燕の軌跡

猫絵師

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結局話は再開されぬまま、また明日に持ち越しとなったと伝えられた。

フィーア国王にとって、僕の話はかなりショッキングな内容だったようだ…

「申し訳ありません」と詫びた青年は、あの玉座の間で国王の傍に控えていた人だ。

彼はフィーア王国の王太子で、レーヴァクーゼン伯爵と名乗った。

まさか王太子とは思っていなかったので、慌てて非礼を詫びた。

「ランチェスター公子。そのように畏まらずとも良いのです。

公子はフィーア王国の臣下ではありませんし、我々は近しい存在だと思っています」と、レーヴァクーゼン伯爵は優しい言葉をかけてくれた。

「慣れない場所で緊張し続けてお疲れでしょう?

ヴェルフェル侯爵はまだ諸侯とお話がありますので、邸宅へのお帰りは遅くなるかと思います。

お待ちになる間、もう少しゆっくり出来る部屋を用意しましょうか?」

「お気遣いありがとうございます。僕はここで十分です」

「そうですか?

何かあったら遠慮なくお申し出下さい。国王陛下からはできる限り丁寧なもてなしを命じられております」

驚いた。

気分が悪いと退出していたが、王太子を通じて僕の事を気遣ってくれていたようだ。

「国王陛下は…」

「陛下はお優しい方ですので、公子の境遇にお心を傷められただけです。公子を不快に思ったりはしておりませんからご安心ください」

「そうですか…《どうぞご自愛ください》とお伝えください」

「伝えます。陛下もお喜びになるでしょう」と応じて、王太子は嬉しそうに笑った。

その姿が優しかった従兄弟の雰囲気に似てて、彼の姿が重なった。

心に余裕がなくて、ランチェスターを忘れたかった僕が勝手に忘れようとしていた人だ…

「どうかしましたか?」

「…いえ…少しだけ、懐かしい人を思い出して…」

「そうですか」と応じて、王太子は僕に「座って話しませんか?」と会話のボールを投げた。

そのボールを受け取って、同じテーブルに着いた。

僕たちが席に着いたのを確認して、部屋に控えていたヴェルヴァルト伯爵が気を利かせて、侍女に飲み物を用意するように伝えた。

すぐに話をするための用意が整った。

「私もあの場で話を聞いておりました。

言葉では語り尽くせないほどのご苦労をなさったと思います」と王太子は僕の過去を気遣ってくれた。

フィーア王太子は、僕をオークランド王位継承順位一位の公子として対等に扱ってくれていた。それが彼の真面目な性格を物語っていた。

好感の持てる人だ。きっと彼は良い王様になるだろう。

彼に似てるから…

「殿下のお言葉は優しくて心に響きます。

従兄弟殿と話しているようで…勝手に懐かしく思っています…」

「従兄弟?」

「伯父様に冠を奪われた従兄弟殿です」と答えると、王太子はそれだけで理解してくれたようだった。

可哀想な彼の話を聞いてくれる人なんてもういないだろう…

僕よりずっと可哀想な人だ…

彼が王冠と玉座を受け継いでいれば、フィーアとの関係がここまで悪くなることはなかっただろう。

僕も、ここにはいなかっただろう…

優しい王太子は僕の話を聞いてくれた。

話をしながら、自分が生きるだけで精一杯で、今まで思い出そうともしていなかった事を恥ずかしく思った。

従兄弟殿も、本当は伯父様と争いたくはなかったはずだ。それでもお父様たちに助力を求めて、自分なりに国を守ろうとしていた。

僕は無力で何も出来ない子供だったから、本当に大変な状況になるまで、何も知らされずに過ごしていたのだ…

思い出すと、役立たずの自分への嫌悪感が牙をむいた。

「僕だけ…逃げてきました…

守ってくれようとした人も、助けてくれた人も置いて…」

「公子、それは致し方ないことです。

人一人にできることは限られています。子供なら尚更です。貴方が生きているだけで、彼らは報われるでしょう」

