燕の軌跡

猫絵師

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温室

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「どうして待てなかったのですか?!」

ドライファッハに戻って来た男は俺を責め立てた。

予想してたよりずっと早く戻ってきたフィッシャーは、アルドがドライファッハに居ないことを俺のせいにした。

「…うるせぇな、アルドが決めたんだ」

「それにしても、トゥーマン殿がお止めしたら良かったでしょうに!

しかも、よりによって、ヴォルガシュタットですって?!

亡命なら我が国でお引き受けするとお伝えしたはずです!」

「アルドがフィーアに残るって言って聞かねぇんだよ。そんなの俺のせいにするな」

「貴方が一緒にイザード王国に行くと仰ったら良いだけの話でしょう?」と痛いところを突かれて、返す言葉を見失った。

煙草を咥えてだんまりを決め込むと、フィッシャーは盛大にため息を吐いて、戻ってきた理由を話した。

「エヴァレット公爵閣下は、公子様が無事見つかったことをお喜びです。

トゥーマン殿には、公子様を保護してくれた謝礼として、見合うだけの金銭を渡すと仰っておりました」

ようには、『ランチェスター公子をよこせ』という催促だろう…

何らおかしな話では無い。当然の要求だ。

分捕まえて、無理やり攫っていかないだけ紳士だと言える。

金で解決しようというのは少しいただけないが、それでも一国の王族が頭ごなしに命令するのではなく、交渉しようとする姿勢に少しだけ好感が持てた。

「…母親は?手紙は渡したんだろうな?」

「お手紙ですか?

それならエヴァレット公爵閣下を通じてお渡ししました。

様子までは伺っていませんが、ランチェスター公子様の無事をお喜びのはずです」と、フィッシャーは勝手な感想を述べた。

母親は、息子の無事を喜んだのだろうか?

《帰らない》と綴った息子の手紙を、どう思ったのだろう?

手紙の内容を知っているだけに、俺としてはバツが悪い。机に肘を突いてそっぽを向いた。

ヴェルフェル侯爵が一緒だから、心配無いと思うが、それでもどうにも落ち着かない。

毎日一緒に過ごしていただけに、馴染んでしまったものが無いことの違和感が辛い。

アルドと話す代わりに、ポケットのミミズクを弄りながら、煙草を咥えていることが多くなった。

家に帰らずに、仕事場で数字の羅列の並んだ紙と無駄に向き合い時間を潰して、飯も食わずにひたすら孤独を誤魔化していた。

さすがに見かねたフリッツに捕まって、自宅に連れていかれて強制的に飯を食わされた。

『お前の方が手がかかる』とボヤいていたのは、アルドと比べての事だろう…

でもな、一個だけ、昔と変わったことがある。

手首を傷つけるのは止めたんだ…

どんなにクソみたいな気分になっても、嫌気が差しても、逃げたくなっても、もう傷付けるのは止めたんだ。

これは、誰にも理解されないだろうが、俺にとってはものすごい自制が必要な事だ…

帰ってくるか分からない相手を待ちながら、不安を腹に抱えて手首を抑えて耐えた。

傷が増えれば、アルドはさらに俺を放って行けなくなるだろう…

『本当のパートナーになりましょう』なんて、本気で言うわけが無い…

「…私の話聞いてます?」

上の空になっていた俺を、不機嫌そうなフィッシャーの声が現実に引き戻した。

「エヴァレット公爵閣下は、ランチェスター公子様が貴方と一緒にと望まれるなら、公子付きの世話係として一緒に入国することを許可すると仰っています。

一国の王族がこれほどまで譲歩しているのですよ?

