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成長
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「ねぇ、ケヴィン。ルドを知らない?」
たまたま廊下で会ったケヴィンに訊ねたが、ケヴィンは首を横に振って応えた。
「変ね…学校は終わったと思ったんだけど…」
どうしたんだろう?アルマの世話を放ったらかしにして...
この春から奥様の計らいで、街の子供たちと一緒に勉強を教えて貰うようになった。
初めは戸惑っていたけど、新しい友達もできて楽しんでいたから、まだ戻ってないだけかも…
そう思って、仕事に戻るために厨房に足を向けた。
そろそろ夕食の準備をしなくちゃ。見習いの子や、ラウラ様を待たせるわけにはいかない。
厨房にいたらアルマの餌を貰いに来るかもしれないと思って、ルドを探すのを止め、違和感を感じながら仕事に戻った。
「ミア。彼女たちお願いできる?」と、ラウラ様に、今日からお手伝いに来てくれていた女の子たちを頼まれた。
あたしも偉くなったものだ。いつの間にか、教える側の立場になっていた。
「来てくれてありがとう。二人とも来てくれたの初めてよね?分からないことがあったら何でも訊いてね。
じゃあ、先ずお皿の用意教えるわね」
二人とも緊張している様子だ。
分かるなぁ...あたしもラウラ様に教えられてた頃は緊張しっぱなしだったもの...
「1個ずつちゃんとこなしていったら大丈夫だよ。慌てない事と横着しない事が大事だから、少しずつ慣れてね」
カリーナとマルティナを教えながら、自分の仕事をしていると、どこからか視線を感じた。
「あ...ルド?」
ルドが厨房の裏口に隠れるようにして、こちらを伺っていた。
来るのが遅くなったから、声を掛けづらかったのかな?と思った。
「アルマの餌残してるわよ。持って行ってあげて」
気にしてない振りをして、ルドに話し掛けたが、ルドの反応は薄かった。
何か後ろめたいような、そんなふうに見えて、幼い息子の姿に違和感を覚えた。
「どうしたの?」と訊ねると、ルドはビクッと肩を震わせて、怯えたような顔であたしに視線を返した。
動揺する視線に何か良くないものを感じた。
様子が明らかにおかしい...
「...お母さん」と消えそうな声があたしを呼んだ。
ルドは少しお兄ちゃんになって、もうあたしを《ママ》とは呼ばなくなっていた。
いつもなら、私を癒す懐っこい笑顔を見せてくれるはずなのに、笑顔を忘れた口元は、言葉を紡ぐか迷うようにムズムズと動いては閉ざすのを繰り返していた。
まるでそれは何かを隠しているかのようで、その何かは私にとって恐ろしい物のように感じられた。
「ルド?」
「…僕…誰の子供なの?」
ルドが何を言っているのか理解するのに少し時間がかかった。
理解できなかったのではなく、受け入れることができなかったんだ…
「…なんで…」と、簡単な言葉を搾り出すのに、魂が削られるような気持ち悪さを感じた。腹の中に重たい石を抱えているような不快感と、肌が粟立つのを感じた。
あたしが隠していた、向き合うことのできていなかった問題が、こんな形で牙を剥くとは想像していなかった。
『ちゃんと理解できるようになってから話したいの』なんて、あたしの身勝手がルドを思わぬ形で傷つけてしまった…
すぐに否定できなかったあたしの反応に、ルドは見たことないくらい悲しい顔をして、「やっぱり」と呟いて裏口から離れた。
「ルド!」声は出たけど身体は動かなかった。傷ついた子供の姿は一瞬であたしの前から姿を消した。
✩.*˚
本当は少し気づいていた…
何で僕はお母さんにもお父さんにも似てないんだろうって…
『似てないじゃん』、『親子ってどこかにてるもんだよ』って言われて、改めて現実を突きつけられた気がした。
その言葉は悪意のあるものでは無かったかもしれないけど、僕はその言葉に傷ついた。
ケヴィンはお父さんに、ユリアはお母さんに、フィリーネ様は奥様に似ているのに、僕はどちらにも似てないし、二人とも黒髪なのに、どうして僕は金髪なんだろう?
お母さんに否定して欲しくて、訊いたのに、お母さんの顔を見たら分かった。
…あぁ、そうなんだって…
逃げるように部屋に戻って、ドアを閉めた。
日が長くなってきていたから、まだ外は明るかった。それでも太陽はゆっくりと傾いて、今日の仕事を終えて帰ろうとしていた。
勉強用に旦那様がくれた机の引き出しから、奥様がくれたインクの瓶を取り出して手に取った。
真っ黒な液体が瓶の中で、とぷん、と鳴いた。
その小さなきっかけで、僕の目は何も見えなくなった。
あふれる涙は悲しいからだけじゃないんだ…
黒く踊るインクの蓋を開けて、頭から被った。
瓶を捨てて、両手で髪の毛をぐしゃぐしゃにかきまぜた。
手も服も真っ黒になった。きっとひどい姿だ…
インクで染めた髪を引き抜いて、確認した。
これだけのことをしたのに、僕の髪は相変わらず明るい色をしていた…
黒でも塗りつぶせない黄色は呪いみたいだ。
黒くまだらに染まった髪の毛を捨てて、もう一度、と瓶を拾ったけど、もう希望は残っていなかった。
染めるものを探していると、ドアをノックする音がした。
「ルド?いるんでしょう?」と呼ぶのはお母さんの声だった。
仕事を置いてきたんだろう。心配する声に胸が痛んで、自分のしたことを後悔した。
こんなの見たら、お母さんは何て言うだろう…
勝手に想像して怖くなって窓に逃げた。カーテンに隠れようとしたけど、これでは足が出ちゃう。
慌てて窓を開けて、窓枠を踏んで外に逃げた。いつもなら怖いから絶対にしないのに、窓の外に続く小さなでっぱりに足をかけて、壁を伝って無我夢中で逃げた。
これも、お母さんが気づいたら怒られちゃうな…
悲しませることばっかりだ…
胸の痛みを覚えながら、壁に張り付いていると、アルマの鳴き声が聞こえてきた。
あぁ、そうだ…アルマにご飯届けてないや…ごめんね、アルマ…
壁のでっぱりを掴んでいる自分の手を見て、自分が真っ黒になってるのを思い出した。これじゃ、アルマは僕だって分からないかも知れない。
強い風が吹いて、僕の足場を危うくさせていた。
いまさらになって怖くなった…
どうしよう…どうやって戻ったらいい?