王太子の言葉は耳に優しく、そうであれば、と願わずにはいられなかった。

王太子は僕の気持ちを変えるように、別の話題に話を変えた。

「公子。亡命が成立したらどうしたいですか?」

「亡命したらですか?」

意外な話題に魅力を感じて顔を上げた。

僕の反応に、王太子も表情を明るくして、言葉を続けた。

「えぇ、不自由もあるでしょうが、多少の自由は与えられるはずです。何か望まれることはありますか?」

「言っても…良いんですか?」

「これは非公式な場です。私の一個人としての好奇心ですよ」

王太子はそう言って悪戯っぽく笑って見せた。

僕が気に負わないように気遣ってくれているのだろう。

「…もし、許して頂けるなら…

一緒に暮らしたい人がいます」

「ほう、それは誰ですか?」

「僕を拾ってくれた人です。彼がいなければ僕はどこかで野垂れ死にしてたでしょう…

感謝してますし、愛してます」

「か、彼?…愛?」

王太子は僕の話が意外だったようで、明らかに動揺していた。

「はい。僕のパートナーになると約束してる人です」

「それは…失礼ですが、オークランドでは同性愛は禁じられてるはずでは?」

「ここはフィーアですよね?」

「そ、そうですが…その…いや、参ったな…」

堂々と答えた僕に、王太子は困ったように乾いた笑いを浮かべた。

「なんというか…公子は凄いですね…

生きる力が強いというか…順応性が高いようですね」

「それで生き残ったようなものです。でも僕はそれで良かったと思っています。

彼に出会うことができましたから…」

全てを失ったけど、一つだけ手に入れることができた。

今あるこの一つだけは、何があっても手離したくない。この関係が歪んでいるとしても、ヨナタンは僕の家族でパートナーだ。

僕の気持ちが本当であると察してくれたのか、王太子は僕の気持ちを否定せずに、優しく汲み取ってくれた。

「私から訊ねたのに、失礼しました。

公子の希望通りになるようにと祈っております」

「ありがとうございます、王太子殿下」

「《王太子殿下》ですか…ちょっと寂しい呼び方ですね。

《ヨアヒム兄様》とでも呼んで頂けませんか?

弟と話しているようで、その方が嬉しいです」

王太子の申し出は、親しい存在の少ない僕にとっては嬉しい話だ。

その言葉に甘えて、僕からもお願いをした。

「では、僕の事は《ヴィヴィ》と呼んで頂けますか?」

「分かりました、《ヴィヴィ》」

了解してくれた王太子は、照れくさそうな笑顔で僕の名前を呼んでくれた。その姿がまた従兄弟殿に重なった。

少しだけ、幸せだった過去を素直に懐かしむことができた。

やっぱり僕はこの国で暮らしたい。

そんな甘えた願いが叶うだろうか?

差し伸べられた希望に、僕の呪われた悪夢が終わると期待してしまった。

✩.*˚

本日の話し合いが終わり、ランチェスター公子の控え室に足を運んだ。

思っていたより長くかかってしまった。

屋敷で昼食は済ませて来たが、もう日も暮れてるし、お腹も空かせているだろう。慣れない環境で緊張して疲れているかもしれない。

心配しながら控え室を訪ねると、ランチェスター公子は人懐っこい笑顔で私を出迎えた。

「随分待たせてしまったね。屋敷に戻ろうか?」

ランチェスター公子に声をかけて、机の上に置かれた本に気付いた。誰かが暇つぶしに用意してくれたのだろう。

「その本はヴェルヴァルト伯爵が用意してくれたのかね?」

「いえ、ヨアヒム兄様が…王太子殿下が僕に下賜して下さいました。

王太子殿下はとてもお優しい方ですね。

僕に名前を呼ぶことをお許しくださいました。僕のことも《ヴィヴィ》と呼んで下さいました」と公子は嬉しそうに語った。

確かに、殿下は陛下の様子を見てくると、途中で席を外していた。

戻ってくるのが遅いと思ったが、ここにも立ち寄ったのだろうか?

