一つ吐いて、癒しを求めて子供部屋に足を向けた。

子供部屋は相変わらずにぎやかだが、顔触れに少し変化があった。

子供たちの世話をしていたメリッサが、俺の訪問に気づいて子供たちを呼んだ。

「フィリーネ様、エミリア様。お父様ですよ」

「お父さま!」と声を上げて、元気なフィーが駆け寄って来て、俺に飛びついた。しがみつく手は腰の辺りに届くようになっていた。

「よかったですねぇ、フィリーネ様」

フィーが喜んでいるのを嬉しそうに眺めて、メリッサは抱いていた赤ん坊を俺に差し出した。

甘い香りの赤ん坊が腕の中に納まった。

フィーにも見えるようにしゃがんで、フィーの視線に合わせた。

「エミリアみててくれたか?」

「うん。フィー、エミリアのお姉さんだもん」とフィーは頼もしく《姉》と名乗った。

待ちに待った、テレーゼと俺の二人目の子供は女の子だった。

エミリアは俺の母親の名前だ。テレーゼがその名前を選んだのは、親父を気遣っての事だった。

親父にとって《エミリア》は特別な名前だ。

もう歳だし、少し体調を崩していたので心配していたが、エミリアが産まれたと聞いた親父の喜びようは凄まじかった。

テレーゼは産まれた子供が女の子だったのを少し気にしていたようだったが、親父の喜びようを見て自信を取り戻したようだった。

「テレーゼのところに連れてっていいか?」とメリッサに断って、フィーとエミリアを連れて部屋を出た。

「お父さま。お庭行こう」とフィーは俺に寄り道を提案した。

彼女が寄り道するのは、庭の一角にあるクローバーの畑だ。

「今日はフィーが探すの」と意気込んで、フィーは庭に駆け出して行った。

「あーあー…お転婆な姉ちゃんだ」と苦笑いを浮かべながら、前を行く小さな背中を追いかけた。

腕の中で、エミリアが芋虫のように身体をくねらせた。

「あー」と言葉にならない声を出して、薄い色のまつ毛の隙間から覗く青い瞳で、何かを探していた。

見えなくなった姉の姿を探しているのだろう。

「フィーは先行っちまっただけだよ。大丈夫だ、エミリア」

まだ半年しか経ってないが、よく動く。首なんて、取れるんじゃないかと思うほどブンブン振り回していて心配になるくらいだ。

エミリアも、お転婆になるだろうな。

撫でた前髪は、さらりとした真っ直ぐな金髪で、俺にもテレーゼにも似ていない質感だ。

『私のお母様に似たのかもしれないですね』と、テレーゼは嬉しそうに話していた。

どちらにせよ、別嬪さんになることは保証されている。

エミリアを抱いて庭に出ると、フィーは既に緑の絨毯に座り込んでいた。

スカートが地面に擦れてもお構い無しだ。

草を踏んだスカートが緑の汁に汚れても、彼女にとってはそれも勲章なのだろう。

「あったよ!お父さま!」とフィーはよく聞こえる元気な声で叫んで、右手に握った戦利品を見えるように掲げた。

小さな手に握られてるのは、ハート型の葉を四つ寄せ合わせた、特別な姿のクローバーだ。

「おー!早かったな!」

フィーを褒めて、手に握った四葉を確認した。

キレイなちゃんとした形のやつだ。目が良いのか、フィーも四葉を見つけるのが上手い。テレーゼはそれが少しだけ羨ましいようだが、それでもフィーが見つけてきた四葉を瓶に詰めて大切に残していた。