でも、こんな格好では戻れない。
「…おかあさん」
助けてなんて言えない…でも気づいてほしい…
お母さんが僕を探す声が聞こえてきて、心がぐちゃぐちゃになって、涙があふれた。
僕は…ここにいるよ…
涙と嗚咽に塞がれて僕の声がお母さんに届くことはなかった。
✩.*˚
カナルの岸は落ち着いていた。
《鷹の目》はカナルの岸を離れたのか、あいつの矢が飛んでくることは無くなった。
兄が戻ってこなかったから、岸を離れたのだろうか?
その一点だけは《鷹の目》に同情する気持ちが湧いた。
冬に入って、両軍共に戦闘を続けることが困難になったから、《燕の団》もカナルの岸を離れた。
冬の間にしなきゃならない事もある。
俺もまだ傭兵団の団長としては半人前だ。
ゲルトやカミルから教わることも多い。団の運営をいつまでもゲルトやカミルに頼っていては成長がない。
口うるさく文句を言いながらも、ゲルトは俺に団長の仕事や心得を教えた。彼はいかにも意地の悪そうな物言いをしながらも、自分が培ってきたノウハウを俺に惜しげもなく教えてくれた。
『とりあえずだな、この団は金の管理をする奴がいねぇのが問題だ。
アーサーの奴は騎士様になっちまったしな。俺やカミルが見てるからって安心すんな。
傭兵団だって商売だ。商売ってので一番問題になるのは金だ。金の管理だけはちゃんとしておけ』とゲルトから課題をもらっていた。
これがなかなか難しい。ワルターはヨナタンがいたが、俺の《犬》は数字を知らない馬鹿ばっかりだ。
頼みの綱だったアーサーは、騎士になってからワルターの用事で外に出ることが多くなったし、その分、ロンメルの屋敷で働く人間は忙しくなっていた。
《燕の団》のまとめ役として、俺を支えているディルクだってどんぶり勘定しかできないし、細かい数字を追うなんてあいつらには無理だ。
ゲルトが引退でもしたら、カミルは迷わずゲルトの世話をするために団を抜けるだろう。
やっと名前の売れてきた《燕の団》が、こんなことで駄目になってしまうのは笑えない。
信頼できる会計士を雇うのが急務だが、俺には宛が無かった。
「どうすんだ?トゥーマンの旦那にでも相談するのか?」と、ロンメルの屋敷まで俺を送るためについてきたディルクが訊ねた。
「まぁ、そうしたいけど、それは最後の手段だな…」
ヨナタンだって、他所の傭兵団の世話までできないだろう。誰か回してくれなんて図々しいことを頼むのは、さすがに俺でも気が引ける。
ケヴィンはロンメル家に必要だし、まだ、子供の彼を、荒くれ者揃いの傭兵団に放り込むのは酷だろう。
アルバは多少使えるが、あいつはルドルフのおまけであって、《燕の団》にずっといるわけじゃない。ルドルフが出ていくならあいつも一緒にいなくなってしまう。
「お前、誰か知らないか?」と、ダメ元でディルクに話を振ったが、嫌な顔をされただけだった。
「勘弁してくれ、俺が知るわけ無いだろうが」
「あーぁ...その辺に丁度いい奴転がってないかな?」
「そんなの信用ならんだろ?」
「いーや、ワルターはヨナタン拾ってきたんだから、多分どっかに落ちてるはずだ」
「はいはい、それならお好きにどうぞ...」
呆れ果てたディルクが俺の戯言に匙を投げた。
結局答えが出ないまま、ロンメルの屋敷に到着した。
「ん?」
何だろう?
屋敷の塀の向こうから、アルマの鳴き声が聞こえてきた。悲しげな声は誰かを呼んでいた。
「あいつ、どうしたんだ?」
無駄に鳴いたりする奴じゃない。普段はあんな声出さないのに、何かあったんだろうか?
「ディルク、肩貸せ」
「おい、まさかこんなところから入るとか言うなよ?」
俺の悪巧みを見抜いたディルクの小言をもらう前に、《縮地》で地面を蹴ってディルクの肩を踏み、塀を越えた。
塀の向こうから怒鳴る声が聞こえてきたが、あいつ一人ではロンメルの屋敷の塀は越えられないだろう。
明日顔を合わせたら小言を食らうだろうが、正面の門から入って、裏のアルマの場所まで行くのは時間がかかりすぎる。
馬小屋に増設された小屋の中から、寂し気に誰かを呼んでいる声が漏れていた。
「アルマ、どうしたんだよ?」小屋を覗くと、アルマは長い首を伸ばして俺を迎えた。まだ寂しそうな鳴き声は続いていた。アルマは空になった自分の飲み水と餌の桶を俺に見せた。
「水がないのか?ルドは来てないのか?」
「ピィー…」情けない笛の音のような切ない声で鳴いて、アルマはうなだれていた。
アルマの世話はルドの仕事だ。アダムも余程がない限り、勝手に手を出すことはなかった。それが裏目に出てしまったようだ。
「待ってな、すぐ持ってきてやるよ」と言って、空になった水の桶を拾うと、アルマは引き留めるように俺の服を咥えた。
撫でてやっても服を放さない。それどころか、強い力で引っ張られた。
「何だよ?餌が先か?」と話しかけても、アルマに答えるすべはない。ぐいぐいと服を引っ張って、不満を主張するように喉の奥から唸るような声を出していた。
ルドなら分かるのだろうか?