しかも公子と名前で呼び合うようになるとは、殿下も随分変わられたのだな…

それとも、この公子の不思議な魅力に魅了されたのだろうか?

まぁ、悪い話でないのなら良いだろう。

「さて、帰って夕餉を食べなければな。明日もまだ続きがある」と公子を連れて部屋を出た。

「お見送り致します」と公子の護衛に着いていたヴェルヴァルト伯爵が馬車までの見送りを申し出た。

「ヴェルフェル侯爵閣下。差し出がましい事ですが、ランチェスター公子の護衛は必要かと存じます。

侯爵邸の周辺を護衛する兵士を配置することをご了承いただければと…」

「ふむ…よろしいかな、ランチェスター公子?」

「僕は居候です。異論ございません」

「ならばそのように手配致します。

現場の責任者として、私の息子を送りますのでよろしくお願い致します」

「承知した。仔細に関してはバルテル卿と話してくれ」

屋敷の周りが物々しくなるな…

面倒だが、認めないのもまた厄介事の火種になる。

悪目立ちしなければいいのだが…

馬車を待つエントランスに向かうと、先に馬車を待っていたハンブルク侯爵とローヴァイン侯爵、クロイツェル侯爵の姿があった。

「おかえりですか?」と、ローヴァイン侯爵が笑顔で声をかけてきた。

ローヴァイン侯爵は社交的な笑顔でランチェスター公子に歩み寄った。

「公子。先程は大人気なく振舞ってしまい申し訳ありませんでした。

お詫びに一緒に食事でもいかがでしょうか?」

公子がローヴァイン侯爵の思いがけない誘いに驚いていると、エントランスに大声が響いた。

「ローヴァイン侯爵!抜け駆けか?!」

「おや?ハンブルク侯爵もご一緒されますか?

それならクロイツェル侯爵もいかがです?」

急に話を振られたクロイツェル侯爵は、「要らん」と短く答えると、伴を連れて一足先に立ち去った。

上手いこと逃げたな…

さっさと立ち去ったクロイツェル侯爵を見送ると、ローヴァイン侯爵は微笑を浮かべながら「残念」と呟き、話を戻した。

「じゃあ我々だけで参りますか?

珍しい薬草などを料理として出す店がありましてね、皆さんにも是非オススメしたいと思っていたのですよ」

「葉っぱなんぞ食わんぞ」

「ハンブルク侯爵の不摂生ぶりは目にあまりますね。たまにはご自身の身体を気遣ってはどうですか?

公子もお疲れでしょう?