私としても、色良い返事を頂戴するまで、イザードに帰ることはできません。どうかご検討ください」

フィッシャーは、俺にもイザードに来るようにと諭した。

こいつの立場としては、何もなしにご主人様の元に戻ることはできないのだろう。

たとえ、厄介者の俺を連れてでも、アルドを公爵に引き合せる事が最優先なのだ。

「…アルドが戻ったら考える」と返答を保留にした。

フィッシャーは俺の曖昧な返事に、眉を寄せたが、文句を言い募るのではなく、「絶対ですよ」という短い言葉だけに留めた。

上の空のような頭でも覚えておけるような短い言葉は、引っかかるように俺の中に留まった。

✩.*˚

朝、喉の乾きで目を覚ました。

ローヴァイン侯爵らに付き合って、かなり深酒をしてしまった。

「ヴェルフェル侯爵、大丈夫ですか?」

起きてきたランチェスター公子に心配されて、子供の手前と強がったものの、まだ酒の酔いは頭の中に残っていた。

あの二人は私の知る中では特に酒癖が悪い知人だ。

子供たちを遅くまで付き合わせて可哀想なことをした。

「ランチェスター公子、昨日は遅くまで申し訳なかったな」

「いえ。賑やかで楽しい会食でした」と答えて、ランチェスター公子は笑顔を見せた。

ローヴァイン侯爵は涼しい顔で水のように酒を飲み続け、ハンブルク侯爵を酔い潰していた。

次の日もあるからと何度か止めたが、『面白いので』と言って、ローヴァイン侯爵はハンブルク侯爵に酒を薦め続けていた。

その後、私やランチェスター公子が、仮初の紳士を保てなくなったハンブルク侯爵に無駄に絡まれるという地獄絵図だ…

クロイツェル侯爵は上手く逃げたと思う…

「フィーアの酒席は、その…自由なのですね。

僕の行儀を指摘されるかと思いましたが、安心しました」

公子は昨日の酒乱を良いように言っていたが、私としては素直に頷けない…

「…身内の席だったので、ハンブルク侯爵も羽目を外してしまったようだ」

「急にお召し物を脱ぎ始めた時は驚きましたが、ハンブルク侯爵が陽気でお優しい方だと知れて良かったです」

「すまんな、公子…」

昨晩を思い出して、迷惑をかけてしまった事を公子に詫びた。

全く、要らん恥を晒したものだ…

苦い感情を飲み込んで、二人で朝食を食べていると、バルテルが私に来客を知らせた。

「皇太子殿下がいらっしゃっております」

まさか昨日のバカ騒ぎが原因ではあるまいな、と邪推したが、とりあえずすぐに会う約束をして食事を切り上げた。

「僕も参ります」と、ランチェスター公子も席を立とうとしたが、後で呼ぶことにして食事を続けさせた。

子供にはちゃんと食べてもらわねば困る。

バルテルの案内で応接間に向かうと、待っていた王太子が立って私を出迎えた。

「おはようございます、ヴェルフェル侯爵」

爽やかに挨拶をした王太子は、私の顔を見て困ったような表情を浮かべた。

「突然の訪問で申し訳ありません。お疲れのようですが…あまりお休みになれませんでしたか?」

ランチェスター公子の件で疲れてると思ったのだろうか?

