燕の軌跡

猫絵師

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ビッテンフェルトの屋敷に現れた男の人は、前に新聞を買った時に顔を合わせた人だった。

「先日は怖がらせて申し訳ありませんでした」と詫びた男の人はフィッシャーと名乗って、僕に木を削って作った小鳥を取り出して見せた。

彼が「《宿れ》」と呟くと、手のひらに乗った木片は生きた小鳥になった。

僕のところに何度も来たあの小鳥だった…

「この小鳥…」

「私の魔力を与えた傀儡です。これで貴方を探していました」

「僕を?」と問い返すと、彼はゆっくりとした口調で僕に答えた。

「私はイザード王国のエヴァレット公爵閣下から頼まれて公子様を探しておりました。

公子様のお母上がイザード王国でお待ちです」

「…お母様が…僕を」

「はい。エヴァレット公爵閣下は公子様を保護するおつもりです。またお母様と暮らせますよ」

心地よい言葉が僕の胸を熱くした。

お母様は僕を忘れていなかったんだ…

「それって…ヨナタンはその事を知ってるんですか?」

「彼は私に、公子様と話して決めるように、と言ってくれました。公子様がお認めになれば、反対しないはずです」

彼はそう言って、僕に返事を求めた。

「…返事は少し、お待ち頂けますか?」と答えを保留にした。僕にも、すぐに返事出来ない理由があった。

「ヨナと話してからお返事します」

「…分かりました。いつでもお待ちしております」と答えて、フィッシャーは屋敷を後にした。

彼が帰ってから、隣の部屋に足を運んだ。

ノックをすると、優しそうなお爺さんが僕を出迎えた。

「おや、アルド。お見舞いですか?」と髭を撫でながらお爺さんは僕を部屋に招き入れた。

彼はヴェルフェル侯爵に呼ばれて、ラーチシュタットからやってきた治癒を専門とする魔導師ということだった。

この国でも指折りの治癒魔道士が呼ばれたのは、それ程ヨナタンの容態が悪かったからだ…

外見から分かる傷も酷いものだったが、出血も多かったらしい。

「ヨナは…」

「危険な状態は脱したかと思います。しかし、まだ意識が戻らないのが心配ですね」

お爺さんはそう言ってヨナタンの眠っているベッドの方に視線を向けた。

「血が足らない状態が続くと、様々な問題が発生します。

特に頭への血が足らなくなると、記憶障害、身体能力の低下、もしくは植物のような状態になってしまうこともあります。

治療が間に合ったと思いたいところですが、目覚めるまでは分かりませんね」

お爺さんの言葉にショックを受けた。

僕のせいだ…

ノロノロとベッドに歩み寄って、目を閉じたままのヨナタンを見下ろした。

眠ってるみたいだが、眠ってるのとは少し違う。

ベッドの脇に膝を着いて、彼の手を探して毛布の中に手を入れた。

固い手のひらに触れた。

彼自身の温もりはまだ離れて行ってはなかった。

生きてる、でも…

「ヨナ」と彼の名前を呼んだ。

僕の声は虚しく響いて、彼には届いてないかのようだった。

固い手のひらは握り返すことも無く、呼び掛けに対する応答もない。

毛布を後にした僕の手を、『寒い』と文句を言って追いかけてくることもない。

「ヨナ…僕だよ、アルドだよ…」

反応のないヨナタンに話しかけた。

僕にはこれしか出来ないから…

何も出来ない自分を恥じた。

結局、僕は誰の役にも立てなくて、助けて貰ってばっかりだ…

「ヨナ…ごめん…ごめん」

泣きながらヨナタンに詫びた。

心地よいからと甘えて、彼と一緒にいたから、沢山迷惑をかけてしまった…

ビッテンフェルトもヴェルフェル侯爵も、僕の不幸に巻き込んでしまった。

周りに不幸をばら撒きながら生きるくらいなら、もういっそ僕なんて存在しない方がいい…

きっと、お母様のところに行っても、同じことだ…

誰も知らないところで、僕の不幸な人生を終わらせれば、誰にも迷惑はかからないだろうか…

「良くない考えはおやめなさい」と柔らかい声が僕の悲観的な思考を引き止めた。

「悩みがあるなら、私が聞きましょう。もちろん、君の秘密は守ってあげます」

お爺さんは優しくそう言って、僕の背中に手を添えた。

背中に添えられた手のひらは、温かくて心が安らいだ。

春の陽だまりのような心地良さは身体に沁みて、ささくれだった胸の奥が少しだけ楽になった。

「不安を和らげるおまじないです。落ち着きましたか?」

「…はい」と頷いて、少し瞼が重くなったように感じた。

お爺さんはそんな僕を見て少し困ったように笑った。

「興奮状態や鬱を和らげるおまじないですが、少し眠くなってしまうのです。大丈夫ですか?」

「大丈夫…です」と強がった僕に、お爺さんは椅子を差し出して座らせた。

「アルド。君はとても優しくて賢い子です。それは少しお話しただけの私にも分かります。君は善良な魂を持っています。