その二人に付き合って、油っこい肉料理で胃を悪くすることはないですよ。優しい食事をご提案します」

「それはとても魅力的なご提案です。

ですが、僕の一存では決めることが出来ないので、ヴェルフェル侯爵に許可を頂戴してからでよろしいでしょうか?」

「それは良い心がけですね。年長者の意見は大事です。

いかがかな、ヴェルフェル侯爵?」

「…我々が食べるものはあるのだろうな?」

「失敬な。ちゃんと肉も酒も出ますよ」

ローヴァイン侯爵の返答に、まぁ、それなら、と譲る気持ちになった。

確かにランチェスター公子は食が細いように感じていたから、負担の少ない料理も悪くないだろう。

「私は構いませんが、ハンブルク侯爵は?」

「まあ…肉と酒があるなら良しとしよう」とハンブルク侯爵も渋々承諾した。

ランチェスター公子のために譲ってくれたようだ。ハンブルク侯爵もランチェスター公子との接点は欲しいのだろう。

「では決まりですね。

まぁ、あくまでお忍びと言うことで、店には用意してもらいます。

私はイーゴンを連れて参りますので、皆さんは先に店に行っていて下さい」

「イーゴン様とは?」とランチェスター公子が小声で私に訊ねた。

「ローヴァイン侯爵のご子息だ。年頃はランチェスター公子と同じくらいのはずだ」

「そうですか。仲良くなれたら嬉しいです」

嬉しそうに笑顔のランチェスター公子は、年相応の少年のように見えた。

もとより愛される性格なのだろう。

社交的で、話し方も上手い。

ランチェスター公子が王になっていれば、オークランドとは別の未来が待っていたかもしれない。

そんな不毛な考えが過ぎったが、言葉にする必要は無いだろう…

「そうであればローヴァイン侯爵もお喜びになるだろう」と応じて、公子の肩に手を置いた。

細い頼りない子供の身体だ。男の子にしては華奢すぎるように感じた。

「まぁ、周りに気を遣うのも大事だが、公子もしっかり食べたまえ。そんなのでは身体はできないぞ」

「その通り!貴殿は痩せすぎだ!