まぁ、間違っては無いが、問題は周りの大人たちだ。

「いえ。昨日はローヴァイン侯爵の誘いで夕餉をご一緒しましたので、帰りが遅くなっただけです。

それよりも、お急ぎのご用事でしたでしょうか?」

「あぁ、そうでした。

実は、陛下がランチェスター公子と直接お話をとご希望です。

昼からの会議の前に、応じていただけないかと…」

「陛下が?」

陛下は、昨日の会議で気分を害して、席を外してから戻ってこなかった。

それでも、驚いたことに、陛下はランチェスター公子の事を気にかけていたようだ。

「本人に確認してもよろしいでしょうか?」と返事を保留にして、急いで席を外した。

食堂に戻ると、公子はまだ食事中だった。彼は戻って来た私に気付いて、ナイフとフォークを食事中の位置に並べ、聞く姿勢を作った。

「ランチェスター公子。少し良いかね?」

「はい。殿下は何と?」

「会議が始まる前に、陛下は君と話をしたいと仰っている。どうかね?」

「フィーア国王が…僕とですか?」

公子は明らかに戸惑ったような表情を見せた。

昨日の会議の場で、陛下が途中から退席したのを気にしているのだろう。

「大丈夫。陛下はお優しい方だ。

君の事が嫌いだから席を立ったのでは無い。本当にあのような話が苦手なのだよ。

君の立場にも同情してくれているのだろう。陛下はとても善良な方なのだ」

陛下のフォローをして、ランチェスター公子の答えを待った。

「僕は国王陛下の事を何一つ知りません…

閣下のご意見を頂戴したいです」と、ランチェスター公子は少し悩んで、私にアドバイスを求めた。

このような答えを返すとは、なかなか聡い少年だ。私の立場も守られるし、勧められてなら、彼も言い訳も立つ。

「狡い考えかもしれないが、陛下とお話出来る場は限られている。私はこの機会を見逃すべきではないと思う」

「…分かりました。殿下には僕からお返事をさせて頂いてよろしいでしょうか?」

ランチェスター公子は食器の位置を揃えると、席を立った。

ランチェスター公子を連れて応接間に戻ると、王太子は笑顔で公子を迎えた。

「やぁ、おはよう、ヴィヴィ」

「おはようございます、ヨアヒム兄様」

彼らは、少し年の離れた兄弟のように言葉を交わして、私を驚かせた。

彼らは親しげに握手を交わすと、王太子の方から、私が先程話した要件を改めて伝えた。

「もうヴェルフェル侯爵から聞いたと思うが、国王陛下は君と話がしたいと仰っている。

これは陛下の私的な希望だ。君の亡命の決定を左右するものではないが、私は応じて貰えればと思っている。

どうだろう?」

「ヨアヒム兄様の望まれるように事を運んで頂ければ幸いです」

公子はそう言って、采配を王太子に委ねた。

王太子もその返答に満足した様子だ。

「では、支度が済んだら一緒に城に来てくれるかな?

中庭の温室で陛下はヴィヴィが来るのを待っているよ」

ランチェスター公子と話を済ませて、王太子は私に向き直った。

「ヴェルフェル侯爵。ご心配でしたら侯爵も公子に同行しますか?」

「可能でしたら是非」

フィーアの作法に不慣れなランチェスター公子のサポートが私の役目だ。

王太子とは親しげだが、それでも無責任に預ける訳にはいかない。

王太子は同行を許して、支度をする時間をくれた。

「バルテル。馬車を用意させてくれ。伴は最低限で良い。すぐに用意させろ。

それと、念の為に、午後の分の着替えも用意しておいてくれ。ランチェスター公子の分もだ」

「畏まりました」と応じたバルテルはすぐに家人らに指示を出した。

朝から屋敷が慌ただしくなる。

「ランチェスター公子。君も出かける服に着替えたまえ」

「はい。どの服がよろしいでしょうか?」

「そうだな…」

ランチェスター公子は服のセンスはあるが、経験が少ない。ましてや陛下に謁見するのであれば、服は選ばねばならない。

「花の刺繍の入った若草色の礼服があったはずだ。あれが若々しくていいだろう。

スカーフは…そうだな、明るい色の方がいい。オレンジか、黄色のものを選びたまえ。

コートは暗い色でも構わないだろう」

子供の服を選んでいるような感覚だ。

勝手に親のような感覚でランチェスター公子の世話を楽しんでいた。

「分かりました。アドバイスありがとうございます」と頭を下げて、公子は自分の支度に戻って行った。

素直で良い子だ。

陛下もランチェスター公子を気に入るだろう。

彼は愛される天才だ。

✩.*˚

真冬なのにむせ返るような緑の香りに包まれた。

手入れの行き届いた温室は、春のような温かさで僕らを迎え入れた。

春を待ちきれない蝶が、花びらのような羽をはためかせて飛んでいる。色鮮やかな花々も、自分たちが主役とでも言いたげな姿で咲き誇っていた。

この空間自体が、四季から春を切り取って閉じ込めたかのような様相だ。

異質だが楽園のような風景…

まるで神様の住む場所のようだ…

「…すごい」

形容しがたい風景に、そんな乏しい言葉しか出てこなかった。

僕の貧相な言葉に、ヨアヒム兄様は嬉しそうに笑顔を見せた。

「ここは王室のプライベートな空間です。

陛下のお許しを頂いた者しか出入りすることのできない、この城の聖域とも呼べる場所なのですよ」

「そんな大切な場所に…僕を招いて良いのですか?」

「君を招いたのは陛下のご希望だからね。

それに、聖域と言っても、王妃の茶会なんかにも使われる場所だし、そう身構えることは無いよ。

ここは許された者だけに開かれた園だよ」

ヨアヒム兄様は自慢げに語って、僕の背を押した。

「陛下がお待ちだ」

その言葉で目の前の現実に引き戻されて、忘れていた緊張が戻ってきた。

どんな方なのだろう?

