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「あら、とっても似合ってるわ」
侯爵夫人は嬉しそうに笑って、僕の前髪を指で除けた。
「顔にかかっちゃうわね?髪も少し整えてあげて」と店の人を呼んで依頼した。
「あの…」
ご好意は嬉しいが、元の姿に近づく度にヒヤヒヤする。自分を探している人間がいるなら尚更だ。
朝起きて、朝食の時に一緒に出かけようと提案された。
僕が屋敷に泊まってる理由が理由だけに、出歩くのは不安だとブルーノ様も断ってくれたが、侯爵に自分たちと一緒なら大丈夫だと押し切られてしまった。
何よりも、侯爵夫妻が僕との外出を希望した理由が、《亡くなったご子息に似てる》というものだったから断ることは出来なかった…
身体が弱くて、数年前に亡くなったとの事だ。
闘病生活が長くて、一緒に出かけることもできなかったらしい。
楽しそうに服を選ぶ夫人の姿を見て、断ろうとして何度も口を閉ざした。
「疲れたかね?」と様子を見ていた侯爵が僕に訊ねた。
「大丈夫です」と笑顔を作って答えると、侯爵は僕の肩に手を置いて、鏡の前に連れて行った。
「ほら。まるで貴公子だ」と侯爵は僕の姿を褒めてくれた。
「僕には不似合いです」と言ってしまったのは、服が気に入らなかったからじゃない。
隣で微笑む侯爵が、お父様なら良かったのにと思って、いたたまれなくて鏡から視線を逸らした。
「…そうか。ほかのも見てみよう」
侯爵はそう言って、僕の背を押して夫人の元に戻った。
「アルド。これなんかどうかしら?」と夫人は僕に青い服をあてがった。
「良い色だな。黄色の差し色も良い。仕立ても悪くないな」と侯爵も服を褒めていた。
「でも、僕には…」
「きっと良く似合うわ。袖を通してみてちょうだい」と夫人に勧められて、断ろうとした言葉を飲み込んだ。
キラキラした夫人の目を見て興の醒めるようなことは言えなかった。
彼女はきっと僕に亡くなった息子の姿を重ねているんだ…
「ありがとうございます。試してみます」と服を受け取って、着替えて二人の元に戻った。
「素敵ね。パウル様、これにしましょう」
「この服をくれ。袖を通したものは全部包んでビッテンフェルト邸に届けてくれ。
バルテル、手形を頼む」
侯爵は支払いを済ませると、夫人と僕を連れて馬車に戻った。
「さて。アレクたちはどうしてるかな?」
「扇子を観に行くと言ってましたね」と夫人が応えた。
ブルーノ様の案内で、ヴェルフェル公子様と夫人は《モーゼル扇》の工房に向かったらしい。
「私もお気に入りなの。
これはロンメル男爵夫人からの贈り物なの」と夫人は自分の扇子を広げて僕に見せた。
テレーゼ様からの贈り物のようだ。
繊細な造りの扇には柔らかい色合いで花畑が広がっていた。
「ほら、見てみて。透かすと絵が浮かぶのよ」
少女のようにご機嫌に笑うと、夫人は窓に扇子をかざして、隠れた絵を見せてくれた。
母親と子供だろうか?
二人で庭を散歩してるような絵だ。
僕にも、そんな時があった…
「素敵な絵ですね」
「えぇ、この子がヴォルフにそっくりなの。
私の宝物よ」
夫人はそう言って扇子を愛おしげに撫でた。
宝物か…
僕には何も無いけど、幸せだった頃の記憶は確かに宝物のように感じられた。
それでもその宝物は呪われている。
幸せの記憶には、思い出したくもない忌まわしい記憶がついてまわる…
恐怖を一瞬思い出して恐怖に身震いした。
「あら?寒いのかしら?」
僕の隣に座っていた夫人が、自分の襟巻を外して、僕の首にかけてくれた。
ふわふわの黄色い貂の毛皮…
襟巻は生きてるような温もりをもっていた。
「ありがとうございます…」
「アレクたちと合流したら食事に行きましょうね」と侯爵夫人は優しい顔で微笑んで、侯爵に何を食べるか訊ねていた。
侯爵は以前来た時に、温泉で食べた料理が気に入ったらしい。
「卵が濃厚で美味かった。
あと牛も柔らかい肉質で脂が乗っていて美味かったな。
あの変な野菜は苦手だが…」
「あら?ロータ・ザラートの事ですの?