そんなのではフィーアの食事が取るに足らないものだと勘違いされてしまう。若者は肉を食べて身体を作りたまえ!」

傍らで話を聞いていたハンブルク侯爵が急にランチェスター公子に絡んできた。

「あ、ありがとうございます…」

ハンブルク侯爵の声の大きさに、ランチェスター公子は少し引いていた。

「ハンブルク侯爵。少しお声が大きいですよ。それでは公子を怖がらせてしまいます」

「む?そうか…失礼した」

ハンブルク侯爵は注意されて、バツが悪そうに咳払いした。

「ランチェスター公子、驚かせてしまったね。

ハンブルク侯爵が大声で話すのは親しみを込めての事だ。怖がらないでやってくれ」

「そういうことでしたらば…」と、ランチェスター公子はすぐに受け入れていたが、ハンブルク侯爵は苦い表情を貼り付けて私を睨んでいた。

大声で否定しないのは彼なりに気を使っての事だ。

その姿が何やら面白い。腹の中でこっそりと笑った。

ハンブルク侯爵は人前ではやたらと真面目ぶっているが、それは怖い奥方のせいだ。

彼は、その実はガサツな海の男で、気心の知れた相手だけになれば、別人のように陽気な男になる。

「さて、我々も移動せねばな…」

ローヴァイン侯爵の残して行った部下に案内を依頼して、待ち合わせの店に足を運んだ。

あまり大きな構えの店では無いが、珍しい造りで、表の入口とは別の場所から通された。

中庭のような場所を通り、案内された先には、建物に繋がる階段があった。どうやらこれを登るらしい。

「変わった趣向の店だな…」

「面白いですね。隠れ家みたいです」

私の独り言に応えたランチェスター公子は少し楽しそうだ。

案内に促されて、僅かな伴を連れて階段を登った。

下に広がる風景をバルコニーから見下ろした。

宵闇に沈むヴォルガシュタットの街並みは、白銀の毛布を被り、街の灯りが淡い輝きで闇に抗っていた。

「いい眺めだ。やはり王都は美しいな」と呟いたハンブルク侯爵に素直に頷いた。

「こちらでお待ちください」と通された部屋は特別なものには見えなかったが、他の客室と繋がっていないことから、プライバシーは守られるようだ。

ランチェスター公子を招くなら、この部屋は都合良く感じられた。

我々が到着してからすぐにローヴァイン侯爵とローヴァイン公子が到着した。

「この階段はイーゴンには辛いな…作り直してくれ」

「ローヴァイン侯爵、それは我儘であろう?」

ローヴァイン侯爵の我儘に呆れてハンブルク侯爵が苦言を呈した。

「私の出資してる店なので」としれっと答えて、ローヴァイン侯爵は息子を連れて席に座った。

「気兼ねなく過ごせる店が欲しかったので、それなら作ってしまおう、と思い立ちまして…

意外と好評なのですよ。リューデル商会にもお手伝い頂きました。あそこは下手に金を惜しまなければ良い取引相手です」

「何だ?自分の店の宣伝で呼んだのかね?」

「元々ご紹介するつもりではあったのですよ。

クロイツェル侯爵もお誘い出来れば良かったのですが」

「クロイツェル侯爵は付き合いが悪いからな」

「まぁ、あまりお酒の席はお好きでないようですから、無理にお誘いするわけにもいきますまい」

ハンブルク侯爵を宥めて、視線をローヴァイン侯爵に戻すと、ローヴァイン公子の姿が目に入った。

相変わらず弱々しい印象の公子は、同じくらいの年頃のランチェスター公子を気にしているようだった。

その視線に気づいて、ランチェスター公子が先に動いた。

「ローヴァイン侯爵閣下。お招きありがとうございます。僕からご子息にご挨拶してもよろしいでしょうか?」

「ああ、そうだったね。

イーゴン。彼が先程話したランチェスター公子だ」

「…こんばんは、ランチェスター公子」

恐る恐るといった様子で、ローヴァイン公子がランチェスター公子に挨拶した。

ローヴァイン公子の挨拶に、嬉しそうに笑顔で応じて、ランチェスター公子も挨拶を返した。

「こんばんは、ローヴァイン公子様。

お会いできて嬉しいです。僕はヴィヴィアン・セドリック・ランチェスターです。

よろしければヴィヴィと呼んでください」

人懐っこい笑顔はローヴァイン公子の警戒を解くのに役立ったようだ。

緊張していた公子は照れたように笑顔を作った。

「ヴィヴィ…ありがとうございます。

僕も…イーゴンと呼んで頂けますか?」

「ローヴァイン侯爵閣下。ご子息をお名前でお呼びしてよろしいでしょうか?」

「もちろん。イーゴンの願いだ。そうして貰えると嬉しいね。

イーゴン。公子の隣に座るのはどうかね?」

ランチェスター公子の申し出を快諾して、ローヴァイン侯爵はしれっと隣の席を抑えた。

ローヴァイン公子は嬉しそうにランチェスター公子の席の隣を埋めた。ランチェスター公子も笑顔で会釈して、少年たちは他愛もない会話を始めた。

円卓の席が埋まり、会食の用意が整った。

「さて、お待たせして申し訳ありません。

食事にしましょう」