昨日少しだけ見たが、フィーア国王は息子のはずのヨアヒム兄様とはあまり似ていなかった。

国王の様子を観察するなんて無作法なことはできないから、ほとんど視線を向けずに話をしていた。

僕の肩を抱いて歩くヨアヒム兄様は、温室に置かれた大きな大理石の円卓の前で足を止めた。

円卓には、既に人の姿があった。

ヨアヒム兄様は、僕の背を押して少し前に立たせると、席に先に座っていた男の人に頭を下げた。

「お待たせして申し訳ありません、陛下。

ランチェスター公子とヴェルフェル侯爵をお連れ致しました」

「うむ。ご苦労だった、レーヴェクーゼン伯爵」

息子を臣下として労ったフィーア国王は、僕と同行していたヴェルフェル侯爵にも声をかけた。

「ヴェルフェル侯爵も来てくれたのだね。朝から呼び出してすまなかった」

「勿体ないお言葉です、陛下」と侯爵は臣下としての礼を尽くした。

「ランチェスター公子」とフィーア国王に呼ばれて慌てて膝を折って挨拶した。

臣下では無いにしても、一国の国王の前で立ったままとはあまりに無作法だった事だろう。

「無作法で失礼致しました。

ヴィヴィアン・セドリック・ランチェスターです。

フィーア国王陛下よりお招き頂き光栄です」

「ランチェスター公子。顔を上げたまえ。

話がしたいと呼んだのは余だ。余は、公子が余の招きに応じてくれたことを嬉しく思っている」

気遣うような優しい声。

一国の王にしては威厳に欠けるが、その一言で僕の抱いていた不安と緊張は和らいだ。

許されて、恐る恐る顔を上げると、フィーア国王は柔らかく微笑んだ。その笑顔は懐っこく、人の良さそうな印象だ。

本当は彼も緊張していたのかもしれない…

「離れていては話しにくい。こちらへ来て座りたまえ。

ヴェルフェル侯爵も公子の隣にかけたまえ」と、フィーア国王は自分の隣の席を勧めた。

思わずヴェルフェル侯爵に視線で是非を問うた。

僕は臣下でないどころか、敵国の人間だ。

向かいなら分かるが、隣とは…

僕の戸惑う姿に、侯爵は苦笑いを浮かべて肩を竦めた。侯爵はフィーア国王の隣の席に近づくと、僕の前で椅子を引いた。

「国王陛下のご指名だ。かけたまえ、ランチェスター公子」

ヴェルフェル侯爵の言葉に、今度はヨアヒム兄様の顔を盗み見たが、ヨアヒム兄様も微笑んで頷いていた。

どうやら、僕にはその席に座る以外の選択肢は無いようだ。

僕が席に着くと、陛下の隣にヨアヒム兄様が座り、最後にヴェルフェル侯爵が僕の隣に座った。

席が埋まったのを嬉しそうに眺めて、フィーア国王は手元に置かれていたベルを鳴らした。

その合図で、お茶の用意をするための従者が現れ、瞬く間に、大理石の机の上は豪華な茶会の用意が整った。

「…陛下…朝の茶会にしては、これは少し多すぎる気が…」

机の上に所狭しと並んだお菓子を眺めて、ヨアヒム兄様が父に苦言を呈した。

確かに大人が三人と、大人になりかけの子供が一人で楽しむ量ではない。

甘い香りの焼き菓子の山に、昨日の酒が残っていたヴェルフェル侯爵の表情が少し引き攣った。

「う、うむ…しかし、公子の好みが分からぬゆえ、仕方なかったのだ…」

息子に叱られた父親はそう言い訳して、僕にお菓子を勧めた。

「ランチェスター公子は、甘いものは好きではなかったかね?」と訊ねる姿は自信なさげで、一国の王としての威厳は皆無だ。

ヴェルフェル侯爵やヨアヒム兄様の仰る通り、とてもお優しい方なのだろう

「いいえ。ありがとうございます、陛下」と答えて、焼き菓子を自分のお皿に頂戴すると、フィーア国王はそれを見て、分かりやすく喜んでいた。

「ジャムや蜂蜜、クリームもある。好きなもので楽しむといい」

彼は敵国の王様なのに、僕に世話を焼いた。その姿にどうしても違和感を拭えない。

この歓迎が、まるで、何か良くないことの代わりにのように思えた。

「陛下。僕から一つお訊ねしてもよろしいでしょうか?」

「な、何かな?」