彩りが良くて、私は好きですわよ」
「君も物好きだな…
味もなんかエグくて酸っぱかったじゃないか?」
「そんな子供みたいなこと言って。身体には良いのですよ。
滋養に良くて、めでたい長寿の食べ物だと紹介されたではありませんか?」
夫人に叱られて侯爵はおどけたように肩を竦めた。
どうやらお野菜は苦手らしい。
凛々しい侯爵からは考えられないような、子供っぽい言葉に笑いが込み上げた。
「ほら。そんな恥ずかしいことを言っていたら子供に笑われてしまいますよ。
女性は《お肌に良い》と聞いたら味なんて二の次ですもの」と夫人も面白そうに夫の好き嫌いを笑った。
三人でお喋りしながら馬車で扇子の工房に向かうと、ヴェルフェル公子様と奥様が扇子を選んでいた。
「どれも綺麗で…
お義母様、どれがよろしいでしょうか?」
沢山の扇子を前に、若い夫人は困り顔だった。
でもそれ以上に、ブルーノ様とヴェルフェル公子様の顔はげっそりしていた。
「貴女の良く使う色にすれば良いと思うわよ」と侯爵夫人は若い夫人にアドバイスした。
「飽きないデザインも大事よ。
扇子は社交界ではトレードマークになるものですからね。
自分に合った長く使えるものを選ぶのが良くてよ」
「でも、これだけあると目移りしちゃって…」
「確かに、随分沢山ね」と侯爵夫人は山積みになった引き出しを見てため息を吐いた。
「アルド。貴方ならどれがいいかしら?」と侯爵夫人は僕に訊ねた。
「僕ですか?」
「えぇ、私とあの子に合いそうなものを探してちょうだい」
「お義母様…その子では…」と公子夫人はオロオロと声を上げた。
僕みたいな子供では不安だろうし、選ぶなら普通は夫に選んでもらうのが良いはずだ。
それでも侯爵夫人は「選んでちょうだい」と僕に催促した。
下手なものは選べない。夫人をガッカリさせたくなかった。
さっき見た侯爵夫人の扇子を思い出した。
侯爵夫人は柔らかい印象だから、華やかでも強い色合いは似合わなそうだ。
その反対に、公子夫人は若いし、強い色の赤毛だから、色の薄いものは似合わないだろう。
五本ずつ選んで、二人の前に並べた。
「こちらでいかがでしょうか?」
侯爵夫人には柔らかい色の緑や水色を勧めて、公子夫人には菫色やラベンダー等の扇子を用意した。
「どうしてこれを選んだの?」
「侯爵夫人は髪の色も肌の色も淡いお色なので、落ち着いた色合いで、細工の細かいものを選んでいます。
透かしや閉じた形も繊細な方がお好きかと思いました。
公子夫人はお若いですし、可愛いものの方がよろしいかと思います。紫も肌の色を綺麗に見せるそうなので、髪の色にも負けないですし、お似合いかと思います」
「でも…紫はあまり可愛くないわ」と公子夫人は少し不満げだった。どうやら色合いがお好きではないようだ。
「では、こちらのロマンチックな細工はいかがでしょうか?」
並べた扇子の一つを取って、夫人に見えるように広げて見せた。
「絵付はグラデーションに金粉を振ったシンプルな物ですが、これは歌劇 《ナーディア》の夜会のシーンです。透かしてご覧下さい」
「《ナーディア》?本当に?!」
手に取った扇子を窓辺で確認して、公子夫人は目を輝かせた。
「アレクシス様!私これが良いです!」とあれだけ迷って渋っていたのに、夫人はそれが気に入ったようだ。
「《ナーディア》?」と夫であるヴェルフェル公子は首を傾げていた。
「イザード王国由来の歌劇です。
《ナーディア》とは、ある国の王女の名前で、彼女が夫を選ぶのに求婚者に様々な謎謎を出して、答えられる人を探すという物語です。
答え自体は《愛》なのですが、それが分かる人物が最後に現れて結ばれるというものです。
物語も面白いですが、演出や音楽も有名で、特に若い女性に人気のある歌劇です」
「よく分かったな。どうして《ナーディア》だと思ったのかね?」と侯爵も僕に訊ねた。
「夜の帳の降りたテラスで、赤い薔薇を差し出す女性と、それを受け取る男性の絵で分かりました。
それに、この親骨の細工に《ナーディア》の謎謎がちりばめられてます。
これを作った方は相当頭を悩ませたと思います」
「なるほど。分かった。
確かに若い女性が好きそうなデザインだな」
「すごいわね、アルド。
私のはどれが似合うかしら?」
「このペリドットの飾りの付いた扇子が似合うかと思ったのですが…」と柔らかな黄緑色の、レースと細工の扇子を手にした。
それを渡すのを躊躇ったのは、侯爵夫人の手に、あの《宝物》と呼んでいた扇子を見てしまったからだ…
「うん?どうしたの?」
「ごめんなさい…やっぱり、ロンメル男爵夫人の選んだ扇子が良いかと思います…」
「アルド?どうしたの?」
「とても素敵な絵だったから…
侯爵夫人は『宝物』だと仰ってました。きっとすごく思い入れのあるものだと思います。
大役を頂戴したのに、申し訳ありません…僕はそれ以上のものは選べないです」
『ヴォルフにそっくりなの』と仰っていた侯爵夫人を思い出せば、僕がお勧めしたものなんて、取るに足りないものに思えてしまう。
美しい思い出は大事にされるべきだ…
「ありがとう、アルド」
夫人は期待に添えなかった僕を叱らなかった。
夫人は嬉しそうに自分の扇子を広げて、僕に見せた。
「私もこれを気に入ってるわ。貴方のお勧め通り、今後もこの扇子を大事にするわね」
「本当に新しいのはいいのかね?」
「えぇ。テレーゼとアルドがこの扇子を選んでくれたんですもの。これが私の扇子ですわ」
「そうか。それなら君への贈り物はまたの機会にしよう」と侯爵は頷いて、工房を出る用意をするようにと指示した。
「助かりましたよ」とブルーノ様がこっそりと僕に言った。
「全く決まらなくて困ってたんです。やっぱり君は有能ですね、アルド」
ブルーノ様に褒められて嬉しくなった。
「アルド」と侯爵夫人はに呼ばれて、声の方に視線を向けた。
「お腹がすいたでしょう?食事に行きますよ。
ビッテンフェルト令息。貴方も昼食をご一緒しましょう」
「はい」と答えて、夫人に駆け寄った。
束の間の、母のような存在に寄り添った。
✩.*˚
話が違う…
元々は子供を捕まえて、オークランドに持ち帰るだけの簡単な話だったはずだ…
下調べも念入りにした。
他の《蜘蛛》もそうだったはずだ…
親の顔より見た人相書きを確認した。
やはり似てる…
しかし、唯一人相書きとは違う決定的な差がある。
あの子供は喋っていた。
舌を失った人間が、あんなにはっきりと話すことができるだろうか?