「お母さまに渡すの!」と、子うさぎかリスのように跳ね回って喜ぶ娘の姿は愛らしい。

「エミリア!お姉さますごいでしょう?」とフィーは妹に自慢して、エミリアに四葉が見えるように掲げた。

もぞもぞとの下から出てきた小さな手が、フィーの見つけた緑の宝物に触れようとしていた。

「すごいよな、エミリア」

仲の良さそうな姉妹の姿に癒されて、二人を抱き寄せて、両手に花を抱えた。

「四葉も手に入れたし、テレーゼのところに行くか?」と告げて、また屋敷の方に足を向けた。

テレーゼはエミリアを産んでから、また少し体調を崩すようになっていた。

すぐに無理をしようとするから、俺やシュミットは気が気でない。

無理やりベッドに放り込んで、アンネに見張らせているが、それでも寝室に色々もちこんで仕事を続けるものだから心配は尽きない。

テレーゼの寝室を訪ねると、案の定、彼女はベッドの上で書類に目を通していた。

「あら?おそろいで」と、テレーゼは両手に娘たちを抱いた俺の姿を見て微笑んで迎えてくれた。

「お母さま!」と、キンキン声で叫んで、フィーが腕の中で跳ねた。

危なっかしいお姫様は俺の腕から降りると、お土産のクローバーを母親に届けた。ちゃんと「私が見つけたのよ!」と主張するのを忘れないのはさすがだ。

「ありがとう、フィー」

テレーゼは嬉しそうに娘からの贈り物を受け取って、ベッドの上にフィーを呼んで抱きしめていた。

テレーゼの腕の中で、小鳥の囀りのようなフィーの笑い声が部屋の空気を明るくした。

この空気を壊したくなくて、仕事をしていたことを指摘するのはやめた。

「ちゃんと休んでるのか?」

「休んでますよ。これはちょっと気分転換です」と、テレーゼは笑って、俺に目を通している途中の書類を見せた。

「メルケル先生が、授業で使う教科書の見本を届けてくれたんです」と、喜ぶテレーゼの顔色は明るく、体調は良さそうに見えた。

「無理するなよ?せっかく学校が完成したのに、学校長が来なかったらガキども勉強に集中できねぇぞ?」

「あら、それは良くありませんわね」とテレーゼはクスクスと笑っていた。

色々あったが、テレーゼの学校はこの春に完成した。本格的に学校として運営を始めるのは夏からだが、それももう目の前の話だ。

生徒も先生も集まり、テレーゼの夢はあと少しで叶うところにまで来ていた。

お前ってば、本当にすごい奴だよ…

沢山の人たちの後押しをもらったが、それもこれもテレーゼでなければ無理な話だったろう。俺にできたのは、せいぜいテレーゼの邪魔にならないようにすることくらいだ。

「あー、うー」と、むずかしがる声を出して、腕の中で退屈していたエミリアが不満を訴えた。

まだ口もきけないのに、一丁前に主張する娘を見て、テレーゼは微笑んでエミリアに手を伸ばした。

テレーゼは赤ん坊を受け取って、娘の顔を覗き込むと嬉しそうに破顔した。

「エミリア、元気そうね。お父様とお姉様と一緒にお散歩できて良いわね」

テレーゼはエミリアに話しかけて、ベッドに上っていたフィーにも声をかけた。

「フィー。エミリアと仲良くしてくれているかしら?」

「うん!フィーお姉さんだもん!」

「フィー、すっかりお姉さんね。お母様、嬉しいわ。ありがとう」

自分が関われない分、フィーがエミリアを可愛がってくれていることが嬉しいのだろう。

仕方ないことだが、テレーゼは母親として何もできないことを歯痒く思っているようだった。

そんなテレーゼに、フィーがもじもじしながら、お願いを口にした。

「お母様、ご本持ってきたら読んで下さる?」

「えぇ。お母様も一緒にご本読みたいわ。フィーの好きな本持ってきてくれるかしら?」

テレーゼの返事に、フィーは歓声を上げて喜ぶと、キラキラした目を俺に向けた。

「よかったな、フィー。本取りに行くか?」

「行く!お母様待っててね!」

フィーは元気な声を残して、翻る燕のような身のこなしでベッドからドアに向かって一直線に駆けて行った。

「せっかちな奴だな…」と呆れながら、テレーゼからエミリアを受け取った。

まだ着いてないとどっかで転んで怪我するかもしれない。本を持ってくるならなおさら心配だ。

「元気なのが一番ですわ」と言いながら、彼女はどこか寂しそうに微笑んでいた。

そうだよな…そりゃそうだ…

その言葉に頷いて、俺もフィーの後を追った。

✩.*˚

「…今なんと?」

アダムの夕日のような瞳が驚きの色を含んで、私を見返した。

その姿が、私など相手にしていないようで、少しだけ苛立ちを感じた。

「お嫌ですか?」と口から出た声は、自分でも不機嫌に聞こえた。

「いえ…その…アンネ様のお話が、あまりに急なお話でしたので…」

アダムは私の質問に対する答えをぼやかして、何かに助けを求めるように視線を泳がせていた。

彼も私も同じような悩みを抱えていたから、きっと理解してくれるものだと思っていたが、そうでもなかったのかもしれない。

ため息を吐いてさらに言葉を続けた。

「別に、私は貴方に夫としての役割を求める気はありません。奥様を安心させるための、形だけの夫婦で良いのです。

貴方にとっても、その方が都合が良いのではありませんか?」

「それは…」と口ごもって、やはり彼は返事をくれなかった。

「考えておいてください」と言い残して、踵を返すと裏庭を後にした。

『アンネ、誰か良い人はいないの?』と、奥様は私に結婚を勧めることが増えた。

先日お会いした大ビッテンフェルト卿も、私の独り身を案じていた。

当然だ。

子供のユリアだって婚約者がいるのに、私がいつまでも独り身では、ロンメル家の評判が落ちる。

あそこは行儀を習っても、嫁の世話もしてくれないのだ、などと悪い噂が立つかもしれない。

嫁入りの世話をして欲しくて、娘を貴族の屋敷で働かせるという家は少なくない。

私の家がそうだった…

騎士とは名ばかりの家柄で、兄弟も多かった。

私は運良く、ヘルゲン子爵様に引き取られて、幼いテレーゼ様のお世話を任された。

ヘルゲン子爵様は、私の性格をお見通しだったのかもしれない。

ことある事に湧いてくる嫌がらせも、陰湿な陰口も、私の心を曲げることは無かった。

テレーゼ様は私の宝物だ。唯一無二の存在だ。

彼女に尽くす以上の人生があるだろうか?

その気持ちは今でも変わらない。

叶わない恋をしたこともあったけど、結婚に魅力などは感じなかった。大ビッテンフェルト卿が応じてくださったところで、私は奥様の傍を離れることはなかっただろう。

結婚は、私にとって幸せには繋がらないのだ。

それでも、このまま意固地になって、奥様を心配させるのは私の望むことではない。それなら、誰か、都合の良い人間と一緒になろうと思い立った。

その都合の良い誰かが《アダム》だっただけの話だ。

彼は結婚というより、異性というものに魅力を感じていないようだった。旦那様や奥様が世話を焼いても、アダムは苦笑いでその手の話から逃げ回っていた。

彼もまたロンメル家の為だけに存在している人間だ。私たちは良く似ていると思っていたのに…

形だけでも結婚すれば、他人から《結婚》を勧められることはないだろう。

その煩わしさから逃げたいからという理由で、私はアダムを共犯者にしようとしていた。
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