ローヴァイン侯爵の合図で、前菜が運ばれてきた。スープと一緒に用意されたサラダに見覚えのある葉っぱを見つけた。

「…ゔっ」と心の声が漏れた。

「これは…《ロータ・ザラート》ですか?」

「おや?ランチェスター公子、よくご存知で」とローヴァイン侯爵は笑顔で葉っぱの解説を始めた。

「アーケイイックフォレストとフィーアの境のごく一部でしか育たない貴重な植物です。

単品で召し上がるには少し個性的な味ですので、ドレッシングとチーズでお召し上がりください」

「葉っぱは食わんと言ったはずだ」

ハンブルク侯爵はそう言って、皿を突き返すように脇に寄せた。

「そんなこと言わずに。

これは国境を行き来するエルフたちの情報ですが、二日酔いや毒消しに効果のある薬草です。

食事の前に食べることで、食あたりや二日酔いを防いでくれますし、特定の毒などに対する抵抗力を高めることができる優秀な食材ですよ。

味はまぁ、アレですが、前菜としてご賞味ください」

ローヴァイン侯爵は、ロータ・ザラートの薬草としての効果を解説しながら、我々に食べるように勧めた。

「…そうか…だから…」とサラダを見つめながらランチェスター公子が呟いた。

「何かね?」

「連れ去られた時に毒を飲まされたのですが、痺れが解けるのが早かったようで、逃げきれたのです。

これのおかげだったんですね」

「えぇ?!それは大丈夫だったのですか?」

ランチェスター公子の呟きに、傍らで話を聞いていたローヴァイン公子が慌てて、出来たばかりの友人の身を案じていた。

「えぇ。これのおかげで助かりました。感謝して食べねばなりませんね」

そう言って、ランチェスター公子はサラダを口に運んだ。それを見て、ローヴァイン公子もサラダを口に運ぶと、二人は面白そうに顔を見合せていた。

「ほら、子供が食べてるんですよ。大人が残して良いのですか?」とローヴァイン侯爵が我々にも再度野菜を勧めた。

この流れでは食べるしかないな…

仕方なく観念して、気の進まない前菜をフォークで絡めた。

✩.*˚

侯爵らはもう帰ったらしい。

残念…私もランチェスター公子ともう少し仲良くなりたかったのだがね…

仕方ないので帰ろうとしていたところに、王太子が現れた。

「ワーグナー公爵。少しだけよろしいですか?」

「何か御用でしょうか、殿下?」

「陛下が温室でワーグナー公爵をお待ちです。ランチェスター公子の件で話があると…」

「ふむ。分かりました。伺います」と返事をして、案内する王太子の後に続いた。

無機質な石畳の廊下を進むと、中庭に浮かび上がる、灯りを灯したドーム状の温室に辿り着く。

これまでの私の温室に対する印象は、陛下の心の弱さを象徴する場所だった。

ここは、事あるごとに逃げ込み、誰も寄せ付けないためのフベアトの殻だったのだ。

それが今では少しだけ変わった。

確かに、何かあると引きこもりがちになるのは変わらないが、それでも、私を温室に招くくらいには変わったのだ。

全て丸投げにして、自分の意見もなく、『任せる』と言って逃げ出していたあの陛下が…

外から隔絶された温室に足を踏み入れると、外の乾いた寒さから一転、湿った緑の香りが鼻腔になだれ込んだ。

甘い、柔らかな緑の香りは異世界のようだ。

「陛下。ワーグナー公爵をお連れしました」

王太子の呼び掛けに、緑に囲まれたベンチに座っていた国王陛下は顔を上げた。

沈んだ表情には疲れが滲んでいた。

「陛下、ご気分は如何でしょうか?」

「あ、あぁ…すまない、ワーグナー公爵…」

「王太子殿下よりお話があると伺いました」

「うむ…」陛下は重々しい空気を纏ったまま、私の言葉に頷くと、私を呼び寄せた理由を話した。

「ランチェスター公子の件で、余は非常に心苦しい…

ついては、どうか、ランチェスター公子の望む通りに事を運んでくれまいか?」

「それはお約束できかねます。

相手はオークランド王位継承順位一位という重要人物です」

「それでも、まだ成人もしていない子供ではないか?

あんな…声に出すもおぞましい…公子が哀れでならない…」

震える声で、陛下はランチェスター公子の身に降り掛かった不幸を嘆いていた。

私とて同感だ。

いくら政敵とはいえ、甥っ子に当たる少年の舌を切り落とし、去勢するなど、常軌を逸している。

舌は、奇跡的に女神が現れて癒されたなどと語っていたが、真実の程は分からない。

それでも確かに舌の半分から先は、接木をしたかのように色が違っていた。

身体の方まで確認する気にはならなかった。

まだ声変わりしていない幼い声と、変化のない喉元は男としての成長は見られない。

筋肉の少ない、女のような身体が、少年から男に変わることは無いのだろう…

まさに、オークランド王には《邪悪》という言葉が相応しい。

そう思ってしまっているからこそ、陛下のお優しさが、歯痒くもあるが、誇らしくもある。

「ランチェスター公子の亡命が、我が国の益になるのであれば、亡命もやぶさかではありません」

「公子はまだ子供であろう?