「もしかして、ルドに会いたいのか?」
俺の口からルドの名前が出たのをアルマは聞き漏らさなかった。
「クー」と甘えた声で鳴いて、アルマは服を放すと、鼻先で柵を持ち上げるような動作をした。
アルマは自分の飯より、いつも来るルドの存在が心配だったようだ。落ち着きがなかったのはそういう事みたいだ。
「分かったよ。裏までだからな」と告げて、アルマに馬の轡をつけて外に連れ出した。
小屋の外に出たアルマは翼を広げて大きく羽ばたいた。アルマももう大人と変わらないくらいの大きさになっていた。
キーンと響く鋭い猛禽のような声が庭に響いて、辺りの砂を巻き上げる風が起こる。握っていた手綱がすごい力で引っ張られた。
「ちょっ!やめろって!」
普段は大人しいから油断していた。
アルマは俺の手から手綱を振り解くと、翼を広げて空に舞い上がった。
逃げられる!と焦ったが、アルマは空中に留まり、屋敷を離れていくことはなかった。低く飛びながら、寂し気な鳴き声で何かを探していた。
そのうち屋敷の屋根に降りると、口と後ろ足を使って移動を始めた。アルマは俺の部屋の辺りで止まると鋭い声で激しく鳴いた。
アルマの奇行に驚きながら、屋敷の壁に駆け寄って見上げると、アルマが鼻先で何かをつついてた。
黄昏も過ぎて辺りは暗くなっていたから、それが何かすぐに気づかなかった。
アルマが必死に頭を押し付けているそれが何か分かって肝が冷えた…
屋敷の壁のでっぱりに張り付いているのは子供だった。
アルマは屋敷の壁に鉤爪をひっかけて、翼をばたつかせながら、今にも落ちて来そうな子供の尻を支えていた。
「何事ですか?!」
この騒ぎを聞きつけて、アダムが裏に駆け付けた。彼もアルマが屋敷の壁に張り付いている姿に仰天していたが、すぐにアルマが子供を助けようとしていると理解したようだ。
「アルマ、そのままもう少し頑張ってください!」とアルマに檄を送って、アダムは《祝福》で足元の土を集めて足場を作った。
駆け付けたのがアダムで助かった。
アダムが盛り上がった土の足場で子供を救助すると、壁に張り付いていたアルマも屋敷の壁を離れた。
泣いている子供を抱えて降りてきたアダムは優しく声をかけていた。
「もう大丈夫ですよ、ルド…ここにいたんですね…」
「…ルド?」
アダムの言葉に驚いて、慌てて彼の抱えた子供を確認した。
濃い髪色はよく見たらまだらに染まった金髪だった。顔や手や服も黒く染まっていた。
何でそんな姿なのかと驚いたが、ルドの身体からはインクのにおいがしていた。
状況が飲み込めない…
頭の中は理解できないことでいっぱいだ。
「ルド、その恰好どうしたんだ?!何であんなところにいたんだよ?!危ないだろ?!」
矢継ぎ早に出た言葉に、ルドは怯えた様子でアダムに張り付いて顔を隠した。
その反応に胸の奥がザワついた。
顔を見ようと、ルドに向かって伸ばした手を、アダムが制した。
「スー。ルドを責めないでください。後でちゃんと話しますから...
とにかく、ミアを安心させてあげましょう」
アダムがルドを連れていこうとすると、アルマもアダムの後を着いて歩き始めた。
それを見て、アダムは苦笑いを浮かべながら、アルマに優しく声をかけた。
「アルマ、君のおかげでルドは無事です。私が預かりますから大丈夫ですよ。
スー、アルマを戻して来てください」
「...分かった」
何があったのかは分からないが、今は感情的になる俺より、おおらかなアダムに預けた方が良いのだろう。
仕方なく、アルマの手綱を引いて小屋まで戻った。元気の無いルドと別れて、アルマは落ち着かない様子でずっと鳴いていた。
アルマは、いつも世話をしてくれる子供を心配しているようだった。
アルマの仲間は群れで生活する種らしい。ルドのことは、家族か仲間のように思っているのだろう。
「アルマ。ルドを助けてくれてありがとうな。
後で何か良いもの持ってくるよ」
情けない声で鳴くアルマを撫でて、水だけ用意すると屋敷に戻った。
ルドが、何であんなところにいたのかも、何であんな姿になっていたのかも分からないが、あまり良いことではない気がした。
焦る気持ちが苛立ちを刺激する。
良くないと思っていても、感情的になりそうな自分がいた。
裏口から屋敷に戻ろうとすると、厨房の裏でミアが泣いていた。
ライナが心配そうにミアに寄り添っていた。
「ミア...大丈夫?」
ミアに歩み寄って声をかけたが、返事ができるような状態じゃない。
こんなに泣いている彼女の姿は久しぶりに見た。嫌な記憶が蘇る...
それが俺の不安に拍車をかけた...
「ミア。部屋に戻ろう。落ち着いたら話して」
とりあえず、このままにしておけない。泣きじゃくる彼女を支えながら部屋に連れ帰った。
「…ミア姉、大丈夫?」
ミアに付き添っていたライナに事情を訊ねたが、何があったのかはよく分からなかった。
ライナの話では、夕食の準備を始める頃に、ミアが『ルドがいない!』と言い出したのだという。
もう夜になるのに、急に姿を消したルドを探して、屋敷はちょっとした騒ぎになったらしい。
「ルドはどうしてる?」アダムに任せたが、ルドのことも心配だった。
「分かんないけど、あたしが見てこようか?」とライナが言ってくれたから、彼女に任せることにした。
ミアと一緒にベッドに腰掛けて、彼女の背中を撫でていると、彼女がポツリと「ごめんね」と呟いた。
「あたしが...しっかりしなきゃいけないのに...」
「君は頑張ってるよ。
ルドのことも、仕事も、ずっと頑張ってるじゃないか?」
「ありがとう」と返してくれたが、ミアの声には元気が無かった。
痛々しい彼女の姿を見て、自分が役立たずのように感じた。まだ、俺は彼女の頼りになる旦那にはなれてないらしい...
「俺じゃ、確かに頼りなく感じるかもしれないけどさ...
ミアの事も、ルドのことも大好きだ。君たちを守りたい気持ちは嘘じゃない。
俺が君たちの頼れる一番でありたいんだ」
「頼りにしてるよ...」
「それなら俺に頼ってよ。俺にはミアが何で悲しんでるのか、君から聞かないと分かんないんだ」
俺はエルマーじゃない。
見た目だってミアより年下に見えるし、周りに比べれば頼りないだろう。それでも今の彼女の旦那は俺で、ルドの父親は俺だ。
ミアは泣き腫らして赤くなった目で俺を見た。
彼女は少し迷ったようだが、俺のためにボソボソと話を始めた。
「...ルドがね...気づいちゃったの...」
「うん」と頷きながら彼女の続く言葉を待った。
ミアは辛そうに、強く握った手を自分の胸に押し当てて、言葉を押し出した。
「『僕は誰の子供なの?』って…
あたし...何も言えなくて...ルドも…きっと、安心したくて言ったのに...何も言えなくて...」
苦しそうに言葉を絞り出して、彼女はまた涙を流して声を詰まらせた。
気の利いた言葉をかけるべきだとは頭で分かっているのに、咄嗟に言葉が出なかった。
ルドが...
胸の奥で、心が軋むような痛みを覚えた。
ルドがいつか俺の子供じゃないって気付くだろうと思っていた。
幼い子供の純粋な心に漬け込んで、《父親》だと彼の記憶に刷り込ませたのは俺だ。
まだエルマーの事を伝えてなかった事を、今頃になって後悔した。
ルドは俺たちが思ってたよりずっと早く気付いてしまった...
✩.*˚
「これは...ちょっと取れないですね」とアダムは困ったように呟いた。
奥様が使う優しい香りの石鹸の泡も、僕のしでかした悪い事を消してくれなかった...