しばらく様子を見ていたが、見張るにも限界がある。常に尾行していれば、嫌でも目につく。
他の《蜘蛛》に先を越される心配もあったが、誰も手を出せずにいた。
僅かな差だが、決定的な差だ。
欠損した身体を元に戻すなど、高位の治療魔導師でもできない事だ。
くっつけるのと、再生させるのは別だ。奇跡でも起きない限り無理だろう…
そんなのは神の領域だ…
その他大勢と同じく、ハズレを引いたな、と思いながら大きな通りを歩いていると、仰々しい一行が後ろから近付いてきた。
馬車や護衛の掲げられた旗の意匠は、この国で最も有力な貴族の紋章だ。
他の人々と同じく、足を止めて道を譲った。
何でこんなところに…
不可解に思えたが、貴族の考えることなど分からない。
ドライファッハは温泉が有名だから、湯治に立ち寄ったのかもしれない。
とりあえず、何も無いだろうと思いながらも、馬車の行き先を確認するために、距離を保って後をつけた。
ちょっとした情報でも、有益となれば報奨金が貰える。《蜘蛛》はそうやって情報を得て、独自の情報網を構築している。
六頭の馬が引く馬車はゆっくりと進んで、高級料理と宿を提供する店の前で止まった。
一人が降りて店に入って行った。
しばらく見張っていると、降りた男は支配人らしき店員を連れて戻ってきた。
席が取れたようで、馬車に乗っていた一行が一人ずつ降りてきた。
ヴェルフェル侯爵を見るのは初めてだ。
先に降りてきたのは侯爵らしい壮年の男性と、よく似た青年だった。
あれがヴェルフェル侯爵とその後継者か…
あまり見る機会のない公子を確認できたのは良い事だ。少なくとも顔は覚えることができた。
続いて、降りてきたのは若い夫人だ。
公子の手を借りているところを見ると、彼女が噂の公子夫人だろう。
続いて侯爵の手を借りて降りてきた女性は、一目で侯爵夫人だと分かった。手には有名な扇子が握られていた。
ヴェルフェル侯爵夫人が《モーゼル扇》を気に入って、社交界で流行らせた話はドライファッハでは有名だ。
侯爵夫人は馬車を降りると、すぐに振り返って、馬車に声をかけていた。侯爵も何か声をかけている。
まだ誰か乗っているのか?と思って様子を伺っていると、大柄の青年が降りてきた。
あぁ、ビッテンフェルトの若旦那か…
この街の名士で、有名なロンメル男爵の実家だ。
そこに立ち寄ったついでなのだろう。
納得して立ち去ろうとした時、もう一人、小柄な影が馬車から降りてきた。
まだ誰かいたのか、と思い、一応顔を確認するつもりが、降りてきた少年の姿に二度見してしまった。
まさか…
小綺麗になった少年は、侯爵夫人に呼ばれると、その傍らで幼い愛くるしい表情を見せた。
間違いない、と確信を持った。間違えようがない。他人の空似では済まされない…
服の上から胸ポケットに入った絵を抑えた。
僥倖だ!
成長したランチェスター公子を見つけた。
✩.*˚
気が進まないが、外では誰が聞き耳立てているか分からない。仕方なく連れ帰った不審者を家に上げた。
「…ここに二人で住んでるのですか?」と男は狭い部屋を見回して訪ねた。
「どうせ知ってんだろ?」と返すと男は「まぁ」と言葉を濁した。
趣味の悪い…
他人の事を嗅ぎ回る仕事なんてよくやってられるな…
まぁ、それなりにいい稼ぎになるのだろう。
とりあえず、目の前の男への多少の嫌悪感は捨てきれないが、こいつの話を聞かねばならん状況だ。
テーブルの二つしかない椅子に男を呼んだ。
「いいか、二秒だ。俺の質問には二秒で答えろ。
変に悩んだりする素振りを見せたら、お前の言葉は信用しない」
「《お互いその条件で》ですか?」と男は条件を確認した。
「それでいい。お前だって、俺がグダグダしてたら何か隠してるって思うだろ?」
「確かに。私にとっても悪くない条件です」と男は頷いて条件を受け入れた。
「カペルマン。こいつが変な動きをしたら迷わず斬っていいからな」
「承知しました」と応じてカペルマンは男の後ろに立った。
「さて…どうせあんたの事だ、俺は自己紹介なんて要らないだろ?」
「はい」と二秒のルール通り、流れるような返事が返ってきた。
「違っていたら訂正下さい。
名前はヨナタン・トゥーマン。本名かは不明。
出身地不明。年齢は50代前半くらい。20年ほど前にこの街に現れたと聞いています。
ブランド男爵家所領、ドライファッハにある、ビッテンフェルトが運営する傭兵団 《雷神の拳》で経理を預かっている責任者ですね。
《冬将軍》ロンメル男爵の友人とまでは調べました。年に一、二回ロンメル男爵との交流もあるとか…」
誰だ?ベラベラ余計なこと喋った奴は!
「もういい」と男の話を途中で止めた。
「で?お前は何者だ?」
「イザード王国の《ウミネコ》という人間を知っていますか?」
「スパイか…」
《ウミネコ》はイザード王国宰相お抱えの諜報員だ。よくもまぁ、こんなところまで嗅ぎつけて来たものだ…
「まぁ、そんなもんです」
「誤魔化すなよ?お前の名前を聞いてない」
「名前は仕事の時に新しいのを与えられます。
今の名前は《アルフォンス・フィッシャー》です」と相手はあっさりと答えた。
名前を知ったところで、なんの情報にもならなそうだ…
今のところ、この問答で、俺の得たものは満足なものではなかった。
「ところで、私も質問してよろしいですか?」
「何だ?」
「あの少年…アルドと呼んでいましたね?
彼は貴方の何ですか?貴方の子供ではないでしょう?」
「俺のパートナーだ」と答えると、相手は一瞬固まって口を閉ざした。
「…それは…その…」と口ごもったフィッシャーは明らかに引いていた。
「同性のパートナーの意味も知らずにこの国で諜報活動してるのか?」
「いえ…意味は分かります…」
引き攣った顔には嫌悪感が浮かんでいた。
確かに褒められた関係ではないが、さっき知り合ったばかりの相手にそんな顔をされる謂れはない。
アルドが苦しんでいる時に、手を差し伸べたのは俺だ。お前らじゃないだろう?
ならアルドとどんな関係を築こうが、俺たちの勝手だ。
「あの少年が…何者かご存知なのですか?」
苦々しく吐き出された問いかけは、俺に二秒のルールを破らせた。
フィッシャーは沈黙を肯定と捉えたようだ。
「何と報告すれば良いか…
とんだ醜聞だ…あの方はこんな話、聞くに耐えないだろう…」
ブツブツと呟きながら、相手は頭を抱えた。
《あの方》とは依頼主か…
「あいつを探してるのは誰だ?
今更何の用だ?」
「実の母親と義理の父親と言ったら、伝わりますか?」
フィッシャーはそう言って俺を睨んだ。
「用なんて分かりきっているはずです。アルド少年は我が国で保護致します。お引渡しください」
「そんなもの承諾できるか!」
怒りを抑えられずに、机に拳を叩きつけて怒鳴った。
ふざけるなよ?!