その優しさと賢さゆえに、生きづらさを感じている事でしょう」

「そんな良いものではないです…

現に、僕はヨナタンを利用して…こんな事に…」

「それは少し違うと思います。

トゥーマン殿の献身は、利用されただけの人間の域を超えています。

私は、彼は賢い人だと聞きました。ビッテンフェルト卿からの信頼厚く、無名だった頃からロンメル男爵を長く支えた友人です。

私は彼から君への信頼と愛情を感じました。私の考えは間違っていますか?」

ゆっくりと語る言葉は優しく僕の心を抉った。

確かに、ヨナタンは僕程度で操れるような人ではないだろう…

何も無い僕に、自らを危険に晒してまで守る価値なんてない。

ヨナタンにとって、僕を命懸けで守るメリットなんて無いはずだ…

「評価とは他人がするものです。貴方がどんなに自分を高く安く見積もろうが、その価値を決めるのは、結局赤の他人です。

トゥーマン殿にとって、貴方には命をかけるだけの価値があったということです。

それを疑っては、彼の行動は無駄になります」

「でも…僕なんて…何の役にも立てなくて…」

「君と同じように無力だと泣いていた少年を、私は知っていますよ」

お爺さんはそう言って目を細めた。その視線は僕に注がれていたが、違う人を見ているようだった。

「彼らに血の繋がりはありませんでしたが、兄と慕っていた人を、自らの不幸に巻き込んで死なせてしまいました。

彼は立ち直れないほどの心の傷を負いましたが、兄の死を無駄にしないように、自分の足で立ち上がりました。今も悩みながら、必死に前に進んでいます。

君の状況は、まだそれより良いはずです。

トゥーマン殿は死んでいませんし、君に助けを差し伸べようとしている人も、少なからずいらっしゃいます。

君にとって、それは余計なお世話でしょうか?」

その質問に首を横に振った。助けてくれた人たちの親切をそんな風に思いたくない。

僕が首を横に振ったのを見て、お爺さんは髭の下で嬉しそうに笑った。

「諦めることは簡単です。その先はありませんから…でも、人生を諦めるには君はまだ若すぎますよ」

歳を重ねた人らしい言葉で僕を諭して、お爺さんは僕の答えを待つように口を閉ざした。

「僕に…価値があるんでしょうか…」

ようやく絞り出した言葉は答えでなく質問になってしまった。

それでもお爺さんは、僕の反応に嬉しそうな表情を見せた。

「どうですかね?それは彼が目覚めてから確認することをオススメしますよ」と曖昧な答えを返して、お爺さんは僕の頭を撫でた。

老人の痩せた枯れ木のような手は優しい温もりをくれた。

「できることをなさい、アルド。それが今の君にできることです。

トゥーマン殿のために、君は何が出来ますかね?」

「僕にできること…」

「宿題ですね。ゆっくり考えおいてください。君の答えを楽しみにしてますよ」

お爺さんはそう言って、僕にヨナタンの番を頼んだ。ヴェルフェル侯爵に報告するために席を外すらしい。

留守番を預かって、ヨナタンの傍らで、お爺さんに出された宿題の答えを考えた。

僕にできること…

特別な事なんてできない。何をすべきかも分からない。

眠ってるような姿のヨナタンを眺めることくらいしかできることは無い。

不意にノックの音がして、お爺さんが戻ってきたのかと思って返事をした。

部屋に入ってきたのは団長だった。

「何だ?お前、ここにいたのか?」と言いなから、団長は僕とヨナタンのところにやってきた。

「まだ寝てんのか?呑気なもんだ」

意地悪い言い方だけど、これはこれでヨナタンを心配してるらしい。

「おい、ヨナタン。さっさと起きねぇと仕事溜まってんぞ。旅行の領収書だって、お前が持って帰れって言ったから全部捨てずに持って帰ったんだからな」

団長は乱暴な言葉で、病床のヨナタンに愚痴をこぼした。

「…領収書?」

「そうだよ。全く、小銅1枚も見逃さねぇケチな野郎だ…

傭兵団の机の上もやばい事になってたぜ」

そう言いながら団長は大きなため息を吐いて、頭を乱暴に搔いた。

確かに、ヨナタンは1週間ほど《雷神の拳》に行ってない。年始のあれこれで書類が溜まっているはずだ…

「団長。僕がやります」とヨナタンの仕事を引き受けた。団長は僕の申し出に驚いたようだった。

「お前が?ひとりでか?」

「ヨナの仕事手伝ってたから、ある程度なら整理できるはずです」

「溜め込んでたから結構あるぞ?大丈夫か?」と団長は僕を心配してくれたが、そのまま残して、病み上がりのヨナタンの負担にしたくない。

今の僕にできることはそれくらいだろう…

「分からないものは残して、後でヨナタンに相談します。御手数ですが、持ってきて貰えますか?」

僕はビッテンフェルトの屋敷から出るのを許されてないから、面倒だけど持ってきてもらうしかない。

団長は大きなため息を吐いて、「分かった」と折れてくれた。

「お前が言ったんだからな。ちゃんとやれよ?