アダムは濡れながら、石鹸とお湯で僕を丁寧に洗ってくれた。
肌に着いていたインクは、身体や髪にまだらに染み込んで、僕の姿を変えてしまった。
「…ごめんなさい」と声を絞り出すと、アダムはいつもの明るい顔で笑ってくれた。
「まぁ、そのうち何とかなりますよ。2、3日様子見ましょう」と、ざっくりとした彼らしい言葉で諦めて、アダムは僕の身体に残っていた泡を洗い流した。
柔らかいリネンに包まれながら、僕の身体を拭くリネンが汚れないか心配だった...
あの服はもう着られないだろうな...
せっかくケヴィンが綺麗に使ってたのに、僕が台無しにしてしまった。
明日も学校あるのに...どうしよう...
奥様がくれたインクも馬鹿なことに使っちゃった。絨毯も汚したし、きっと僕が触った場所も汚れてる。
アルマのご飯もまだ届けてない。
アルマはお腹を空かせてたのに、必死に僕が落ちないようにと、お尻を支えてくれた。
それなのに、僕は...
インクの黒は、僕の心の中にまで染み込んでしまったみたいだ。
心もまだらに染まったみたいで、じわじわと悲しい気持ちが滲んで、また顔の中心から悲しい痛みが広がった。
リネンの柔らかさが、疲れた心に擦れて涙を誘った。
「ルド。大丈夫ですよ」
アダムの大きな手が溢れた涙を拭いた。
アダムの柔らかい低い声が、ゆっくりと僕に沁みるように届いた。
「ミアは怒ってないですし、スーも君が心配だっただけです。誰も君を責めたりしません。
みんな君が心配なんですよ。君は愛されてます」
「...ほんとうに?」
「えぇ。君はいつだって良い子だったでしょう?私だって、君がとても良い子だと知っています。
悪戯でこんなことをするような子供ではないと知ってます。だから、きっと理由があるんですよね?」
アダムは優しい言葉で僕に理由を訊ねた。
「もし、ご両親に話せないことなら、私が聞きましょう。
君はまだ幼い。一人で抱え込むなら、どこかで心が壊れてしまいます。大人のアドバイスをもらった方がいいですよ。
もし、誰にも言って欲しくないなら、私は誰にも言いませんから、話してみませんか?」
アダムはそう言って、内緒だと言うように、自分の口元に人差し指を立てた。
「でも...内緒は、アダムも困るでしょう?」
「私は仕事柄、そういう話は大勢聞いてきました。君の悩みを受け入れるくらいの度量は持ち合わせてますよ」
僕の心配を否定して、アダムは安心する大きな手のひらで僕のまだらの髪を撫でた。
「...僕...」と、でかかった言葉が、グッと喉につっかえた。
言葉にするのが少し怖かった。
アダムもお母さんみたいに、悲しい顔をするかも、と思うと、言葉は木に張り付くコガネムシのように、離れることを嫌がった。
アダムは、言葉の出てこない僕を待ってくれた。
「大丈夫ですよ、ルド。
どんな言葉でも、私は君を受け止めます。私は大人です。君の言葉に負けたりしませんよ」
心強い言葉に励まされて、アダムになら言える気がした。
「僕...お父さんにも、お母さんにも似てなくて...
お母さんに...『誰の子供なの?』って...
お母さん...傷付けちゃった...お母さん...大好きなのに...」
アダムに吐き出した言葉は、僕に痛みを残して外に吐き出された。
お父さんもお母さんも大好きだ。
もし、二人の子供じゃなかったら、僕はお父さんやお母さんと、今まで通りで居られなくなるかもしれない。
怖かった...
怖くて、不安で、でも抱え込むには辛すぎる。
僕の不安で染まった心の声を、アダムは受け止めてくれた。
「ルド。君は偉いです。私が君を褒めてあげます。君はとても強い子だ」
アダムは、僕の弱音を力強い声で褒めてくれた。大きな手のひらが、よくできました、と褒めてくれた。
「...でも...僕、逃げちゃった」
「逃げちゃったのは、まぁ、仕方ないですよ。怖かったですもんね。
大人だって耐えられないような問題に、君は向かい合おうとしました。だから、君はすごいんですよ。
逃げたのは、ミアに謝って、彼女の話も聞いてあげれば、許してもらえるはずです」
「髪の毛は?インクこぼしたのも...許してもらえる?」
「私が口添えしますよ。一緒にごめんなさいして、掃除しましょう」
アダムは僕の心配を柔らかく受け止めて、悲しみや不安を半分引き受けてくれた。
不安で苦しかった胸は、少しだけ楽になった。
少しだけ楽になったから、アダムに訊ねたいことができた。
「ねぇ、アダム...僕は誰に似てると思う?」
「それを私に訊きます?」と、アダムは少し困った顔で笑ったけど、僕の質問を有耶無耶にしたりしなかった。
「私はルドはミアに似てると思いますよ。笑い方とか、仕草とか。ふとした時に親子だなって思います」
そう言って、アダムは僕をリネンで赤ちゃんのように包んで抱き上げた。
「さて、風邪をひいてしまいますよ。着替えに行きましょう」
「うん」と頷くと、アダムはお風呂場を後にした。
久しぶりに誰かに抱っこされて見る景色は、昔と少し違っていた。
「階段、ちいさくなった?」と、小さな違和感をアダムに訊ねると、彼は明るく笑った。
「ルドが大きくなったんですよ」と言うアダムの言葉に、なるほど、と頷いた。
「子供はすぐに大きくなりますね。私がここに来てから、君たちはみんな大きくなりましたよ。
君の悩みも、大きくなった証拠でしょうね」
「大きくなると、悩むの?」
それって少し嫌だな…それなら子供のままがいい。僕の考えをお見通しとばかりに、アダムはくすりと笑った。
「大人になると、子供では気付かないことを気付くようになるんですよ。でも、それが大人になるってことです。諦めてください」
「でもそれって辛くないの?」
「まあ、そういう考えもありますよね。悩まなくていいならそのほうがいいでしょうけど、それでは良い人間にはなれません。
悩んだ分だけ、人の痛みが分かるはずです。身体は日々成長しますが、心は経験から成長します。悩むのは悪いことだけじゃないですよ」
「アダムも悩んだの?」
「えぇ、悩みましたよ。でも私には、導いてくれる人がいましたから乗り越えてきました。
君にも頼れる人たちがいるでしょう?