一人だけ話に置いてけぼりを食らっていたカペルマンもフィッシャーの後ろで身構えた。
「そんな都合のいいことを言って、あいつをオークランドに引き渡すつもりだろう?!
俺は口もきけない程痛めつけられて、命からがら逃げてきた、乞食同然だったあいつを拾って今まで世話してきた!
あいつに寄り添ってきたのは俺だ!お前らなど信用できるものか!」
俺から離れようとしたアルドが、泣きながら文字だけで訴えた言葉を今でも鮮明に覚えている。
《僕を伯父様に渡さないで》、と…
イザード王国はフィーアと敵国でないにしても、オークランド寄りの国だ。
あいつを引き取る目的すら、オークランドへの供物の山羊だとしたら、アルドは無事ではいられない…
「あいつをオークランドには渡さない。
それなら然るべきところに出て、この国で保護してもらう」
「敵国の公子を保護すると?それこそ信用なりません!
イザード王国はオークランドとの接点は多くありますが、我が国は完全な独立国です。今のオークランドに公子を渡す理由はありません」
「今は、だろ?
時間が経てば考えも変わる。イザード王国の情勢もな…
イザード王国がいつまで独立国としていられるのか分からんぞ?」
俺の指摘に、フィッシャーの顔から余裕が消えた。
「その言葉は我が国への無礼と捉えてよろしいですか?」
「お前の取りたいように取れ。
俺は、絶対に、誰だろうとアルドを渡さない。
どうしても会いたいと言うのなら、そっちから来るのが筋だとご主人様に伝えろ」
譲らない俺の態度と、自国への批判に、フィッシャーも苛立ちを募らせた。
「貴方があの少年を守れると、本当に思っているのですか?浅はかだ…」
「少なくとも、この状況でお前にアルドを預けるつもりは毛頭ない。
必要ならさっき言った通り、保護してくれそうな有力貴族に預ける。コネならある」
「ロンメル男爵ですか?南部侯に差し出すおつもりですか?」
「必要ならそうする」と答えて、対話を拒むように腕を組んで身体を引いた。
これ以上話すことなんてない。
一応部外者のカペルマンもいるし、フィッシャーもこれ以上込み入った話ができない様子だ。
緊張した空気の中、先に折れたのはフィッシャーの方だった。
「分かりました」と頷いたのは、納得したからでなく、分が悪いと感じたからだろう。
こいつにとって、この抜け目ならない爺さんの存在が無視できないものだったからに違いない。
「とりあえず、今日のところは引き下がります。
しばらく通いますので、アルド少年と話す機会を貰えると助かります」
「そんなもの用意すると思うか?」
「私としても、無闇矢鱈に騒ぎ立てるような無粋な真似はしたくありませんから…
それはそちらも同じでしょう?
私の主たる目的は、アルド少年を保護して母親と引き合せることです。
不必要に怖がらせたり、生活を脅かしたりする気は毛頭ありませんよ」
そう言って、ため息を残してフィッシャーは席を立った。本当に今日は引き下がるらしい。
「そうだ。1つ確認を…
アルド少年はあの屋敷で保護されているので間違いないですね?」
「あそこが一番安全だからな」と答えると、フィッシャーは頷いて「そのまま預かって貰ってください」と勧めた。
「余計なお世話ですが、この家では心許ないです。その人以外に護衛もなさそうですしね…
トゥーマン殿も早々に避難することをお勧めします」
「さっきの男か?」
「そういう事です。《蜘蛛》にはお気をつけ下さい。
今回はたまたま助かりましたが、あの者たちは危険です。
私としても、一応少年の保護者である貴方に何かあれば、今後に支障が出ます。それは困ります」
「その《蜘蛛》ってのは何者だ?」
よく分からない単語に、首を傾げた。
フィッシャーの代わりにカペルマンが口を開いた。
「国籍のない暗殺集団です。
拠点は何処にあるのか不明ですが、多くの国でそれらしい者たちによる要人の暗殺を耳にします。
主にオークランドと深い関わりがあるようです。
共通してるのは、一般人に扮して、少量でも致死性のある毒を用いることです」
「彼らは派遣された場所で、長い時間をかけて信用を手に入れてから行動します。
現地に潜伏する《蜘蛛》は《土蜘蛛》と呼ばれ、一般人と見分けるのは至難の業です」とフィッシャーも言葉を付け加えた。
どうやら厄介なものに目をつけられたようだ…
しかし、それならもっと早く《蜘蛛》とやらに絡まれてもおかしくなかったのではないか?
「《蜘蛛》だとして、連中は何ですぐにアルドに手を出さなかった?」
「そんなの私は分かりませんよ。
ただ、《蜘蛛》はひとつの仕事に異常なまでの執念を燃やします。人違いなどで、念入りにした下準備をフイにするなんて有り得ません。
何らかの理由があったのでしょう」
「理由ね…」
「例えば、人相書きと違う何かがあった場合とか…
私もここに来るまでにだいぶ時間を浪費しましたからね…
似たような少年は数人見かけましたが、本人ではありませんでした。
瞳の色、髪の色、話し方、年齢的特徴など、全てを当てはめるのは非常に難しいです。
まぁ、私にはどんな姿になっていても、本人かどうか確認する手段がありますが…」
「お前はどうやってここにたどり着いたんだ?さすがに闇雲じゃないだろう?」
「私にはこれがあります」と取り出して見せたのは小鳥の形に削られた木製の玩具だ。
フィッシャーは玩具を乗せた手のひらを握って、何か呟いて手のひらを広げた。
驚いたことに、さっきまで木製の玩具だった小鳥は生きた小鳥に変わって、手のひらで羽を震わせた。
「この小鳥に、依頼者から預かった髪の毛を与えてここにたどり着きました」
「…訊いといてなんだが…そんなこと俺に教えてよかったのか?」
「隠せば信用しないでしょう?