後で俺がヨナタンに文句言われるような仕事はするな」と釘を刺された。

「はい。ありがとうございます」

「後で運ばせる。

無理するなよ?後でヨナタンにグチグチ言われるのは俺なんだからな」

ぶっきらぼうな物言いだけど、団長は僕が無理するのではないかと心配してくれているのだ。

団長はすぐに人をやって、ヨナタンの部屋に帳簿と紙の束を届けてくれた。

「おやおや…山積みですね」とお爺さんも山積みの紙の束を見て驚いていた。

1週間分では足らないだろう。

でも放っておいたらもっと溜まってしまう。

箱に乱雑に突っ込まれていた領収書を見たら、ヨナタンが怒りそうだ。

日付の仕分けから始めないといけないな…

見落としがあれば、ヨナタンに任せられないと思われてしまう。

彼の役に立てるよう、僕にできる仕事に取り掛かった。

✩.*˚

俺の目の前で、ガキンチョが蹲って、『分からない』と泣いていた。

何が分からないんだ?と思っていると、通りかかった行商人が子供に声をかけた。

その顔を見て、ハッとして子供の顔を見た。

幼い頃の俺だった…

『どうしたんだ?』と訊ねる行商人に、子供の俺は『帰り道が分からない』と泣きながら訴えてた。

『親はどうしたんだ?』

至極真っ当な質問に、胃が締め付けられるような不快感を覚えた。

答えは知っている…

それでも、この時、幼い俺はまた家族を信じてたんだ…

泣きじゃくるだけの子供を抱えて、俺を拾った行商人は子供を連れて、俺を無視して立ち去った。

胸糞悪い夢はそこで終わらなかった。

俺の目の前に、嫌な過去が流れていく。

死んだのか?と人並みな感想を抱いた。

誰が言ったか知らねぇが、人間ってのは不思議なもんで、死にそうになると、過去のことを思い出すらしい…

他人事のように、自分の人生を振り返っていた。

あぁ…クソみたいな人生だったな…

そう思っていると、腐っていた俺の前に、ヘラヘラと笑う男が現れた。

勝手に現れた男は懐っこい様子で俺に声をかけた。

身なりは貧相だったが、顔は悪くなかった。その男に少しだけ惹かれた。

ワルターは俺を仲間に誘った。

あいつとの出会いが、俺に変化をもたらした…

根無し草だったのに、住むための部屋を借りた。

フリッツに会って、ソーリューが仲間になって、オーラフが勝手に住み着いて、エルマーも加わった。

どいつもこいつも勝手な奴で、俺は尻拭いする立場になった…

でも、ひとりで生きるより楽しかったんだ…

仏頂面で、文句言いながらも、必要とされたことで人として居場所が生まれた。

失ったものもあったが、俺は自分で思ってた以上にこの生活を気に入っていた。

そろそろだ…

流れ続ける時間の中で身構えた。

夢の中で現れた子供は、あの時と同じく、《なんでもします》と書いた紙を俺に差し出して見せた。

その姿に胸が痛くなる…

腕を伸ばして、アルドを抱きしめた。小さな薄汚れた身体は俺の腕の中に収まった。

アルドの持っていた紙が地面に落ちて、書かれていた文字が書き変わった。

《僕を伯父様に渡さないで》