今回みたいに悩んだら、誰かに頼ってください。少なくとも、壁に張り付くより絶対にいいですよ」
アダムは僕の最新の失敗を笑いに変えて、大人としてアドバイスをくれた。
彼も悩んだ分だけ大人になったんだろうな…
「僕もアダムみたいになれる?」と訊ねると彼は照れくさそうに、「私にならなくていいんですよ」と答えた。
「君は私なんかより、もっとすごい大人になれますよ。ルドは優しくて思いやりがありますし、人にも恵まれています。
君はきっと大きく強くなれますよ」
アダムの言葉は優しくて信じたくなる。
彼は僕に「成長が楽しみです」と言ってくれた。
僕もアダムみたいな優しい人になれるだろうか?それなら、辛いことも頑張れる気がした。
たまたま廊下で会ったケヴィンに訊ねたが、ケヴィンは首を横に振って応えた。
「変ね…学校は終わったと思ったんだけど…」
どうしたんだろう?アルマの世話を放ったらかしにして...
この春から奥様の計らいで、街の子供たちと一緒に勉強を教えて貰うようになった。
初めは戸惑っていたけど、新しい友達もできて楽しんでいたから、まだ戻ってないだけかも…
そう思って、仕事に戻るために厨房に足を向けた。
そろそろ夕食の準備をしなくちゃ。見習いの子や、ラウラ様を待たせるわけにはいかない。
厨房にいたらアルマの餌を貰いに来るかもしれないと思って、ルドを探すのを止め、違和感を感じながら仕事に戻った。
「ミア。彼女たちお願いできる?」と、ラウラ様に、今日からお手伝いに来てくれていた女の子たちを頼まれた。
あたしも偉くなったものだ。いつの間にか、教える側の立場になっていた。
「来てくれてありがとう。二人とも来てくれたの初めてよね?分からないことがあったら何でも訊いてね。
じゃあ、先ずお皿の用意教えるわね」
二人とも緊張している様子だ。
分かるなぁ...あたしもラウラ様に教えられてた頃は緊張しっぱなしだったもの...
「1個ずつちゃんとこなしていったら大丈夫だよ。慌てない事と横着しない事が大事だから、少しずつ慣れてね」
カリーナとマルティナを教えながら、自分の仕事をしていると、どこからか視線を感じた。
「あ...ルド?」
ルドが厨房の裏口に隠れるようにして、こちらを伺っていた。
来るのが遅くなったから、声を掛けづらかったのかな?と思った。
「アルマの餌残してるわよ。持って行ってあげて」
気にしてない振りをして、ルドに話し掛けたが、ルドの反応は薄かった。
何か後ろめたいような、そんなふうに見えて、幼い息子の姿に違和感を覚えた。
「どうしたの?」と訊ねると、ルドはビクッと肩を震わせて、怯えたような顔であたしに視線を返した。
動揺する視線に何か良くないものを感じた。
様子が明らかにおかしい...
「...お母さん」と消えそうな声があたしを呼んだ。
ルドは少しお兄ちゃんになって、もうあたしを《ママ》とは呼ばなくなっていた。
いつもなら、私を癒す懐っこい笑顔を見せてくれるはずなのに、笑顔を忘れた口元は、言葉を紡ぐか迷うようにムズムズと動いては閉ざすのを繰り返していた。
まるでそれは何かを隠しているかのようで、その何かは私にとって恐ろしい物のように感じられた。
「ルド?」
「…僕…誰の子供なの?」
ルドが何を言っているのか理解するのに少し時間がかかった。
理解できなかったのではなく、受け入れることができなかったんだ…
「…なんで…」と、簡単な言葉を搾り出すのに、魂が削られるような気持ち悪さを感じた。腹の中に重たい石を抱えているような不快感と、肌が粟立つのを感じた。
あたしが隠していた、向き合うことのできていなかった問題が、こんな形で牙を剥くとは想像していなかった。
『ちゃんと理解できるようになってから話したいの』なんて、あたしの身勝手がルドを思わぬ形で傷つけてしまった…
すぐに否定できなかったあたしの反応に、ルドは見たことないくらい悲しい顔をして、「やっぱり」と呟いて裏口から離れた。
「ルド!」声は出たけど身体は動かなかった。傷ついた子供の姿は一瞬であたしの前から姿を消した。
✩.*˚
本当は少し気づいていた…
何で僕はお母さんにもお父さんにも似てないんだろうって…
『似てないじゃん』、『親子ってどこかにてるもんだよ』って言われて、改めて現実を突きつけられた気がした。
その言葉は悪意のあるものでは無かったかもしれないけど、僕はその言葉に傷ついた。
ケヴィンはお父さんに、ユリアはお母さんに、フィリーネ様は奥様に似ているのに、僕はどちらにも似てないし、二人とも黒髪なのに、どうして僕は金髪なんだろう?
お母さんに否定して欲しくて、訊いたのに、お母さんの顔を見たら分かった。
…あぁ、そうなんだって…
逃げるように部屋に戻って、ドアを閉めた。
日が長くなってきていたから、まだ外は明るかった。それでも太陽はゆっくりと傾いて、今日の仕事を終えて帰ろうとしていた。
勉強用に旦那様がくれた机の引き出しから、奥様がくれたインクの瓶を取り出して手に取った。
真っ黒な液体が瓶の中で、とぷん、と鳴いた。
その小さなきっかけで、僕の目は何も見えなくなった。
あふれる涙は悲しいからだけじゃないんだ…
黒く踊るインクの蓋を開けて、頭から被った。
瓶を捨てて、両手で髪の毛をぐしゃぐしゃにかきまぜた。
手も服も真っ黒になった。きっとひどい姿だ…
インクで染めた髪を引き抜いて、確認した。
これだけのことをしたのに、僕の髪は相変わらず明るい色をしていた…
黒でも塗りつぶせない黄色は呪いみたいだ。
黒くまだらに染まった髪の毛を捨てて、もう一度、と瓶を拾ったけど、もう希望は残っていなかった。
染めるものを探していると、ドアをノックする音がした。
「ルド?いるんでしょう?」と呼ぶのはお母さんの声だった。
仕事を置いてきたんだろう。心配する声に胸が痛んで、自分のしたことを後悔した。
こんなの見たら、お母さんは何て言うだろう…
勝手に想像して怖くなって窓に逃げた。カーテンに隠れようとしたけど、これでは足が出ちゃう。
慌てて窓を開けて、窓枠を踏んで外に逃げた。いつもなら怖いから絶対にしないのに、窓の外に続く小さなでっぱりに足をかけて、壁を伝って無我夢中で逃げた。
これも、お母さんが気づいたら怒られちゃうな…
悲しませることばっかりだ…
胸の痛みを覚えながら、壁に張り付いていると、アルマの鳴き声が聞こえてきた。
あぁ、そうだ…アルマにご飯届けてないや…ごめんね、アルマ…
壁のでっぱりを掴んでいる自分の手を見て、自分が真っ黒になってるのを思い出した。これじゃ、アルマは僕だって分からないかも知れない。
強い風が吹いて、僕の足場を危うくさせていた。
いまさらになって怖くなった…
どうしよう…どうやって戻ったらいい?