私だって手の内を明かしたくはないですが、信用を得るには必要な事と判断しました」
面倒臭そうに大きめのため息を吐き出して、フィッシャーは「今日はお暇します」と言って、宿屋の名前を教えて帰って行った。
直接的に害してくるような相手ではないが、俺にとっては敵に変わらない。
どうしたもんか…
妙案と呼べるようなものはなく、仕方なくフィッシャーの勧め通り、安全な場所に身を寄せることにした。
侯爵夫人は嬉しそうに笑って、僕の前髪を指で除けた。
「顔にかかっちゃうわね?髪も少し整えてあげて」と店の人を呼んで依頼した。
「あの…」
ご好意は嬉しいが、元の姿に近づく度にヒヤヒヤする。自分を探している人間がいるなら尚更だ。
朝起きて、朝食の時に一緒に出かけようと提案された。
僕が屋敷に泊まってる理由が理由だけに、出歩くのは不安だとブルーノ様も断ってくれたが、侯爵に自分たちと一緒なら大丈夫だと押し切られてしまった。
何よりも、侯爵夫妻が僕との外出を希望した理由が、《亡くなったご子息に似てる》というものだったから断ることは出来なかった…
身体が弱くて、数年前に亡くなったとの事だ。
闘病生活が長くて、一緒に出かけることもできなかったらしい。
楽しそうに服を選ぶ夫人の姿を見て、断ろうとして何度も口を閉ざした。
「疲れたかね?」と様子を見ていた侯爵が僕に訊ねた。
「大丈夫です」と笑顔を作って答えると、侯爵は僕の肩に手を置いて、鏡の前に連れて行った。
「ほら。まるで貴公子だ」と侯爵は僕の姿を褒めてくれた。
「僕には不似合いです」と言ってしまったのは、服が気に入らなかったからじゃない。
隣で微笑む侯爵が、お父様なら良かったのにと思って、いたたまれなくて鏡から視線を逸らした。
「…そうか。ほかのも見てみよう」
侯爵はそう言って、僕の背を押して夫人の元に戻った。
「アルド。これなんかどうかしら?」と夫人は僕に青い服をあてがった。
「良い色だな。黄色の差し色も良い。仕立ても悪くないな」と侯爵も服を褒めていた。
「でも、僕には…」
「きっと良く似合うわ。袖を通してみてちょうだい」と夫人に勧められて、断ろうとした言葉を飲み込んだ。
キラキラした夫人の目を見て興の醒めるようなことは言えなかった。
彼女はきっと僕に亡くなった息子の姿を重ねているんだ…
「ありがとうございます。試してみます」と服を受け取って、着替えて二人の元に戻った。
「素敵ね。パウル様、これにしましょう」
「この服をくれ。袖を通したものは全部包んでビッテンフェルト邸に届けてくれ。
バルテル、手形を頼む」
侯爵は支払いを済ませると、夫人と僕を連れて馬車に戻った。
「さて。アレクたちはどうしてるかな?」
「扇子を観に行くと言ってましたね」と夫人が応えた。
ブルーノ様の案内で、ヴェルフェル公子様と夫人は《モーゼル扇》の工房に向かったらしい。
「私もお気に入りなの。
これはロンメル男爵夫人からの贈り物なの」と夫人は自分の扇子を広げて僕に見せた。
テレーゼ様からの贈り物のようだ。
繊細な造りの扇には柔らかい色合いで花畑が広がっていた。
「ほら、見てみて。透かすと絵が浮かぶのよ」
少女のようにご機嫌に笑うと、夫人は窓に扇子をかざして、隠れた絵を見せてくれた。
母親と子供だろうか?
二人で庭を散歩してるような絵だ。
僕にも、そんな時があった…
「素敵な絵ですね」
「えぇ、この子がヴォルフにそっくりなの。
私の宝物よ」
夫人はそう言って扇子を愛おしげに撫でた。
宝物か…
僕には何も無いけど、幸せだった頃の記憶は確かに宝物のように感じられた。
それでもその宝物は呪われている。
幸せの記憶には、思い出したくもない忌まわしい記憶がついてまわる…
恐怖を一瞬思い出して恐怖に身震いした。
「あら?寒いのかしら?」
僕の隣に座っていた夫人が、自分の襟巻を外して、僕の首にかけてくれた。
ふわふわの黄色い貂の毛皮…
襟巻は生きてるような温もりをもっていた。
「ありがとうございます…」
「アレクたちと合流したら食事に行きましょうね」と侯爵夫人は優しい顔で微笑んで、侯爵に何を食べるか訊ねていた。
侯爵は以前来た時に、温泉で食べた料理が気に入ったらしい。
「卵が濃厚で美味かった。
あと牛も柔らかい肉質で脂が乗っていて美味かったな。
あの変な野菜は苦手だが…」
「あら?ロータ・ザラートの事ですの?