唇を噛み締めて、さらにアルドを抱きしめた。

腕の中で『ヨナ』と声がして、アルドが悲しげに笑ってみせた。諦めたような顔に不安を覚えた。

言うな!その先は聞きたくない!

抱きしめていたはずのアルドの姿が腕の中から消えた。

手の届かない場所で、アルドは泣きそうな声で俺に向かって口を開いた。

『…さようなら』

あいつは確かに俺に別れを告げた…

✩.*˚

「少し休憩しませんか?」

黙々と仕事をしていると、僕を心配して、お爺さんが紅茶を差し入れてくれた。

「ありがとうございます…えっと…」

「レプシウスでも、テオでも、好きな方で呼んでください」とお爺さんは僕に名前を呼ぶことを許してくれた。

名前で呼ぶのは馴れ馴れしすぎるので、《レプシウス様》と呼ぶことにした。

彼の差し入れてくれた紅茶を貰って少しだけ休憩した。香りに癒されて一息吐いた。

「事務処理は慣れているのですか?」とレプシウス様が僕に訊ねた。

「ヨナが教えてくれました。まだ経理見習いです」

「いやはや、驚きましたね。

この量の書類を前にしたら、大の大人でも音をあげますよ」

「僕は肉体労働は難しいので、こんなことくらいしかできません」と答えながら苦く笑った。

この身体は男らしく成長することは出来なかった。

男らしい筋肉は増えないし、背も少ししか伸びなかった。声もまだ子供のままだ。

今思えば、この仕事は僕にとって非常に都合の良いものだ。

目立つ仕事でもないし、隠れて生きる僕には丁度いい。

ベッドに視線を向けた。

ヨナタンは相変わらず眠ったままだ。

彼が目を覚まして、僕が仕事を肩代わりしたと知ったらなんて言うだろう?

ヨナタンは褒めてくれるだろうか?

「ご馳走様でした」とお茶のお礼を言って、また仕事に戻った。

仕分けを終わらせて、日付と分類ごとに帳簿をつけて、領収書も紐でまとめて片付けないと…

団長は必要なものを全部用意してくれた。広く作業できるように大きな机まで運んでくれた。

『頑張れよ』と乱暴に撫でる団長の手のひらは優しかった。

任されたんだから、期待に見合った仕事をしないと…

黒板に数字を書き出して、何度も確認しながら作業を進めた。

チョークで白くなった手を叩くと白い粉が舞った。帳簿と黒板を行ったり来たりするうちに、腕が痛くなって、握る力も衰えてきた。

少しだけ休もうかな…

ペンを置くと、自然と視線はベッドに向いた。

ヨナの様子を見ていたレプシウス様に近づいて声をかけた。

「…ヨナは…どうですか?」

「容態は安定してますよ。脈も正常ですし、目を覚まさない以外問題はないですね」と、レプシウス様は相変わらず同じ返事を返した。

「君も少し休んだ方が良いですよ」と言って、レプシウス様は僕の手を握ると疲れた腕を癒してくれた。

「恐らく、もう心配ないでしょう。

私も疲れたので席を外します。何かあったら呼んでください」

レプシウス様はそう言って部屋を出て行った。

僕に任せて休みに行くということは、もう心配がないということだろうか?