でも、こんな格好では戻れない。
「…おかあさん」
助けてなんて言えない…でも気づいてほしい…
お母さんが僕を探す声が聞こえてきて、心がぐちゃぐちゃになって、涙があふれた。
僕は…ここにいるよ…
涙と嗚咽に塞がれて僕の声がお母さんに届くことはなかった。
✩.*˚
カナルの岸は落ち着いていた。
《鷹の目》はカナルの岸を離れたのか、あいつの矢が飛んでくることは無くなった。
兄が戻ってこなかったから、岸を離れたのだろうか?
その一点だけは《鷹の目》に同情する気持ちが湧いた。
冬に入って、両軍共に戦闘を続けることが困難になったから、《燕の団》もカナルの岸を離れた。
冬の間にしなきゃならない事もある。
俺もまだ傭兵団の団長としては半人前だ。
ゲルトやカミルから教わることも多い。団の運営をいつまでもゲルトやカミルに頼っていては成長がない。
口うるさく文句を言いながらも、ゲルトは俺に団長の仕事や心得を教えた。彼はいかにも意地の悪そうな物言いをしながらも、自分が培ってきたノウハウを俺に惜しげもなく教えてくれた。
『とりあえずだな、この団は金の管理をする奴がいねぇのが問題だ。
アーサーの奴は騎士様になっちまったしな。俺やカミルが見てるからって安心すんな。
傭兵団だって商売だ。商売ってので一番問題になるのは金だ。金の管理だけはちゃんとしておけ』とゲルトから課題をもらっていた。
これがなかなか難しい。ワルターはヨナタンがいたが、俺の《犬》は数字を知らない馬鹿ばっかりだ。
頼みの綱だったアーサーは、騎士になってからワルターの用事で外に出ることが多くなったし、その分、ロンメルの屋敷で働く人間は忙しくなっていた。
《燕の団》のまとめ役として、俺を支えているディルクだってどんぶり勘定しかできないし、細かい数字を追うなんてあいつらには無理だ。
ゲルトが引退でもしたら、カミルは迷わずゲルトの世話をするために団を抜けるだろう。
やっと名前の売れてきた《燕の団》が、こんなことで駄目になってしまうのは笑えない。
信頼できる会計士を雇うのが急務だが、俺には宛が無かった。
「どうすんだ?トゥーマンの旦那にでも相談するのか?」と、ロンメルの屋敷まで俺を送るためについてきたディルクが訊ねた。
「まぁ、そうしたいけど、それは最後の手段だな…」
ヨナタンだって、他所の傭兵団の世話までできないだろう。誰か回してくれなんて図々しいことを頼むのは、さすがに俺でも気が引ける。
ケヴィンはロンメル家に必要だし、まだ、子供の彼を、荒くれ者揃いの傭兵団に放り込むのは酷だろう。
アルバは多少使えるが、あいつはルドルフのおまけであって、《燕の団》にずっといるわけじゃない。ルドルフが出ていくならあいつも一緒にいなくなってしまう。
「お前、誰か知らないか?」と、ダメ元でディルクに話を振ったが、嫌な顔をされただけだった。
「勘弁してくれ、俺が知るわけ無いだろうが」
「あーぁ...その辺に丁度いい奴転がってないかな?」
「そんなの信用ならんだろ?」
「いーや、ワルターはヨナタン拾ってきたんだから、多分どっかに落ちてるはずだ」
「はいはい、それならお好きにどうぞ...」
呆れ果てたディルクが俺の戯言に匙を投げた。
結局答えが出ないまま、ロンメルの屋敷に到着した。
「ん?」
何だろう?
屋敷の塀の向こうから、アルマの鳴き声が聞こえてきた。悲しげな声は誰かを呼んでいた。
「あいつ、どうしたんだ?」
無駄に鳴いたりする奴じゃない。普段はあんな声出さないのに、何かあったんだろうか?
「ディルク、肩貸せ」
「おい、まさかこんなところから入るとか言うなよ?」
俺の悪巧みを見抜いたディルクの小言をもらう前に、《縮地》で地面を蹴ってディルクの肩を踏み、塀を越えた。
塀の向こうから怒鳴る声が聞こえてきたが、あいつ一人ではロンメルの屋敷の塀は越えられないだろう。
明日顔を合わせたら小言を食らうだろうが、正面の門から入って、裏のアルマの場所まで行くのは時間がかかりすぎる。
馬小屋に増設された小屋の中から、寂し気に誰かを呼んでいる声が漏れていた。
「アルマ、どうしたんだよ?」小屋を覗くと、アルマは長い首を伸ばして俺を迎えた。まだ寂しそうな鳴き声は続いていた。アルマは空になった自分の飲み水と餌の桶を俺に見せた。
「水がないのか?ルドは来てないのか?」
「ピィー…」情けない笛の音のような切ない声で鳴いて、アルマはうなだれていた。
アルマの世話はルドの仕事だ。アダムも余程がない限り、勝手に手を出すことはなかった。それが裏目に出てしまったようだ。
「待ってな、すぐ持ってきてやるよ」と言って、空になった水の桶を拾うと、アルマは引き留めるように俺の服を咥えた。
撫でてやっても服を放さない。それどころか、強い力で引っ張られた。
「何だよ?餌が先か?」と話しかけても、アルマに答えるすべはない。ぐいぐいと服を引っ張って、不満を主張するように喉の奥から唸るような声を出していた。
ルドなら分かるのだろうか?