彩りが良くて、私は好きですわよ」
「君も物好きだな…
味もなんかエグくて酸っぱかったじゃないか?」
「そんな子供みたいなこと言って。身体には良いのですよ。
滋養に良くて、めでたい長寿の食べ物だと紹介されたではありませんか?」
夫人に叱られて侯爵はおどけたように肩を竦めた。
どうやらお野菜は苦手らしい。
凛々しい侯爵からは考えられないような、子供っぽい言葉に笑いが込み上げた。
「ほら。そんな恥ずかしいことを言っていたら子供に笑われてしまいますよ。
女性は《お肌に良い》と聞いたら味なんて二の次ですもの」と夫人も面白そうに夫の好き嫌いを笑った。
三人でお喋りしながら馬車で扇子の工房に向かうと、ヴェルフェル公子様と奥様が扇子を選んでいた。
「どれも綺麗で…
お義母様、どれがよろしいでしょうか?」
沢山の扇子を前に、若い夫人は困り顔だった。
でもそれ以上に、ブルーノ様とヴェルフェル公子様の顔はげっそりしていた。
「貴女の良く使う色にすれば良いと思うわよ」と侯爵夫人は若い夫人にアドバイスした。
「飽きないデザインも大事よ。
扇子は社交界ではトレードマークになるものですからね。
自分に合った長く使えるものを選ぶのが良くてよ」
「でも、これだけあると目移りしちゃって…」
「確かに、随分沢山ね」と侯爵夫人は山積みになった引き出しを見てため息を吐いた。
「アルド。貴方ならどれがいいかしら?」と侯爵夫人は僕に訊ねた。
「僕ですか?」
「えぇ、私とあの子に合いそうなものを探してちょうだい」
「お義母様…その子では…」と公子夫人はオロオロと声を上げた。
僕みたいな子供では不安だろうし、選ぶなら普通は夫に選んでもらうのが良いはずだ。
それでも侯爵夫人は「選んでちょうだい」と僕に催促した。
下手なものは選べない。夫人をガッカリさせたくなかった。
さっき見た侯爵夫人の扇子を思い出した。
侯爵夫人は柔らかい印象だから、華やかでも強い色合いは似合わなそうだ。
その反対に、公子夫人は若いし、強い色の赤毛だから、色の薄いものは似合わないだろう。
五本ずつ選んで、二人の前に並べた。
「こちらでいかがでしょうか?」
侯爵夫人には柔らかい色の緑や水色を勧めて、公子夫人には菫色やラベンダー等の扇子を用意した。
「どうしてこれを選んだの?」
「侯爵夫人は髪の色も肌の色も淡いお色なので、落ち着いた色合いで、細工の細かいものを選んでいます。
透かしや閉じた形も繊細な方がお好きかと思いました。
公子夫人はお若いですし、可愛いものの方がよろしいかと思います。紫も肌の色を綺麗に見せるそうなので、髪の色にも負けないですし、お似合いかと思います」
「でも…紫はあまり可愛くないわ」と公子夫人は少し不満げだった。どうやら色合いがお好きではないようだ。
「では、こちらのロマンチックな細工はいかがでしょうか?」
並べた扇子の一つを取って、夫人に見えるように広げて見せた。
「絵付はグラデーションに金粉を振ったシンプルな物ですが、これは歌劇 《ナーディア》の夜会のシーンです。透かしてご覧下さい」
「《ナーディア》?本当に?!」
手に取った扇子を窓辺で確認して、公子夫人は目を輝かせた。
「アレクシス様!私これが良いです!」とあれだけ迷って渋っていたのに、夫人はそれが気に入ったようだ。
「《ナーディア》?」と夫であるヴェルフェル公子は首を傾げていた。
「イザード王国由来の歌劇です。
《ナーディア》とは、ある国の王女の名前で、彼女が夫を選ぶのに求婚者に様々な謎謎を出して、答えられる人を探すという物語です。
答え自体は《愛》なのですが、それが分かる人物が最後に現れて結ばれるというものです。
物語も面白いですが、演出や音楽も有名で、特に若い女性に人気のある歌劇です」
「よく分かったな。どうして《ナーディア》だと思ったのかね?」と侯爵も僕に訊ねた。
「夜の帳の降りたテラスで、赤い薔薇を差し出す女性と、それを受け取る男性の絵で分かりました。
それに、この親骨の細工に《ナーディア》の謎謎がちりばめられてます。
これを作った方は相当頭を悩ませたと思います」
「なるほど。分かった。
確かに若い女性が好きそうなデザインだな」
「すごいわね、アルド。
私のはどれが似合うかしら?」
「このペリドットの飾りの付いた扇子が似合うかと思ったのですが…」と柔らかな黄緑色の、レースと細工の扇子を手にした。
それを渡すのを躊躇ったのは、侯爵夫人の手に、あの《宝物》と呼んでいた扇子を見てしまったからだ…
「うん?どうしたの?」
「ごめんなさい…やっぱり、ロンメル男爵夫人の選んだ扇子が良いかと思います…」
「アルド?どうしたの?」
「とても素敵な絵だったから…
侯爵夫人は『宝物』だと仰ってました。きっとすごく思い入れのあるものだと思います。
大役を頂戴したのに、申し訳ありません…僕はそれ以上のものは選べないです」
『ヴォルフにそっくりなの』と仰っていた侯爵夫人を思い出せば、僕がお勧めしたものなんて、取るに足りないものに思えてしまう。
美しい思い出は大事にされるべきだ…
「ありがとう、アルド」
夫人は期待に添えなかった僕を叱らなかった。
夫人は嬉しそうに自分の扇子を広げて、僕に見せた。
「私もこれを気に入ってるわ。貴方のお勧め通り、今後もこの扇子を大事にするわね」
「本当に新しいのはいいのかね?」
「えぇ。テレーゼとアルドがこの扇子を選んでくれたんですもの。これが私の扇子ですわ」
「そうか。それなら君への贈り物はまたの機会にしよう」と侯爵は頷いて、工房を出る用意をするようにと指示した。
「助かりましたよ」とブルーノ様がこっそりと僕に言った。
「全く決まらなくて困ってたんです。やっぱり君は有能ですね、アルド」
ブルーノ様に褒められて嬉しくなった。
「アルド」と侯爵夫人はに呼ばれて、声の方に視線を向けた。
「お腹がすいたでしょう?食事に行きますよ。
ビッテンフェルト令息。貴方も昼食をご一緒しましょう」
「はい」と答えて、夫人に駆け寄った。
束の間の、母のような存在に寄り添った。
✩.*˚
話が違う…
元々は子供を捕まえて、オークランドに持ち帰るだけの簡単な話だったはずだ…
下調べも念入りにした。
他の《蜘蛛》もそうだったはずだ…
親の顔より見た人相書きを確認した。
やはり似てる…
しかし、唯一人相書きとは違う決定的な差がある。
あの子供は喋っていた。
舌を失った人間が、あんなにはっきりと話すことができるだろうか?