ベッドに眠るヨナタンの枕元に擦り寄った。

手を伸ばそうとして、チョークの粉まみれだったのを思い出した。

チョークの粉を服で払って、毛布の中で手探りで彼の手を握った。

引っ張り出した彼の手を握って、顔に寄せて頬ずりした。手のひらは温かかった…

「ヨナ…起きてよ」

僕の願いを声に出した。

彼の返事はなかった。

ふと思いついて、握っていたヨナタンの手のひらを広げて文字をなぞった。

《起きて》と短い文字を綴った。

懐かしい…出会った頃は、こうやって言葉を交わしたね…

《アルド》と彼のくれた名前を綴った。

そのまま短い文章を彼の手のひらに綴り続けた。

《僕は無事だよ》、《君のおかげだよ》、《ありがとう》…

言いたいことはいっぱいある。

泣きながら彼の手のひらに指で文字を書き続けた。

声の届かない君に、文字は届くのかな?

《愛してる》とヨナタンの手のひらに僕の心を刻んだ。

✩.*˚

『ヨナタン』

暗い意識の中で懐かしい声を聞いた。

声の方を見ると、ここだと教えるように、手をヒラヒラと振る男が立っていた。

『らしくねぇじゃん』と言うのはかつてのパートナーだった男だ…

『オーラフ…』

こいつに会うってことは、俺はやっぱり死んだかもしれない…

そんな考えを察したように、オーラフは悲しげに笑った。

『馬鹿だな…本当にらしくねぇよ』と言って、オーラフは手を伸ばして、俺の左腕を掴んだ。

『俺の言葉ならスーが届けてくれたろ?

俺はあんたを迎えに来たんじゃないさ…』

『じゃあ、何しに来たんだよ?』

『傷が増えてないか確認に来たのさ』と、オーラフはふざけた様子でおどけて見せた。

『手のひら…広げてみ』と言われて、軽く指を丸めていた手のひらを広げて見た。

手のひらにぼんやりと光る文字が浮かんだ。

『…アルド?』

1文字ずつ綴られる文字は単語になって、文章に変わった。

手を眺めている俺の傍らで、オーラフは相変わらずニヤニヤしてた。

その口元は笑っていたが、眉は困ったように下がって、寂しい目をしていた。

『帰れよ、ヨナタン』

『オーラフ…』

『あんた案外男前なんだ。笑ったら、もっと良い男だよ』

ふざけた男は、自分の指で口の端を持ち上げて、無理やり笑う顔を作った。

『ヨナタン。今までありがとな、先に死んで悪かったよ…

俺はもういいから…あの子大事にしろよ』

そう言い残して、オーラフは俺の前から煙のように消えた。

まだ話をしたかったのに、勝手に消えやがった…

追いかけようとした手を誰かが握って、俺を引き止めた。

『ヨナ…』と舌っ足らずな子供の声が聞こえた。

掴んでいた手は、俺の手のひらに指先で文字を刻んだ…

柔らかく握る手を掴んで手繰り寄せた。

暗かった視界に光が映りこんで目が眩んだ。

「…ヨナ?」

アルドの声だ…

ゆっくりと光に慣れた視界に、涙に濡れた顔が写った。

名前を呼ぼうとしたが、声が出なかった。

声だけじゃない。身体も全然動かない。

「ヨナ…ヨナ!」

うるさいな…聞こえてる…

興奮状態のアルドは、俺に擦り寄って泣いていた。

苦しい…今後こそ本当に死ぬぞ?勘弁してくれ…

「…ア…ルド…」

声が出た。重くて感覚のない腕も、少しだけ動いた。

酷い有様だが、死に損なったらしい…

ひとしきり泣いて落ち着いたアルドは、俺に重ねていた身体を引いた。

「…待ってて。団長たち呼びに行ってくるから」と言って、アルドはフリッツを呼びに行こうとした。

「…いらん」と断った。うるさいのが増えるのは御免だ…

そんなもんより煙草が欲しい…

スッキリしない頭でそんなことを考えていると、手に柔い感触が重なった。

指先を曲げて柔い感触に応えた。

アルドは俺に手を握り返されて驚いた顔をしていたが、すぐに笑って俺の手を強く握り返した。

やっぱり手放したくねぇよな…

この温もりを手放すのが惜しくなって、胸の奥が痛んだ。

戻ってきたことを少しだけ後悔した…
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