「もしかして、ルドに会いたいのか?」
俺の口からルドの名前が出たのをアルマは聞き漏らさなかった。
「クー」と甘えた声で鳴いて、アルマは服を放すと、鼻先で柵を持ち上げるような動作をした。
アルマは自分の飯より、いつも来るルドの存在が心配だったようだ。落ち着きがなかったのはそういう事みたいだ。
「分かったよ。裏までだからな」と告げて、アルマに馬の轡をつけて外に連れ出した。
小屋の外に出たアルマは翼を広げて大きく羽ばたいた。アルマももう大人と変わらないくらいの大きさになっていた。
キーンと響く鋭い猛禽のような声が庭に響いて、辺りの砂を巻き上げる風が起こる。握っていた手綱がすごい力で引っ張られた。
「ちょっ!やめろって!」
普段は大人しいから油断していた。
アルマは俺の手から手綱を振り解くと、翼を広げて空に舞い上がった。
逃げられる!と焦ったが、アルマは空中に留まり、屋敷を離れていくことはなかった。低く飛びながら、寂し気な鳴き声で何かを探していた。
そのうち屋敷の屋根に降りると、口と後ろ足を使って移動を始めた。アルマは俺の部屋の辺りで止まると鋭い声で激しく鳴いた。
アルマの奇行に驚きながら、屋敷の壁に駆け寄って見上げると、アルマが鼻先で何かをつついてた。
黄昏も過ぎて辺りは暗くなっていたから、それが何かすぐに気づかなかった。
アルマが必死に頭を押し付けているそれが何か分かって肝が冷えた…
屋敷の壁のでっぱりに張り付いているのは子供だった。
アルマは屋敷の壁に鉤爪をひっかけて、翼をばたつかせながら、今にも落ちて来そうな子供の尻を支えていた。
「何事ですか?!」
この騒ぎを聞きつけて、アダムが裏に駆け付けた。彼もアルマが屋敷の壁に張り付いている姿に仰天していたが、すぐにアルマが子供を助けようとしていると理解したようだ。
「アルマ、そのままもう少し頑張ってください!」とアルマに檄を送って、アダムは《祝福》で足元の土を集めて足場を作った。
駆け付けたのがアダムで助かった。
アダムが盛り上がった土の足場で子供を救助すると、壁に張り付いていたアルマも屋敷の壁を離れた。
泣いている子供を抱えて降りてきたアダムは優しく声をかけていた。
「もう大丈夫ですよ、ルド…ここにいたんですね…」
「…ルド?」
アダムの言葉に驚いて、慌てて彼の抱えた子供を確認した。
濃い髪色はよく見たらまだらに染まった金髪だった。顔や手や服も黒く染まっていた。
何でそんな姿なのかと驚いたが、ルドの身体からはインクのにおいがしていた。
状況が飲み込めない…
頭の中は理解できないことでいっぱいだ。
「ルド、その恰好どうしたんだ?!何であんなところにいたんだよ?!危ないだろ?!」
矢継ぎ早に出た言葉に、ルドは怯えた様子でアダムに張り付いて顔を隠した。
その反応に胸の奥がザワついた。
顔を見ようと、ルドに向かって伸ばした手を、アダムが制した。
「スー。ルドを責めないでください。後でちゃんと話しますから...
とにかく、ミアを安心させてあげましょう」
アダムがルドを連れていこうとすると、アルマもアダムの後を着いて歩き始めた。
それを見て、アダムは苦笑いを浮かべながら、アルマに優しく声をかけた。
「アルマ、君のおかげでルドは無事です。私が預かりますから大丈夫ですよ。
スー、アルマを戻して来てください」
「...分かった」
何があったのかは分からないが、今は感情的になる俺より、おおらかなアダムに預けた方が良いのだろう。
仕方なく、アルマの手綱を引いて小屋まで戻った。元気の無いルドと別れて、アルマは落ち着かない様子でずっと鳴いていた。
アルマは、いつも世話をしてくれる子供を心配しているようだった。
アルマの仲間は群れで生活する種らしい。ルドのことは、家族か仲間のように思っているのだろう。
「アルマ。ルドを助けてくれてありがとうな。
後で何か良いもの持ってくるよ」
情けない声で鳴くアルマを撫でて、水だけ用意すると屋敷に戻った。
ルドが、何であんなところにいたのかも、何であんな姿になっていたのかも分からないが、あまり良いことではない気がした。
焦る気持ちが苛立ちを刺激する。
良くないと思っていても、感情的になりそうな自分がいた。
裏口から屋敷に戻ろうとすると、厨房の裏でミアが泣いていた。
ライナが心配そうにミアに寄り添っていた。
「ミア...大丈夫?」
ミアに歩み寄って声をかけたが、返事ができるような状態じゃない。
こんなに泣いている彼女の姿は久しぶりに見た。嫌な記憶が蘇る...
それが俺の不安に拍車をかけた...
「ミア。部屋に戻ろう。落ち着いたら話して」
とりあえず、このままにしておけない。泣きじゃくる彼女を支えながら部屋に連れ帰った。
「…ミア姉、大丈夫?」
ミアに付き添っていたライナに事情を訊ねたが、何があったのかはよく分からなかった。
ライナの話では、夕食の準備を始める頃に、ミアが『ルドがいない!』と言い出したのだという。
もう夜になるのに、急に姿を消したルドを探して、屋敷はちょっとした騒ぎになったらしい。
「ルドはどうしてる?」アダムに任せたが、ルドのことも心配だった。
「分かんないけど、あたしが見てこようか?」とライナが言ってくれたから、彼女に任せることにした。
ミアと一緒にベッドに腰掛けて、彼女の背中を撫でていると、彼女がポツリと「ごめんね」と呟いた。
「あたしが...しっかりしなきゃいけないのに...」
「君は頑張ってるよ。
ルドのことも、仕事も、ずっと頑張ってるじゃないか?」
「ありがとう」と返してくれたが、ミアの声には元気が無かった。
痛々しい彼女の姿を見て、自分が役立たずのように感じた。まだ、俺は彼女の頼りになる旦那にはなれてないらしい...
「俺じゃ、確かに頼りなく感じるかもしれないけどさ...
ミアの事も、ルドのことも大好きだ。君たちを守りたい気持ちは嘘じゃない。
俺が君たちの頼れる一番でありたいんだ」
「頼りにしてるよ...」
「それなら俺に頼ってよ。俺にはミアが何で悲しんでるのか、君から聞かないと分かんないんだ」
俺はエルマーじゃない。
見た目だってミアより年下に見えるし、周りに比べれば頼りないだろう。それでも今の彼女の旦那は俺で、ルドの父親は俺だ。
ミアは泣き腫らして赤くなった目で俺を見た。
彼女は少し迷ったようだが、俺のためにボソボソと話を始めた。
「...ルドがね...気づいちゃったの...」
「うん」と頷きながら彼女の続く言葉を待った。
ミアは辛そうに、強く握った手を自分の胸に押し当てて、言葉を押し出した。
「『僕は誰の子供なの?』って…
あたし...何も言えなくて...ルドも…きっと、安心したくて言ったのに...何も言えなくて...」
苦しそうに言葉を絞り出して、彼女はまた涙を流して声を詰まらせた。
気の利いた言葉をかけるべきだとは頭で分かっているのに、咄嗟に言葉が出なかった。
ルドが...
胸の奥で、心が軋むような痛みを覚えた。
ルドがいつか俺の子供じゃないって気付くだろうと思っていた。
幼い子供の純粋な心に漬け込んで、《父親》だと彼の記憶に刷り込ませたのは俺だ。
まだエルマーの事を伝えてなかった事を、今頃になって後悔した。
ルドは俺たちが思ってたよりずっと早く気付いてしまった...
✩.*˚
「これは...ちょっと取れないですね」とアダムは困ったように呟いた。
奥様が使う優しい香りの石鹸の泡も、僕のしでかした悪い事を消してくれなかった...