しばらく様子を見ていたが、見張るにも限界がある。常に尾行していれば、嫌でも目につく。
他の《蜘蛛》に先を越される心配もあったが、誰も手を出せずにいた。
僅かな差だが、決定的な差だ。
欠損した身体を元に戻すなど、高位の治療魔導師でもできない事だ。
くっつけるのと、再生させるのは別だ。奇跡でも起きない限り無理だろう…
そんなのは神の領域だ…
その他大勢と同じく、ハズレを引いたな、と思いながら大きな通りを歩いていると、仰々しい一行が後ろから近付いてきた。
馬車や護衛の掲げられた旗の意匠は、この国で最も有力な貴族の紋章だ。
他の人々と同じく、足を止めて道を譲った。
何でこんなところに…
不可解に思えたが、貴族の考えることなど分からない。
ドライファッハは温泉が有名だから、湯治に立ち寄ったのかもしれない。
とりあえず、何も無いだろうと思いながらも、馬車の行き先を確認するために、距離を保って後をつけた。
ちょっとした情報でも、有益となれば報奨金が貰える。《蜘蛛》はそうやって情報を得て、独自の情報網を構築している。
六頭の馬が引く馬車はゆっくりと進んで、高級料理と宿を提供する店の前で止まった。
一人が降りて店に入って行った。
しばらく見張っていると、降りた男は支配人らしき店員を連れて戻ってきた。
席が取れたようで、馬車に乗っていた一行が一人ずつ降りてきた。
ヴェルフェル侯爵を見るのは初めてだ。
先に降りてきたのは侯爵らしい壮年の男性と、よく似た青年だった。
あれがヴェルフェル侯爵とその後継者か…
あまり見る機会のない公子を確認できたのは良い事だ。少なくとも顔は覚えることができた。
続いて、降りてきたのは若い夫人だ。
公子の手を借りているところを見ると、彼女が噂の公子夫人だろう。
続いて侯爵の手を借りて降りてきた女性は、一目で侯爵夫人だと分かった。手には有名な扇子が握られていた。
ヴェルフェル侯爵夫人が《モーゼル扇》を気に入って、社交界で流行らせた話はドライファッハでは有名だ。
侯爵夫人は馬車を降りると、すぐに振り返って、馬車に声をかけていた。侯爵も何か声をかけている。
まだ誰か乗っているのか?と思って様子を伺っていると、大柄の青年が降りてきた。
あぁ、ビッテンフェルトの若旦那か…
この街の名士で、有名なロンメル男爵の実家だ。
そこに立ち寄ったついでなのだろう。
納得して立ち去ろうとした時、もう一人、小柄な影が馬車から降りてきた。
まだ誰かいたのか、と思い、一応顔を確認するつもりが、降りてきた少年の姿に二度見してしまった。
まさか…
小綺麗になった少年は、侯爵夫人に呼ばれると、その傍らで幼い愛くるしい表情を見せた。
間違いない、と確信を持った。間違えようがない。他人の空似では済まされない…
服の上から胸ポケットに入った絵を抑えた。
僥倖だ!
成長したランチェスター公子を見つけた。
✩.*˚
気が進まないが、外では誰が聞き耳立てているか分からない。仕方なく連れ帰った不審者を家に上げた。
「…ここに二人で住んでるのですか?」と男は狭い部屋を見回して訪ねた。
「どうせ知ってんだろ?」と返すと男は「まぁ」と言葉を濁した。
趣味の悪い…
他人の事を嗅ぎ回る仕事なんてよくやってられるな…
まぁ、それなりにいい稼ぎになるのだろう。
とりあえず、目の前の男への多少の嫌悪感は捨てきれないが、こいつの話を聞かねばならん状況だ。
テーブルの二つしかない椅子に男を呼んだ。
「いいか、二秒だ。俺の質問には二秒で答えろ。
変に悩んだりする素振りを見せたら、お前の言葉は信用しない」
「《お互いその条件で》ですか?」と男は条件を確認した。
「それでいい。お前だって、俺がグダグダしてたら何か隠してるって思うだろ?」
「確かに。私にとっても悪くない条件です」と男は頷いて条件を受け入れた。
「カペルマン。こいつが変な動きをしたら迷わず斬っていいからな」
「承知しました」と応じてカペルマンは男の後ろに立った。
「さて…どうせあんたの事だ、俺は自己紹介なんて要らないだろ?」
「はい」と二秒のルール通り、流れるような返事が返ってきた。
「違っていたら訂正下さい。
名前はヨナタン・トゥーマン。本名かは不明。
出身地不明。年齢は50代前半くらい。20年ほど前にこの街に現れたと聞いています。
ブランド男爵家所領、ドライファッハにある、ビッテンフェルトが運営する傭兵団 《雷神の拳》で経理を預かっている責任者ですね。
《冬将軍》ロンメル男爵の友人とまでは調べました。年に一、二回ロンメル男爵との交流もあるとか…」
誰だ?ベラベラ余計なこと喋った奴は!
「もういい」と男の話を途中で止めた。
「で?お前は何者だ?」
「イザード王国の《ウミネコ》という人間を知っていますか?」
「スパイか…」
《ウミネコ》はイザード王国宰相お抱えの諜報員だ。よくもまぁ、こんなところまで嗅ぎつけて来たものだ…
「まぁ、そんなもんです」
「誤魔化すなよ?お前の名前を聞いてない」
「名前は仕事の時に新しいのを与えられます。
今の名前は《アルフォンス・フィッシャー》です」と相手はあっさりと答えた。
名前を知ったところで、なんの情報にもならなそうだ…
今のところ、この問答で、俺の得たものは満足なものではなかった。
「ところで、私も質問してよろしいですか?」
「何だ?」
「あの少年…アルドと呼んでいましたね?
彼は貴方の何ですか?貴方の子供ではないでしょう?」
「俺のパートナーだ」と答えると、相手は一瞬固まって口を閉ざした。
「…それは…その…」と口ごもったフィッシャーは明らかに引いていた。
「同性のパートナーの意味も知らずにこの国で諜報活動してるのか?」
「いえ…意味は分かります…」
引き攣った顔には嫌悪感が浮かんでいた。
確かに褒められた関係ではないが、さっき知り合ったばかりの相手にそんな顔をされる謂れはない。
アルドが苦しんでいる時に、手を差し伸べたのは俺だ。お前らじゃないだろう?
ならアルドとどんな関係を築こうが、俺たちの勝手だ。
「あの少年が…何者かご存知なのですか?」
苦々しく吐き出された問いかけは、俺に二秒のルールを破らせた。
フィッシャーは沈黙を肯定と捉えたようだ。
「何と報告すれば良いか…
とんだ醜聞だ…あの方はこんな話、聞くに耐えないだろう…」
ブツブツと呟きながら、相手は頭を抱えた。
《あの方》とは依頼主か…
「あいつを探してるのは誰だ?
今更何の用だ?」
「実の母親と義理の父親と言ったら、伝わりますか?」
フィッシャーはそう言って俺を睨んだ。
「用なんて分かりきっているはずです。アルド少年は我が国で保護致します。お引渡しください」
「そんなもの承諾できるか!」
怒りを抑えられずに、机に拳を叩きつけて怒鳴った。
ふざけるなよ?!