質問と聞いて、フィーア国王は少しだけ身構えたようだった。

やっぱりそういうところが王らしくない。

「僕を敵国の人間とご存知なのに、陛下は何故僕に親切にしてくださるのですか?」

「それは…」とフィーア国王は答えに窮したように口篭った。

国王は助けを求めるように、ヨアヒム兄様に視線を向けた。ヨアヒム兄様は苦笑いで応じると、父親の代わりに僕の質問に答えた。

「ヴィヴィアン。君が不思議がるのも仕方ない事だとは思う。

確かに、オークランドと我が国は現在敵国という間柄だ。

それでも、陛下は君の境遇に同情を禁じ得ないのだよ。これは陛下から君への気遣いだ。疑わずに受け入れて欲しい」

「…やはり、余ではなく、トリシャに用意を頼むべきだったろうか…」

「陛下、そのように仰らないでください。

公子は陛下のもてなしに驚いただけです。きっと喜んでいますよ」

自信を無くしてしまった父親を慰めて、ヨアヒム兄様は僕に困ったような笑顔を向けた。

ヨアヒム兄様は陛下を慰めるような、気の利いた言葉を求めていた。

「申し訳ありません、陛下。

僕には勿体ないおもてなしでしたので…

ご用意頂いたお茶もお菓子も美味しいですし、この美しい陛下の園にお招き頂けてとても光栄です」

僕の世辞に、沈んでいたフィーア国王の表情が明るくなる。

「…そうかね?余の温室を気に入ってくれたかね?」

「はい。オークランドでも、これほど手の込んだ温室は見たことがありません」

温室を褒められたのが余程嬉しかったのか、フィーア国王は、お気に入りの玩具を褒められた子供のような顔になった。

「良いであろう?

この温室は、余の宝物なのだ。

三十年程の時間をかけて、少しずつ改善して、今では満足のいく形に出来上がった。

ここにある草木も虫も小鳥も、全てが余の宝物だ」

饒舌に語り出したフィーア国王は、ベルを鳴らして侍従を呼びつけると、何かを持ってくるように指示した。

戻って来た侍従は、フィーア国王に小さな木の箱を渡して下がった。

「本当は生きて飛んでいる姿を見せたかったのだが…」

そう前置いて、フィーア国王は僕に小さな箱を差し出した。

「開けてご覧」と促されて、木の箱を手に取った。

中に何も無いのではないかと思うほど軽い。

なんの装飾もない、薄い板を貼り合わせただけの貧相な箱は簡単に蓋が外れた。

中に入っていたのは、青い宝石のように美しい羽を広げた蝶々の標本だった。

角度を変えると虹色に煌めく青い羽は、計算されたかのような黒い縁どりのおかげで、浮き立つような色合いを見せた。

「《レニャ》という、アーケイイックフォレスト産の蝶だ。余の1番のお気に入りでな、この温室で育てている。

餌になる植物の根元に卵を産んで、孵化するとしばらくは土の中で過ごすのだ。その後、少し大きくなると、植物に登って葉を食べる。その頃はまだ木の枝のような色合いで、お世辞にも美しくない。枝に同化するように、蛹の姿になり、最後にはこの美しい姿になるのだ」

蝶の説明をするフィーア国王は楽しそうだ。

「余は、この姿になるのを毎年楽しみにしているのだ。レニャの変身を思えば、芋虫の姿さえ愛おしい。

どんな生き物も、子供を通らねば大人にはなれないであろう?

だからこそ、余は子を大切にするべきだと思っておる」

フィーア国王はそう言って、蝶を持った僕の手元から顔に視線を上げた。優しげな青い瞳に、憐れみの色が重なった。

「ランチェスター公子。余は公子の味方でありたいと願う。

その身に受けた受難を知って、余は胸が苦しかった…聞くに耐えず、席を外してすまなかった…」

「そんな…勿体ないお言葉です」

「其方は本当によくできた子だ。両親はさぞ鼻が高いであろう」とフィーア国王は僕の両親を褒めてくれた。

僕のお父様はオークランドの貴族で、お母様はオークランド国王の王妹だ。

オークランドの王であれば、そのような言葉をかけることも無いだろう…

この差は何なのだろう?