アダムは濡れながら、石鹸とお湯で僕を丁寧に洗ってくれた。
肌に着いていたインクは、身体や髪にまだらに染み込んで、僕の姿を変えてしまった。
「…ごめんなさい」と声を絞り出すと、アダムはいつもの明るい顔で笑ってくれた。
「まぁ、そのうち何とかなりますよ。2、3日様子見ましょう」と、ざっくりとした彼らしい言葉で諦めて、アダムは僕の身体に残っていた泡を洗い流した。
柔らかいリネンに包まれながら、僕の身体を拭くリネンが汚れないか心配だった...
あの服はもう着られないだろうな...
せっかくケヴィンが綺麗に使ってたのに、僕が台無しにしてしまった。
明日も学校あるのに...どうしよう...
奥様がくれたインクも馬鹿なことに使っちゃった。絨毯も汚したし、きっと僕が触った場所も汚れてる。
アルマのご飯もまだ届けてない。
アルマはお腹を空かせてたのに、必死に僕が落ちないようにと、お尻を支えてくれた。
それなのに、僕は...
インクの黒は、僕の心の中にまで染み込んでしまったみたいだ。
心もまだらに染まったみたいで、じわじわと悲しい気持ちが滲んで、また顔の中心から悲しい痛みが広がった。
リネンの柔らかさが、疲れた心に擦れて涙を誘った。
「ルド。大丈夫ですよ」
アダムの大きな手が溢れた涙を拭いた。
アダムの柔らかい低い声が、ゆっくりと僕に沁みるように届いた。
「ミアは怒ってないですし、スーも君が心配だっただけです。誰も君を責めたりしません。
みんな君が心配なんですよ。君は愛されてます」
「...ほんとうに?」
「えぇ。君はいつだって良い子だったでしょう?私だって、君がとても良い子だと知っています。
悪戯でこんなことをするような子供ではないと知ってます。だから、きっと理由があるんですよね?」
アダムは優しい言葉で僕に理由を訊ねた。
「もし、ご両親に話せないことなら、私が聞きましょう。
君はまだ幼い。一人で抱え込むなら、どこかで心が壊れてしまいます。大人のアドバイスをもらった方がいいですよ。
もし、誰にも言って欲しくないなら、私は誰にも言いませんから、話してみませんか?」
アダムはそう言って、内緒だと言うように、自分の口元に人差し指を立てた。
「でも...内緒は、アダムも困るでしょう?」
「私は仕事柄、そういう話は大勢聞いてきました。君の悩みを受け入れるくらいの度量は持ち合わせてますよ」
僕の心配を否定して、アダムは安心する大きな手のひらで僕のまだらの髪を撫でた。
「...僕...」と、でかかった言葉が、グッと喉につっかえた。
言葉にするのが少し怖かった。
アダムもお母さんみたいに、悲しい顔をするかも、と思うと、言葉は木に張り付くコガネムシのように、離れることを嫌がった。
アダムは、言葉の出てこない僕を待ってくれた。
「大丈夫ですよ、ルド。
どんな言葉でも、私は君を受け止めます。私は大人です。君の言葉に負けたりしませんよ」
心強い言葉に励まされて、アダムになら言える気がした。
「僕...お父さんにも、お母さんにも似てなくて...
お母さんに...『誰の子供なの?』って...
お母さん...傷付けちゃった...お母さん...大好きなのに...」
アダムに吐き出した言葉は、僕に痛みを残して外に吐き出された。
お父さんもお母さんも大好きだ。
もし、二人の子供じゃなかったら、僕はお父さんやお母さんと、今まで通りで居られなくなるかもしれない。
怖かった...
怖くて、不安で、でも抱え込むには辛すぎる。
僕の不安で染まった心の声を、アダムは受け止めてくれた。
「ルド。君は偉いです。私が君を褒めてあげます。君はとても強い子だ」
アダムは、僕の弱音を力強い声で褒めてくれた。大きな手のひらが、よくできました、と褒めてくれた。
「...でも...僕、逃げちゃった」
「逃げちゃったのは、まぁ、仕方ないですよ。怖かったですもんね。
大人だって耐えられないような問題に、君は向かい合おうとしました。だから、君はすごいんですよ。
逃げたのは、ミアに謝って、彼女の話も聞いてあげれば、許してもらえるはずです」
「髪の毛は?インクこぼしたのも...許してもらえる?」
「私が口添えしますよ。一緒にごめんなさいして、掃除しましょう」
アダムは僕の心配を柔らかく受け止めて、悲しみや不安を半分引き受けてくれた。
不安で苦しかった胸は、少しだけ楽になった。
少しだけ楽になったから、アダムに訊ねたいことができた。
「ねぇ、アダム...僕は誰に似てると思う?」
「それを私に訊きます?」と、アダムは少し困った顔で笑ったけど、僕の質問を有耶無耶にしたりしなかった。
「私はルドはミアに似てると思いますよ。笑い方とか、仕草とか。ふとした時に親子だなって思います」
そう言って、アダムは僕をリネンで赤ちゃんのように包んで抱き上げた。
「さて、風邪をひいてしまいますよ。着替えに行きましょう」
「うん」と頷くと、アダムはお風呂場を後にした。
久しぶりに誰かに抱っこされて見る景色は、昔と少し違っていた。
「階段、ちいさくなった?」と、小さな違和感をアダムに訊ねると、彼は明るく笑った。
「ルドが大きくなったんですよ」と言うアダムの言葉に、なるほど、と頷いた。
「子供はすぐに大きくなりますね。私がここに来てから、君たちはみんな大きくなりましたよ。
君の悩みも、大きくなった証拠でしょうね」
「大きくなると、悩むの?」
それって少し嫌だな…それなら子供のままがいい。僕の考えをお見通しとばかりに、アダムはくすりと笑った。
「大人になると、子供では気付かないことを気付くようになるんですよ。でも、それが大人になるってことです。諦めてください」
「でもそれって辛くないの?」
「まあ、そういう考えもありますよね。悩まなくていいならそのほうがいいでしょうけど、それでは良い人間にはなれません。
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アダムは僕の最新の失敗を笑いに変えて、大人としてアドバイスをくれた。
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「僕もアダムみたいになれる?」と訊ねると彼は照れくさそうに、「私にならなくていいんですよ」と答えた。
「君は私なんかより、もっとすごい大人になれますよ。ルドは優しくて思いやりがありますし、人にも恵まれています。
君はきっと大きく強くなれますよ」
アダムの言葉は優しくて信じたくなる。
彼は僕に「成長が楽しみです」と言ってくれた。
僕もアダムみたいな優しい人になれるだろうか?それなら、辛いことも頑張れる気がした。
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