一人だけ話に置いてけぼりを食らっていたカペルマンもフィッシャーの後ろで身構えた。
「そんな都合のいいことを言って、あいつをオークランドに引き渡すつもりだろう?!
俺は口もきけない程痛めつけられて、命からがら逃げてきた、乞食同然だったあいつを拾って今まで世話してきた!
あいつに寄り添ってきたのは俺だ!お前らなど信用できるものか!」
俺から離れようとしたアルドが、泣きながら文字だけで訴えた言葉を今でも鮮明に覚えている。
《僕を伯父様に渡さないで》、と…
イザード王国はフィーアと敵国でないにしても、オークランド寄りの国だ。
あいつを引き取る目的すら、オークランドへの供物の山羊だとしたら、アルドは無事ではいられない…
「あいつをオークランドには渡さない。
それなら然るべきところに出て、この国で保護してもらう」
「敵国の公子を保護すると?それこそ信用なりません!
イザード王国はオークランドとの接点は多くありますが、我が国は完全な独立国です。今のオークランドに公子を渡す理由はありません」
「今は、だろ?
時間が経てば考えも変わる。イザード王国の情勢もな…
イザード王国がいつまで独立国としていられるのか分からんぞ?」
俺の指摘に、フィッシャーの顔から余裕が消えた。
「その言葉は我が国への無礼と捉えてよろしいですか?」
「お前の取りたいように取れ。
俺は、絶対に、誰だろうとアルドを渡さない。
どうしても会いたいと言うのなら、そっちから来るのが筋だとご主人様に伝えろ」
譲らない俺の態度と、自国への批判に、フィッシャーも苛立ちを募らせた。
「貴方があの少年を守れると、本当に思っているのですか?浅はかだ…」
「少なくとも、この状況でお前にアルドを預けるつもりは毛頭ない。
必要ならさっき言った通り、保護してくれそうな有力貴族に預ける。コネならある」
「ロンメル男爵ですか?南部侯に差し出すおつもりですか?」
「必要ならそうする」と答えて、対話を拒むように腕を組んで身体を引いた。
これ以上話すことなんてない。
一応部外者のカペルマンもいるし、フィッシャーもこれ以上込み入った話ができない様子だ。
緊張した空気の中、先に折れたのはフィッシャーの方だった。
「分かりました」と頷いたのは、納得したからでなく、分が悪いと感じたからだろう。
こいつにとって、この抜け目ならない爺さんの存在が無視できないものだったからに違いない。
「とりあえず、今日のところは引き下がります。
しばらく通いますので、アルド少年と話す機会を貰えると助かります」
「そんなもの用意すると思うか?」
「私としても、無闇矢鱈に騒ぎ立てるような無粋な真似はしたくありませんから…
それはそちらも同じでしょう?
私の主たる目的は、アルド少年を保護して母親と引き合せることです。
不必要に怖がらせたり、生活を脅かしたりする気は毛頭ありませんよ」
そう言って、ため息を残してフィッシャーは席を立った。本当に今日は引き下がるらしい。
「そうだ。1つ確認を…
アルド少年はあの屋敷で保護されているので間違いないですね?」
「あそこが一番安全だからな」と答えると、フィッシャーは頷いて「そのまま預かって貰ってください」と勧めた。
「余計なお世話ですが、この家では心許ないです。その人以外に護衛もなさそうですしね…
トゥーマン殿も早々に避難することをお勧めします」
「さっきの男か?」
「そういう事です。《蜘蛛》にはお気をつけ下さい。
今回はたまたま助かりましたが、あの者たちは危険です。
私としても、一応少年の保護者である貴方に何かあれば、今後に支障が出ます。それは困ります」
「その《蜘蛛》ってのは何者だ?」
よく分からない単語に、首を傾げた。
フィッシャーの代わりにカペルマンが口を開いた。
「国籍のない暗殺集団です。
拠点は何処にあるのか不明ですが、多くの国でそれらしい者たちによる要人の暗殺を耳にします。
主にオークランドと深い関わりがあるようです。
共通してるのは、一般人に扮して、少量でも致死性のある毒を用いることです」
「彼らは派遣された場所で、長い時間をかけて信用を手に入れてから行動します。
現地に潜伏する《蜘蛛》は《土蜘蛛》と呼ばれ、一般人と見分けるのは至難の業です」とフィッシャーも言葉を付け加えた。
どうやら厄介なものに目をつけられたようだ…
しかし、それならもっと早く《蜘蛛》とやらに絡まれてもおかしくなかったのではないか?
「《蜘蛛》だとして、連中は何ですぐにアルドに手を出さなかった?」
「そんなの私は分かりませんよ。
ただ、《蜘蛛》はひとつの仕事に異常なまでの執念を燃やします。人違いなどで、念入りにした下準備をフイにするなんて有り得ません。
何らかの理由があったのでしょう」
「理由ね…」
「例えば、人相書きと違う何かがあった場合とか…
私もここに来るまでにだいぶ時間を浪費しましたからね…
似たような少年は数人見かけましたが、本人ではありませんでした。
瞳の色、髪の色、話し方、年齢的特徴など、全てを当てはめるのは非常に難しいです。
まぁ、私にはどんな姿になっていても、本人かどうか確認する手段がありますが…」
「お前はどうやってここにたどり着いたんだ?さすがに闇雲じゃないだろう?」
「私にはこれがあります」と取り出して見せたのは小鳥の形に削られた木製の玩具だ。
フィッシャーは玩具を乗せた手のひらを握って、何か呟いて手のひらを広げた。
驚いたことに、さっきまで木製の玩具だった小鳥は生きた小鳥に変わって、手のひらで羽を震わせた。
「この小鳥に、依頼者から預かった髪の毛を与えてここにたどり着きました」
「…訊いといてなんだが…そんなこと俺に教えてよかったのか?」
「隠せば信用しないでしょう?
私だって手の内を明かしたくはないですが、信用を得るには必要な事と判断しました」
面倒臭そうに大きめのため息を吐き出して、フィッシャーは「今日はお暇します」と言って、宿屋の名前を教えて帰って行った。
直接的に害してくるような相手ではないが、俺にとっては敵に変わらない。
どうしたもんか…
妙案と呼べるようなものはなく、仕方なくフィッシャーの勧め通り、安全な場所に身を寄せることにした。
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