オークランド国王には厳格な強者としての振る舞いが求められた。強国の王として、弱さを見せることは許されない。それは同じ王族に対しても同様だった。

オークランド国王とは対照的に、フィーア国王は弱く、頼りない印象で王としては少し不安を覚える。

それでも、何故か、この目の前の頼りない国王の方が、王として受け入れやすかった。

この寛容さと優しさは、オークランド国王には無いものだ…

僕の心は、彼を王としての受け入れていた。

「ありがとうございます、陛下。

僕にとって…そのお言葉は何よりも嬉しいものです…」

フィーア国王は僕を褒めたのだろう。それでも、僕には両親を賞賛されたような気がした。

僕でさえ、両親を諦めて、忘れようとしていたのに…

誰も思い出しもしないランチェスター侯爵家を、敵国の国王だけが心に留めてくれたのだ。

「ランチェスター公子?」

感極まって、涙を抑えることが出来なかった。

溢れた涙が邪魔をして、心配するフィーア国王の呼び掛けに応えることも出来なかった。

「余が何か障ることを申したか?」

フィーア国王の不安そうな問いかけに、首を横に振って否定した。

「…申し訳ありません…

僕の家族を…気にかけてくださった方は初めてで…陛下のお言葉が、嬉しかったんです…」

媚びたりするつもりは無い。本心から出た言葉だ。

円卓は静かになり、少し遅れて、僕の隣で啜り泣く嗚咽が聞こえた。

「可哀想にな…可哀想ではないか…」

ズルズルと鼻を啜って、彼は泣いていた。

泣き出した父親に、ヨアヒム兄様が慌ててナプキンを差し出した。

フィーア国王はそれを受け取って、自分の涙を拭わずに、席を離れて僕の頬にナプキンを押し当てた。

「もう、苦しまずと良いのだ、ランチェスター公子…

其方は一生分…いや、来世の分まで苦しんだのだ。これ以上試練を与えられることは無い…

余がそれを許さない」

泣きべそをかきながら、頼りなさげなフィーア国王は僕を慰めてくれた。

彼の温かさが僕の心にすんなりと馴染んで、胸の奥が熱くなった。

僕はこの頼りない、優しい王様が大好きになっていた。

「ありがとうございます」とフィーア国王に涙のお礼を伝えた。

「陛下のお心遣いに深く感謝致します。僕はどのような結果になろうとも、陛下のお心を疑わないと誓います」

たとえ、この国を追い出される結果になっても、それはフィーア国王の本心ではないだろう。

もしそうなれば、一番心を痛めるのは他でもない彼自身だ。それを知っただけでも、僕はここに来て良かったと思える。

悲しい表情を作ったフィーア国王は、僕の言葉を《諦め》として受け取ったらしい。

ヨアヒム兄様に向かって、「何とかならぬのか?」と無理を言って困らせていた。

「陛下。陛下のお心はランチェスター公子にも伝わっております。

それより先は、ランチェスター公子次第です」

「それは、あんまりではないか…

公子一人の亡命に、条件など必要無かろう?余はランチェスター公子をこれ以上苦しませたくない…」

「陛下。ワーグナー公爵は公子の今後も含めて、条件を用意されたのです。

そうでなければ、亡命したとしても、元オークランドの貴族として冷遇されるやもしれません。それは陛下の本意ではないはずです」

息子である王太子に諭されて、フィーア国王はガックリと肩を落としていた。

その姿から、フィーア国王の人の良さが滲んで、笑みがこぼれた。

「陛下。僕は大丈夫です。難しい条件が課せられたとしても、できる限りの事をします。

それで、もし亡命を認められなくても、それは僕の問題です」

僕の言葉に、フィーア国王は不満げだ。頼られなかったことを不名誉に思っているのだろうか?

「…ランチェスター公子…何か余にできることは無いのであろうか?」と国王は僕に訊ねた。

「ありがとうございます」と答えて、何かないかと少し考えて、机の上の箱に目が留まった。

「もし、亡命が叶いましたら、この温室で《レニャ》の飛んでいる姿を見せて下さい」とお願いした。

「もちろんだ、もちろんだとも」と答えながら、フィーア国王は僕の手を強く握った。

「約束だ、ランチェスター公子。余は其方をこの庭に招待するのを楽しみにしておる。

必ず、約束だ」

亡命をお願いするのは僕の方なのに、フィーア国王は僕の亡命を楽しみにしてくれた。

亡命の条件はまだ知らされていないが、僕はフィーア国王のために、亡命を成功させなければならない。

もう僕一人の問題じゃない。

僕の亡命を願ってくれた人たちのために、僕自身が未来を諦めることなどできないのだ。
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