彼から何を提供できるというのかね?そのような無理難題を突きつけるのは、余としては承服しかねる」

珍しく譲ろうとしない陛下のお姿に、私の育ててきた国王の成長を感じた。

自らの殻を破るのが遅すぎたが、彼は立派なフィーア国王になろうとしている。

彼は《愚王》などでは無い。

優れた王になる素質は十分にある。

陛下の優しさが王としての成長を阻害していたが、同時に、その優しさが彼に王としての成長を促したのだ。

私のすべきことは、陛下の優しさが損なわれぬよう、憎まれ役を引き受ける事くらいだ…

それが、無理やりフベアトを玉座に座らせた私の責任だろう。

「陛下。

陛下のお優しい心は私も知るところです。ランチェスター公子も、陛下のお気持ちを知れば、その優しさに感謝するでしょう。

しかし、その先も考えねばなりません。

ただ慈悲を与えるだけでは、この問題は解決しないのです。

それでは亡命を許したところで、本当の助けにはなれないでしょう」

「では、ワーグナー公爵。卿はどうすることを望むのか?あの可哀想な少年を救う手だてはないのか?」

「ございます。しかし、それも、簡単な道ではございません」

「それでも道と呼べるものであれば、公子の救いになるのであろう?」と陛下は私の返答に縋るように興味を示した。

諸侯と進めていた件を、陛下に披露するには良い機会だろう。

「ランチェスター公子の亡命が、我が国の利になる事でなければなりません。

我が国の抱えている問題を解決する手助けをして頂こうかと考えております」

「それは…オークランドとの事か?」

「いいえ。我々は公子に、イザード王国との交易の交渉役になって頂こうかと愚考しております」

「イザード?彼の国と、何か問題があったかね?」と陛下は呑気な事を口にした。

「イザード王国は我が国に関税をかけ、一部の交易品に制限を設ける予定です。

我が国にとっては手痛い損害です」

「しかし…イザード王国とて我が国との取引が減れば損害を被るはずだ」

「陛下のおっしゃる通りです。

しかし、イザード王国はそれを宣言致しました。おそらく、オークランドの差し金です。

オークランド王の要請を覆せるのは、今となっては、ランチェスター公子でなければ難しいでしょう」

「ランチェスター公子とイザード王国は関係あるのかね?」

「ございます。ランチェスター公子の御母堂は、現在イザード王国のエヴァレット公爵に嫁いでおります。

エヴァレット公爵はイザード王国の重鎮です。その決定権は国王をも凌ぐと言われております。

上手くいけば、交渉は可能でしょう」

「しかし…上手くいかなかった場合、公子が危険に晒されるのでは無いのか?」と陛下はランチェスター公子の身を案じた。

しかし、それは想定内の事だ。

「その通りでございます。

これはランチェスター公子の試練です。

ランチェスター公子がフィーアの益となり、自らの存在価値を臣下に知らしめることになりましょう。

もし、戻らなかった場合でも、我が国に不利益はございません。もとよりなかったこととして、ランチェスター公子の件はたち消えることでしょう」

ランチェスター公子に運がなかっただけの話だ。

もしかすれば、母親が保護することになるかもしれないが、それでもランチェスター公子の未来は暗いだろう…

「それは!体の良い厄介祓いではないか!」と陛下は悲鳴のように声を荒らげた。

優しい彼にとって、この賭けは黙認できない事だろう。

しかし、この賭けは、負けてフィーアに失うものなど無いに等しいが、勝てば全てを手に入れられるという非常に分の良い賭けでもある。

そして、私は、あの魅力的な少年を高く評価していた。

「そうです。それでも、ランチェスター公子はこの賭けを飲むでしょう。

彼にとって、それしか生き残る道がないのです」

子供に言い聞かせるように、ゆっくりと陛下を説き伏せた。

陛下は頭が悪いのでは無い。ただ、お優しいのだ。

これがフィーアにとって良策であり、ランチェスター公子への最大限の譲歩だと、頭では理解しているはずだ。

長い沈黙の後、陛下の絞り出した答えは、「ランチェスター公子と話がしたい」というものだった。

「かしこまりました」と陛下のお言葉に頷いた。

「明日の朝一番でヴェルフェル侯爵に遣いを送ります」

「ワーグナー公爵。差し出がましいようですが、公子を迎えに行く役は私に譲ってくれませんか?」

黙って話を聞いていた王太子が、公子への遣いを買って出た。

なるほど。悪くは無いだろう。

「ではそのように」とその提案を受け入れて、今日のところはお開きとした。

話を終えて、暖かい緑の香りの充満した温室を後にした。

さて、明日はどうなるだろうか?

そう思って、自嘲するように一人で笑った。

温室の外の凍てつく空気に、息は白く濁って広がりを見せ、ゆっくりと辺りに溶け込んで消えた。
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